第二十九話 負傷
暴動者と化した元警官を、身体全体で押していた。
荷物でも扱うように押して、ステージの下に押し出そうとしていた。
この生者だけが存在するステージの下へ。
真弓は目の前に立ちはだかる床板を睨んでいる。
黒い、樹脂質の床まで、拳一つ分の距離がある。
両腕に痛みはあったが、これは徐々に薄れていく。
両腕で、頭部への衝撃は防いだかたちである。
照りつける照明が背中に降り注いでいるなか、身動きが停止した。
何が起こったのか、わかった。
転んだ、転倒した。
それだけだ。
床板は立ちはだかっているわけではない。
けれど、何故。
足が思い通りに動かなかった。
動かせなかった?
自分の体力に、思ったよりも消耗があるということか?
足が上がらなくなるくらいには、疲弊をしているのか。
疲れは確かにあるだろうが、まだ大丈夫だ。
立て続けに多くの暴動者との連戦では、無いはず。
そこまで―――そこまで衰えてしまったのか、真弓。
私は、
ギターにだけ、時間を割くようになってから……。
ふと、床板から視線を外し見上げる。
天井ではない―――真横にいる敵に視線を合わせる。
白い瞳と目が合った。
ミルクでも垂らしたかのような眼球でもって、私にピントを合わせる。
ピントを合わせようとしているのだろうが、おそらく正確にはとらえていないで、そのまま私の方へ双眸を向けていた。
その元警官が、弾かれたように動いた。
「……くっ!?」
開いた顎、ブドウのような色の舌。
血液が漏れた口が迫る。
身をよじって、紙一重、避ける。
髪先がふれそうだった。
背後に転がると肩で着地した。
――――
「そんな……!」
真弓の転倒。
突然起こったその様子は、ステージ上の他メンバーからも見えていた。
あと一歩のところでステージ下に危険を落とせるという、状況だった。
真弓が両腕で押し出そうとして、足により一層の力を込めた時に、その靴裏の摩擦力が失われた。
赤くへばりつく、液体によって。
――――
「―――血……っ、 で!」
血で滑った。
血液で、足を滑らせた。
状況を理解した真弓は、瞳を細め厳めしい表情を浮かべる。
ここまで来ておいて、それはないだろう。
大丈夫だ、もう一度同じことをすれば、今度こそ。
ステージから追い出してしまえばいい。
あのクソ親父を倒した時よりは低い難易度だ、そうだろう?
だが改めてステージ端を見てみると、かなり汚れていることに気付く。
付着しているのは今相手にしている元警官の血液だけではない。
ひとり分ではない。
今日の―――、今晩相手をしてきた敵の全員が残したものだった。
状況は、ライブ開始時よりも悪くなっている。
床の状態も滑りやすいし、靴の問題もあった。
視界では足裏までは見えていない―――が、パンプスは汚れていた。
血液、体液が蹴りを繰り出すたびに付いたのだろう、考えが及ばなかった。
私は、靴が壊れるかどうかの心配をしていた。
だが、その心配より先に、他の問題が起こってしまったようだ。
元警官が両腕で這い、頭部を突き出す。
真弓は怪我とは反対の脚で腹に当て―――力を込めて身を動かす。
一歩、後退することは――出来ない。
立ち上がる寸前で歯を食いしばる羽目になった。
踏んだ左足首から鈍い痛みがした。
真弓の額から、汗が滲む。
大丈夫だ、少し踏み違えたとか、だろう―――すぐ直る、だが。
だが。
再び、紙一重のところで歯が噛み合う音が過ぎ去った。
火花が散りそうな歯の衝突音。
少し離れて、転がる。
肌に乾いた血がこすれた。
その、すぐが遠かった。
暴動者は待ってはくれない。
言葉が通じないのだ。
真弓の足首、脈の音が右足からずきん、ずきんと止まらない。
なんとか転がることが出来た。
足が届かない程度の距離は、確保。
しかし、あの元警官の後ろにある無数の死者の腕は、彼を連れて行ってはくれなかった。
彼はのろのろと、再び立ち上がりはじめる。
「もう少しで、なのに……!しつこいね」
真弓は立ち上がらない、足が何かに触れると、足首が小さく跳ねる。
おやおや、どうした真弓、流石に絶体絶命か。
しゃがんだ姿勢で、しかし腕で支えていて立ち上がれない。
足が空気に触れているだけで痛い、すらある。
どうする。
足がすぐに回復しない―――せめて何十秒か休めば―――まだ、なんとかなるはずだ。
しかし敵が飽きもせず進んでくる。
この距離なら視認はされるのかもしれない。
待てよ、腕なら、まだ使える。
まだ、戦える、私は―――!
床にしっかり接地できず、力が入らない。
―――ううん、十分にやったよ。
警官が迫る。
元々はその制服を身につけた、ただの人間だった。
いいじゃないか。
悪い奴、ひどい奴に殺されるわけじゃあないし。
十分戦った私。
そう、そうだった、それでいいじゃあないか。
五年以上のブランクがあるのに、ひとりで皆を守り―――これ以上は無理でも。
いいじゃあないか。
迫るのは腐りかけの歯茎と、妙に白い歯。
その時だ。
真弓は音に包まれた。
音の嵐。
なっているのはバス・ドラム、スネア、ハイハット、ライド、クラッシュ、タムタム、
それらの混成。
音響設備につながれていると、まるで雷鳴のようだ。
元警官も、真弓から視線を外し、宙を見上げる。
視線を右往左往させて、突然迷子になったかのようだ。
立ち尽くし、空を仰いで、顎を伝う血液をパタパタと床に垂らすことしかできない。
「愛花……!」
大きな目を一際見開いて、スティックを叩きつけていく。
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