第十六話 観客たち 1


【11月29日 20時21分】 ライブハウス付近 路上


 街路樹の細い枝は、冬の準備を整え終えている。

 そこを風が吹き抜けていく。

 ビルが立ち並ぶその上に、細長い月が浮かんでいた。

 ほんのりと赤い。



 今夜は景色に違和感が、よく映り込む。

 男が二人、クルマ侵入防止用のパイプに腰かけ、話している。

 右奥の道路から、走る者が先程からちらほらといた。

 甲高い音はサイレンだ。

 ビルに赤い光が薄く映った。近い。


「またパトカー? なんか……騒がしいな」


 男はスマートフォンを睨んでいたかったが、流石にいら立つ。


「何だろう、事件かな。強盗とか」



 そうはいってもその場を動くことはない二人だった。

 繁華街で、小さな小競り合い、いざこざなら起こり得る地域である。



「あっち、なにある? あのでかい建物は、クラブ?」


「いや、確かバンド、ほら、キョクを」

「ふうん―――」


 男は、イヤホンはつけていない。

 だがふと、どこからか伸びる高音が鼓膜を撫でる。

 女の歌声が聴こえた気がした。



 ―――――――――――――――――― 




【11月29日 20時22分】 ライブハウス 観客席



「―――ぬんっ!」


 野太い息遣いが場内に響く。

 巡査部長の声だった―――その少し遅れ、投げられた女が床に背を叩きつける。

 びじゃん、と、どこか液体を多分に含んだ音だった。

 湿気シケって、湿って。

 その原因は血か、リンパ液か、他の色々な体液か。



 杜上は会場内を移動する光源に照らされる。

 さっきから丸ライトが自動で巡っている。

 会場の設備か。

 設備はまだ生きている―――。


 照らし現われたのは、しかしちゃんとした人間ではない。

 日が経ちすぎた果実を思わせる体色の集団だ。

 顔はしかめないものの、嫌悪感が沸く巡査部長。



「け―――警察のヒト!」



 ピアスを付けた茶髪の男が口をぽかんと開く。

 驚きながらも歓喜の声を漏らす。

 助けが来たのだと、警察が動いているぞと。

 若い男は、首を振る―――意図がよく見えないが、ああ。どうも周囲に知らせたいようだ。 

 彼はまだ、正常な生きている人間だ。



「マジだすかりっす、マジイカスっす警察のヒト!」


「なぁにがイカすだ、早く生きろ! 逃げなさい!」



 弾かれるように駆けていく男。

 一人の危機を救ったようだ。

 きりがないことはわかっている。



 いったん出ようと思っていた彼ではあるが、予想外に時間がかかる。

 人ごみの影響でまっすぐ走れないことも一つの要因だ。

 だが目の前で若者が襲われそうになっていたなら、助けるしかない。


 暴動者が周りに多い。

 普通の人間は少ないように思われた。

 幸いか、それは。

 確かに無事に逃げおおせた人間はいるということだ。



 そして、精神的なものもあった。

 警察のくせに助けてくんねえのかよ―――と、そんな非難の声は聞こえない。

 聞こえない。

 流石に言われはしないものの、常に背中にそんな声が投げかけられているかのような錯覚が、意識内にある。



 ……無理だ。

 全員は無理だ―――署から応援が到着すれば―――いや、それでもこの観客の数。

 署のだだっ広い敷地で草むしりを一人、やっているかのようなどうしようもなさを感じる。

 どうせまた生えてくるという状況でもあった。

 暴動者は減らない。


「庄司! おい―――庄司! いないんだな!」



 探す部下の名を呼びながら、彼は見回す。

 男の子を連れて駆けたところは見たのだが、あれから探しても、やはりもういない?

 脱出したのか。

 暴動者がのろのろと、天井を見上げ首が痛くなりそうな姿勢で歩いて行く。



 ♪ ああ 校庭で 風が舞って


 ♪ 土の色を 空に溶かしたら



 ……まあいい。

 いいんだそれは、それならそれで、奴が無事ならば。

 自分があとどうしてもやらねばならないこと。

 あとはに向かうか……!


 その時だった。


「あっ!  ぐッ……!?」


 激痛を感じ、片眼を絞るように瞑った杜上。

 眉間に太い皺が生まれる。

 歯を食いしばりながら、直下を見る。



 ―――右の、足首。

 杜上の靴のすぐ上、足首に前歯を、犬歯を、突き刺し。

 顎になおも力を加えている死骸じみた人物がいた。

 人物をやめたような虚ろな目。

 先程、自身が投げて床に叩きつけたはずの女だった。



 女が立ち上がろうとしなかったことで、注意を誤った。

 うつぶせに這いつくばり、彼の脚が目の前にあり、素早く食らいついたのだろう。



 杜上はその肩を踏みつけ、ぐいと転がす。

 足首から歯が離れた瞬間にも鈍い痛みを感じた。

 血と空気が触れ始めてから、鼓動が聞こえる。



「この……ッ! なん、噛みつきだなんて」



 息も絶え絶えに吐き捨てたが、激痛はずきんずきんと続いている。

 足首に心臓があるか。

 そう思うほどに、血流の感触を強く感じるのだった。



「ぐう、畜生―――餓鬼ガキじゃあ―――あるまいしッ」 



 口をぱくつかせながらも、呻く。

 怒りと、成人はしているであろうその女の野蛮行動への情けなさとが入り混じり、罵声を呟き続ける。

 片足を半分引き摺りながら目的の場所へと進んでいく。



「なんだというのだ、今日は……!」


 きっ、と視線を上げた。



 ―――-―――――――


 ♪ 教室で 合唱してもいい




 逃げて、観客よ早く逃げろ。

 心の中で叫びつつ、ギターの弦を搔きならす真弓。

 彼女も夢呼の意図を聞き、そうしてこの場で演奏している。



 ―――ああ、異常だ、めちゃくちゃだ。

 けれどこうして曲を開始してしまえば、不思議とそれだけに意識は吸い込まれ、夢中になれる。

 無我夢中。



 ♪ けれどあなたと 二人 

 ♪ あなたと二人だけ しか知らないような



 YAM7やむななの中曲のなかでも中高生に人気が高い『マイナーな曲』。

 今夜の客層は二十代以上が多いということで当初、構成から外した一曲だ。



 ♪わたしと あなただけ 間違わず 歌える――― 



『そんなァ マイナーな曲 ぅ』


 夢呼の声が伸びていく、どこまでも。

 メロディラインはまだ続く。

 だが予想外の事態が起きる。



 ステージに叩きつけられる無数の腕。

 死人の腕ばかりだった。

 煮こまれたような茶色だったり、反対に白かったり、肌の色から清浄さを失った者たち。

 健康さを失った者たち。

 そのうちの一人が、倒された。

 続いて、女が、男が次々と押しのけてくる。


「―――上げろ!」


「頼む!」


 観客だ。

 それも、暴動の犯人ではなく、まだ日本語を話せる観客が。

 大挙してステージ前の一部に、人ごみを築いた。

 視線は白濁していない黒い瞳だった。

 真弓は一瞬安堵したが、彼らの目は笑っていないことに気付く。

 刺すような


 ずるいぞ、どけ、出口は遠い、いいからどけ、助かる、ちょっとだけ、邪魔しないから、どけ、早くしろ、手を出せ、引っ張り上げろ。



 聞き取れるわけもない数十人の言葉が聞こえ重なり続ける。

 彼ら彼女らの意志は混沌としていたし悪意もあったが、伝わった。

 あっという間に暴動となる―――正常な人間の。



 真弓が事の成り行きを眺めるなか、七海は青ざめる。

 腕が震え、隣の弦を押さえてしまうことで外れた音が場内に鳴り響く。

 元より四人の置かれた緊張から、ミスは曲の随所にあった。

 だが外れたピッチは曲のシメをはっきりと乱した。



 ―――私たちがステージを使う。

 安全地帯から、精いっぱい避難をするよう促す。

 その判断を―――夢呼の判断だが、懸命に応援した。



 だが四人だけ暴動者のいない空間にいつまでも留まれるなんて、そんなことを許さない者たちがいた。

 道理に反する。

 不公平を許さない者、まともな思考回路をいまだ持つ、無事な人々である。

 集団は、少なくとも十人以上はいた。

 それと暴動者を押しのけ、食い止める者も。



 人の身長ほどではないが、登るには苦労する、低い階下。

 階下の彼らは目をぎらぎらと生命力で光らせ、生命を維持したいと訴え、助かろうとする。



 夢呼から見て一番近い男が、何度かジャンプした。

 両の掌はステージにつけ、飛び乗ろうと試みているのはわかった。


「…………っ」


 真弓はうろたえる。

 助けたい、そんな気持ちがないと言えば嘘になる。

 さっきからこの集団が観客席を走り、暴動者から捕まらないようにしていたのだということは推測できた。

 どれほどの右往左往だったのだろう。

 全員、息が荒い。

 夢呼は、ぴしゃりと声を張り上げる。



『待ちなっ 出口ならさっき開いたぜ、見えないのか!』


「そこまでが遠いと言っているんだ!」


 言いたいことも間違っていなかった。

 さらには映画館のように、出口へはやや上り坂となっている部分もある。



 四人はしばし沈黙をする。

 七海が、ゆっくりと顔を向けたのは、夢呼の背だ。

 ―――どうする。

 ここへ、ステージへ上げるだけなら---手伝いはしてもいいのでは。

 ねえ、夢呼。



 ボーカルはマイクを握ったまま動かない。

 ステージに集中する照明を受けて眼鏡が光り、その表情はうかがい知れない。



「何をやっとるかあ!」



 男の声が響き渡った。

 今度はなんだ。

 バンドの元へやってきたのは―――あれは、警察官?


 暗いがそのベストとライブ会場では浮いている帽子は濃紺である。

 無線機など、何やら身に着けたガジェットがごてごてと付随している。

 腕には、文字が途切れているが、『POLICE』―――警察の称号。


 がっしりした体つきの男性警官。

 ステージに上がろうとした集団も何事かと驚きの声を漏らす。

 流石の四人も注視する。



 緊張―――いや、緊張する必要はない。

 敵ではないのだ、安心すべきなのに。


「なにをやっとるかあ!」


 息を荒げて再び。その警官は私に声をかけた。

 自分の父親と年はは近いかもしれない、というのは夢呼の寸感。

 大きな声で―――あの暴動の中、ここまで来たのか。


『ライブの邪魔する気か、警察のおっさん』


 ―――で、あっている?

 夢呼は問う。


「ああ―――その通りだ。 キミ達、今すぐそれ、それをやめなさい! 危ないだろうが!」


「……危ない?」


「こんな時にそんな目立つマネ! 歌うのを」


『おっさん! 少し黙っててくれないかァ! YAM7やむななのワンマンライブに水を差さないでくれ! なかなかできないんだよこんな広いトコで!』


 夢呼が反撃を開始する。

 ……いや、反撃?

 会場内の暴動者が一斉に天井を向く。


『おっさんこそ危ないぞ! ホラあれ! 出口が見えないのかい!』



「そんなことは言われんでもわかっとる! 逃げろ! 逃げ―――、キミ達がまず逃げなさい! こんな時にそんな目立つマネを……常識で!物事を考えなさい!」


『なん……?』



 そのやり取りを眺めて愛花が不安げに視線をうろつかせる。

 両手に持ったスティックを中途半端に掲げたまま、私に助けを求めるような視線。

 よせ―――私に何をしろというのだ。



 真弓は思案。

 警察の人よ―――私たちの身を案じているのか知らないが、駄目だよ。

 もう常識が通用する場所じゃない。

 常識を捨てたライブは開始されている。



 一方の夢呼はその声帯でもって、いま現在も館内の暴動者を止めている。

 事実を高い位置からずっと見ていた真弓。

 把握している事情から、唇は笑みを浮かべてしまう。

 失笑を禁じ得ない。



『ようやく会場が盛り上がってきたところなんだ。 この一体感をぶち壊さないでほしいねェ!』


 指差す夢呼、それが格好いいと思ってしまった愛花。

 マイクがあるので声量で警察を上回っているずらがツボだ。



 真弓はまばたきを増やす、緊張からだ。

 夢呼、その言い方はどうなんだ。

 多分あの警察官、冗談が通じないぞ、もっとマジメに行け、しっかりとした口調を作れ。



 ……いや無理か、だって夢呼だし。

 マズいな、上手く言えないけれど、良くなる予感はしない。

 もう私がマイク変わった方がいいかこれ?

 真弓は状況をなんとか、そう―――なだめ、整えるために動こうとする。


「夢呼! 私が変わろう!」


『はあ!?』


 警察が喚いている間に、状況は動いている。

 集団に近付いていた、暴動者が杜上の方にゆっくりと向く。

 その隙をチャンスと見たのか、男女からなる二十人ほどの集団がステージに上がり始めた。



 七海はここまでの流れを泣きそうになりながら眺めていた。

 急に危機感を覚える。

 いけない、避難は、出口からにして。

 演奏に支障があったらどうするの。



 もしも機材―――アンプかシールドに何かあったら、スピーカーと分断されてしまう……!

 ステージから出口までは、遠い―――当然ながら。

 よじ登ろうとする者たち、それを指差し、我も続けとこちらへ向かうものもいた。

 そうなれば、先程よりも増えたと思われる暴動者を止めるすべはなくなる。

 私たちの安全が、観客の安全が、完全に消える。



「くっ……! この、余計な物事をよくも、まあ運んできてくれたわね!」



 何でこんな―――さっきまで、普通だったのにこの人たち。

 四人は困惑の中にいた。

 どうしてこうなるのか。


「逃げなさいよ……普通に!」


 今始まっているのは、なに―――これ。

 チームワークも何もない。

 無事な、正常な人間同士の、争い!?


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