第二十話 誰だ
『次の曲だけどォ いま ちょっと迷ってるんだよねェ 』
会場によく伸びる声―――スピーカーを通しているのだから当たり前だが―――それを聞きながら。
その時真弓は夢呼を見ていた。
柔らかな頬を持ち上げて、観客に呼び掛けている。
観客もこの頃にはスピーカー直下に定まって集まる者も多く、そうならなかった者もたどり着けない位置にいるものは右を見たり左を見たりしている。
夢呼、よくここまで……。
いまだ会場で最も主張し続ける女。
その向こうで、何か揺れた。
濃紺の警帽が暗闇に紛れる、杜上さんだ―――、警察の人はこれからどうするのだろう。
何か手を打っているはずだ。
彼という個人もそうだが、組織で。
組織絡みの行動を、わたしたち四人では全くできない手段があるはずだ。
組織単位でなにか、この事件に対策を打つはずだ。
だって、そうしなければ。
痩身負ければどうしようもない。
そう願いたい。
組織、百人でも千人でもいい。
その規模で考えれば何か手はある―――その規模で対策するしかない。
だが真弓は考えを、着眼点を変える。
半分、振り返るような動作の杜上―――そんなことに目を引かれる。
真弓は黙る、黙らされる。
不安定な体の動きを視界に入れて。
警察の人が……。
杜上と名乗った警察官。
……いや。
『あーさっさと聞きたいかい? でも大丈夫だよ 夜は長い!』
真弓は驚愕する。
今まで、曲がりなりにも私たちを避難させようとしてきたあの堅物で、しかし善良な警官。
しかし。
だ……誰だ……!?
その瞳―――まだ、そこまで悪化していないものの確かに症状がある。
あれだ、暴動者だ。
煙に巻かれた―――そんな瞳は輪郭がぼやける。
黒目が消えかかっている。
歯を剥いて、舌と、喉まで見えそうにその口を開くさま、人間の動き……?
知能が、違う、知能が死んでいる。
顔色から血の気が引いている―――。
血の気は引いていても血は流れる、流れている。
ぱたぱた、と口から墨汁のような血液が落ちる。
落ちた音は、聞こえない。
嘘だ、さっきまでと、違う人にしか見えない―――身体の動きが。
もちろん今日会ったばかり、初対面も同然の警察の人間ではあった、だが。
違う、顔の形が変わった、大きさも―――変形した?
―――いや、そうじゃあないはずだ。
表情と、あの見る者を不安にさせる瞳が、そう思わせるだけ。
そうして一歩、二歩歩いて向かう―――どこに?
ふらつきながらである、歩き方も忘れたのか?
しかし方向は特定されていないわけじゃあない、向かう。
このステージ上で今一番声が出ている人間。
マイクを握る夢呼の方へ。
夢呼はまだ喋っている。
何事かをマイクで喋ってる。
だが男は止まらない。
夢呼へ―――二歩、三歩、あのボーカルの原音、近すぎる。
それを聞いて、来る!
「ひ……ッ!」
ステージ上に集まった十名以上グループ、若い避難組のうちの一人の女が息を吸い込んだ。
彼女もこの異変に気付いたらしい。
その押し殺した悲鳴、それで我に返り、走り出す真弓。
―――私が、止める……!
突如として駆けだす真弓。
それを目で追うメンバー。
何事か。
状況の変化に視線を向けたのは夢呼も同じであった。
なに真弓、私に向かって走ってきてんの?
目で問う。
問いに対してなんの答えもない。
夢呼はただ真弓の血走った瞳を視界に捉える。
ますます加速をした。
だがそれでなんだ?なんで走っている?
疑問の表情のボーカルは、しかし次の瞬間、横から吹っ飛ぶ。
残像を描き、吹っ飛ばされた。
鳶色の髪が揺れる、その後頭部をみて、彼女が七海だとわかった。
ものすごいスピードで七海がタックルしてきた?
それが身に起こったこと、事実らしいが
何故。
「う! ううっ……!」
床に服から着地、それでも衝撃を受け。
二人の女がステージ上を滑って体が反転する。
ガッ ゴオ
会場スピーカーから何かが転がる音が、響く。
が ッちん。
先程まで夢呼の上腕があった位置、場所で、それは歯を噛み合わせた。
近付いてきた勢い余って、二、三歩よろける。
七海とともに、飛び退る夢呼。
落ちたマイクを気にした、だが駄目だ―――、位置が悪い。
まず、後退する。
それと入れ替わりに、真弓が飛び出した。
ギタリストは比喩ではなく飛んでいる。
宙を飛ぶ、その姿勢はさながらハードル走。
片足を前方へ伸ばしていき、くりだした飛び蹴り。
飛び蹴りを、杜上だった男の肩か胸あたり、浴びせる。
くぐもった声をあげて、敵はよろめき、倒れた。
「ウソ……! 警察の人は、え、だって……大丈夫だったはず!」
愛花は自身の頭を両手で抱える。
「か、変わった……」
目の前で変わったのは初めて見る面々だ。
目の前で、正常が暴動に変わったのは初めてである。
仮説が事実に変わった瞬間。
四人は戦慄する、避難者たちもだ―――警察が、あいつらに変わった。
濃紺のベストを着たまま、中身だけ、そう―――中身が。
警察なら大丈夫だ。
大丈夫なはずだ、警察の人間が駆けつけて来たら、きっと―――。
そんな風な心理を持っていた者が、若者の中にいた。
信じて願っていた者がいた.
他はともかく---自分たち一般人はやられてしまっても。
大丈夫なはずだ、警察は。
理由は、と言われるとだって―――つまり、警察だから。
守ってくれるから、そういう人たちの集まりだから。
特に理由などないけれど、警察なら何とかなると思っていたんだ、甘かった。
目の前でこれは―――動揺。
理路整然とした根拠、そんなものはどこにもなく、しかし信じたかった。
目の前で起こると何も言葉に出ない。
それが起こると、流石に精神に響くものがある。
どうしようもなく、人間は変わる。
そうだ、人間なら誰でも。
例外なく襲われる―――敵はそうやってくる。
敵は、病。
「あ、ああ……」
「くっそォ……途中まで―――途中まで助かったと思っていたのに」
「いい感じだったのに」
避難者たちの若者が立ち上がり、じわじわと後退する。
後退するというか、しようとしているだけ。
対して移動もできないスペースなのだが。
ステージから飛び降りるわけにもいかない。
「マイク落としちまったじゃあないか!なんてことを……」
「夢呼、変わった、ああなってしまった、確定よ……感染するわ」
「ああ、わかってる」
病気なのは、わかっていた。
感染することはある。
わかっているが、恐怖は消せない。
目の前で変わられたら、どうしようもなく、身体を動かす気力すら失いそうだ。
そして今、起き上がる暴動者―――それになってしまった警官。
なり果ててしまった暴動者。
彼は受けた攻撃を痛がる素振りはない。
ゆっくりと起き上がる。
真弓は、皆を背の後ろにする位置に、考えて移動する。
「下がってて―――」
両手を前に上げ構える―――のが真弓にとって構え。
真弓は思案する。
この構え……本当に安全か?
飛び蹴りをもう一回して―――いや、どうする。
これは手強い。
身体でぶつかってみてわかった。
今日相手をした中で、一番
背恰好は私より一回り太いだろう、このライブハウスに集まった観客連中よりは体を鍛えていたであろう。
単純に倒しにくい。
この人、大柄だ、あと服は衝撃を通しにくい。
あと身に着けた服も分厚いのではないか―――装備を付けたベスト。
やはり警察か―――それとも、警察の制服に、ビビっているだけか?
気圧されているのか?私が。
簡単に倒せない。
しかもだ、---ただ倒せばいいというものではない。
勝てばいい、それでもうおしまいでもない。
ステージから落とす。
そこまでやらなければ、戦いは完全には終わらない。
今までの暴動者たちも、あきらめ悪く何度も向かってきた。
下がってて、と言われた夢呼と七海。
二人ともステージに倒れたまま、足だけ動かし、少しでも離れようとする。
真弓は攻防のことにのみ、気をやっている様子だ。
今の彼女に声をかけるのは全員を危険にさらすにも等しい。
だがそれ以外のことの方が重要ではないか。
七海は思った。
間違いない、感染した。
いや―――していたんだ。
過去形である。
ステージ上で症状が出た、発症した。
だが、ウイルス?病原菌?に触れたのが同じ場所であるとは限らないのだ。
流石にステージ上で暴動者たちと接触していない。
杜上は、彼はそんなことをしていなかった、夢呼と話していたんだ。
どういう……ことで。
駄目だ、何もわからない、知らなさすぎる。
私は?夢呼は?
感染していないの?
それを、断言できるの?
真弓が敵を倒しても、倒してくれても、これではまた―――。
倒す倒さないじゃない。
暴力的に解決できる問題ではない。
一秒後の安全もわからない。
答えを……答えがわからない。
夢呼が何かを真弓の背に言おうとする。
だが杜上と向かい合っている彼女は、片目だけで向けて言葉を返す。
「いい―――言え、言うっていうか喋れ、曲を開始してくれ夢呼は」
「…………」
そうだね。
確かにそれを考えたい。
だがマイクを転がしてしまった。
取りに行くにはあの元警官の近距離を通り過ぎなければならない。
「真弓、もう近付かないで!」
七海は声をかける。
「感染したのよ―――それも、それをまず気を付けないといけないの。だから無暗に近づかないで」
「…………」
真弓も格闘のことしか考えないわけではない。
近付かない、感染しない。
そうか、出来るものなら。
やりたい---やれるものならやっている。
「ああ、私だって生き残りたい―――まだ。でも、キツいね、厳しいね……全員が助かるかわからない、その時は」
そのあと呟いた言葉を、夢呼と七海は黙って聞いていた。
格闘で倒し、ステージ外に落とす。
そんなことが理想だ、と真弓は考える。
だが、そろそろ感染について知らないと本気で命取りだ。
倒す前に調べたい。
そもそもどうやって感染する?
経路は?彼---杜上だけなにか、特別だった?
駄目だ、わからない、調べる余裕などあるのか。
病気―――それも風邪のように、例えば風邪のように映るなら、流行るなら空気で。
咳をしただけで近くにいる人間にうつる……そういう可能性だってある、わけ……?だし。
何もかもわからない。
近付くのは避けたい、私だって。
私だって噛まれたくない。
噛まれれば攻撃の手段がかなり制限され―――。
……噛みつき?
真弓は杜上の口腔を見る。
その、杜上だった者はゆっくりと近づきつつ、口を開けている。
奴らには―――暴動者には噛みつきという、異常行動がある。
一体や二体ではない。
多くの暴動者が、隙あらば噛みつこうとする。
暴力や、つかみ、引っ掻きのはざまで少しでも獲物に、それが出来れば。
病気なら、病気だというならあれでうつる可能性はかなり高い。
真弓は、自分の服というか、衣装が気になる。
上腕まで剥き出しのステージ衣装であった。
幾重かに生地重なってはいるが、縫製が頑丈なわけでも布が分厚いわけでもない。
正拳突きが余計な摩擦無く繰り出せることはありがたかった。
身軽だ―――だが暴動者相手としては頼もしくないデザインである。
噛みつきは対策しなければならない。
だがお世辞にも皮膚の保護力、防御力そのほかが高いとは言えない。
感染―――そうか、怖いな。
それを考えると今夜着ているものは、不安要素が大きい。
敵は病。
まさかそういったものを相手に修めた武道を使う日が来るとは、まるで予想したことがなかった真弓だった。
半面、動きやすくもあるが。
動きやすいし、靴も、今は保ってくれている―――。
傷と血液。
両方が付着しているそれを、一歩前に出し、腰を落とす真弓。
ゆらりと、杜上が迫る。
まだ間合いではない。
---自分はそれほど強くない。
もう、強くないと、謙遜でもなく思う真弓。
全盛期では、ない―――あるわけないよ。
具体的にその理由をあげられるだろうか。
体感でそんなものはわかっている、というのが心情。
さらに、根拠ならある―――、道場で稽古をしていないのだ。
……別に、後悔とかじゃあないけれどさ。
真弓は敵に向かい、その場で構えつつ、昔のことを思い出す。
ああ―――何でやめたんだっけ、空手。
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