第二十八話 すべて忘れてしまうのか 2
真弓は離れたところにギターが置かれていることを確認する―――
そのため無造作、転がっているような状態だ。
壊れてしまってはいないか……?
もっとも、今日は乱暴な使い方しかしていない。
杜上を―――倒せる。
それはわかっている。
だがそれを成功させるだけでは駄目だ、ということも真弓はわかっていた。
事実、暴動者を倒す―――床に叩きつけるならば、それだけで済めば、もう終わっている。
行なっている―――、杜上がステージ下で散々繰り返していたことだった。
真弓は噛まれないように素早く動き、蹴りを肩に入れた。
注意を引き、移動する。
杜上を中心に円を描くよう移動―――背後に観客席が来るように。
目の端で確認する。
移動するし、させるんだ。
この警官、いや元警官を観客席下へ近づけて―――落とす。
意志を持った人間だったことは、今は、忘れるんだ……。
意図通り、こちらの方を向いて、歯を見せて、一歩一歩近づいてくる。
しかし、問題点もある。
このまま叩き合いになったら。
もたない―――かもしれない。
保たない、靴が。
靴はシックな色合いの革靴だったはず。
だった―――というのはもはや色などないに等しいからだ。
つま先からところどころ、蹴り飛ばした相手の血液か、体液がぬるりと滲んでいる。
やや気色悪い紋様を持ち始めた。
別に履き慣れた靴というわけでもない、信頼性は薄い……!
どこか、脆い部分が壊れるか?
ああ、その問題もあるのかよ。
夢呼が連れてきた衣装担当の人と選んだときは……気に入ったのだが。
ひそかに、気に入ったのだが。
あくまで小綺麗な見た目に対しての素直な感想だった。
強度に関してじゃあ、ない。
壊れるとなると、そうなるとどうしようもない。
やはりひたすら攻撃するのは、良い選択じゃあない。
「こっちに……おいでよ!」
そう言って煽れば、警官は虚ろな目を、いま一度私の方に向けた。
首を傾げた後、私に視線を合わせた。
音源―――私の口の方を向いたようだ。
じりじりと、傍から見れば私が観客席に押されている、追い詰められているようにも見えるだろう。
避難者の女子が、こちらに顔を向けつつ、目を手で覆っているのが見えた。
……まあ、正解だ。
そうこうしている間に敵が近付いてきた。
後ろに倒れれば観客席から無数に伸びる腕と、触れることが出来るだろう。
トンネルで大きな声を出した時のような、際限のない響きが纏わりつく。
たくさんの観客。
背後から血の色を失った腕でもって、私へのアプローチが多い。
男からも女からも―――どうやらモテモテだ。
嫌な汗が滲んでしまう。
全員から掴まれたら、いかに格闘技経験者でも身動きが取れないだろう。
いよいよここから、正念場だ。
倒す。
そしてその手数は、足数は―――少なくした方がいい。
頭部などに衝撃を与えて手早く済ませたいところだ。
ここだ!
素手をさらす。
元より前に出していた指先だ。
だが私は、左腕を高く掲げ、差し出す。
敵は、私の左手を見つめた。
――――
「蹴るんじゃ―――ないの?」
愛花が早口で呟く。
手が、敵に近い。
いくらなんでも、暴動者に対してそれは―――ない。
夢呼と七海も同様、肝を冷やした。
何をやっているんだ、真弓、ふざけている場合じゃあない。
―――――
確かにリスクだと思った、思っていた。
だが私はここで気づく。
動く元警官をコントロールした。
「ロ……ォ」
顔色はもう、蝋燭のように白くなり人間だったころの面影がない、それ。
確実にこの手に向かってくる。
脳が死んでいるのか、細かいことを考えずに突っ込んでくるのだ。
全く思い通りに、元警官は動いた。
そこを回し蹴り。
顎に入る。
絶妙なタイミングで左手を引っ込めて―――。
「ふッ……!」
右の上段蹴りを叩き込む。
やはり、噛みつこうとしてくる。
何をおいても、暴動者は噛みつきを第一目的として、隙あらば行おうとする。
空手の構えと噛み合った結果になったが、敵の前歯、犬歯がそこを狙ってくる。
一番近い肌を。
ロボットのような、決まりきった行動パターン。
弱点に蹴りが入ると、中断されると。
痛覚を失ったと見紛う狂人、暴動者ではあるが、大きく体勢を崩す。
暴動者の頭部がどこに来るかわかっていればそこに蹴りを合わせることは真弓にとって容易かった。
―――倒せる。
耳の上あたりをしこたま打ち付けて、元警官は大きく上半身を前後させる。
たたらを踏んで、足場を確認する様な仕草をした。
噛みつきの思考が中断か忘却されたかのように、膝を曲げたまま、立ち尽くす。
こんな姿になっても、やはり頭に食らう攻撃は他よりも応えるらしい。
真弓は歯を食いしばり、もう一度、頬のあたりに蹴りを入れる。
ガードの素振りすら見せずに、元警官はステージにたたきつけられた。
膝を曲げ、右腕、それから左腕を床に付けた。
ぱたぱた、と血液が頭部下から垂れていく。
鼻からの血だろうか。
真弓は少しも止まらず、元警官のベストを両手で掴む。
服を---引き摺る。
元警官はそれでも暴れるが、まるで力がこもっていない。
そのまま観客席の、無数の腕の方に連れていく。
動く手が、間違いなく真弓と元警官の方を追っていた。
「終わってくれ……」
思わず呟いたのは避難してきた男の誰かだった。
落ちてくれ……すぐにでも。
真弓も願っていた。
いや、願わない。実行するのみ。
聞こえるのは、いま昂る自分の血流の鼓動だけ。
ステージ上で長期戦はしたくないと思っていた。
いよいよステージ下の、首から上だけ見える暴動者の、腕が騒々しくなってきた。
もがく元警官の叩きつける腕の、足の音を聞いているのだ。
真弓はいよいよ、引き摺るのをやめ、その元警官を飛び越え、ステージ側に移動。
そちらから、押す。
両腕で押して、落とすことを、もう少しでできる。
「そうだ、そうやって、押して」
夢呼は呟いた。
つい蹴りにばかり期待していたが、何も、そうしなくていいのだ。
観客席に落としてしまえば、身体の動かし方が下手な、いびつな
抱き合う七海も、手に握る汗が滲んでしまう、そんな光景だった。
早くそいつを―――警察官には悪いけれど、いなくなってほしい。
ステージ上に、危険なものは、要素は、いらない。
もう何度目だ、これでもう―――終わり。
最後にしてほしい。
「真弓……!」
ドラムセットの中心に座る愛花も、心中で応援していた。
かつて父との確執を本人から聞いた彼女ではあったが、真弓の良き理解者―――というほど知ってはいない。
戦う真弓を見たのは、今日が初めてになる。
ただ愛花は真弓に対して、恐れを抱いたことは一度もなかった。
知っているのは、強く印象に残っているのは、意外と子供じみた願いを持っている女子だという事だけだ。
ひとりで、戦わせている。
ああ、近づけば足手まといになってしまうのはわかる。
それでも何かを考える。
少しでも自分の方に意識を向けさせれば。
そうして。
一人、闘う真弓。
その背を見つめる。
ドラマーを志したことに後悔はない、そんな自分でいい。
しかし今この瞬間は、この瞬間だけは違う。
何故自分は格闘技をやっていないのか、やったことがないのかと。
真弓のもとに駆け付けるという選択肢がないのかと。
「くっ……落とす!」
真弓は終幕を感じた。
闘う必要は、必ずしもない。
悪いけど、落ちてもらう―――暴動者溢れる、観客席下に。
悪くても、悪くなくても。
そちらにせよ私は生き残り、もう死んでいるには、死んでもらう。
そこまで押してさえしまえば、いい。
この方が靴への衝撃も少ない。
その時だ―――予想外の出来事が彼女に降りかかる。
がたん、と大きな音がステージに響いた。
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