Ⅱ
王様の耳はロバの耳という童話がある。それによると人は告解する生き物だそうだ。罪も秘密も無形なのに質量があって、一定以上になると一人で抱えることができないのだと。わたしはその意見を信じていない。というよりも、信じたらいけないような気がする。いちどでも信じたら本当のことのように思えてしまうから。あるいはその定理が真実であるならば、わたしが行ってきたエゴイズムは罪でも秘密でもないのだろう。いずれにせよ、考えても詮無いことだ。なんと言い訳しようが罪は罪に決まっている。
わたしは人生を送る。目の前を等速で過ぎてゆく、ネオンサインのような
でもわたしの傷なんかどうだっていい。
結局、ニルちゃんは大学に進学した。四ツ谷大学という、中くらいの規模の私立大学だ。ミッション系の古い大学で、学内には歴史のある教会があり、正午になると大きな鐘の音が鳴るらしい。
わたしたちは同じ文学部英文科に入学した。
「ふーむ、あたしは神橋トーコさんとは一生の腐れ縁というわけですね」
「ほんとにそうだねぇ」
大学の傍の桜並木を見上げてわたしは返した。
「改めて、これからもよろしくね?」
ニルちゃんはにかっと笑った。わたしもそうした。
覚悟していたことだが、大学は今まで以上に大変だった。男の子が常に周囲にいる環境にあってニルちゃんはちゃんとモテる。順当に。でもそれは当たり前のことだ。ニルちゃんはかわいいのだから。本当は千駄ヶ谷にある女子大がよかったのだが仕方がない。ニルちゃんが今度はどうしても共学校がよかったらしくて、わたしが折れることとなった。これこそが弱みだ。
わたしは苦労する。人間関係を調整して、ニルちゃんに寄る不躾な男の頭数を不自然ではないように間引く。規格外の農作物を潰すみたいに。ニルちゃんには大学とバイト先があって、行く先々に男がいる。ニルちゃんは健康な女の子だから、ちょっとでも感じのいい男の子がいると嬉しそうにする。わたしもその隣でニコニコしている。
高校の頃みたいに、環境そのものから相手を追い出すという手法は取れないから大変だった。
しかし、わたしは疲れてはいけない。勘付かれてもいけない。誰に告解してもいけない。
わたしの罪はわたしだけの物だ。そして穴に吐き出したくならない限りは、それはきっと罪ではない。
大学二年の冬のことだった。ニルちゃんに四人目の彼氏ができた。相手は同じ学祭サークルの先輩、トウキさんだ。身長が高くて浅黒い肌をしている。今までに五千人は見たような短髪のツーブロックに黒縁の眼鏡をかけていた。
トウキさんはこれまで上手に女の子と付き合ってきたタイプの人だった。
つまり、よくいる遊び人だ。
八ヶ月付き合ったらしいバイト先の女の子と別れた当初、トウキさんはしつこくわたしにアタックしていた。わたしのガードが堅くてまったく振り向かないから、代替案のようにニルちゃんに手を出したようだ。それをニルちゃんに告げることもできたが悪手だった。当のニルちゃんがトウキさんに好印象を抱いていたのだから、どう話してもわたしの印象が悪くなるだけだ。
ヒビイくんのときは共通の知り合いがいなかったから簡単だった。二人目のヤナギさんのときは直後にニルちゃんにバイトをやめるように説得できたからうまくいった。三人目の同じ学科のミネくんは留学に行く予定があったから事後処理の類いは容易だった。
四人目、今回のトウキさんは面倒だ。同じサークルだから共通の知り合いが多いし、下手に肉体関係を持って口外されてニルちゃんに伝わったら困る。
だからわたしは、少々乱暴な手を使うことにした。
経理係の引き継ぎの名目でトウキさんに相談を持ちかけて二人で飲みに行って、べろべろに隙を晒した。トウキさんの腕に巻き付いて、彼を拒んだことを後悔しているような口ぶりで話した。そうしてトウキさんとホテルに入ってから彼を拒絶した。まさしく豹変したかのように。
つい先程まであれだけ甘えてきた女がポーズではなく本気で嫌がって声を上げたのだから、トウキさんからすると驚天動地だったに違いない。
わたしはホテルを出てすぐさまニルちゃんに連絡した。
”トウキさんに強い酒をたくさん飲まされて無理やりホテルに連れ込まれた”
そういう筋書きだった。いつかの日にニルちゃんがわたしにそうしたみたいに電話をかけて、シュウウエムラのアイシャドウをわざとグシャグシャにして夜の四ツ谷駅で合流した。バイトを早退して駆けつけてたニルちゃんは血相を変えて、ふらふらと歩くわたしを受け止めてくれる。
「トーコ……! だいじょうぶっ!?」
「う、うん……」
「ここ座って。ね? ゆっくりでいいよ。ほら、わたしに寄りかかって大丈夫だから」
わたしたちは四ツ谷駅の赤坂口改札のベンチに座る。
ニルちゃんはわたしを慰めながら、できる限り傷つかない範囲で状況を説明させる。実際に無理やりエッチされたかどうかについて、わたしはあくまで濁すことにした。その曖昧さが逆に回答になったようだ。
ニルちゃんはトウキさんに電話をかけた。
相手が出るや否や、激しい剣幕で怒鳴り散らした。
ニルちゃんがあんなに口汚い言葉で人を罵倒するところを、わたしははじめて耳にした。
間違いなく、これで二人の関係は終わりだ。粗い手段だが、何よりも効果的で、効率的だった。
夜でも四ツ谷駅の周辺には人が多い。仕事帰りのサラリーマンや、同じ大学の学生たちや、駅前の交番のお巡りさんが見世物のようにわたしたちに視線を集めている。わたしは注目を集めながら泣き散らかしていた。わたしの涙は紛れもない本心だった。
今夜、ニルちゃんはまた屑みたいな男と別れる。
ニルちゃんが付き合っていた男を激烈に叱咤して軽蔑してくれる。他でもないわたしのために。
ニルちゃんにとってもわたしは大切な存在なのだと自覚させてもらえる。
それが嬉しいのは事実だ。でもわたしはよろこびが怖い。
いずれ、この今がうしなわれていくことがわたしはおそろしい。
わたしは恐怖を自覚してニルちゃんにすがりつく。
「大丈夫だよ、トーコ。もう大丈夫だからね」
興奮を押さえた様子でニルちゃんはいう。
「どっかあったかいところ行く? ここで大丈夫?」
「ううん、ここで平気」
「かわいそう。つらかったね、トーコ。ごめんね、あたしがちゃんとしてれば……」
ニルちゃんは涙ぐんでいう。
「ね、トーコ。あたしがずっとついていてあげるからね」
「……ほんとうに?」
反射的にたしかめてしまったのはわたしの弱さだ。
「もう、あたりまえでしょー?」
ニルちゃんは微笑んで肯定してくれた。
後日、わたしはニルちゃんを通じて準強姦の被害を公言して、トウキさんをサークルから追放した。二人が破局しただけでも目的は達成していたが、不穏分子は消しておいたほうがよかった。わたしがセカンドレイプなど気にしないというのもある。
ニルちゃんほどではないが、わたしも周囲から好感を持たれている。男からも女からも。当たり前だ。女子校で六年間政治したわたしが今更女子部員の反感を買うはずもない。陰口をいわず、だれにでも分け隔てなく笑いかける美人を嫌う男はいない。そしてわたしの身持ちが堅いというのも共通認識だ。だからだれもわたしの発言を疑う者はいなかった。それははじめからわかっていたことだ。
あまりにも多勢に無勢であることが自明だからか、トウキさんは傷口を広げずに去っていった。賢い選択だろう。事実はともかく、強姦なんて容疑を向けられたまま事を荒立てれば学事に察知されたり、就職活動に差し障る。それに当然、トウキさんはこれまでもサークルの女の子に手を出しているだろうから、それもネックだ。当時のことが蒸し返されて、実は私もいやだった、というような意見をいう先輩女子なんかも出てくる。もちろん、それは少しだけ迫り方が強引だっただけで、きっと合意のもとだったに違いないが。しかしひとたび「そういうことをする人」というレッテルが貼られたら人は終わるものだ。
だからトウキさんは静かに終わったのだった。
ただし、わたしには鬼のように着信とメッセージが届いた。文面ではわたしを頭のおかしい精神分裂患者だと述べていた。聞けばニルちゃんのほうにも長い弁明と無罪の主張が送られていたそうだ。トウキさんの言い分は概ね真実通りだったが、ニルちゃんが聞く耳を持たないことがわかると今度はニルちゃんまで罵るようになり、やがてブロックされた。やはりトウキさんの頭はよくないかもしれないとわたしは思う。こんな発言を証拠として残してしまうなんて。そんな直情型の人間がニルちゃんと付き合うだって?
冗談は休み休みにしてほしい。
わたしが心苦しいのはニルちゃんの落ち込みようだった。ニルちゃんは自分に男を見る目がまったくないことを自己嫌悪していた。そして自分の彼氏が親友を襲ったことも大いに責任を感じているようだった。そんな必要は毛頭ないのに。でもそれがニルちゃんなのだった。
「トーコ、ちゃんとご飯たべてる?」
ニルちゃんがわたしを心配する。どうも顔色が悪いらしい。
実際のところ、顔色が優れないのはたしかだった。トウキさんの一件があってしばらくは、わたしはうまく眠れないでいた。ベッドの中で過ごす無為な時間が苦手で、それならいっそ本でも読もうとしてしまうと、へたに朝を迎えたりもしていた。
「食べてるよ。食べ過ぎなくらい」
「本当に? それなら証明してもらいたいものですなぁ」
そういってニルちゃんは週に二回はわたしを誘って晩御飯を食べに行ってくれる。
大学に入って制服を脱いだニルちゃんは、前以上に会うのが楽しい。ニルちゃんはカジュアルな服をきれいに着こなす。くたびれたようなイギリス製のジャンバーを羽織って、最近ショートにした髪の毛をピンク色のニットで覆って、七分のパンツルックでペタ靴を履く。イングやアラマンダがことさらに嫌いというわけではないが、その他大勢の女子大生のような服装はあまりしない。
トウキさんの件から数ヶ月経ったある日も、ニルちゃんからみんなで飲みに行こうとラインがあった。進級祝いの名目で学科の子たち数人と新宿で合流して、二次会はしないで解散し、わたしとニルちゃんは二人で飲み直すことになった。
ニルちゃんはお酒が大好きだけど、とても弱い。わたしも強くないが、ニルちゃんはそれ以上だ。だから二軒目でゆっくり飲んでいるだけでもすぐに顔が赤くなる。
新宿の個室居酒屋でニルちゃんは机に突っ伏すと、こういった。
「あーあ。こんなに男運が悪いのって、自分のせいなのかなぁ」
うまい返し方がわからなくて、わたしはサワーを一口だけ煽る。
「聞いてくださいよ、トーコさん」
「なんでしょうか、ニルちゃんさん」
「このあいだですね、深夜番組見てたら女の芸人の……なんていったっけな。あの北海道の地元ネタやるコンビのツッコミの方。……まあいいや。でね、その人がいってたのですよ。三十七になって、結婚は去年諦めたって。ただ、べつにモテなかったわけじゃないみたいで。だってあの人、普通にかわいい顔してるもんね。ただなんか、どうしても男運が悪かったらしくて。でもね、それでもあまり落ちこんでなくて、私には相方がいるし、多分向こうが結婚してもずっといっしょなことに変わりはないし、べつに老後寂しくないならそれで満足かも、って思い直して今は前向きなんですーって」
そこまでいってニルちゃんは顔を上げた。
「……あたしも、トーコがいるならそれでいいかなって最近思うかも」
わたしの表情筋がこわばった。
威力のある言葉だった。何度わたしが夢想した言葉だっただろう。何の前触れもなく、当人の口から聞くことになるとは思わなかった。
それがたとえ本心でなかったとしても。
わたしは頬が零れ落ちないように手でおさえる。
「でも、そもそもあんまりモテないしなぁ、あたし」
「そんなことないでしょ」
本当にそんなことはない。そうでなかったらわたしはこれほど苦労しない。
「ニルちゃん、今ちょっと弱気になってるだけだよ。すぐにいいひとが見つかるって」
「そうかなぁ。だってよくよく考えると、これまで男の人と付き合ってしあわせだなーって思ったこと、一度もないし」
なーんかすぐに別れちゃうしね、とニルちゃんは続ける。
漆を塗った、てらてらした質感の壁を眺める目つきは、どこか遠い。
またもわたしはなんて返せばいいのかわからない。
しばらくするとニルちゃんは沈黙に気づいたらしく、にかっと笑った。
テーブル越しに腕を伸ばして、わたしの前髪に触れると、
「あたしも、トーコみたいな見た目だったら、もっと愛されたのかな。ぜんぶうまくいって、なんでもわがままにできたのかな」
といった。わたしは思わず「え?」と口に出してしまう。
ニルちゃんは苦笑するようにいった。
「これはですね、なんというか、言葉にしたらわたしの中で本当になっちゃいそうでちょっと嫌なんですけども。まあ、今夜ばかりはお酒に酔っていますということで、正直にいってしまうとね?」
ニルちゃんは急に声のトーンを落として、
「あたし、トーコのこと嫉妬してる。子供の頃からずっと。……ずるいよ。ゆるせない」
「ゆるせ、ない……って」
「だってさ。男の子って、みんなトーコのこと見てるもん。みんなだよ? ほんとうにみんな。ぜーんいん。サークルの人もそう。学科の男子も。さっきの店員さんもそうだったし。あたしは保育園からいっしょだからちょっと麻痺しちゃってるけど、でも、冷静に考えてそりゃそうだよね。千年に一度の美少女とかってテレビで言われていたときもさ、それならトーコはなんなのさって思ったもん」
ニルちゃんのネガティブな発言に、わたしは多少なり衝撃を受ける。
昔、同じように羨望されたことはあったが、あれは子どもの邪気のない嫉妬の一種だと思っていた。
だからこそ、年を重ねるたびに明るくなっていくニルちゃんが、当時と同じような感情を抱いたままであることが意外だった。
「たまにみじめになるんだ、あたし。……トーコの隣で顔を見比べられると、消えたくなるよ……」
そういうと、ニルちゃんは俯いてしまった。
わたしはある日を回顧する。
きっと、ニルちゃんはとっくに忘れてしまっている過去を。
小学校高学年の頃のことだ。わたしとニルちゃんは校庭でバドミントンをしていた。疲れると、わたしたちはよくウサギ小屋の傍の木陰で休憩した。
「トーコとうさぎって目が似てるねぇ」
餌を齧っている仔ウサギを眺めてニルちゃんがそういった。
「そうかなぁ……」
わたし自身はウサギの目があまり好きではなかった。
白いワンピースを着たニルちゃんがわたしの目を覗き込む。
「トーコはさぁ、ほんとうにきれいだよね」
「そうかな?」
「うん。目も髪も肌も、ぜんぶ……。いいなぁ、うらやましいなぁ。あたしは、鼻低いし。そばかすあるし。毛先、がさがさだし。お母さんがね、ヒナコの年で髪が傷むなんて珍しいわねーっていうの。……あーあ。かっこいいカレシなんて一生できないんだろうなぁー」
悲壮感はないが、どこか諦めたような言い方だった。
ニルちゃんのきらきらしたブラウンアイに空模様が反射していた。
わたしはそれに見とれてしまう。
今も昔も変わらない。わたしはニルちゃんのことが好きだった。本当に大好きだったのだ。そういう感情はどうしても言葉にならなかった。圧迫する気持ちは不透明な線となって、ただわたしの心に引かれた。消えない印を刻むかのように強く。
あれから数千の夜が更けても、まだ適切な言葉は見つかっていない。
あの季節は、そういったもどかしさを煩わしく思わなかった。むしろ前向きで、根拠のない希望を感じていた。いつか大人になれば、この感情を正しく言い表せるようになるのだと思っていた。わたしはこれからその言葉を探すために生きて、そしてどこか行き着く先があるのだと信じていた。
蓋を開けてみれば、そんなことはなかったのだが。
わたしは反射的にいってしまった。
「ニルちゃん。わたしね、ニルちゃんにならなんだってあげたいよ」
「え」
「本当だよ。なんだってあげたいの。この目だって。髪だって。……なんだって」
「なにいってるの。トーコ、変なの」
ニルちゃんは笑った。わたしは笑わなかった。
このとき、わたしはなんとなく予感していたのだった。きっと今、たずねておいた方がいいのだと。わたしという個人がニルちゃんに何を与することができるのか。それを確かめるのは、この瞬間をおいて他にないのだと。
それくらいの歳になるといやでも気づいていた。わたしがついぞ抱いたことのない欲求を周囲の子たちは共有していることに。ニルちゃんもその例に漏れないどころか、どうやら人一倍そういう気持ちが強い女の子であることに。
「ニルちゃんは、どういう男の子が好きなの?」
「えー、あたし? 今はね、いないよ」
去年、小学三年生だったニルちゃんはオキノくんという同級生の子が好きだった。なにかしらの出来事があって諦めたそうだが、理由は教えてもらえなかった。
オキノくんが四年間わたしに片思いしていたことを知ったのは卒業式の日だった。
「今とかだれとかじゃなくて、どんなって意味」
「好きなタイプってこと?」
「うーん。まあ、うん、そう。理想でいいよ」
「恥ずかしいなぁ。……んー、トーコが教えてくれたらいいよ」
「わたし?」
わたしは一考する。当たり障りのない嘘を。
「わたしは……わたしよりも背が高い人がいいかなぁ」
「あ、わかる! あたしたち、けっこう高めだもんね。もう伸びなくていいよね。男の子って背低い子の方がいいって、前にピチで読んだもん」
わたしはうなずいておく。わたしはもう少し伸びてもよかった。少しだけ高い目線からニルちゃんの全身を見渡して隣を歩きたかったからだ。
「……あたしの理想はね、ずっと。いい? ずっとだよ」
ニルちゃんは恥ずかしそうに口にした。
「ずーっと、あたしのことを好きでいてくれる人がいいな。浮気なんかしないし、死ぬまであたししかだめだーっていう人がいいの。あたしだけ見てくれる人がいい。あたしだけ特別に想ってくれる人が……あはは、すごい贅沢だよね。でもね、そういう人がいいなぁ。あーあ、どこにもいないんだろうなぁ」
わたしは息を呑んだ。
ここにいる。
わたしがそうだ。
ここにいるわたしが、ニルちゃんの望む条件を満たしている。
この世のどこにいなくても、今ニルちゃんの隣にいるわたしがそうなのだ。
しかし、わたしは………
わたしには最大の問題がある。なによりも高くて分厚い壁が。
「……トーコ?」
立ち尽くすわたしに、ニルちゃんが首を傾げる。
「どうしたの? どこか痛いの?」
「なんでもない……なんでもないよ」
「だいじょうぶ? おなかでも痛いの?」
余計な心配をさせたくはなかったが、わたしはそういうことにしておいた。この頃は初潮が来たばかりで、時おり下腹部が捻られるように痛んだ。生理痛は一過性のものだったが、胸の痛みは慢性的なものだった。
ニルちゃんは母子家庭だ。それはわたしたちの数少ない共通項でもある。わたしの父は理由もなく失踪したが、ニルちゃんのお父さんは何度も浮気を繰り返し、とうとう四度目にして離婚調停を受けて似鳥家を出ていって、以来ずっとニルちゃんの養育費を払っている。ひょっとしなくとも、ニルちゃんの理想の男性像はそういった生立ちからきているのかもしれない。
「ねえ、ニルちゃん」
「なぁに?」
「なんかあったら、なんでもわたしにいってね。ニルちゃんのお願いだったら、わたし、なんでもきくから」
「え、ええぇー。そんなの悪いよ~」
「悪くないから」
「どうして? あたし、なんかしてあげたっけ?」
「どうしても。理由はきかないで。わかった?」
「うー……ん、まあ、わかった」
「約束だよ?」
わたしは思う。
ニルちゃんの欲しい物をあげたい。それがどれだけ理想を追求しているものであっても、他でもないニルちゃんが望むものであるのなら、わたしはそれをあげたい。魔法を使う魔女みたいに練成して、月でも人でも愛でも、なんでもあげたかった。
それはニルちゃんに初めての彼氏ができる、五年前の夏のことだった。
「……トーコ? どうしたの……泣いてる」
「え?……あっ」
居酒屋で、わたしは涙を拭った。
おしぼりで目頭をおさえる。
ニルちゃんが顔を落とした。
「……ごめん。またあたし、無神経なこと言っちゃった。あれからまだそんなに経ってないのに……ああ、あたし、ほんとにばかだ。ごめん、トーコ」
あれからというのは、トウキさんの冤罪のことだ。
「いや、ちがうよ。あはは、ちがうちがう。これはただの疲れ目。先月コンタクト替えてからよくあるの」
「うそ」
「うそじゃないよ。ほんとに。ほら」
わたしはにっこりと笑ってみせる。
ニルちゃんは怪訝そうな顔になる。それから不満げな顔になり、残ったパインサワーを勢いよく煽った。とりあえず納得したようだった。
もう、いい時間だった。飲みすぎている気もする。名残惜しいが今日はこれで解散だろう。
「今日はあたしに奢らせて」
ニルちゃんはわたしの制止も聞かずに伝票を持って席を立ってしまう。
夜の西新宿の喧騒と風を身に浴びてわたしたちは帰る。
席を立ってすっかり酔いがまわったニルちゃんが身体をわたしに預けている。わたしは「も~」と口だけで文句を言いながらニルちゃんの身体を支えて駅まで歩く。途中でナンパが二回あった。全部無視した。
わたしはニルちゃんよりも少しだけ身長が高い。小学生の時に望んだささやかな願いは叶って、わたしは一六六センチ、ニルちゃんは一六三センチで落ち着いた。
新宿駅は人混みに塗れている。人の海をかき分けるようにして歩くわたしに、半分寝ているかのように朦朧とするニルちゃんが「いつもありがとう」といった。
「トーコ。今日あたしが言ったこと、ぜんぶ忘れてね」
「わかってるよ」
「あんなこと、酔っててもいうべきじゃなかった……トーコは何もずるくなんてないのに。ごめんね」
「わかってるってば。もう、そんなに謝らないでよ。気にしてないから」
ずるくなんてない? 真逆だ。
わたしは賢しくて、自分ばかり可愛がる女だ。
わたしはニルちゃんの頭をそっと撫でる。ニルちゃんはまるで眠りにつく小動物のように、穏やかな表情を浮かべた。わたしは安心する。
ニルちゃんには、そういう表情のほうがずっと合うからだ。
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