fragment:4 リバードロップ・スターレイン

 夏の夜は魔法の時間だ。湿気と熱気を伴って体を包む空気、声高く鳴き通す虫たちの声、浮かれてそぞろ歩く人たち。街全部がうきうきと踊っている。

 俺たちも、北上の手にあるラムネの壜もうっすらと汗をかいて、そんな夜の景色を眺めていた。

 七月七日、岩手県盛岡市。日が沈んだあと、空は待ちかねたように雲のとばりを上げた。遮るもののない空は一面になめらかな黒曜石で、街の灯りに負けない一等星がせわしく瞬く。

 待ち合わせは、いつもの橋のうえ。

「飲む?」

 差し出す壜を受け取り、ひと口喉に流し込む。甘酸っぱい冷たい水。大きな粒の泡がぱちぱち弾け、その刺激が存外に強くて思わず噎せた。

「最近のラムネってこんなに炭酸強かったか?」

「どうかなあ。むしろ、昔のほうが強かったって聞くよ」

 口を拭う俺の手からひょいと壜を取り上げて、今度は北上が透明な液体を飲み込んだ。しばらく黙っていたが、困ったように首を傾げる。

「……やっぱりよくわかんないや」

「覚えてないもんだよな。子どもの頃のことなんて」

 そうぼやいた俺に、挑むように北上は言う。

「水沢、もしかしてあのことも覚えてない?」

 からからん、と壜のなかでビー玉が鳴る。暗がりのなかでもはっきりと見える、薄青い透明な球体。

 子どもの頃の小さな冒険。ちょうど、今日と同じ七夕の夜だった。俺は首を振って答える。

「いや、あれは特別。一生忘れない」

「よかった。私も、きっとずっと一生忘れない」

 北上はそう言って、にっこり笑った。

「楽しかったもんね、朔也くん」

「そうだな。……真湖ちゃん」

 久しぶりに呼ぶ名前が照れくさくて口ごもる俺に、北上はあのときと同じように笑った。

 懐かしい、星の夜の話だ。


 真湖ちゃんはへんなものを見つけるのが得意だ。

 見たこともない形の葉っぱとか、三日月の入ったランプとか、ハーブとぶどうと梅干し味の飴とか。そうして、見つけたへんなものたちを真っ先にぼくのところへ持ってくる。そのときの真湖ちゃんはすごく嬉しそうな顔をしていて、だからぼくも興味ないって言うことができない。たとえものすごくまずい飴を食べる羽目になっても。

 七月に入ってすぐのことだ。授業が終わったあと、真湖ちゃんはまっすぐにぼくの席へ向かって歩いてきた。

「いつものところでね」

 それだけ言って、返事もしないのにさっさと教室を出て行ってしまう。今日は習い事があるから早く帰らなくちゃいけない、と断る暇もない。まるで、ぼくが断るはずないとわかりきっているみたいだった。こういうときの真湖ちゃんは本当に自分勝手で、ぼくを振り回してもなんとも思わない。だけど、振り回されても怒ったりできない自分のことを、ぼくは情けない(最近覚えた言葉だ)と思う。

 いつものところとは、校庭の隅にあるシダレカツラの木のしたのことだ。ここに呼ばれるときは大抵、真湖ちゃんに無茶な頼みごとをされるか、変なものを見せられると決まっている。今日はどっちだろうとぼくは考えながら、教科書でぱんぱんのランドセルを背負って外へ出た。

 梅雨の晴れ間、真っ青な空とかんかん照りのしたで、真湖ちゃんが手を振っているのが見える。

 木陰に入った途端、鼻先に突き付けられたのはラムネの壜だった。中身は空っぽ。ビー玉だけが入っている。普通の、スーパーなんかで売ってるガラス壜だ。全然変なものじゃない。

「……これが、どうかしたの?」

 真湖ちゃんは大げさにため息をついた。

「もう! 違うよ、もっとちゃんと見て」

 ぼくは仕方なく、壜を受け取ってもう一度眺めた。でこぼこした形。厚手のガラス。ラベルは剥がしてある。キャップはプラスチック製。やっぱり変なところなんてひとつもない。首元のへこみに引っかかったビー玉だって、見慣れた薄いブルーだ。

 ちかりとそれが光ったのは、木漏れ日が射したからだと思った。

 でもその光がなぜだか、ぼくには星のように見えた。覗き込んだぼくに気づいたみたいに、ビー玉はどんどん明るくなっていく。内側から光がこぼれて、ちらちら揺れている。壜を持つぼくの手も、笑う真湖ちゃんの目も、青く照らされている。

「天の川の雫なんだよ」

 ないしょ話をするみたいに真湖ちゃんは言う。

「ゆうべ、うちの庭に落ちてきたの。最初はビー玉に見えたけど、すぐ違うってわかったよ。これは空から降ってきたの。だからね」

 そうして、まっすぐにぼくを見た。

「これを天の川に帰してあげたいの。手伝って、朔也くん」

 真湖ちゃんはへんなものを見つけるのが得意だ。

 校庭の隅にあるシダレカツラの木のしたに呼ばれるときは大抵、真湖ちゃんに無茶な頼みごとをされるか、変なものを見せられると決まっている。

 今日はどっちだろうとぼくは考えたけれど、まさか両方だとは思わなかった。


「天の川に帰すって、でもどうやって?」

「それをこれから調べるの!」

 そう言う真湖ちゃんを連れて県立図書館に来たのはいいけれど、ぼくはまだ調べものが上手くない。それに、天の川の雫が落ちてくるとか、それを空に帰すとか、そんな話がどの本に書いてあるかもちっともわからなかった。司書さんに聞いたって、きっと童話の本とか宇宙の図鑑を渡されておしまいだ。多分、本気でぼくたちがどうすればいいか考えているなんて信じてはくれない。

 真湖ちゃんは早々に絵本のコーナーに行ってしまい、こっちを手伝ってくれる気もなさそうだ。ぼくはいよいよ途方に暮れて、背の高い書架のあいだをぐるぐる歩き回った。

 分厚い本の群れを見上げながら、今朝テレビで流れていた天気予報を思い出す。梅雨の晴れ間はもうすぐ終わって、ちょうど七夕の頃にまた雨雲がやってくる。天の川が雲で遮られてしまったら、雫を返すことは難しくなるかもしれない。

 ぼくたちは宇宙飛行士でも天文学者でもない、ただの小学生だ。だからこそ、どうしてもぼくたちだけの方法が必要だった。ぼくたちにしかできないやりかたで、天の川の雫を空に帰さなくちゃいけない。

「随分熱心だね。何か探してるの?」

 急に声をかけられてはっとする。隣に立っていたのは、なんだか不思議な人だった。大人だけど、男の人か、女の人かよくわからない。髪は短くて、涼しそうなシャツを着て、ちょっと笑ってぼくを見ている。

「さっき、天文のコーナーにもいたよね。難しい探し物なら、力になれると思うんだ。よかったら聴かせてくれないかな」

 穏やかに話しかけてくるその人を、もちろんぼくは知らない。だけど、なぜかぼくたちの話をからかわずに聞いてくれるような気がした。

「……天の川の雫を、空に帰す方法を探してるんです。その、友達が拾って、帰してあげたいって言ってて。ぼくはそれを手伝いたいんです」

 その人は眉を上げて、嬉しそうに笑った。

「人のところに落ちてくるなんて、めったにないことだよ。きみたちは運がいいね」

 その答えに、ぼくは確信した。この人はきっとぼくたちを助けてくれる。

「お願いします。何か知っていたら、教えてくれませんか」

「もちろん。ただ、私が知っているのはあくまでヒントだよ。答えはきみたちが見つけるしかない」

 その人はそう言って、顔を書架に向けた。ずらりと並んだ本を順に目で追っていく。

 ぼくもつられて、本たちを眺める。歩き回っているうちに、地理のコーナーに来ていたらしい。

 郷土史。

 旅行記。

 ガイドブック。

 地図。

「川は、どこから流れてくる?」

 その声に操られるみたいに、ぼくの手が勝手に動いた。岩手県の地図を抜き取り、開く。

 地図のなかを走る青い線。

 川。

 川が、流れてくるところ。

 ぼくの目が、狭まる等高線を捉えた。

「……そうか!」

 思わず声を上げたぼくの隣には、もう誰もいない。代わりに書架の向こうで、息を切らす真湖ちゃんを見つけた。大きく目を開いて、掴んで絵本をこちらに広げてみせて。

「朔也くん、わかったよ。天の川を空に帰す方法」

「うん、ぼくもわかった」

 ぼくたちはせえの、で答えを言う。絵本の表紙に描かれた、長い裾野を見ながら。

「岩手山!」


 日はとっくに暮れて、足元から川の流れる音だけが聞こえてくる。

 七月七日。ぼくたちは家を抜け出して、橋のうえで待ち合わせた。

 作戦はこうだ。

 岩手山は北上川の流れてくるところで、地面と空をつなげる梯子でもあるんだ。岩手山をあいだに挟んで、北上川と天の川をつなげればいい。あとは水面に天の川が映れば、川と夜空はひとつになる。

「私がお願いしてみる。今夜ならきっと、聴いてくれるはずだから」

 そう言って両手を組み、真湖ちゃんは目を閉じた。じっと動かない。ぼくは雫の入ったガラス壜を握り締めて、ひたすら待った。

 遠くで空気が震えた。川の音に、次第に澄んだ響きが混じっていく。

 覗き込んだ川面は、光に満ち溢れていた。

「真湖ちゃん!」

 水に浮かぶ銀河。無数の輝く点。ちらちら瞬く星たちに答えて、ラムネ壜が強く光る。ぼくはキャップをひねり、真湖ちゃんの差し出す手に雫をそっと置いた。

「私たち、天の川のうえに立ってるんだね」

「きっと人類で初めてだよ。こんなことができたのは」

「そうだね。……だから、私たちだけの秘密だよ」

「うん。ぼくたちだけの、大事な秘密だ」

 雫はぼくたちを照らして、ゆっくり川へ落ちていく。銀色の飛沫を立てて、天の川に溶け込んだ。

 青く揺らめく波紋が消えても、ぼくたちはそこに立っていた。水面を流れ星がひとつ、横切っていく。


「子どものときにしか使えない、なんだろ……魔法みたいなやつ。そういうものがあるのかもな」

「子どものときだけじゃないかもしれないよ」

 何気ない呟きだったのに、それに答えた北上の声が妙に落ち着き払っていて、俺は思わず隣を見る。

 差し出されたラムネ壜。そのなかから、光を放つのは。


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2019 年に開催された企画「灑涙雨めくミルキーウェイ」に投稿した作品です。

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