fragment:7 高倉万記の憂鬱、または星の喩え

 筆が鈍る理由はいくつかある。高倉タカクラ万記マキの場合は、自身の綴る文章が急に色褪せて見えるようになったことだ。

 有り体に言えば、高倉万記は駄作しか生み出せない自分に絶望している。


 渾身の出来と自負する文章がなんの反応を得られずかと思えば書き散らした有象無象にコメントがつくこともある。読み手と書き手は常に非対称であると高倉万記は確証までは至らなくとも漠然とそれを認識している。読点を極端に減らして個人的に敬愛している作家の物真似をしてみてもおそらく誰にも気づかれないだろうと予測している。本当にやりたいことはそういうものではないと、もちろん知っている。

 自分の書いたものをつまらないと感じる、その前兆は思い返せば身近にあった。キーボードを叩くあいだにずっと脳裏に浮かんでいる光景、それと綴られる言葉との乖離が次第に大きくなる。ひと通り走り抜けてから振り返れば、残っているのはあの美しい景色の劣化コピーですらなく、冷蔵庫のなかに放置され続けた林檎のようにすかすかで味気ない一連の文章だけだ。たとえそれが他者から見れば極上の果実であったとしても、生産者自身が美味と思えないのなら、己の名前を刻んで出荷すればそれは詐欺に近い、と高倉万記は思う。

 要は自己完結しているのだと高倉万記は考える。良し悪しはすべて自身が決めたい。プロの小説家であればそうはいかないだろう。編集者という存在がついて必ず内容の良し悪しに言及する。当然だ。彼らは本を売るのが目的なのだから、そのためには文章を洗練させる行為は絶対に必要になる。高倉万記にとってそのようなやり取りは非常に億劫だ。書いている最中に他人の意志が介入すれば、それはもう自分が書いたとは言えないと思う。小学生の作文ではないのだ。放課後何時間かけて書いても、先生が良しと言わなければ完成しない。自分が書いているのはそういうものではないと信じている。世の中すべてが欺瞞でできているとしてもそれだけは真実であってほしいと願っている。

 だからこそ、高倉万記は自身の劣化が許せない。

 理想が高過ぎると誰かが言うだろう。それで諫めたつもりになっているのなら好きにしろと高倉万記は思う。高過ぎる理想が悪のはずがない。叶わないほどに高い理想に向かって走ることに意味を見出せないなら、そもそも理想なんて言葉はこの世界に存在していてはいけないとすら思う。しかし一方、この言い回しにはひとつ真理が含まれているとも感じる。理想が「高過ぎる」、つまり「今ここ」からは大きな距離があることを示しているからだ。地球という「今ここ」を把握しているからこそ、人はあの輝くシリウスが高く遠くにあると認識できる。

 こんなはずではないともがくほど、足元が見えなくなっていることに気づいていないわけではない。それでも、この手が綴るどんな言葉もくすんで見える、自分への信頼が薄らいでいる「今ここ」は、高倉万記にとって認めがたいものだ。書くこと、それに無上の価値を認めているからこそ。

 誰にも見出されない星であることは、光らなくてはよい理由にはならない。

 高倉万記は生きている。高倉万記にとって生きることは書くことだ。よって、高倉万記の憂鬱はまだしばらく続く。

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