断片集

此瀬 朔真

fragment:1 街灯は切に語る

「大体勤勉過ぎるんだよ、きみは。こんな時間じゃ滅多に人も通らないだろうに。もう少し手を抜いたって誰も怒りゃしないよ」

 熱いカップに慎重に指をかける。中途半端に空いた飲み口ではかえって火傷するだけだ。直接口を付けたほうが危険が少ない。

「仕事は仕事だ。人の目がないから、というのは手を抜く理由にならないよ」

 かぱりと音を立てて蓋が外れ、一杯百円の暗闇はたちまち芳醇な薫りを立ち昇らせる。四角四面な答えは予測していたものの、胸いっぱいに吸った珈琲の香気はため息に変えて吐き出された。

「きみがもし人間だったら、原付に乗っても絶対に三十キロ以上出さないだろうね」

「だって道路交通法でそう決まっているんだろう。どうして進んでルールを破る?」

 目を細めて見上げれば、ちかりとも瞬かない灯りが煌々とこちらを見下ろしている。白色発光ダイオードに換装されて久しいという迷いのない光が《彼》の性質を如実に表しているように思えた。

「前言撤回。そもそも人間じゃないほうが良さそうだ。生きるのに大層苦労するよ」

「そんなことを前にも言われた気がするな。そんなにぼくはヒトに向いていないのか?」

「ある程度の狡猾さは人間の作法だからね。そして作法を身につけていない人間は大方排除される」

 相手が黙り込んだ隙にカップの中身をひと口啜る。締め切りを乗り越えて気に入りの喫茶店でしたためる一杯には到底敵わないものの、納期直前に流し込むインスタントよりはずっと上等だ。これが二十四時間いつでもコイン一枚で楽しめるのだから、やはり現代は素敵な時代に違いない。

 戦争は絶えず、マネーゲームは加速し続け、原稿の進捗は芳しくなく、深夜二時の路地裏で喋る街灯と会話する羽目になってはいるけれど。

「あなたはぼくを排除する?」

「俺が作法を愛するほうの人間に見える?」

「質問に質問を返すのは……」

「わかったよ悪かったよ。そんな作法なんて嫌いだ、ろくなことがない。なけなしの誠実さを誰かの餌にされてたまるか」

 なけなしの誠実さを半笑いで食い散らかされたので、半分以上ビールの残ったピッチャーでイベントの主催者をずぶ濡れにしたら即時出禁になった。そういえばあいつ、気に入った参加者に片っ端から手を出してるって噂だったな。そういう遊びが好きならさっさと臍の下辺りで体が真っ二つになって、下半身だけで生きていけばいいのに。

「どうした?」

 きしり、とポールの根本が軋んだ。人間だったら首を傾げる仕草に当たるのだろうか。

「怒っても仕方のないことに怒っていた」

「怒っても仕方のないことに怒るのも人間の作法に当たるのか?」

「作法よりは余剰と表現したほうが相応しいかな」

 急にバカバカしくなってきて、冷めないうちに珈琲をもうひと口。過ぎたことはどうしようもないし、今さらこちらの正当性を主張する気も起きない。ろくでなしと縁が切れて幸運だということにしておいたほうが精神衛生上ベターだろう。

「あなたは……なんというか、人間らしい人間だな」

「街灯らしくない街灯が何を言う。非生物が喋るのはフィクションか幻覚のなかだけと相場が決まっているんだぞ」

「ぼくにはよくわからないんだが、フィクションと幻覚の違いは何なんだ?」

「説得力。少なくとも俺はそう思っている」

「喋る街灯というのは説得力に欠けるか?」

「真面目な答えと本音の答えがあるけど」

「両方聴きたい」

「その一。人間と非生物との対話というモチーフは一般的なものなので、あとはそれなりの味付け――舞台設定と展開を与えてやれば充分な説得力を持たせることは可能。その二。正直、執筆疲れで頭がおかしくなったかもしれないという疑惑をまだ捨てられずにいる」

「前者は創作者としての回答で、後者は人間としての回答か」

「見事な要約痛み入ります」

 《彼》のほうがよっぽど言葉の扱いに長けているらしい。焦げ茶色に塗られた柱の、管理番号か何かが書かれたラベルを爪で引っかいてやる。

「痛いよ。いくらぼくが頑丈だからって粗末な扱いはやめてほしい」

「痛覚まで持ってるのかよ。いよいよまずいな」

「何がまずいんだ?」

「フィクションと幻覚の違いはもうひとつあってな。それは観測者との距離だ。フィクションのなかのものにはこちらから触れられない、こちらに触れてくることもない、つまり距離が充分にあるから安心して見ていられるんだ」

「幻覚は観測者との距離が近過ぎて、現実と区別できないから危険だということか」

「妙に堅物でしかも頭の回転も良い、しかも感覚まで持ってる街灯なんてさ、実際に目の前にあったらビビるだけだよ」

 再びカップを傾ける。このところ、家に引きこもって書いてばかりいたからほとんど喋ることがなかった。急な労働を、よりにもよって街灯を相手に強いられた喉を潤してやる。緩やかに温度が下がるのにつれて酸味が顔を出し始めていた。

「怖がらせてしまったのなら、謝る。申し訳なかった」

「今さらだよ。さっき声をかけられたときに逃げなくてよかったと思ってはいるし」

「それは創作者として? 人間として?」

「ノーコメント」

 実際のところ気まぐれではあった。現実ならばそれはそれで構わないし、ついに発狂したのだとしても、自分の面倒くらいは可能な限り最後まで見るつもりでずっと生きてきた。

 誰とも共有できない幻想のひとつくらい、持っていてもいい。

「あなたがどう感じたか、感じているか、真に理解することはぼくには難しい。だけどあなたがここに留まって、ぼくの話を聞いてくれたことに感謝しているのは事実だ」

「そうかい。俺みたいなもの好きがたまたま通りがかって幸運だったな」

 適当な返事を叱責するように、《彼》は語気を強めた。

「それは違う。ぼくは最初から、あなたがよかったんだ」

「は?」

「毎晩毎晩、同じ時間にあなたがここを通るのをぼくは見ていた。あなたはそんなこと知らないだろうが」

 首を巡らせて誰もいない路地裏を見渡す。コンビニとアパートの中間地点、どちらへ行くにもここから徒歩五分。夜中、言葉も胃袋も枯渇すると部屋を飛び出してこの道を往復した。

 ため息をつきながら、目を擦りながら歩く姿を彼は見ていたというのか。

 なおも、街灯は切に語る。

「ぼくを勤勉過ぎると言ったか。だけど、あなたが毎晩ここを通る、それはぼくにとって何より重大なことなんだ。どんなときでも待つ理由になる」

 傾けたカップはいつの間にか空になっていた。

「……それで、ついに今夜俺に声をかけたってわけか」

 再び、街灯の柱が小さく音を立てる。頷いたらしい。

「それはなんつうか、まあ、光栄だな」

 非生物の発する気迫の前に、あまりに都合が良いのでいよいよ幻覚を疑い出したと嘯く勇気はついぞ湧かなかった。それくらいの作法は一応心得ているし、何より孤独ではないのだという実感は、今は何物にも代えがたい賜物だった。

「そうは見えないだろうが、嬉しいよ。ありがとう」

 真っ白な光がわずかに揺らいで、それはなぜだか微笑みを連想させた。

「どういたしまして」



「ところで、ひとつ訊きたいことがあるんだが」

「ん?」

「あなたは女性なのに、どうして一人称が《俺》なんだ?」

「普段なら一人称くらい好きに使わせろって答えるけど。疑問の皮をかぶった批判ではないみたいだからね」

「ぼくはそういう発言はしない」

「わかってる。そっちのほうが自意識に近いんだ。思考の文脈に合っていると言ったほうがいいか」

「いわゆる地に近いということか」

「まあそう言えなくもないのかな」

「それはつまり、ぼくの前ではそれほどに素直でいてくれているということだな」

「うるせえ自惚れんな。次の本に書くぞ」

「そんなに優しい脅し文句は聞いたことがない」

「こんな脅し文句を使うやつもそういないよ」

「あなたの助けになるなら、ぼくのことはいくらでも書いてくれて構わないよ」

「それはまたここに話をしに来いって言っているのと同じだね」

「話が速くて助かるよ。小説を書く人はみんなそうなのかな?」

「書きたいと思わなければ、どんなに冴えていようと何も書けやしないさ」

「今夜はまだ書くのか」

「いや、もう寝る。なんか疲れた」

「そうか。ゆっくり休むといい」

「誰のせいで疲れてると思ってんだ」

「誰のせいなんだ?」

「わかっていることをわざと訊くのは人間の作法のひとつだ」

「そうなのか」

「嘘だよ。おやすみ」

「ああ、おやすみ」

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