fragment:2 本読むカエル

 病院からの帰り道、いつも立ち寄る公園がある。

 決まって座るベンチからはブランコが見える。今日は、母親に連れられた女の子が楽しそうに鎖を軋ませていた。きゃあきゃあと弾む声がここまで聞こえてくる。

 持っていた封筒を開く。中身はレントゲン写真のコピーだ。診察のたびに撮っているそれを、手帳に挟めるほどに縮小したものを貰って帰るのがならいだ。写っているのは私の肺、その隅に蹲る小さな影。


 私の肺にはカエルが棲んでいる。


 判明したのはもう五年ほど前、肺に違和感を覚えたのはそれよりさらに以前だ。疲れとかストレスとか、そういうものだろうと気にしていなかったけれど、あるとき通勤途中に肺がぼよんと揺れたときはさすがに面食らって病院に駆け込んだ。肺に何かいると主張する私に、精神科に行けと言いたそうな顔を向けていた医師は数十分後レントゲン写真を見て腰を抜かすことになった。

 診察室にあったパソコンでインターネットに繋ぎ、検索エンジンでカエルの画像をいくつも探し出して写真と照らし合わせた結果、この小さな同居人はニホンアマガエルである、という結論に至った。

 ときどき、気が向いたように跳ねては肺にしゃっくりめいた振動をもたらす以外、カエルはいたって大人しく悪さをしない。念のため体じゅうを検査したものの異常はひとつも見つからず、右の肺に両生類がいること以外は百点満点の健康体と太鼓判を押された。

 カエルは消毒薬の匂いが気に入らないらしく、病院の外へ出るまでいらいらと動き回る。私が帰り道、木々の生い茂るこの病院に立ち寄るのはそのためでもあった。いつ来ても清々しい、葉や草や土の匂いのする空気をご褒美にたっぷり吸い込む。

 ぴかぴかの健康体なのに、経過観察と称して定期的に通院するのは私も正直なところ気は進まない。時間もお金も定期的に費やさなければいけないからだ。

 けれど、と胸のうちで語りかける。

 万が一、私が知らないうちに病気になっていて、しかも発見が遅れたらきみにも危険が及ぶかもしれない。たびたび嫌な目に遭わせて悪いと思っているよ。どうか耐えておくれ。

 胸のうち、が肺に近い場所にあるのかどうかはわからないけれど、そもそもカエルに人の言葉は多分通じないだろうから、これは私の自己満足に過ぎないけれど。


「あれ、樫井?」

 聞き覚えのある声に顔を上げた。

 T シャツのうえにパーカーを羽織ったラフな格好。手には煙草の箱を持っている。通りがかりの公園で一服しようとして、偶然にも昔の友人に出くわした。いかにもそんな様子だった。

「エヌ?」

 名前を呼ぶと、にかっと無防備に笑う。昔と変わらない様子がなんだか嬉しい。この辺りに暮らしているということは風の噂に聞いていたが、まさか会えるとは思っていなかった。

「久しぶりだねえ。元気にしてた?」

「元気だけど、病院通ってる」

 こういうものを作っているアーティストが知り合いにいるんだ、などと適当に誤魔化すつもりで、手元の写真を差し出す。

 が、エヌの反応は意外なものだった。

「へえ、カエル飼ってるんだ。可愛いよね。肺のなかなら適度に湿り気もあるし、過ごしやすいかもな」

 そう言って平然と写真を返してくる。偽物だと疑うどころか、肺にカエルが棲んでいることに対して何も不審に思わないらしい。

「驚かないの?」

「まあね。それより不思議なことなんていくらでもあるからさ」

 両手を組み合わせ、あくび混じりに背中を反らす。一見呑気な散歩者であるところのエヌは存外に肝が太いらしい。

「ところでさ、このあと暇? せっかくだしお茶でも飲もうよ」

 言うが早いかさっさと歩き出し、断る理由もない私は慌ててその背を追う。路地裏の古めかしい喫茶店は牧歌的な音色のドアベルを鳴らして迎えてくれた。急な階段の先にある二階席には私たちの他に客はなく、レコードらしきやわらかいノイズの混じるジャズが流れ、かすかに煙草の匂いがした。

「で、上手くやってるの。その同居人とは」

 首を傾げる私に、エヌは自分の胸元を指差す。

「人じゃないか。同居カエル?」

 同棲している恋人の様子でも尋ねるような、気軽さで涼しい口調だった。

「やってる、と思う。向こうは悪さもしないし。ああでも、意識して深呼吸することが増えたよ」

「樫井の吸う空気が唯一の栄養源だもんな。大事だと思うよ」

「だからね、本当はあまりレントゲンも撮りたくないんだ。医者がどうしてもって言うから断れないんだけど。私の体に影響なくても、カエルは別でしょ」

「まあねえ、人間よりずーっと小さいし。次行ったら相談してみなよ」

 我ながら馬鹿馬鹿しい話をしていると思ったが、エヌは笑いもせず相槌を打ち続ける。なのでつい、さらに余計なことを口走ってしまう。

「あと、カエルが退屈してるんじゃないかと思ってて」

「退屈?」

「肺のなかってきっと真っ暗でしょ。何も見えないと退屈だし、それにもしかしたら」

「もしかしたら?」

「怖がってたりしないか、って」

 ふむ、とエヌは腕を組んだ。しばらく天井を見つめていたかと思うと、ジーンズのポケットに手を入れる。取り出したのは小さな手帳と藍色のボールペン、それから先ほど吸いかけていた薄荷の煙草だった。いったい何をするつもりなのか。ぽかんと見ていた私に、エヌは再びにかっと笑う。

「無聊を慰めるには、物語と決まってる」

 十五分だけちょうだい。

 そう言い残し、猛然とペンを走らせ始めた。白いページがあっという間に埋まっていくのを、私は運ばれてきた紅茶を啜りながら眺めて待った。ここのティーポットはポットとカップが一体になるタイプだった。丸っこい形が可愛らしい。

 階段の降り口にある本棚は、漫画のラインナップが妙に渋い。セピア色に染まった背表紙をぼんやり目で辿っていて、びりびりと紙を破る音で我に返る。エヌは切り取ったページを傍らに置くと、一度丁寧に手を拭った。それから煙草を抜き取って灰皿のうえで手際よく解体していく。

「どうするの、それ」

「多分想像している通り」

 応えながらも手を止めない。煙草の葉を取り出し、細かく刻んだ手帳のページを代わりに詰め、元通りに巻き直した。

「はいできあがり」

 受け取った煙草を眺めるあいだ、エヌは席を立って漫画の本棚に近づいていく。背伸びしてやっと届く段の隅には、漫画ではなく、ランプが置いてあった。ガラスの火屋の中には蝋燭も電球もなくて、三日月がひとつ入っているきりだった。

 スイッチを回すと、かちりと音を立てて三日月がぼんやりと灯る。石のような木のような不思議な質感だった。そのまま蓋を開け、エヌはランプをこちらへ押しやってくる。

「はい。当てるだけで良いから」

 指先は確かに三日月を指している。作ったばかりの煙草に、この三日月で火を灯せ。エヌはそう言うのだった。

「点くの?」

「もちろん。ランプだし」

 事もなげに珈琲を飲む。やっぱりちょっと苦いな、などと呟いて砂糖壺を開ける仕草に、やはり冗談の気配はない。

 私は意を決し、煙草をそろそろとランプのなかへ差し入れる。

 先端からわずかにはみ出した紙片が三日月に触れた途端、ぱっ、と赤い火が点いた。

 普段見る煙草の火よりもっと濃い、鮮やかな赤色だ。細く立ちのぼる煙は薄青く、最初はまっすぐに伸びて、次第に見えない雲形定規をなぞり始める。フィルターを咥えゆっくり吸い込むと、どこかで感じたことのある香りが広がった。ゆっくりと肺へ送り込んでいく。

「喫煙可の店でよかったよ」

 淡い煙の向こうで微笑むエヌは、なんだか知らない人のようだった。


 数週間後、私はいつもの公園のベンチに座っていた。

 例によって帰り際に受付でもらった封筒を開ける。終始笑いを嚙み殺していた医者の様子が脳裏に浮かんだ。

 写っているのはいつものカエル。ただし、ぴょんと飛び跳ねた瞬間の。

 大きく息を吸うと、また胸の奥で弾むような感覚があった。私の唯一の贈り物である新鮮な空気に喜んでくれているらしい。わざわざ撮影の瞬間を見計らってジャンプしたカエルはたいそう機嫌が良いようだった。


 あの日、別れ際にエヌに尋ねた。

「あれ、なんの話だったの?」

「もちろん、本を読むカエルの話だよ。肺のなかは暗いからランプを点けてね」

 写真をよく見ると、カエルは両手に何かを携えていた。

 一方の手には小さな本を、もう一方には小さな灯りを。


 写真の隅に、ぽつん、と水滴が落ちる。

 今朝から怪しかった雲行きがとうとう崩れたようだ。たちまち砂地に無数の斑点が浮かび、打たれる木の葉が大きく揺れる。目も耳もホワイトノイズに包まれていく。

 急いで立ち上がり、屋根のある場所を目指して走り出そうとしたとき、覚えのある匂いが辺りに立ち込めていることに気づいた。


 雨が降り出すときの、あの埃のような、土のような香り。


 ランプのなかでぼんやり光っていた三日月の姿が目の奥に漂い、すぐに消えた。

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