第二十一話 むかしの真弓/いつもの愛花
帯を半分に折って、真弓はその日も結ぶ中央を決めた。
茶色の帯を腰の後ろへ回して、再び前に持ってきた部分を交差させる。
身についた動作の流れは、忘れられない。
真弓は十五才だった。
小鳥の鳴き声が増えた時刻、朝の庭。
拳が、空を裂く音が聞こえ始めた。
――――
「いじめられないように強い女の子になって欲しい」
真弓の父は厳格な性質だった。
性格もそうであったし、身体能力に関しても、妥協を忘却していた。
空手をやっていた。
だからそれに彼女もその思想、合わせることになるのは自然だった。
習慣や日常であり、同調していくこととなる―――。
幼稚園や小学校が終わっても、夕飯前は大抵道場だった。
父の白い胴着を見上げながら、日々稽古に勤しむ。
父は子供と遊ぶのが決して得意な父親ではなかったけれど、それでも稽古の時は心なしか―――表情には出にくいが、楽しそうだった。
少なくとも娘からはそう見えた。
そうして、父の突きを、蹴りを見続けて大きくなった。
真弓の父である。
稽古は厳しく、筋肉痛は当然のこと、怪我もした。
幼い彼女にとってはつらいものも多かった。
それでも真弓は強くなっていく。
幼少時の真弓は、短い手足で庭先で稽古していた。
手の指も大人が握ったらすっぽりと隠れそうなサイズ。
そんな腕を、足を振り回す。
「次ィ!正拳突き百!」
「は、はい!」
「返事は
「おす!」
彼女が父と過ごす時間で、一番思い出すのが稽古の時間だ。
いや稽古しかなかった。
白い胴着に身を包んだ父は、その額を、刈り上げられた短髪をいつも汗で光らせていた。
その頃の父親とは背が違い過ぎて、並んで稽古しても、あまり顔が見えなかった。
夕方、庭に差し込む赤い陽の光は逆光を生み出したのだった。
右腕を前方に突き出し、左手は肋骨淵を通る。
「強くなるんだ―――真弓よ!強くなること、強いはいいぞ、汗をかくことは、全く持って素晴らしい青春の汗だ」
そのようなことを言っていた。
強くなることは素晴らしい、と言われれば―――私はそれを信じた。
間違っていると思いたくなかった。
「誰にも負けちゃあいかんぞ!」
空手をたしなんでいる、と言えば印象はいいのかもしれない。
だがそういうものに留まらなかった、程度が違ったのが問題だ。
私は多くの女の子と同じようには育てられず、父親から特殊な訓練じみた武道を享受する日々を送った。
庭の木が枯れていた。
春先ではあるが葉が生えないその樹を、私は何にも思わず見ていた。
父が仕事から帰ると、庭先でばしん、ばすんと音が鳴りだす。
蹴りを打ち込むのだ。
何に?
庭の木に縄を何重にも巻いて、そこへ。
稽古は毎日だ。
そのため、庭の木も枯れるときは枯れる。
たまにだが植樹園のおじさんが家にやってきた。
弾に曲がった腰でやってきて、新しい枯れかけの木を植えていくのだ。
―――いいよいいよぉ、どうせ廃棄するもんだぁ、これは
おじさんはそう言っていた。
その枯木もそれからすぐに傷んでしまい、最終的には縄を巻いた丸太になったが。
幼い私は何の疑問も持たなかったが、やがて違うと思っていく。
庭で木を消耗品のように扱っている男は、そうそういないことに、気付いていく。
私がそんな風に成長していく頃。
のちに知った話だが、愛花は中古のドラムを自宅倉庫から引っ張り出していたらしい。
私が明確に音楽に関わるのはもう少し先の話だった。
――――――
愛花の話、というか愛花に会った時の話。
思い出す映像は色々あり過ぎるのだけど、ただ、最初は学校の教室だったはずだ。
並んだ机、ベージュのカーテンの一部が掠れて染みになっている。
その近くにいつもいた―――窓際の席だった。
高校に入学した時だ。
初めて同じクラスになったときに何かが起きたというわけでもなく、取り立てて珍しいエピソードも教室では起こらなかった。
第一印象はまあ、良いかよくないかで言えば、覚えていない。
愛花と出会ってすぐに意気投合、一致団結したわけでは、当然なく。
どころか何年たっても意見が合ったことはない。
やがて同じバンドに所属しても、だ。
普通のクラスメイト?
確かに、それで終わるかと思われた。
劇的な青春ドラマがあれば格好はつくかもしれないけれど、教室なんて、多くの一般的な学生生活なんて、そういうものだろう。
私とは全く別のグループで休み時間に話して笑っている様子をよく見ていた。
妙に目を引く容姿だった。
くりくりとした大きな瞳、と、高い声。
どうも他の人間と違う思考。
その日も私は愛花の笑顔を眺めていた―――というか、目についた。
いつもあんな顔してんのかな。
つい呟いてしまう私。
だらしない。
え、ていうか教室にそんな面白い要素あるか?
「愛花はいつでも同じ
私の隣にいたクラスメイトの女子がふと、そんなことを呟いた。
頬杖などついて見ていた彼女が誰だったかは、もう思いだせないような仲だった。
「楽しそう……ね……?」
そうだろうか?
何とも不真面目そうな女で、笑顔が可愛い、笑顔が可愛いだけ。
それだけの女子として、いた。
存在していた。
その頃の私からはそういうふうにしか見えなかった―――だから時には心の苛立ちを感じたりもした。
彼女が決して私に友好的でなかったのが響いている。
すぐに仲良くなることはなかった。
なかなか仲良くなることはなかった。
笑顔が可愛い女の子、なるほど悪い響きはしないのだろう。
その言葉通りではあった。
そしてその笑顔が可愛い女の子とやらは、私と良い関係を築いたわけではなかった。
友達になって話すわけではなかった。
コミュニケーションを取らなかった、図ったことがなかった。
と、そういうことである。
愛花は私以外の子と固まって話して笑ってた。
あとは、一人ででもよく笑う人間だった。
……なんだそれっていう感じだ。
そういうところが目立つ。
気が付けばそこそこ人目を引いているようになった。
主に男子から。
誰とでも分け隔てなく声をかける―――かは、わからないが、そう見えた。
けどなあ。あれのどこがいいのやら―――。
天真爛漫と言えば聞こえはいいが、見慣れると、馬鹿にしか見えない女なのだが。
女の笑顔というよりも子供の笑顔だ。
瞳がキラキラとしすぎていて、そういう風にしか見えない。
多くのクラスメイトから馬鹿にされているにも思えたし、軽んじられている部分もあった。
男子からもそうだ―――砕けた態度を取られていて。
年がら年中変わらない表情をしているので、ニブい奴だと思いつつ、私は過ごした……何がそんなに楽しい。
そのテンションでいられる要素があるのか?
成績が良いという話も聞かない。
愛花は、すべてが疑問だ。
私は―――私はそんなに笑えないと思うけれどな、この空間。
声色も間延びしがちで、どこを取っても、探しても緊張感がない女である。
自分とはずいぶん違うタイプだったので、普通に考えて卒業まで、一度も絡まないということもあり得ただろう。
悪い奴じゃあない……とは、それは、思っていたさ。
放課後に教室でだべっている生徒がいた。
雑談が生きがいとでも言いたげな、平和なクラスメイト達だった。
格闘技のカの字もない感じ。
羨ましくなんかないぞ。
……たぶん。
芸能人の話題とか他愛ない話をしているその中に、愛花はいなかった。
あいつも、帰りは早いのかな。
そんなことを思いながら教室を出た。
――――
その日の帰りも真弓は早く帰路に就いた。
クラスメイトとはあまり話さなかった。
空手の稽古のため。
強く、なるため。
今までと同じように続けていた―――確かに空手の稽古を続けていた。
だが父親の思惑とは違う方向へ歩んでいく。
彼女の秘めた決心は固かった。
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