教会に陽光が差すと、くすんだステンドグラスを介して鈍い彩色となって、木製の長椅子には銅像の影模様が落ちた。

 四ツ谷大学の学内にある教会は歴史が古い。名はクロイツキルヒェという。かつて遠藤周作が愛した場所という話だが、わたしはたいした価値を感じなかった。ただの古い建物という印象しか受けない。


「……どうしても。わたしじゃ、だめかな」


 わたしはそう口にする。

 わたしの前に一人の男の子がいる。短髪で細身の身体つきをしている。野犬のような切れ目をしていて、あまり優しい目つきというわけではない。ちょっと背伸びした不良の高校生がそのまま大学に来たような、そういう印象の男の子だった。


「トーコさん。前も言ったんですけど、俺は」


 その子はそこで言葉を切る。わたしは上目遣いで様子を窺った。

 彼は言葉を選ぼうとしている。わたしを傷つけないための言葉を。


「俺は、似鳥先輩が好きなんです。そりゃ、先輩は俺のことなんかどうでもいいかもしれないですけど、そういうのは関係なくて……俺は、今はまだ、似鳥さんと話せるだけでいいっていうか。時間かかってもいいから、俺のことわかってもらいたいんですよ。だから俺は、トーコさんとは付き合えないんです」


「そんな……」

「すみません。もう、俺には話しかけないでください」


 はっきりとそう宣言して、彼は礼拝堂を出ていく。


 両開きの扉が軋んだ音を立てて閉まる。

 わたしひとりが取り残される。



                 ▲



 その日、人生三度目の新歓コンパで、わたしはニルちゃんや同級生の女の子たちと飲みながら、新しく環境に現れた男の子たちを物色していた。

 今年の新入生は九人。そのうち男子は五人だ。多くの男の子は、これまでわたしが出会った多くの初対面の人がそうしたように、わたしに対して羨望するような眼差しを向けていた。そういう子たちは問題ない。いっしょくたにわたしに好感を抱いて、基本はなにもアクションを起こさずに去っていく。

 しかし、一人だけそうではない男の子がいた。わたしを見ていない新入生だ。

 彼はカズマくんといった。わたしは彼に注意する。

 過去にそういう子は何人かいた。大体の場合、のちに彼らが同性愛者だったことが判明した。カズマくんがゲイなのだったら、それでかまわない。だがもしわたし以外の女性に興味があるようなら、そしてそれがニルちゃんなのだったら、それは問題だ。

 新歓コンパでは上級生が新入生の卓に挨拶にいく。学祭委員の伝統で、後輩に喋らせる前に自分たちから名乗りを上げるのだった。ニルちゃんが先陣を切る。


「はーい。似鳥雛子、文学部英文の三年でーす。趣味はぁ、カラオケと買い物で~、嫌いなのは英語とゼミの教授!」


 英文なのにかよー、と同級生の男の子がツッコミをいれて笑い声が起きた。


「あと一応、今年から副部長ということになりました~。つまり偉いということだからぁ、新入生一同はあたしにかしずけ! 敬って頭を下げろ~~あはは!」


 上機嫌に酔ったニルちゃんがいつもの調子で自己紹介をしているとき、カズマくんはじっとニルちゃんを見ていた。呆けたようで、真面目そうな、どこか既視感のある目だった。

 どこか……たとえば写真をみるとき、ニルちゃんをみている自分の目に抱くような印象。

 わたしがニルちゃんを見るときと同じ目だった。


「次はトーコの番だよ! ほらほら、早くー。みなさん待ってますから」


 ニルちゃんがわたしの肩をゆらす。それでわたしはハッとして名前をいう。

 神橋トーコ。ニルちゃんが好きでいてくれるわたしの名前。

 学部は文学部英文科。男が少ないから選んだ。

 趣味は友達と遊ぶこと。ニルちゃんと行くならどこでもよかった。高校一年生の時、いっしょに学校をサボって江ノ島にいったことがあった。突発的な行動で、わたしたちはどちらもお金がなかった。だから帰りの電車賃とお昼代の他にはお金が使えなくて、水族館にすら入らずに砂浜を裸足で歩いた。それだけのことが何よりも楽しかった。数多ある大切な記憶のひとつとして、わたしの脳に克明に刻まれている。

 太陽をバックにして振り返るセーラー服姿のニルちゃんを、わたしはいつだって思い出すことができる。

 嫌いなもの。わたしが嫌いなのは……自分自身だ。

 自己紹介の最中、わたしは横目でカズマくんの様子を探る。彼はわたしを見ていなかった。


「トーコ先輩ってぇ、めっっちゃめちゃに綺麗ですねー!」


 ギャルっぽい新入生の女の子がいった。

 他の子が同意するのに被せてニルちゃんが口を挟んだ。


「でしょ? でしょでしょ? こんな子見たことないでしょ! あたしの自慢の幼馴染なんだよ~」

「えーっ、大学で幼馴染って珍しいですね。いつからなんですか?」

「なんと保育園から!」

「え、じゃあもう少しで二十年とかってことですか? ながーい!」

「年のことは言わないで~……」


 そこでまた笑いが起きる。

 一般的に、大学三年の女の子は年齢に敏感になるものだ。ニルちゃんも例外ではなかった。


「あの、トーコさんは彼氏いるんですかー?」


 途端、ニルちゃんや他の同輩が自然と口を閉ざす。

 去年トウキさんの一件があってから、それはわたしたちの間ではタブー視されている質問だった。

 そういえば最後にカモフラージュで彼氏を作ったのは大学一年のことだったか。告白してきた文系サークル連合の男の子と付き合い、まったく会わないでいたらすぐに自然消滅したのだった。当時ニルちゃんや他の子にどういう言い訳をしたのかすら覚えていない。でもこれからはそんな心配もいらなかった。トウキさんの冤罪事件のおかげで、周囲にいらぬ勘ぐりをされることがなくなったからだ。


「いないよー、そろそろ欲しいなぁ」


 わたしがそう答えると周囲が湧いた。

 そのままの勢いで、新入生たちがわたしに質問してくる。主に女の子が色々とたずねてきて、答えに興味のある男の子がむっつりと黙りながらも耳を傾けるという構図だ。わたしが当たり障りのない返事をしていると、いずれカズマくんが意を決したように動いた。わたしが止める間も、義理もなかった。カズマくんは奥に詰めて、一瞬フリーになったニルちゃんに話しかけたのだった。周囲がやけに盛り上がっていて、わたしは二人の会話を聴き取ることができない。すべては笑い声にかき消されている。カズマくんがなにかを口にする。ニルちゃんはそれに笑うと、カズマくんの背中をバンバンと叩いていた。


 帰り道でわたしはニルちゃんにたずねた。


「カズマくん、だっけ? あの子とよく話してたね」

「んー? うん、まあね」

「ニルちゃん、なに話してたの?」

「や、べつにぜんぜんたいしたことじゃないよ。でも、けっこう面白い男の子だったかな」


 まあ、あたしは年下には興味ないんだけどね、と続けるニルちゃんはどこか満更でもない様子だった。



 それから数日後のことだった。

 わたしの悪い予感は的中した。わたしはカズマくんから相談事の連絡を受けた。ラインの文章は先日の新歓コンパのお礼から始まっていた。見た目よりもしっかりした後輩らしい。

 内容はシンプルだった。

 ニルちゃんについて、幼馴染であるわたしから話を聞きたいとのことだった。今、彼氏はいるのか。年下は大丈夫なのか。どういう男が好きなのか。もしよければそういうようなことを教えてほしいと、やはり丁寧な文章で書いてある。

 カズマくんがうまいのは、わたしに対してニルちゃんへの好意を隠さないことだった。正直、やりづらい。そういう臆面もない人間に対して、返答をはぐらかすことはできない。嘘をつくことも難しい。遅かれ早かれニルちゃん本人に聞いてしまいそうだったからだ。わたしはニルちゃんには今は彼氏はいないと答える。年下は好みじゃないという言い方ではなく、年上が好きだったはずだという回答を選択する。事実、それは嘘ではなかった。少なくともこれまでは。

 どういう男が好きなのかについては返答に窮した。頼りがいがある人という方向にしようと思ったが、その前にカズマくんが小柄だったことを思い出す。ヒールを履いてなくともわたしよりも低いかもしれない。ニルちゃんは身長が高い男の子が好きだって昔いってたかな、とわたしは送信することにする。これも嘘ではないはずだった。

 追加のメッセージがきた。


『あ、気になったんですけど、トーコさんの呼んでるニルちゃんってあだ名は由来はなんなんですか?』


 わたしの心がざわめく。その呼び方をしていいのはわたしだけだ。

 わたしが死守しているわたしだけの特別だ。

 わたしはそれには答えずに、大学祭のイベントの一環である卒業生礼拝の準備担当になってくれないかとラインする。今年度、わたしが担当することになった役職の手伝いだ。カズマくんは二つ返事で「いいですよ」と返信をくれた。

 『ちなみにわたしは年下好きだよ』と送るか迷ったがやめておく。まだアクションを起こすにはいささか性急だ。ハートを持ったハムスターのスタンプを押して、わたしはiPhoneをベッドに放り投げた。


 わたしたちの通う四ツ谷大学はキリスト教系列の大学として有名だ。神学部もあり、学内ではシスターが学生を引き連れて歩いている姿を見ることもある。年にいちどの大学祭では、学内の教会で著名な神父が説教するイベントがあった。神学部以外の学生にはあまり関係ないはずの行事だが、大学祭実行委員サークルの人間は運営を行う必要があるため、毎年この時期になると「教会係」が発足するのだった。

 それが今年はわたしの役目だった。その手伝いをカズマくんにお願いすることで、わたしは彼と接触する機会を増やした。

 参列者の名簿づくりやOB神父への出席依頼、学事との連結や昨年度の式のリサーチ、学内メディアへの連絡などの雑務をカズマくんといっしょに行う。カズマくんはあまり口数が多いほうではなかったが、それでも会話を重ねていく。そのおかげで、カズマくんが母子家庭の育ちで、両親の離婚騒動の際に弁護士に助けてもらった関係で法曹を目指していることや、特待生枠で学費の八割が免除されていることなどを知る。長くサッカーをやっていたが、膝を痛めてからは勉強一辺倒だったことなども。

 わたしはこれまで以上に大胆かつ慎重にカズマくんに迫った。脈絡もなく距離を詰めて、近くで目を見て話した。とにかく彼に好意があるということを理解させておく。

 前準備を重ねたら、あとは一気にやるだけだ。

 夜に作業が終わるように都合を調整した日のこと、わたしはカズマくんを飲みに誘った。


「いまからですか?」

「うん」

「ふたりでですか?」

「うん。……いやかな?」


 全然いいですよ、とカズマくんは答えた。そういうトーンや返答の仕方は、わたしのこれまでの経験上いちどもなかった。もっとそわそわした、食い気味の返事ばかりだったものだが。

 わたしたちはしんみち通りという四ツ谷駅の傍の飲み屋通りに行き、日本酒が飲める店に入った。

 トウキさんのときもそうだったが、同じサークルでは本来、あまり安易に既成事実は作れない。

 しかし、今回はわたしのなかで警鐘が鳴っている。カズマくんがこれまでの男とはなにかが異なっているのは確かだ。それは彼が特別恋愛の駆け引きに長けているとか、なにかの領域において優れているとか、そういう話ではない。ただニルちゃんを追いかける恋愛をするというときにのみ、他の追随を許さない人間のように直感した。

 だからこそ、今回ばかりは一切悠長に構えてはいられないとわたしは判断する。わたしは媚びに媚びた笑顔をつくって彼に話しかける。座の席にぺたりと座り、カズマくんに手伝ってもらってとても助かったけどカズマくんは迷惑じゃなかったかな? とか、そういうことを質問しながら、彼の手の甲が真っ白できれいだったから自然に触れて、アルコールで血管が広がり、血潮が肌に透けて映る様に目を落としたりしていた。

 終始カズマくんは平常心だった。心ここにあらずとでもいうように。

 どこか別の場所や人にすっかり恋しているようだった。


「あのさ。……ニルちゃんのこと」


 痺れを切らして、わたしは口にした。


「気になるっていってたけど、それは本当なのかな?」

「はい」

 と彼は即答した。

「そっか……。えーっと。それは、なんだろ? ひょっとして一目惚れってやつかな?」

「かもしれないです。ただ、なんていうか、俺自身そういうのあまり信じていないんで、自分が本気なのかどうもわからなくて、確かめるみたいな意味合いで似鳥先輩に話しかけてみてるんですけど、やっぱり本当にそうらしいんですよね。自分のことでアレですけど、意外でした。変な話、これまで俺はあまり恋愛とかに興味が持てなかったので」


 彼はそこでお猪口を煽った。急に饒舌になったものだ。


「わたしは……信じるよ、一目惚れって」

「トーコさんもそういう経験ってあるんですか?」


 わたしは黙る。個人的には、そんな手垢のついた言葉で片付けたくなどなかった。後から思い返してみたときに、そういえばファーストインプレッションからある種特別な人だったな、と思えたならば、それが可逆的に一目惚れと呼べるのかもしれないとは思う。でもいずれにせよ、わたしには無縁であるべきロマンチシズムのように感じた。

 わたしは勝負に出ることにする。


「あるよ。……きみとか」


 わたしは壁に半身を預けて、カズマくんと目を合わせた。

 彼は切れ目をぱちくりすると、


「冗談ですよね?」

「ひどいなぁ」


 わたしは傷ついたように弱々しく笑った。


「……それ、本気なんですか? トーコさん」

「そりゃそうだよ。冗談でこんなこと言わないよ。ねえ、カズマくん。ここのところ、わたしが強引にカズマくんの時間をもらっていたのはわかるでしょ?」

「ええ、それはまあ」

「ニルちゃんの話なんか露骨にはぐらかしてたし、むしろとっくに気づかれてると思ったんだけどなぁ」


 カズマくんは疑心の宿る顔で、


「そうだったんですか。トーコさんがはぐらかしていたのは、どっちかっていうと似鳥先輩に変な虫が寄らないようにしているんだと思ってました」


 わたしは内心で悪態をつく。正鵠を射ている。

 彼はゆっくりとお酒を呑んだ。わたしが追加を注ごうとして徳利を手に取ると、彼はもう大丈夫という仕草をした。


「わたしはね、これまで男の人に恋したことがなかったんだ」


 そう、わたしはいった。


「どの男も代わり映えしないように見えちゃうというか、どうも特別に思える人がいなかったんだよね。試しに付き合ってみても、やっぱりどこか違う感じがしたの」

「俺も、そんな感じでした。似鳥先輩に会うまでは、ずっと」

「わたしの場合はさ……カズマくんが、初めてなんだよ? 第一印象で違うなって思えたのは。話していてしっくりくるっていうか。カズマくんがニルちゃんが好きだって話をきくと、どうしようもなく胸が苦しくなるんだ」


 カズマくんは目の動きだけでわたしを覗いた。

 咄嗟に目線を逸してしまいそうになる。


「それは、俺にとっての似鳥先輩が、トーコさんにとっての俺ということですか?」

「うん、そうだね。そうかもしれない」


 わたしは彼の瞳が苦手かもしれないと思った。人の奥底と真意を探るような目だ。むかし、クロエちゃんやその他のこどもたちがわたしのことをこわいと口にした動機が、いまさらになって理解できる気がした。

 しばらくのあいだ、カズマくんは静止していたが、いずれぺこりと頭を下げた。


「すみません。俺は、トーコさんの気持ちには応えてあげられないと思います。……トーコさんに気にかけてもらえるのは嬉しいんですよ。恋愛とかを抜きにして。俺、あまり先輩とかに好かれるタイプじゃなかったんで。でも」


 わたしは口を挟んだ。


「どうしても? べつに、カズマくんにニルちゃんを諦めてほしいっていってるんじゃないの。ただ、わたしが生まれて初めて恋愛できるかもしれないから、カズマくんにはほんの少しだけ協力してほしいだけ」


 食い下がってくるとは思わなかったらしく、カズマくんは驚いた素振りを見せた。


「絶対にニルちゃんには言わない。約束するよ。カズマくんには何も迷惑はかけない。だから、おねがい。わたしに、恋愛を教えてくれないかな……?」


 アルコールでほのかに蒸気した頬を押さえて、わたしはいう。

 カズマくんは黙っていた。その沈黙の長さに、わたしは耐えかねる。

 折れて、と心中で唱える。美人の女が都合のいい関係でもいいから付き合ってと言っているのだから、飛びついてくればいい。殊勝である必要なんてない。立派でいる意味もない。この時勢、女遊びをして怒る人なんていない。言い訳はなんだってできるはずだ。

 慣れないお酒のせいだとか。

 こんなチャンスは二度とないだとか。

 すくなくとも、わたしがこれまで見てきた男は全員そうだった。たったひとりの想い人に操を立てようとする人なんていなかった。

 手を出してくれさえすればそれでいい。ばかみたいに鼻の下を伸ばして、わたしを抱けばいいのよ。それだけでいい。

 たったそれだけで、あなたはニルちゃんに相応しくなくなって、わたしは免罪符を得る。

 そう。だから、おねがいだから、折れて。


 しかし――

「トーコさん」

 彼は首を振った。



                 ▲



 カズマくんが出ていった礼拝堂で、わたしは長椅子に腰かけている。もうずっと磨かれていないのか、聖マリア像は埃を被っている。彼女はきっと微笑を浮かべているのだろうが、わたしには何の感情も汲み取ることはできない。

 聖壇にはロザリオがひとつ寂しく置き去られていた。処女のまま子を成したと信じられている聖女に祈るための十字架が。


 あれから、結局、カズマくんには三度断られていた。

 居酒屋でついたわたしの嘘を見抜いたのか、わたしと「遊ぶ」ことはできないと言い残して、彼は席を立った。後日、わたしが他に誰もいない部室で迫ったときも拒絶された。そして今さっき、教会内部の様子を確認する作業の最中、最後にもういちどだけ頼んだわたしに、彼は憐れむような目を向けてこう言った。

 

「トーコさんと似鳥さんは、幼馴染なんですよね? 俺なんかが似鳥先輩と付き合えるかはわからないですけど、もしいつかそうなったとして、俺の好意を知っていたトーコさんが、俺に対してそういうことを言っていたってことがなにかの拍子で伝わりでもしたら、二人の仲にも亀裂が走ると思います。俺は――俺は、そういうのがいちばん嫌です。二人は、だれがどうみても本当にいい親友だから、そのままでいてほしいんです。

 だから――ごめんなさい」


 やけに精悍な面構えで彼はそういった。

 思わず、わたしはひとり笑ってしまう。正しいなぁ、と思う。嫌になってしまうくらい正しい。これまで、彼のような正しさで行動を判断できる男の人はいなかった。

 わたしは目をつむる。

 高校時代、ヒビイくんがわたしの上で懸命に腰を振っていたときの、あの必死な形相を思い出す。

 今が旬の果物でも頬張るかのように、わたしの口腔に舌を這わせたヤナギさんを思い出す。

 女の身体の脆さなんてどうでもいいかのように激しく抱いたミネくんを思い出す。

 わたしが拒絶してホテルの部屋を出ていくときの、据え膳を逃したと言わんばかりのトウキさんの歪んだ表情を思い出す。

 わたしは彼らが正しいなんて思わない。でも、きっとあれが自然なのだろうと思った。もっと、情欲とか雰囲気に流されて、機械的に作動するのが彼らにとっての自然なのだと。

 荒々しく消費されるとき、わたしはいつも、この役回りがニルちゃんじゃなくてよかった、と思っていた。それがひどいエゴだということはわかっていても、そうせざるを得なかった。ニルちゃんだって健全な女の子で、わたしとは違って男が好きで、だからそうされて嬉しかったかもしれないのに。


 ニルちゃんはカズマくんの好意に気づいている。結局のところ、カズマくんは恋愛下手なのでニルちゃんには見透かされてしまっているのだ。でもニルちゃんに聞く限りだと、どうも悪い気がしないらしい。もうちょっと勇気出してくれたら付き合ってあげてもいいかも、と思っていると教えてくれた。

 遅かれ早かれ、カズマくんはそうするだろう。

 二人はきっとうまくいくのだろう。未来永劫かはわからないが、少なくとも、しばらくの間は。


 いちど自覚すると、握り潰したレモンの皮が破けて果汁が溢れるみたいに、じわりと酸っぱい感情が漏れた。

 わたしはカズマくんが妬ましい。心の底から、狂おしいほどに羨ましい。刺し殺してしまいたいほどに。

 わたしがわたしである以上、どれだけ渇望しても届かないものを彼は生まれながらにして持っているのだ。

 そして、ひょっとしたら、いつかニルちゃんが口にした理想をも。

 



 その日からしばらく、わたしはうまく眠ることができなくなる。

 夜はきらいだ。例外なく暗くて、長いから。





 ある日のこと、ニルちゃんから長いラインが来る。

 要約するとこうだ。カズマくんに晩ごはんに誘われたニルちゃんは、二人でスペイン坂にあるバルに入った。そこのウェイターが懐かしのヒビイくんだった。どうやら彼は今はそこでバイトしているらしい。あんな別れ方をしたわけだが、あれから何年も経って、少なくともニルちゃんの方はそこまで気にしておらず、ヒビイくんに平常心で挨拶する。向こうはかなり動揺した様子だったけど、表面上は普通に挨拶を返してきた。ただし、ヒビイくんは仕事中、ずっとニルちゃんたちの卓をちらちらと気にしていたらしい。

 帰り際になって、ヒビイくんは神橋トーコについてたずねた。昔、あの女に言い寄られたと。あのときの自分の二股相手はトーコだ。自分が悪いことをしたのはわかっている。でもあれから音信不通なのは不可解だ。ひょっとしてトーコの身になにかがあったのか? 気になって仕方がない、と。

 ニルちゃんは衝撃を受ける。ヒビイくんの虚言だと一笑するには、話にやけにリアリティがある。

 いっしょにいたカズマくんが話を聞いていて、自分の聞いた話と齟齬があることに気づいて、ニルちゃんに相談する。カズマくんは最後まで、わたしの彼への好意を疑っている節があった。ヒビイくんの話を聞いて、あれが明確に嘘だったということに気づいたのかもしれない。

 続けて、ニルちゃんはトウキさんの言い分を思い出す。


「トーコの方から俺を誘ったんだ。本当なんだよ、信じてくれ……!」


 あのとき、自分がくだらない弁明だと一蹴したトウキさんの言い訳がもし本当だったとしたら?

 情報過多に、ニルちゃんはパンクしそうになる。

 なにが本当で、なにが嘘なのか。確かめるにはわたしにきくのがいちばんだ。


『うそだよね? トーコ』

『だって、あたしたちだもんね?』

『ねえ、うそだっていってよ』


 ラインはそう締められていた。

 わたしは既読だけつけて、アプリを閉じる。

 いつか、こんな日がくるとわかっていた。

 そう、覚悟していたことだから、わたしはあえてうろたえるということはしなかった。

 これでも思ったよりは長くもったほうだ。本当だ、強がりじゃない。

 ことさらに言い訳するつもりはなかった。わたしがニルちゃんに対して抱いている感情が言葉にならないのであれば、なぜわたしがニルちゃんに好意を持つ男を寝取ろうとしたのかも言葉にならない。

 わたしには口を閉ざすことしかできない。


 明かりの灯らない部屋で、わたしはひとり佇む。


 ずっと、ニルちゃんのほしいものをあげたかった。

 わたしの容姿がほしいというのなら、全部すげ替えて捧げたかった。

 ニルちゃんが自分だけを見てくれる相手がほしいというのなら、それをあげたかった。

 ずっと自分のことだけを好きでいてくれる男がいいとニルちゃんが言うのなら、だれよりもまじめな男をあてがってあげたかった。いっときのくだらない性欲でほかの女を抱いたりなんかしない、誠実な男を。

 これが異性恋愛なら、自分が相手の理想になればいいだけの話だ。でもわたしは違った。だからニルちゃんの望みに叶いそうな男が見つかるまでは、わたしが間引いたのだ。

 そう、それだけの話だ。

 これはそれだけの話だ。

 それだけの話のはずだったのだ。


 ラインを開くと『ごめんね』とだけ書いて送った。それ以外の言葉が思いつかなかったのだ。わたしはひどいことをした。随分と身勝手なことをしてきたと思う。

 そうだ。わたしは自分の悪行に気づいている。ニルちゃんのためといいながら、その実、羨ましい男たちに分不相応な幸福を与えたくなかっただけなのだろう。独り身をさみしく自嘲するニルちゃんとクリスマスに女子会をするのが毎年楽しかったのもある。数いた男たちの間に楔を打ち込んだのは、ニルちゃんを独占できないのであれば、いっそ誰のものにもならないようにという思いもあっただろう。わたしはまったくきれいな人間ではない。

 わたしは横になり、今まさに悲しんでいるであろうニルちゃんの姿を想像する。

 親友だと思っていた女に裏切られてニルちゃんは傷心しているだろう。

 今まではずっと、わたしが慰める役割だった。

 今はもう違って、ショックを受けたニルちゃんを支えてあげられる男の子がそばにいるのだ。

 いずれ、ニルちゃんはきっと彼にしか見せない顔で笑いかけるのだろう。

 それは果たしてどんな表情なのだろうと考えてみると、なんだか無性に悲しくなって、わたしは心の限り喚いて、どこかに消え去ってしまいたくもなるが、それもずっと前から、いつかそうなるとわかっていたことなのだからと、わたしは自分に言い聞かせる。



 いちどだけ、携帯が震えた。そのあとで、何度も震えた。ニルちゃんだろう。でもわたしは開きたくない。トウキさんを罵っていたときのニルちゃんの表情を思い出す。あれと同じ言葉が自分に向けられているかもしれないと思うと、どうしても携帯を手に取ることができない。何度もiPhoneを手に取り、何度も投げ捨てた。ボタンひとつでニルちゃんの言葉が伝わってしまうことがこわい。何時間ものあいだ、わたしは目を閉じ、耳を塞いだ。

 それでも、散々迷って、結局は開いた。

 そこに書かれていたのは、わたしが想定していた罵倒の言葉ではない。


『おねがい、トーコ。電話に出て』

『話したくないの? あたしは話したいよ』

『公園で待ってる。何晩でも待つから』


『必ず来てね』

『あたしのおねがいはなんでも聞いてくれるって』


『そういう約束だったでしょ?』



 ニルちゃんは憶えていたのだった。

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