第十四話 リハーサル通りに


【11月29日 20時17分】音響室



「なんで……まだそれを、 ……二曲目を、う、歌ってるのぉ……?」



丸根マネージャーは、音響室で瞳を目一杯に開いている。

その髪量はバンドの女性陣よりも、もしかすれば上ではないかという男性マネージャー。

冷や汗でぺったりヘアーである。



彼は見開いて乾いた眼球が震え、息を呑む。

流れ落ちた汗が冷え始めた。

震える。

暖房器具は稼働している室内だが、寒さはどこからか滑り込む。

そんなことを思う若手マネージャー。



そのままドアに明るい色の背広を押し付け、力の抜けた肩がずり下がっていく。

脱力……力尽きたという感じだ。



機材の音量調節をした。

初期位置では夢呼たちのいるステージ側も大きな音量を伴った。

大きなスピーカーだけでも八つある。

だがその前部音量を一部減らし、むしろ会場中央、後方の音量を際立たせる。

暴動者を、そうして引き付ける。



死者溢れる会場で、ライブ開始の一役をになった。

見方によっては、いや事実、彼は英雄である。



「危険、なのに、夢呼、キミは……!?」



英雄じみた彼―――そんな人間ではあるが優遇からは程遠い。

優遇はされていない―――なぜなら彼もいまだ危険の中だからだ。

現在も、予断―――許されない状況の中、腰を抜かしたような姿勢である。



夢呼たちのように暴動者を前にステージで対峙しているわけではない、だがしかし。

彼も逃げ道はない被害者の一人。

ドア一枚隔てた向こうに、奴らがいる。



丸根マネージャーの耳にはその唸り声や物音が時折り届いている。

今もまだ、抑えるしかない。

出来ること、行動は限られている。

音量系統の機材からまた離れ、ドアを背に二人で抑えているところである。

ドアを押す者は増えていないが、しかしあの連中の人数は減った気などしない。



女性スタッフが小声で言う。



「ま、丸根さん……リハーサルでやった楽曲がっきょくだから……じゃあないでしょうか」



そう言う女性スタッフ―――ネームプレートをちらり見ると、玉置たまき、首上で髪を結んだ三十代くらいの女性だ。

彼女もリハーサル通す時にここにいたはずだから夢呼たちのことは覚えられている。

新参ではあるんだけどね、YAM7やむななは。

ボクが宣伝した甲斐があったのだろうか、業界に覚えられている。

効果が出ているのならやっと一息つけるところだ。



それはそうとして、歌っている理由。

あまりにもシンプルで予定通りだ。



「リハーサル通り……ね。 ハ、ハハハ……」


戸惑いを隠せない、若手のマネージャーのそんな目の色。

実際どうコメントしていいかまるでわからない。

夢呼。みんな―――

本当にそうするつもりなのかい?

だとすればボクの想像もつかない―――遥か超えているよ。



―――――――――





♪ グラウンドの白線 背景に


♪学校の先生は 言ってたッけ



「歌ってる―――まだ」



呟いたのは観客だった―――。

いち観客として今日この時に来場していた男が一人、その足を止めそうになる。

迷いない歌声。

観客席の熱気に押されもしない。



先程の夢呼のマイクパフォーマンスもしっかりと聞いていた、聞こえていた。

それに関しては好感を抱けない、かけらもない。

正気か、頭がおかしいのかとも思った。

何故そんなことが出来る、間近で見て見ろ、この加害者を。



だがその加害者が口を半開きにしたまま、誰にも噛みつかず天井を見上げた。

自分はその横を走って来たのだった。

隙を生じた暴動者の横を駆けて抜けて。

何が起こったのか責任者から知らされていない、何もだ―――何がどうなっている。



そもそも責任者は今、どこに―――会場の責任者。

生きているのだろうか。

頭の痛くなるような出来事は続く。

生き残りはしたが気が狂いそうだ。



いまだ暴動の中、彼の声は当然のようにかき消され、二人、三人たくさんとその横を走っていく。

色んな背に、肘に、どんと押される。

衣服や身体の感触を受け、流されていく。



彼もまた、今日のライブを楽しみにしていた者の一人。

ライブチケットをお買い上げいただいた一人。

主に男性バンド『ドゥーン』のファンだった者だ。

今となってはその生死、安否は確認できない。

だが出演するバンドメンバーのうち、既に犠牲になった者はいる。



女の子四人、あまり知らない若いバンドだが、勢いがある。

やはり普段聞かないバンドと、思いがけない出会いがあるライブは収穫が多い。

スピード感あふれるアグレッシブなドラム、まるで今走ってくれと呼びかけているようだ。



そんな音楽ファンの彼も流石に常識弁える成人だ、この状況で曲に聴き入っているつもりはない。

自分も、走らなければ。

ここであのステージに近付くことは無理がある。

助かって欲しいという気持ちはないではないが、まず我が身だ。



立ち止まっている暇などない。

ステージ上にいるあの女の子たち―――確かYAM7ヤムナナっていう、まだ歴史の浅いバンドだったはずだ。

この騒ぎが見えていないのか?

そんなはずはない。


♪目移りするよ  好きなモノ たくさんあるよ


♪私のゴールはいつだって 変わってばかり



ゴールは一つしかない。

今はあの出口。

そこに向かってがむしゃらに駆けていくしかない―――!




―――――――




「ロオオオオオオオォ…………ッ」


灰色の身体が声を張り上げ、躍りかかる。

喰らいつく気だ、喰らう気だ。

獣の唸り声のようだが、人間が出しているので独特の間抜けっぽさが感じられる。




その声が、風切り音に飲み込まれる。

風圧、風の音。

それは人を投げたために発生した。


「ロッ…………オぼ」


背が床に叩きつけられる。

大外刈りだったが、相手が人外じみているため、感覚がつかめない。

平静を保つ―――心が乱されないようにしつつ。

不格好になってしまう。



投げたのは濃紺のベストを付けた壮年の男性。

会場からの通報で駆けつけ、この会場内でひとり、奮闘する警察官、杜上もりがみ巡査部長である。

がっしりとした体つきで柔道でもって立ち回る。



「……庄司ショウジ! 庄司いるのか!あのステージの子たちを止めろ、危険だ!」



幼い男の子の手を引き、駆けだした後輩を、視界では何とかとらえていた。

だがこの状況だ、追いかけることまでは叶わなかった彼である。



庄司は、あの子を助けたのか。

だが。

くそう、完全に見失ってしまった。



この危険地帯から脱出した者はいるようだ、大勢、いるようだ。

もはや巨大な密室ではなくなった。

閉じ込められたかと思われた自分も、逃げようと思えばそのルートはある。

可能だ。



状況は好転したようだが、しかしどちらが正しい。

すべては迷いながら進んでいく。

無線を操作する時間も惜しいし、命懸けである。



庄司は、この場から逃げ出したのか?

それも良いだろう。

あの年端もいかぬ子供だけでも救えたならば、上出来だ。

だが庄司、無理に救おうとするな、これは―――!



♪ 走った その先へ 今 これから



そして、今。

どこまでも伸びていくかのようなボーカルの叫びを聞いている。

歌を―――止めないほうがいいのか。

なんだというのだ、今日のこの騒ぎは。

全く、なんだというのだ今日のこの事件は。



「こいつら、平気で人を噛みつき……―――!?」



庄司は次に飛び込んできた男女に視線を移す。

暗闇にも慣れた今、動きだけで瞬時に判別。

それが暴動者かそうでないかは、わかるようになっていた。



顎を目いっぱい開いて突っ込んできた、それを身を引いて躱す。

暴動者が暴動者の背に突っ込んだり、足元に無様に転がったり。

ひどい有り様だ、暴力はあれど、こいつらの行動の単純さときたら。



だが、杜上もだ。

ドン、とまた背中に人の身体があった―――スペースは広いとは言えない。

いつまでも躱しきれはしない。




暗闇に慣れたが故に、視認できる情報も明らかになる。

奴らが床に人間を押し付けて何をしているのか。

全身にしがみつき、数人がかりで被害者の首や腕、肌が見えるところに顔を押し付けて何をしているのか。



口から水が跳ねるような音を鳴らし。

水は唾液であり血液であり、いや体液がすべて垂れ出ている。

のだ。



だが庄司、無理に救おうとするな。

これは―――そんなことが出来る事件じゃあない、状況じゃあない。

何もかもおかしい。

彼は走り出す。

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