第十二話 夢呼のねらい/七海のこころ




【11月29日 20時13分】



観客席の様子は夜の海のようだった。

視界下は真っ暗だけれど、それでも確かに動いている。

チケットを購入した全員が動いている。



あたり一面の生物が動いている。

すべてがしっかりと―――蠢いている。

黒々と、しかし波間の反射する月光のように、いくつかの色は見え隠れする。

観客の服装だ。



それに反して、私に降り注ぐ光は眩しい。

ライブハウスの照明は、特に演奏中ステージを際立たせる役目、設定になっているので、気づけば意識は上にいっていることがある。


あのおどろおどろしい風景を見ることは意識から弱くなる。

あまり観客席など見たくない、そのことは幸いした。

肌の切れ目から血液を垂れ流しつつ、顔からも垂れ流してそれをぬぐいとるでもなく、人に襲い掛かる。


―――もう、まるで動物のようね、犬か狼か。

―――悪いものでも食べたのかな。

―――病気になってしまった。



様々な思考が渦巻くのはYAM7やむななのベーシスト、七海の心中。

肩にかぶさる鳶色の髪、合間から覗く白い首は可憐だが、緊張から来る汗で首に鎖骨に張り付き、乱れつつある。

今日は演奏以外の様々な要素が重なり、彼女の思考は限界だった。



要素という可愛らしいものではない、事件でしかないのだから。

大事件だ。



「今日、ここに来たのは、間違い……」



誰にも聞こえない程度の微かなつぶやきが、出てしまう。

間違いだったのか。

今日が、間違いだった。

いえ、今日このステージに立つことが間違い、どうして。

どうしてなの、では、それは―――どこから。


この場に来なければ?

それが正解―――来なければ良かったのか。

確かにこの会場にたどり着かなければ、そう、こんなことにはならずに済んだ。



観客席から届くおどろおどろしいざわめき。

チューニングを間違った何かの楽器に聞こえなくもなかった。

いや、その音自体ならかなり恐怖は少なかった。

大勢の暴動者に、音量だけでなら対抗できる。

逆に言えば音量だけしか、対抗できる要素がない。



ベーシストとしてこのバンドに参加した。

それは私が決めたこと。

その時点では若気の至りとは言え―――高校生の頃とはいえ。

それは―――もしかして間違いだったの?

バンド名を決めた時、彼女は制服姿だった。



音楽をやりたいと思った人間にとって、苦難はいくつか想定していたものの、まさかこんな日に巻き込まれるだなんて―――命の危険とは。

結局、こんな場所に来てしまった。

私はこの時、演奏を止めるべきか迷った。

止めさせるべきか。

何をやってもどうしようもない。



なんとか食い止めることが出来るとはいえ、一時凌ぎの時間稼ぎ。

夢呼の叫びの本質は、結局のところそうでしかないわよと、自分の視線が強まった。

ボーカルの後ろ姿を睨みつける。

夢呼、それは良くない悲しい―――見苦しい―――。

アナタらしくもない。



声をかき鳴らして、あの脳漿が減っているかのような者たちを止めても。

何とか止めても。

夢呼―――。

あなたは



『えー …… 皆さんが静かになるまでに 三分と三十秒 かかりましたァ……… それ

くらいっ かかりましたァ ……へへェッ!』



声を出すか。

声か、それとも誰かがこのステージでスピーカーにシールドを差し込んだ楽器で演奏していなければならない。

そう、スピーカーと誰かが繋がらないと、この状況を食い止めることが出来ないのだ。



逃げないと。

でも、逃げないと。

やはりもう一度どこかのルートで逃げ出したかった。



確かに八方ふさがりで、もうどこもかしこも暴動、逃げ道などない。

その現実は一緒に見ていたはずだ。

一般客は侵入できないことになっている控室側であいつらがいた。

ならば、悔しいけれど、安全地帯はないと考えたほうがいいだろう。



正面も引き返す道も安全ではなかった。

それでもまだ何か探す。

何かないか。そんな思考、出口の捜索だけはずっと続けている。

時間と共に暴動者の位置は変化する、もう移動して。

そんなことは在り得ないとわかってはいるが、視線を動かす。

あの死体がいない場所を探し続ける。



だって、みんなが死んじゃう―――同じバンドの。

私のずっといた場所。



せめて自分だけでも助かりたいとの想いが、沸く。

……いえ、駄目ね、なんて嫌な考え。

というより、その方法でも―――無理だ、どこにでも奴らは、いる。



『人の話を ちゃああんと聞ける そんな感じの大人になりましょう』



声を聞くと安心する。

夢呼と出会ったことを、後悔などしてはいない―――けれど今となっては。

過去を探る。

だって、だって、彼女と出会わなければこの舞台に、今日来なかった。

危険な死地に飛び込まなかった。



このボーカルにバンド誘われなければ、あるいは。

……駄目よ、駄目だ、いやなほうにばかり、私は考えがいって―――こんなの、どうして、私じゃない。

自分の思考が、まるで光射さない方へ。

絶望に囲まれていることが、精神面に効いている。



ふと、私の位置を振り返った夢呼。

背中を睨んでいたのがバレたのだろうか。

視線が合った。



彼女はこんな時でも―――笑み。

この状況で強がる、夢呼もそういう女子か。

まあ、バンドを組むような女だ、何かしら跳ね返りのような性質を持つのがよくいる。

だけれど、こんな時で強がり?

流石に気分が良くない―――駄目よこれでは。

むしろそれだけ、気味の悪さしかないだろう。



観客を見て見ろ、と。

夢呼の僅かな視線つなぎだけで、それはわかる。

ずっと彼女を見ていたから。



観客―――あの、見たくもない、楽しくもない暴力の連鎖ね。

あれがいったい、何なのよ。

何を見ているの。



観客が、病気になって、病気のようになって。

人間の形のまま、何かまったく違うになってしまったよう。



変化したことはもうわかっている。

状況が徐々にわかりつつある。

普通の人間が―――殴られてか、どうかは知らないけれど、ああいう風に変わったのだ。

おそらく短時間で、今夜のことだ。



彼ら彼女らは噛みついていた。

その行動は一人や二人が、ではない―――団体で。

咀嚼し、嚥下えんげしている様子が嫌でも目に入った、見えた。



各観客、観客が逃げ惑う。

逃げ惑っている人もいる。



恐怖を感じ、

襲われないように、引っかかれないように、噛まれないように、そんな人たちは大勢いる。

たくさんの、人がまだここで。


『一曲目 を こんな大きな会場でェ ッ 』



反応し、視線を上げる―――背筋が反った。


七海は状況を知ってはいたが、知っているつもりだったが、理解しようと努める。

今やっていること。

何か意味があるの―――それとも、意味などないのにやっているの?



普通の人間のようになっているのか。

つまり、やけになって意味もなく続けている。

やけになって今までいつもやっていたことをして。

何も考えず―――思考停止のような。



だが夢呼の歌、いや今はマイク・パフォーマンスだが―――が、鳴り響いている間。

加害者だけを、止まって空を仰いで天井を仰いでいることに気付く。

それが音の性質、音楽の性質。

細かい理由はさておき、いま健常者だけが駆けだして、逃げる隙を作れる―――。

ただの一時的な足止めじゃあない、それで終わらない。

観客を、救える。


『一曲目 を こんな大きな会場で出来るなんてッ こんはじッ なことは――― あのぅ 初めてですッ』



ここで噛むのは流石に笑いそうになってしまう。

夢呼。

そんなことを思いつつも、天国に続くかのようなあのドアから漏れる光、そこに殺到する人たちを見つめると、不思議な昂ぶり、高鳴り。



今はまだ無事な人が、移動している。

その先は何カ所かあるが、出口だった。

うち、一つが開いている。

一曲目の時にいつの間にか開いていたドアから外の光、照明が煌々と漏れている。

綺麗だ。

地獄からの脱出口と言っても、過言ではない。



『ああー ぁあ ゴメンナサイ 緊張しちゃってます! ますねぇ………』



声を伸ばしていく……会場が全員この声を聞くように。

暴動者たちを夢中にできるように。

その意図が、生きている私にはわかった。



私はそんな夢呼を横目で見つつも、軽く弦を弾く。

ぼんぼんと、低音が、小さい音ではあるが場内に響いていく。

音は響き、しかし何回も跳ね返ってくることはなかった。



重要だ。

うめき声を上げ続ける暴動者のその動きを止める手段であることは事実だった。

たとえば真弓がまた立ち回って百人組み手をするよりも、現実的である。

これが鎮圧。

鎮圧のためのバンド活動、バンド演奏。



どこかのテレビで見た覚えはある、そう七海は回想した。

いつだったか、自宅で流れていた国際関係のニュースだった。

音響によって、対処する。

そういう音響兵器でテロだかストライキだかを食い止める―――けがはさせずに、動きを止める。

高圧の放水と併用されていた。



彼ら彼女らをひきつける―――生きるために。

会場内で、私たちがやっていることはそれに近いのか?



暴動を起こす狼藉者は会場にたくさんいる。 

それは事実だ、紛れもない事実だ。

そして暴行は暴行を呼び、次々と連鎖している。

加害者の数が増している―――感染。

感染している。



『最初に言ったけどね このライブはァ 自由参加だヨ……』



夢呼は目をつぶって笑い声を漏らす。


『だから生きたいと思っているヒトは帰ってもいい です!』



もいるのだ。

常人の、健康な、助かろうとしている人たちだ。

逃げようとしている人たちだ。

夢呼の発言の前から、彼ら彼女らは行動を始めていた。



損傷を抱える暴動者は、皆聴き入っている。

正常な聴覚、正常な思考回路を捨ててしまった者がかなりの数に上るだろう。

私の見立てでは、音は聞こえるものの、目がほとんど見えていない。

そういえば会場は暗い―――昼間であればまたちがうことになるのだろうか。

奴らが正常に私たちを睨む日が来るなんて、見ることが出来るなんて、そんなのは果てしなく勘弁だけれど。



「なん……てことを」



夢呼、あなた、なんてことを。

YAM7のコード進行をその華奢な双肩で担ってきた冷静なベーシスト。

その手が震えだす。

いま夢呼の行動、そして自分がやっていることの意味。

自分が手伝っていることの、思想を彼女は理解していく。

夢呼は確かに時間稼ぎをしている。

だが七海の思惑とは、やや違う意味を持った。




『今日も今夜も! アゲてイけよお前らぁ―――ッ!」



不気味なうめき声の隙間に、確かにいる。

何十人かはわからないが、間違いなく脱出者がいた。

煌々と光が漏れた扉から、雪崩出ていくのが見える。

その背が。

男も、女も。

元気に飛び出していく。



歓客のことを、考えている。

会場に集まっている、まだ無事な人を。


……! つもり……で……!」


助けるつもりで。

演奏をする。

そしてその後、夢呼が言った言葉に耳を疑う。

意味も、疑う。


『―――どっちで死にたい?』



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