第十八話 観客たち 3
最後に夕飯を食べたのはいつだっただろう……家族と。
目の前には食卓があった。
いつも使っている茶碗、その奥に皿、料理が並んでいる。
料理は野菜類が多い―――しっかり食べていかないとうるさいのだ。
台所に立つ同年代の女性、蛇口を閉め、次の食材を切る。
たん、たん―――包丁を落とす音。
それだけが響く。
私はその部屋を見回す。
なんてことのない、自宅だ。
テーブルとイスが三つ。
先程の彼女は、自分と同じ齢―――いや、一つだけ違う、年下だ。
よく知っている。
知っていたのに、何故だ。
顔が見えない。
台所を歩き回る彼女は、俯いて、影になっている。
息子は、どこだ、自分の部屋で勉強でも?
今日は友達の家に行っていない?
最近、話さなくなってきた。
それを心配するのが妻だった。
息子は特に、自分に対して寂しがるような態度をとっていなかったが。
私に似たのだろう、感情は豊かではない。
それでもどこか、旅行に連れていくか。
翌日の仕事での体力を考えるばかり、休日は泥のように眠る自分に対して、これでいいのかと思う日はあった。
―――なあ。
私は隣の部屋のハンガーにかけられている制服に目を移した。
水色のシャツ。
棚に置いてある濃紺色の帽子の旭日章、桜の代紋―――。
なあ。
――――なあ。
―――ちょっと、ねえ!
「ねえ、―――警察の人!!」
呼びかけられ、杜上はハッとする。
耳に痛みが走る―――喧しい声を出さなくていい。
おどろおどろしい暴動者の声に囲まれ、しかしこの一帯だけ照明が集中して明るい。
温度もある―――日光浴かと思った。
ステージに座っている何人かの方を向く。
ややあって、彼らの不安げな表情にピントが合う。
目が霞んでいる、軽い老眼なのだ。
「……?どうしたの?登ってきて、避難だろうあんたも」
「え……あ、ああ」
杜上は息を落ち着かせようとする。
避難してきた者たちはまだ、避難の途中―――引き上げている、仲間を。
だがステージに十人ほど固まっていた。
そのうちの目つきの悪い女が言う。
「警察は、来てくれてるんだよね?」
目つきが悪いのか、あるいは今日に限ってそんな何者も信じないというような目をしているのか。
今度は心強いと叫ぶ面々でもなかった。
ステージからだと、観客席の大群が嫌でも目に入る。
この状況で警察官がひとり上がってきて喜ぶような考えには、至らない。
誰もが不安気、笑顔は作らなかった。
『ああ 三曲目もいったところで もうしっかり聞いてくれてるみたいな感じ 助かるよ―――そのまま止まっていてくれ』
夢呼、おい、何やっている。
そんなメンバーの視線をものともしない快活さのボーカルだ。
そんな彼女に歩み寄った杜上。
杜上は、立ち尽くす。
丸眼鏡の女は、なおも雑談のようなことを会場に響かせ、止めようとしなかった。
彼の人格は厳格で、ロックバンドに興味などない。
まるで違う生き物のような女性バンド・ボーカル、その行動に理解などしない。
そう見えた。
だがそれでも、観客席の様子の違い、ここなら見て取れる。
走る者が増えた。
暴動者は棒立ちとなり、走り逃げることが出来、出口は混雑を極めているが、それでも何人かは脱出していく。
真弓が利き腕を大きく動かし、演奏する。
音が途切れないままに低音から高音へと変化していく。
会場を見渡せる場所にたどり着き、立ち尽くす警官に声をかける。
「警察の人……、奴らは、音に反応する」
真弓が一歩、前に出る。
夢呼を喋らせては変な軋轢というか争いが生まれる、と踏んでである。
ドンドン、と音が聞こえる。
ドラムセットに隠れそうな背の低い女が演奏していた。
演奏、というよりも会場に音をつなげる、満たす意図が大きかったが。
「ま、まだ続ける気なのか……?」
杜上は異常なバンドメンバーを見回す。
ドラムセットに囲まれた女がいた。
ここがライブハウスで、ステージ上であるからそうなのだろう。
杜上の知るドラムとはかなり趣が違った。
黒い―――灰黒のパッドが並び構成されていて、金色のシンバルなどは見当たらない。
代わりを務めているのだろう。
全体として小型なイメージだ。
その向こう、女の目を見るため、ステージ中央へゆっくり歩く。
メンバーは考える
逃げろという警察の指示。
しかし、今演奏をやめても逃げ場などない。
それならばあの暴動者の動きを止めることができ、かつ私たち
いずれは助けが来るはずだ。
それが、それが手っ取り早く―――
『さあ、ステージ上も賑やかになってきたところだ。無事なファンの皆様のためにも、血を流してる側は―――』
暴動者はそれでもおとなしい。
もちろん目に映る景色として、良いものではない。
地獄も
異常だが、これでこの会場はかろうじて調和を保っている、そうなっている。
動かない。
反響する場内の音。
『血を流している側のヒト---楽しんでいってくれェ 』
「これは……」
「まさかとは思った。 走っている最中にも見えたさ、血を流している連中が、動きを止めて……」
修羅場を潜り抜けた警官は、さらに疲弊する。
嫌な予感がする。
止まらない。
「キミ達……教えてくれ、せめて教えてくれ。知ってるのか、何なんだ」
「何なんだ、っていうのは……?」
「何って―――全部だ。今日起こっている、会場の、この―――」
杜上は両手をあげて、何かを表現しようとして、この、これだ、と対象がわからない説明をし、ついに額に手を当て停止し、何も説明できず、降ろした。
視線を床に重く落とし、上げる気力がわかない。
「この……全部だ。今日起こっている全部。 止め方を知っているってことは、あれがどういう事かわかっているんだろう?」
「……残念ながら」
『わたしたちにもわからない』
私たちもそうだ、何の説明も受けてない。
暴動者がおそらくは病気になっているという事も素人判断だし。
マネージャーとも会えないし―――連絡は取れたけれど、話聞いてくれない―――向こうにも何かあったんだ、
夢呼はそれも思考の端にあった。
丸根マネージャーは無事だろうか。
流石に何とか命をつないでいるこの状況で、すべてに気を回せるはずもない四人だが。
あの男に関しては、ある程度楽観的に構えていた彼女である。
観客席を挟んで向こう端の上階だ。
細い窓はあるのだが人影が見当たらない。
灯りがついているのだがここからでは内部の様子まではわからない。
ここからでは、わたしたちではどうしようもない。
音響室からスピーカーをいじっていたことは確かだ、だから私たちは今、生きている。
その部屋にはいたのだ。
少なくとも、人がいて私たちの声を聞いて機転を利かせてくれた。
不確定要素は多いが、あの狭い室内に、誰かが避難は出来た可能性―――それは高い。
私たちは此処で、ステージで釘付けになって―――そうして足掻くしかない。
助けを呼んでくる人がいるならば、むしろ音響室の方が出口には近いと言える。
ただ、今私たちに出来ることがあるから必死でやっているだけだ。
足止めが出来る。
それだけで―――あとは、訳がわからなくなっている側面も大きい。
この後、説明してくれる誰かがやってきてくれることを祈っているよ。
正義のヒーローとか、マジで来い。
今来い、遅すぎる。
「警察のおっさん、私たちはここでやらなければならないことがある」
目つきの鋭いギタリストが言う。
肩を出した腕を振り、弦にぶつけるとギュウ、と音が鳴った。
そのまま音程をゆっくり上げ下げする。
観客が揺れた。
「もしも音で止められないんだったら、あたし達も全速力で逃げてたけどねー?」
無邪気なドラムスがぎらついた大きな瞳で言う。
手元に一番近いスネア・ドラムから叩き始めジャアアアンッとシンバルで締める。
「こっちも説明してほしいわよ……でもここで続けていたら救助は来るでしょう」
救助されるまで我慢していれば
体温低そうなベーシストが片手で髪を抑え溜息をつく。
ドッドッと低音を鳴らす。
不意に七海は、ステージの床を見下ろした。
開始時にはきれいに掃除されていたはずだった。
だがもはや汚れに汚れていた。
ライブ開始までのやり取りだ、真弓の大立ち回りの際の。
暴動者は全員、いや全部といえばいいのか?
あんなものは。
ステージの外に落ちてもらった。
その際に引き摺って動かした者もある。
引き摺った血の跡。
暴動者との格闘ではついて、暴動者をステージ下に落としたりしてかすれた跡がいくつも付いているのだが、血の跡が光っている。
誰も掃除などできる状況ではないが。
「……」
また増えたように思った。
点々とした血の球が照明を受け光っている。
乾いていないのだ。
何か、新しい血が。
血が、新しく増えた……?
喝采が沸いた。
七海は弾かれるように視線をそちらに向ける。
避難した若者が最後の一人、男をステージの上に乗りあげさせ、転がしたところだった。
「たはっ―――助かったァああ」
つい声をあげて背中を肩をたたき合う若者たち。
嫌な予感がする。
そんな杜上の動悸は続く―――じわじわと強くなり、治まらなかった。
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