幾千の眠れない夜と雛

呂暇 郁夫

 ある日、ニルちゃんに彼氏ができた。それは突然に報せられた。新宿駅と代々木駅のあいだにある、小洒落たハンバーガーショップで紹介されたのだった。

 その日ニルちゃんは遅刻していた。わたしはアボカドバーガーを食べ終わり、氷抜きのグァバジュースを飲みながら皆川博子の小説を読んでニルちゃんを待っていた。ニルちゃんを待つ時間は退屈しなかった。

 そのうち、螺旋階段を昇ってきたニルちゃんが一人の男の子の手を引いて現れた。恥ずかしそうにする男の子を隣に置いてニルちゃんは元気よく口を開いた。


「トーコ、遅れてごめんね!」

「実はもう少し早く着いてたんだけど、カレが厨房から上がれるのを待ってたの」

「ごめんね、突然呼び出して。今日はね、トーコに彼氏を紹介しようと思って……あ、驚いた? でしょ? えへへ。似鳥雛子十六歳、ようやくいい男を捕まえたのですよ!」

「じゃーん。ヒビイくんでーす。響井直人くん。こっちは幼馴染のトーコだよ。神橋トーコ。いつも話してるからわかるよね? ほら、すっごくキレーでしょ?」

「ね、ヒビイくん。トーコってさ、遠い恋って書くんだよ。名前まできれいなのはずるいよねー」

「このお店ね、実はヒビイくんのバイト先なんだー。キッチンで働いてるんだよ」

「実はトーコが食べたハンバーガーもヒビイくんが作ったのです! どうかな、トーコ? おいしかった?」

「おいしかったってー。よかったね、ヒビイくん」


 ニルちゃんのいつものマシンガントークだ。畳み掛けるような言葉の嵐を聴きながら、わたしはじっと、そのヒビイくんという男の子を観察した。癖っ毛の短髪で、秋田犬のような無害そうな顔をしていた。身長が高くてスタイルがいい。見た目通りおとなしいみたいで、あまりしっかりと目を合わせず、しどろもどろに自己紹介した。

 二人の馴れ初めは渋谷マルキュー前だそうだ。夏休みの最終日、園生さんというクラスの子がキャンペーンガールのバイトをしていると聞いて冷やかしにいったニルちゃんが、園生さんといっしょに渋渋の高校生二人に声をかけられて、後日四人で遊びに行くことになったという。二人組の内ナンパに乗り気じゃなかった方の男の子がヒビイくんで、やけにおどおどしているのがニルちゃん的にはポイントが高かったらしい。

 わたしは内心で舌打ちする。どの日のことなのかすぐにわかる。この盆、わたしは法事で都内を離れなければならなかったのだ。適当な言い訳をしてサボればよかったと思うが、後悔は先に立たない。

 わたしは笑顔が上手い。これが本当に上手くて、わたしが笑っているときは紛うことなく笑っている。その真意を疑う者はいない。だからニルちゃんはわたしが二人を祝福していると思っていて、ヒビイくんも彼女の親友とのファーストコンタクトがうまくいったことに満足したらしく、ぺこりと一礼すると厨房に戻っていった。

 ニルちゃんはヒビイくんにわたしと同じメニューを注文すると、わたしの前に座った。


「それでさ……トーコ、実際どう思う?」


 打って変わって不安そうにわたしの意見を乞うニルちゃん。初めての彼氏だから何かと不安なのだろう。こう見えてニルちゃんは悲観的なところがあるし、リスクを嫌う。一見して無害そうな男を選んだのもその影響かもしれない。


「んー、いーんじゃない? いー人そうに見えるけど」


 わたしは努めて平坦な声で答えた。すっかり冷えたフレンチフライは放っておくことにする。ハンバーガーはもう全部食べてしまっていた。テーブルに隠れてわたしは胃をおさえる。急に、ぐるぐると具合が悪くなる気がした。

 ニルちゃんに手を出した男の料理をおいしく食べた?

 このわたしが?

 ……不意打ちにしてはパンチが効きすぎている。





 そのあとわたしたちは新宿に向かった。店を出るとき、ニルちゃんは厨房のガラスにコンコンと合図をして、こっちに気づいたヒビイくんに手を振った。ヒビイくんは大きな鉄板でパテを焼いているところだった。後続のわたしも足を止める。同じように手を振った。ヒビイくんは照れくさそうにしていた。わたしはしつこくアピールしておく。

 思えば、このときから計画ははじまっていたのかもしれない。

 わたしが店を出るとき、たしかにヒビイくんの粘り気のある目線を背中に感じた。道端ですれ違う大学生や朝の電車で傍に立つサラリーマンがくれる、いつものあの目線を。ふん、とわたしは鼻を鳴らす。

 どうやら手応えはありそうだ。

 わたしは思考を切り替えて、ニルちゃんとのデートに集中する。新宿のルミネでニルちゃんの買い物に付き合うも、どの店にもめぼしいものがない。主に値段的に。だからわたしはこの前発見した、西新宿の路地にある古着屋につれていく。センスのいいセレクトショップで、価格の割に品質がいい。ニルちゃんが喜ぶ。もう、こんないいとこ知ってたなら教えてくれればよかったのにーと文句をいう。わたしは今こうして教えたんだからいいでしょーという。

 いいカードには切り時がある。今日を選んだのは正解だ。ニルちゃんがはしゃいで試着室に向かう後ろ姿を見て、わたしは満足する。アウター一点とパンツ一点を買ったニルちゃんを連れて伊勢丹の地下に入っているチョコレートカフェに入る。

 そこでニルちゃんはフランボワーズのペーストを挟んだガトーを食べる。ニルちゃんの話の大半はヒビイくんのことだった。付き合ってまだ二週間だけど、デートはもうすでに三回しているらしい。わたしに報せなかったのはサプライズのためだったそうだ。いわれてみれば、ニルちゃんがバイトのシフトがないにも関わらず足早に帰っていく日はあった。わたしの勘もにぶいということだろう。

 こうしていまわたしとそうしているように、ただ買い物してお茶をするという流れがヒビイくんは退屈かもしれないとニルちゃんは不安がっている。

 わたしはヒビイくんの情報を聞いておいた。


「彼、趣味はなんなの?」

「バスケだって。中学のときからずっとやってるみたいだよ」


 なるほどね、とわたしは思う。まったく興味がない。

 カフェを出ると夕暮れ時だった。西日で作られたビル影が新宿通りに落ちていた。

 今日のところは解散するという話になる。


「トーコ。次に遊ぶときさ、ヒビイくんも連れてきていいかな?」

「いいよ、もちろん」

「ほんと? よかったぁ。あたし、ふたりにも仲良くなってほしいなぁ」


 駅までいっしょに歩きながら、わたしはニルちゃんの空いた左手を眺めた。

 ヒビイくんを引っ張って連れてきた、その柔肌を。

 ニルちゃんと最後に手を繋いだのは中学三年生のことだった。こどものころからずっと仲が良くて、わたしとニルちゃんはよく手を繋いで歩いていた。今のニルちゃんの淡い茶髪は高校に入ってから染めた色だ。それまではいかにも純朴そうな黒髪でミディアムヘアーだった。わたしもいまほどには大人びていなかった。だからわたしたちが渋谷新宿を歩くときはどことなく不安で手を繋いでいたのだ。でも高校生になってからわたしが何も言わずに握ったら「あはは。あたしたちもう高校生だしさー」と笑われて、手を引っ込められたのだった。

 あは、そうだよね、とそのときのわたしは答えた。

 あの日の夕焼けの空を克明に覚えている。


 嗚呼。そのあかさが、わたしの勘に障るのよ。


                 ▲


 かつてクロエちゃんという女の子がいた。わたしが通っていた保育園で、ひときわ大きな身体をした女の子だった。クロエというが、外国人というわけでもハーフというわけでもない。たしか黒井という名字をもじったあだ名だ。小さい子はあだ名を好く。特に女の子は。わたしについたあだ名は「魔女」だった。理由はふたつある。ハロウィンの催事にわたしが魔女の衣装を着て、それが似合っていたから。

 もうひとつの理由はわたしの目。

 黒曜石のように澄んだ深黒の眼。

 わたしの瞳は他と違う特別製だ。

 見る者を惹きつける光彩を放つ。

 ある日、わたしはクロエちゃんに髪を引っ張られていた。わたしは嫌われていたのだ。いつもは澄ましているが、そのときのわたしはえんえん泣いていた。わたしは臆病な人間なのだ。本当は誰よりも。おそらくクロエちゃんよりも。クロエちゃんはわたしの目がこわかったのだろう。わたしが相手の目をしっかりと見て、はっきりと物を話すとみんなが怯えた。このとき、しっかり監督していなかった保母さんは後日解雇された。


 次のカットでは、ある女の子がクロエちゃんを止めている。その子は身体こそ小さいが声は大きく、どこにでも届いた。透き通るような声だった。倍音という特殊な周波数の声質をしていることが判ったのは小学校に上がってからだった。太陽のような笑顔を浮かべて、誰にでも好かれる女の子だった。


「だいじょうぶ?」


 わたしはうなずく。わたしの黒曜石に映る女の子は女神のように見えた。

 次のカットでは、わたしは保育園の庭で体育座りをしている。わたしを助けてくれた女の子が話しかけてくる。なにか代わりのあだ名をつけようかと提案してくれるが、わたしは断る。トーコはトーコのままでよかった。どこかにいってしまった血縁上の父がつけた名前だった。


「それなら、あたしにあだなをつけてよ」


 いいよ、とわたしは答えた。

 その子の苗字は似鳥といった。ニタドリ。それがどうしてニルちゃんになったか定かではない。覚えているのは木陰に座って話すわたしと傍らに立つニルちゃんの姿だけだ。そしてニルちゃんの声。心地のいい、胸に染み渡るような周波数は風になびいて、右から左へ。そうしてわたしを癒やしていた。あれからずっと、今も。

 いつまでも。








 ヒビイくんに会った日の夜、ひどい不眠に悩まされた。彼がニルちゃんと逢瀬して触れあっているのかもしれないと思うと、煮えくり返るような嫉妬心が顔を出した。

 その次の日も眠れず、隈ができてニルちゃんに心配された。しかし三日四日経つとようやく少しずつ眠れるようになって、次の週の日曜日は万全のコンディションで出かけることができた。

 その日、わたしは新宿から代々木方面に向けて歩いていた。

 Quietという雑誌の街角モデルを捜している男の人に声をかけられる。


「やーばいって、マジで。こんな美人見たことないんだけど」

「絶対に芸能やったほうがいいって!」

「え?マジでどこにも所属してないの?」

「もっったいなっっ!」


 その人はそういう言い分でわたしに迫る。わたしは流し目で彼の真意を推量する。どうも冗談ではなさそうだ。それもそうだろう。

 端的にいって、わたしはきれいだ。

 小学生の頃だったか、当時のパンテーンのコマーシャルで黒い髪を指で梳く女優を見て、わたしと同じ髪だと思った。わたしは当時から絹のような髪をしている。堂々とロングにすることが許されるのは、まるで機で織られた人工品のような限られた髪質だけだ。

 別段、男受けする服を選ぶ気はなかった。というよりもあまりそういうことが目的の服を持っていない。それでも問題はなかった。学校での地位や女受けを目指すと、結果として洗練されて男からも見目よく映るようだ。あるいは、男という種族は女の服なんて気にしていないのかもしれない。話すときの目線は笑ってしまうくらい変遷が規則的だ。顔、胸、顔、胸、脚。まるで判を押したみたいに。そしてわたしの場合は、さいごに目を凝視される。

 そのスカウトマンもそうだった。わたしの瞳に呑まれるように目を合わせていた。

 わたしは写真を撮られることが好きではない。仮にそうでなくても、ここでモデルになる理由もない。やんわりと断るつもりで、わたしは特に反応せずにスカウトマンの話を聞き流していた。

 途中で思い直して、わたしは足を止めた。


「それって、今ここで一枚撮るだけとかでもいいんですか?」

「もちろんいいよー! ありがとー!」


 わたしは新宿の高架下の近くで簡単にポーズを取る。こういう形で写真を撮られるのは初めてだが、表情の作り方は心得ている。こういう手合なら、いつもみたいに人好きのするものではなく、どちらかというと突き放すような表情が好まれるのだろう。スカウトマンは一眼レフで写真を撮った。道行く人々がわたしを見ていた。はやく立ち去りたかったのに、結局は四枚も別の角度から撮られた。

「雑誌できたら、よければ送るけど?」

 おそらく本当にわたしを雇いたいのだろう。そうやって連絡先を聞いてくるがわたしは断った。写真に添える名前だけ告げて代々木駅の方に向かう。



 クロスドバーガーという個人経営のハンバーガー屋に入店する。二階建ての小さな建物で、場所はJR線の踏切の近くにある。店内は南米風だ。わたしはハンバーガーではなくグルテンフリーのBLTサンドを注文する。お金を払うとき、横目で厨房を確認した。いた。ヒビイくんはお皿を洗っているところだった。ヒゲを生やした男の人がパテを焼いて、ヒビイくんになにかを話しかけていた。

 二階ではなく、一階の席に座る。わたしはおもしろくなくてあまり読み進まない文庫本を取り出す。読んでいるふりをしながら、ヒビイくんが働いている姿を眺めた。

 ヒビイくんがわたしの存在に気づいたのは数分してからだった。まるで幽霊を見たみたいにぎょっとするから、思わずわたしは笑ってしまった。そのままの笑顔で手を振ってみる。おそるおそるという風に、ヒビイくんも手を振り返した。店長さんらしいヒゲの男の人がヒビイくんにオーダー台を指差す。そこに載っているBLTサンドを持って、ヒビイくんはわたしの席の方にやってきた。


「こちら、BLTサンドと、オ、オレンジジュースのセットです。ご、ご注文は以上でよろしいでしょうか?」


 くす、とわたしは笑った。


「はい、以上でよろしいです」

「で、では……ごゆっくり」

「待ってよ。彼女の友達が来ているのに、それで終わりっていうのはないでしょ」


 ヒビイくんは恥ずかしそうに顔を伏せた。


「その、雛子ちゃんも来るんですか? 俺は聞かされてないんですけど」

「敬語やめてよ。変だよ?」

「でもお客さんだし、店長きびしいんで」

「そのお客さんのわたしが嫌って言ってるんだけど?」


 わたしは机の上に手を組んで、そこに顎を乗せた。どうもからかい甲斐はありそうな男の子だ。男子校の子っていうのはみんなこんな風なのだろうか。いや、きっと違うのだろう。


「ニルちゃんは来ないよ。今日はわたしがひとりで来たの」


 ヒビイくんは意外そうに目をぱちくりさせた。


「え? どうして」

「来たらダメなの? おいしかったからまた食べようと思って」


 わたしはBLTサンドを手に持つ。


「ね、これもヒビイくんが作ってくれたの?」

「ああいや、それは店長が」

「そっか。今回はヒビイくん製じゃないんだ、残念だなぁ」


 わたしは首を傾げてみた。この様子なら多少わざとらしくても問題ないだろう。

 ヒビイくんがごくりとつばを飲む。高い喉仏が一段と隆起した。


「ヒビイくん、今日のバイトは何時までなの?」

「え、えっと」

 あたふたと壁がけの時計を見て、

「今日は十六時かな」


 朗報。あと一時間足らずだ。


「それならさあ、終わった後にどこかで話さない? ふたりで」

「話すって……なにを?」

「ちょっと相談したいことがあるの。いいでしょ? ね」


 有無をいわさずに畳みかけると、ヒビイくんはこくりとうなずいた。わたしの意図がわからなくて困っているみたいだ。

 わたしはにっこりと微笑んで、ヒビイくんの背後を指差した。ヒビイくんの位置からは見えないが、さきほどから厨房で店長さんがじっと睨んでいる。客と無駄話しているヒビイくんに怒っていそうだ。振り向いたヒビイくんはギクッとした素振りを見せた。口数が少ない代わりにリアクションが豊富な人らしい。

 わたしが口元を隠して笑うと、ヒビイくんは赤面しつつこちらを見た。仕草に見惚れるかのように。

 うん、それでいい。

 厨房に戻っていくヒビイくんを見届ける。


 夜のサザンテラス通りは光っていた。愛知県の物産を販売している建物の向かい、少し前に潰れてしまったドーナツ屋さんの隣にはスターバックスがある。まるで長屋のような変な建物なのにどこか洒落っ気がある店だった。店内はとても狭いが欧風のインテリアで雰囲気が統一されていて居心地がいい。窓際の席に座ると新宿の夜の街並みが覗ける。今年は冷夏だった。日が暮れると案外と肌寒い。ほんのかすかな冷気が外を漂っている。

 わたしは背の低い椅子に腰掛けて、対面のヒビイくんに学校の話をしていた。

 総武線沿いにある中高一貫の女子高。ミッションスクールであることだけが特徴の平凡な進学校で、わたしとニルちゃんは学校生活を送っている。現在、高校二年生。部活には入っていない。

 ニルちゃんは可愛らしい女の子だ。ニルちゃんはものすごく歌がうまいからいっしょにカラオケに行くとたのしい。ハムスターとかカピバラが好きで、そういうグッズをたくさん持っている。

 一挙一動が元気に溢れており天真爛漫という言葉がよく似合うが、ニルちゃん当人はいわゆるクールビューティーな女性に憧れているらしい。集中するとクリクリした目を細めて八重歯を出す癖がある。それがすこし小動物っぽいとからかうと、あわててキリッとする。気に入らないことや間違っていることが好きではなく、その上はっきりと物を言う性格をしているから、ニルちゃんの周囲では陰湿ないじめや無視はあまり起こらない。

 優しくて、人から好かれて、人を好く。ニルちゃんは愛されるべき女の子だ。

 誰よりも。

 ヒビイくんはどこか落ち着かない様子だった。そわそわして、すっかり冷めたコーヒーを頻繁に口を運んでいる。わたしは笑みを絶やさない。そんな不慣れな男子をかわいいと感じているかのような微笑みを消さない。バイト上がり、できたばかりの彼女の親友の美人に声をかけられて、あまり馴染みのない喫茶店でふたりきりで話すことは、シャイな彼にとっては未知で刺激的で緊張するのかもしれない。

 べつにそれでも構わない。ただ、もう少し素を出してもらったほうがこちらとしてはラクだ。

 わたしは脚を組み直して、人の行き交う通りに目をやった。ガラスに反射して、わたしの黒々とした瞳が薄板に浮いていた。気だるげに見えるのは演技ではなく本心だ。そうしながら黙っていると、ようやくヒビイくんは相槌ではない言葉を口にした。


「それで、話っていうのは?」


 わたしは目線を外に向けたまま、一瞬だけ思案した。

 本当はニルちゃんについて脚色するつもりでいた。どういう内容の嘘でも構わなかった。昔ちょっとした事件があって、実はああみえてニルちゃんには男性恐怖のケがあるの、だから交際はゆっくりにしてほしい、とか。もしくは、今わたしたちのあいだには表面化していない問題があって、遊ぶときはぜひヒビイくんに混ざってもらったほうが助かるの、とか。

 しかし彼の奥手な態度を見ていると、どうも回りくどい方法は好ましくないようだ。

 わたしはマグカップで顔の下半分を隠して、照れるように口にした。


「実はね、話なんてないの」

「え?」

「本当は、ただヒビイくんと話してみたかっただけ。こうして、二人だけで」

「え、っと……」

「ヒビイくん、わたしの初恋の男の子によく似てるから、どうしても気になっちゃってさ」

 ここで一拍おいて、

「……迷惑だったかな?」

「め、迷惑なんかじゃないよ、全然!」


 ヒビイくんは手と首を振って否定する。はじめて荒げた声を聞いた。

 あはは、とわたしはわざとらしく笑う。


「ほんと? よかったぁ」

「ごめん。俺、あまり話すの得意じゃなくて。しゃべらせてばかりで。雛子ちゃんも、俺と遊んでも退屈してるんじゃないかなっていつも思うんだ。前も渋谷に行ったときに」


 不愉快な話題だ。ヒビイくんの話を遮って、わたしは彼の手を取った。

 ごつごつして骨ばっている、男の人の手だった。


「すごーい、手ぇおっきいんだね。よく見ると、細いのに筋肉もあるし……ヒビイくん、なにかやってるの?」

「あ、えーと……俺、一応バスケやってるんだ。中学のときから」

「そうなんだー。この手だったら片手でボール掴めそうだよね」


 わたしは掌を重ね合わせる。

 しっとりとした湿気を感じた。わたしはそれに気づかないふりをする。


「ね、もっとヒビイくんの話を聞かせてよ」

「い、いいけど……俺、さっきも言ったけど、べつにうまく話せないと思う、っていうか……」

「あは。そんなことないし、そんなこと気にしないよ。ヒビイくんさ、女子相手だからって緊張して話してるでしょ。せっかくかっこいいんだしもったいないって~。もっと友達に話すみたいでいーんだよ?」


 でないといい加減やりづらい。

 ヒビイくんは嬉しそうに笑った。初めて見る笑顔だった。紅潮が掌に伝わって温度があがるのがわかった。

 ヒビイくんはバスケ部の話を聞かせてくれる。ニルちゃんをナンパしたときに一緒にいた高校生も同じバスケ部で、ヒビイくんに彼女を作る協力をしてくれているらしい。同い年から面倒を見られるタイプの人間というのはいる。ヒビイくんはその類いみたいだ。引っ込み思案で流されやすいタイプ。きっと、当人のいうとおり、話していてあまりおもしろい人間ではないのだろう。

 と、そんな風に考えながら、わたしは無意味に長く触れていた彼の手を離した。

 わたしの処女を捧げることになるかもしれない男の手を。




 翌週、またヒビイくんに会った。

 その次の週も。その次も。その次は、またニルちゃんも入れて三人で。

 ヒビイくんは思慮が浅くて、欲望に忠実で、ようは至って普通の男子高校生だった。

 わたしは自分の市場価値を明白に示しながら、徹底して誘い受けの態度を貫いた。わたしが街角でモデルをやったときの雑誌を見せて食いつかせたり、ここに来るまでの道でしつこくナンパされた話をして、彼を嫉妬心に苛つかせた。わたしよりもいい女があなたの人生に積極的に介入してくることはきっとこの先ないんだよ、ということをわたしは柔らかく理解させていく。

 わたしは焦らずに相手の心だけ刈り取っていく。ただの既成事実を作るならたいしたことではないが、後処理のことまで考えるなら、ヒビイくんには相当の自責の念を持ってもらわなければ困るからだ。

 明確に彼の態度が変わったのは、二人で会うようになってから何度目のことだったか。いい加減、その奥手っぷりに辟易した頃になって、彼はようやくわたしを自分の女として扱うようになった。

 隣で眠りこけるヒビイくんをよそ目に、わたしは嘆息した。

 必要なこととはいえ、すべてが退屈な時間だった。ヒビイくんと過ごすとき、わたしがじっと目をつむってばかりいたのは、ニルちゃんのことを考えていたからだ。ヒビイくんは最後までその事実に気づくことはなかっただろう。

 ヒビイくんにはわたしという人間はどう映っていただろう。親友の彼氏を好きになったけど、親友に悪いから関係を発展させることができない、かといって二人で会いたい気持ちを抑え込むこともできない、クールを装った不器用な女。

 終始そんな風に見えていたのなら満点だ。


 わたしたちは、短い期間にしては色々したほうだと思う。上野の古い映画館で退屈なミステリ映画を観たり、木更津のアウトレットに遠出したり。ヒビイくんのバイト代は、高校生にしては背伸びしたプレゼント用のアクセサリーと、円山町のホテルの休憩料を含めたデート代に消えていった。

 すこしだけ感心したのは、わたしに浮気しながらも、ニルちゃんと会う時間は一定量設けていたことだ。案外、要領がいいのかもしれない。時おりニルちゃんは彼と会う時間が少ない不満を口にするくらいで、決定的な問題は起こらないまま事態は進んだ。その分の補填はわたしが引き受けて、二人で原宿に遊びに行った。

 わたしはヒビイくんにもらったアクセサリーを処分したお金でニルちゃんに小物を買ってあげたりした。たとえば海外製品を輸入したセレクトショップで、可愛い黒猫のポーチなんかを。日本から撤退して久しい、ルルギネスの正規品なんかを。

 ニルちゃんはお返しにクラウンのキーホルダーをくれた。あまり女子高生っぽい贈り物ではない。でもわたしはそれをとても気に入る。そもそも、ニルちゃんがくれるものならなんだって嬉しいのだ。

 ニルちゃんは、トーコには可愛いよりもかっこいいが似合うからね、と言ってくれる。

 そういうやり取りをするとき、わたしの胸にはたとえようのない満足感が浸透する。

 こんな時間がいつまでも続けばいいのに、と心から願った。

 そして晩夏は去り、晩秋が訪れた。


                 ▲


 三人で会うときは新宿が多かった。ルミネのレストラン街のはじっこにあるリゾット屋でヒビイくんがトイレに席を立ったあと、ニルちゃんがいった。


「最近さぁ。ヒビイくん、変わったなって思わない?」

「あー、たしかにそうかも。垢抜けたっていうか」

「でしょ? はじめはなんならソーショク系だと思ってたけど……なんていうんだろ? 色々と気を遣うようになったっていうか。あはは、実は浮気でもしてたりしてー」

「えー。ほんとに?」

「冗談冗談。そういうことする人じゃないと思う」


 ヒビイくんが戻ってくる。

 ヒビイくんは一見、普通に話す。わたしも一見、普通に話す。

 リゾットを食べ終わって、ニルちゃんが席を立った。

 わたしたちのあいだに沈黙が訪れた。わたしが意図的に生み出した十数秒の沈黙だ。そのあとで、わたしは唐突にリゾットの感想を口にした。創作系を頼んだのは間違いだったかもしれないと、空元気するかのように。わかりやすく、わざとらしく。

 そこでヒビイくんが口を開いた。


「トーコ」


 わたしはそっと目を伏せて、


「……ねえ。今、その呼び方、よくないよ」

「ごめん。待たせ続けて、本当に悪いと思ってる。俺、今日こそ雛子ちゃんに言うから」

「でも、そうなったらわたし、ニルちゃんになんて言えば」

「大丈夫。トーコのことは絶対に言わない。全然別の子ってことにするよ。そのほうが雛子ちゃんのためでもあると思う。それでさ……何年も経って、今が昔のことになったら、そのとき二人で打ち明けよう。雛子ちゃん優しいし、きっと許してくれるって」


 わたしはうなずく。それから彼に見えない角度でほくそ笑んだ。ああ、なんて甘い打算なのだろうか。何年経とうとも、大切な人を盗られた恨みが消えるはずはない。わたしはそれを知っている。

 だってそれはきっと、わたしがあなたに対して抱いている気持ちと同じだろうから。

 それにしても、ようやく終わりか。頭のなかでカレンダーを確認する。紹介されてから七十五日?……人の噂が消えるのと大体同じだけの時間が経ったということだ。

 ヒビイくんは、それはもう無様なほどにわたしに惚れていた。わたしが本気で媚びると、男はああなるらしい。改めてそう考えるとぞっとしないでもなかった。

 とはいえ初めての試みで、勉強になった。次はもっと効率化できるといい。そして次がなければもっといいが、それは叶わぬ夢なのだろう。でもわたしはできるだけ考えないようにする。わたしが唯一苦手なのは未来を考えることだ。冬の夜みたいに暗いことがわかりきっていて、無性に虚しいからだ。


「おまたせ~。ここレストランフロアなのに、お手洗いが一箇所しかない上に狭いの、不便だと思わない?」


 にこにこした顔でニルちゃんが帰ってくる。


「そういえばふたりってさぁ、あたしがいないときは何の話してるの?」


 わたしは困った顔を浮かべた。ヒビイくんが、どこか緊張した面持ちで当たり障りのない回答をしていた。







 ニルちゃんからラインがあったのはその日の夜のことだ。電話口の向こうでボロボロに泣きながらヒビイくんに振られたことを告げるニルちゃんに、わたしは落ち着いて近所の公園に来るようにいう。想定していたわたしは一駅離れたニルちゃんの家のすぐ傍にある小さな公園に向かう。住宅街に佇む遊具もほとんどない寂しい公園でニルちゃんはベンチに座っている。わたしが駆け寄るとニルちゃんはぎゅっと抱きついてくる。くるまるみたいに。

 ああ、これだ。

 この体温にしっかりと触れるのはどれほど久しぶりのことだろう。


「ニルちゃん、いったいなにがあったの?」


 そうわたしはきく。ニルちゃんが号泣しながら説明した内容はシンプルだ。ヒビイくんに他に好きな女ができたから別れたいといわれた。ニルちゃんがどれだけ食い下がっても絶対に折れなかったらしい。問い詰めると、実はもう向こうと付き合うことに決まっているという。ニルちゃんのこんな泣き顔を見るのは初めてだった。わたしは息を呑む。想像していた以上に、ちょっと耐えられないかもしれないというほどに暗い気持ちになる。あの女神のようなニルちゃんが……。でも耐えなければならない。わたしの頬が蒸気した。まるで抑え込んだ気持ちが体内で気化したみたいに。

 わたしはニルちゃんの頭を撫でながら、努めて平坦な声でいう。


「信じられない」

「ヒビイくんはサイテーね」

「そんな人だと思わなかったね」

「でも、長い付き合いになる前に判明してむしろよかったよ」

「ニルちゃんはなんにもわるくない」

「ニルちゃんがかわいくないから振られたのではなく、ただヒビイくんに見る目がなくて最低なだけ」

「ニルちゃんはわるくない」

「なにひとつわるくないから泣かないで」


 わたしはそんなようなことをオブラートに包み、時には包まずに口にした。まるでわたしの言葉を刷り込むみたいに。ニルちゃんがしっかりと話を聞いているかはわからない。でも伝わればいい。ニルちゃんの悲しみが伝播して、わたしもすこし泣いてしまった。さっきからポケットでスマートフォンが鳴っているのはヒビイくんだろうか。わたしは服の上から電源ボタンを長押ししてシャットダウンする。

 しばらくして落ち着いたニルちゃんが顔をあげた。


「ごめんね、トーコ。ありがとう……こんな時間に来てくれて。あたし、トーコには助けられてばっかりだね」

「いいよ、そんなの。いいに決まってるでしょ」


 ニルちゃんは覚えていないだろうが、昔そういう約束をしたのだ。ニルちゃんのお願いは全部聞くという約束を。

 第一、こんなマッチポンプで感謝される謂れはないのだ。本当に。


「なんか、ようやくできた彼氏で、好きだったけど、ばからしくなっちゃったなあ」

 ニルちゃんは放心するようにいった。

「トーコ、去年、一瞬だけど彼氏がいたときあったでしょ? トーコが彼氏のことあまり話さなかったからあたしも言えなかったけど、実はあのとき、すごくうらやましくなって」

「そうだったんだ……」

「うん。ね、トーコはどうして別れたの……って、これ嫌な質問かな」

「んーん」わたしは首を振る。

「わたしもね、ニルちゃんといっしょだよ。二股かけられてたの。だからニルちゃんのつらさはわかるよ。……ま、わたしは強がって誰にも言えなかったんだけどね」


 これは嘘だ。わたしに彼氏がいたことはない。ゲーセンでナンパしてきた男を利用して撮ったプリクラをそういう設定として見せただけだ。

 ニルちゃんは嘆息した。たくさん泣いて発散して、踏ん切りがついたようだった。ニルちゃんは平常心が戻り始めても、わたしと手を繋いだままだった。一時はわたしから離れたはずの掌がとても暖かい。ヒビイくんとは全く違う、安心する柔らかい肌だ。張り詰めた夜の空気を振動させるニルちゃんの声は不思議と懐かしい感じがした。いつも聴いているはずなのに。

 ベンチに腰掛けて、わたしたちは進路相談の話をする。このところ、ニルちゃんはずっと思い悩んでいるようだった。大学に進学することだけが正しい道なのかなぁ、とニルちゃんはいう。もっと他にやるべきことがあるような気がすると。わたしはその気持ちが理解できる。おそらくわたしたちはみんなそういう漠然とした焦燥や違和感を感じるものなのだ。でもわたしは大学に入ることを薦めていた。なにが自分にとって正しいかわからないうちは、きっとそうしたほうがいいのだろう。いつかのために、より多い選択肢が取れる道に進んでおいたほうが。でも最後にはニルちゃんが選ぶことだ。わたしはいつだって合わせることしかできない。

 惚れた弱みとはよくいったものだと思う。今回、わたしは身を以てそれを痛感した。

 徐々にニルちゃんに笑顔が戻ってくる。わたしはそれがとても嬉しい。だからわたしも笑うようになる。わたしの第六感がどこかで大声で喚いていた。きっと問題はたくさんあってそれはすべて近いうちに顕現する。わたしはニルちゃんとは違う。この多岐にわたる未来の道の行末はどれも同じだ。どう進もうがおそらく奈落のような落とし穴しかない。それでもいいのかもしれないと思いこむしかなかった。今この瞬間があるならば。

 ここに確かに存在する美しい時間のためであるならば。

 人気のない公園に夜の帳が下りていく。わたしたちは吐息のつくる白い靄を眺めている。

 それはただ薄らいで消えていくのだった。ついぞ意味を与えられなかった生命みたいに。


 帰る前に、わたしたちは揃ってヒビイくんの連絡先を削除した。三人のグループラインは消えて、インスタもブロックして、ニルちゃんのアイコンはわたしとのツーショットに戻った。

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