fragment:8 河原にて
川が好きだ。
水の音、そこだけ色が濃く緑色に変わっている深い淵、透けて見える水底の石。何より、匂いが好きだ。海からも山からも距離のある、平地を悠々と流れる川を私は原風景と呼ぶ。子供の頃幾度となく遊びに来た、もう名前も忘れてしまった川の光景が今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
小さなゲーム機を誤って水没させ一日中塞ぎ込んだこと、やたらと派手で頑丈なサンダルを履いてだぼんだぼんと水のなかを歩いたこと、バーベキューの肉が載っていたスチロールのトレイと竹串で簡易な船を作り、流れに乗ってぐんぐんと進むそれを追いかけて河原を走ったこと、その帆に大きく名前を書いたこと。
ひとつ残らず覚えている記憶たちを、目の前の風景がより鮮やかに再生させる。
むしろ、私が見ているのは記憶にある川とほとんど同一なのだった。これが人の想像力の為せる業なのかもしれない。異なる点といえば川面に見慣れない淡い霧が立っていること、そして傍らに知らない人物が腰かけていることくらいだ。
「あんたも暇だよな。これで何度目だ?」
男性か女性か区別のつかない、やや低い声は呆れの色をふんだんに含んでいる。
「人間は元来七以上の数を認識できないらしいよ。だからそれ以上を数えても本質的に意味がない」
「少なくとも八度以上はそのセリフを聴いたぞ」
「それを数えられるのはきみが人間じゃないからかな?」
答えるまでもないと言いたげな醒めた沈黙が返ってくる。横目で盗み見ると、崩した着物の懐から煙草を取り出すところだった。寂びた松原のラベルは現代ではとっくに作っていない証しだ。
「ここにいるのはいつだって人間じゃない。いや、生きた人間じゃないはずだった」
小気味よい擦過音。マッチの燃える匂いなんて久しぶりだ。思わず深呼吸する。
「最初こそ楽ができてありがたい限りと思ったけどな、今じゃ厄介だし不気味だよ。散歩道じゃないってんだ、まったく」
気の向くままにぶらぶらと歩き、最後は家に帰るから散歩と言う。片道切符は散歩ではない。正しく呼ぶなら、死出の旅だろう。
「歩くにはぴったりな場所だと思うけどね。こう、岩がごつごつしているから、バランスを取らなくちゃいけないでしょ。足が鍛えられるよ」
「鍛える足を置いてきたやつが何言ってんだ」
赤い灯が苛立たし気に色を深くする。吐いた煙は重く漂って、やがて停滞する霧に溶けるように消えていく。
記憶のなかの川は、いつも風が吹いていた。近くで遊んでいた子供の帽子を飛ばし、遊び疲れた夕暮れの頬をそっと冷やし、小船の帆を勢いよく押した。
「大人になるとさ、体が重たいんだよ。ただ成長したからじゃない。気づかないうちにいろんなものがへばりつくんだ。頼んでないし、欲しくもないのに」
「それでまるごとほっぽらかして泣き言吐いてくわけか。まったくどいつもこいつも」
冷たく言い放っても、そこにほんの少しのやりきれなさを感じられるから、私はまたここへ来てしまう。
生き辛くない人なんていない。
何もかもが思い通り。すべてが満たされている。求めればなんでも手に入る。不平や愚痴はひとつもない。一点の曇りもなく幸福。そんな人がいるなんて、どうしても想像できない。誰もが息苦しく、生き辛くて、いつだって死にたいと願っている。
だけど、本当に死を選び実行できる人はわずかだ。死は常に恐ろしい。死んだあとのことはわからないし、線路へ投げ出した体が電車のヘッドライトに照らされたところでやっぱり死にたくないと思ってしまっても、もう手遅れだ。決定的な方法なだけに、やり直しや取り消しはまず効かない。
コンピュータをスリープさせ必要なときに立ち上げる。大規模なシステムに対して検証のための環境を設ける。原理はそれと同じだ。これがまさしく死亡保険だと、誰かがおどけてそう呼んだ。
「俺たちにとって、未だ死は不可逆だ。今さらその認識は覆せない。だから正直、あんたらをどう扱えばいいのか見当もつかないよ」
珍しく弱気な言葉に戸惑って視線をさまよわせれば、水際に差した舫い杭と所在なさげに流れに揺れる船が見える。
死は不可逆、それは正しいようで正しくない。怪我や病気による、避けられない事故のように降りかかる死は現在でもどうしようもない。これまで通りの一歩通行の死だ。それに抗う、もっと率直に言えば「死にたくない」という願望を叶えるための手段なら無数にある。望まれない、望まない死を遠ざける方法を人間は編み出してきた。
そうだ。人間は自分たちのわがままを叶えずにいられない。願望を飼い殺しにできない。欲望を檻から解放せずにいられない。たとえ自分の欲望に喰い殺されるとしても。
社会の要求に応えられない。思い描いた姿になれない。不安でたまらない。周囲が易々と超えていくハードルに、力を振り絞っても届かない。生きているだけで自分が削れていく。
こんな思いをするくらいなら、死んでしまいたい。
「本当は、甘ったれてないでおとなしく安楽死を選んだほうが良いのかもしれないね」
肩に乗せた櫂に、煙がゆるく巻き付いている。
渡し守はふいにこちらを見た。血の気のない白い頬、そのくせ火のように赤く引き結んだ唇、覗き込むほど底の遠ざかるような黒い瞳。
「それはない」
そして、きっぱりと言い切った。
「あんたらが持っているのは、人の世に対する希望じゃない。未練だ」
責める調子はない。ただかえってそれが、真実を見抜いていることを感じさせた。
死んだ人間が幽霊となり、現世に現れる。あり方としてはその真逆だ。命を繋ぎ止めたまま、安全に死ぬ。あらゆるしがらみを忘れて死後の世界で憩い、気が向いたら、気が済んだら、現世に帰る。
可逆の死。自宅の隅の巨大な冷蔵庫に似た装置のなかで今も眠っている、私の体のことを思う。満員電車で押し潰され、書類の束で殴られ、深夜まで酷使され、休日はひたすらベッドに投げ出され、古い傷のうえに絶えず新しい傷を上書きされて、痩せて骨ばかりで、それでも生きようとする私の体のことを。
こんなに傷ついても私は、死ぬのが、怖い。
それを未練と呼ぶのだろうか。
わからない。生きるのは、わからないの連続だ。
「そうかもしれないね」
だから、そう答える。
深いため息と、放物線を描く吸い殻が霧の向こうに消えた。渡し守は冷たいけれど、一度も帰れと言ったことがない。
「それじゃ」
「うん」
後ろ姿は遠ざかり、漂っていた煙の匂いも次第に薄れていく。
川は好きだ。渡れなくてもいい。いつかこの水面に浮かんで、どこまでも流れていきたいと思う。
あの日急流に呑まれていった船のように、赤い帆の残像だけを置いて消えていけたらと、そう思う。
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