第七話 落ちていたマイクは


「キミ―――、キッ……ちょっと、ちょっと来なさい!」


「えっ、あの……」


 慌てたため、肩をはたくような動きになってしまった。

 直ぐに腕をつかみ、男の子を引っ張る。

 不格好に、弾けるように走り出す二人。



 若い巡査、庄司は思った。

 移動だ―――慌ただしいことだが、この現場、歩みを止めると安全は保障できない。

 格好の的だ、噛みつかれる、組み伏せられる。

 そしてそのあとは―――!

 離れた場所にある、人ごみを見てぞっとする庄司。

 単なる人ごみではない、人間が積み重なって全員が蠢いている。



 運のいいことに余所見をしていた暴動者の背を走り過ぎる。

 暴動者やつら、その気になって走れば、逃げることはできる。

 全力疾走にはついて来れないらしい。



 周囲は、人間が衝突するにぶい音が絶えず響く。

 観客がもう少し少なければ危なかった。

 逃げ道に使える障害物が少ないという事となるのだから。



「―――噛まれるな!噛まれたら病気になる!になる!!」



 観客の誰か―――男の声がする。

 誰かが叫んで注意を促している。

 叫び声でかき消されそうだが、必死になって声をあげているのだ。

 鬼気迫る状況で声を張り上げていた。

 噛まれたら―――?



「噛まれたら病気になっちまう!俺は見た!」



 男は暴動者に追われ、駆けている。

 やがて遠くに見えなくなっていった。

 顔もほとんど見えなかった男の、その情報に関して、真偽は。

 あいまいな情報だ、庄司は半信半疑であった。



 その若者もパニックになってあることないこと、よく確認もせずに喚いているのかもしれない。

 仕事柄、頭がおかしいのではないかという連中とも関わる彼であった。

 緊急時、気性が荒くなるのは自分も例外でなかった。

 心臓がばくばくと鼓動して、し続けて、その興奮が治まる気配は無い。



 だが、とにかく。

 噛みつかれるのはマズい。

 庄司は状況を間近で見ていた。



 噛みつかれた人間のなかには、床に倒れて上手く起き上がれないものもいる。

 麻痺しているのか。

 それとも絶えず逃げ走ってくる人間に連続で踏まれるため動けなくなるのか、その両方。

 そのため一度も噛まれないように注意した。



 一人の暴動者に噛みつかれたら、周囲にいる他も来る。

 そうなるとまずい。

 多くの暴動者に、体重に、かぶせられて身動きが取れなくなる。

 そんな人体の山ともいえる様相は、この会場に一つや二つではなかった。



「だ、だれ……? あの」


 この男の子の声がぼそぼそと聞こえる。

 声がうまく出せない可能性もあった。

 彼もまた暴動者のように―――いや、違う、それは違う。

 触れればわかる、小さな子供、普通の子供―――彼は正常だ。



「心配ないよ。私は警察だ」


 心配はないと言い切ったあと、目の周りにじわりと汗がにじんだ。

 そんな気がした。


「ついて来なさい」


 その子の手を引き、早歩き―――、蛍光グリーンのランプが見えた。

 EXIT―――出口。

 避難路へ、続く道。

 まだ距離がある。

 目の前に人ごみがあり、それも横に伸び、端が見えないほどの規模。

 たまらず、立ちどまる。



 この小さな子だけでも助けることは出来ないだろうか。

 なんてことだ、この会場は音楽ファンが集まるとみられ、子連れは極めて稀だが、こんな子がいる可能性はある、あった。

 大人は―――。


「キミ、お母さんは!?」


 どこにいる。

 どこにいて―――いや、いたところでどうする。

 この子の家族、母親と、父も来ているかもしれないが、無事なのか?

 この状況、私一人で二人も、二人以上?を助ける余裕などあるのか?

 私一人で……。



「部長?」



 言ってから背後を見る。

 少し離れたところで乱闘が起こっているのみ、あとは暗闇。

 ステージから届く微かな光で、頭や肩が薄く白く光っている。



 ……はぐれた。

 小さな男の子を発見した時から、私の視野は狭まった。

 そんな横顔に高い声をかける者が。


「おじさん、どうしたの、迷子?」


「……私はまだ若い。お兄さん、でお願いするよ、坊や」


 はぐれたのは痛い。

 ……いや、先輩は自分よりも経験豊富だ。

 困っている顔を想像するのも難しいくらいに―――その心配をするのは、賢くはない。

 自分とこの子を何とかできるだろうか。






 ――――――――

 ――――――――――――





 これはもう駄目かもしれないねぇ。

 ステージ中央で立ち尽くし、夢呼は思った。

 周りに障害物がない、そのため見渡せる、安全地帯だ。

 このステージだけが、そして周りのルートはすべて閉ざされている。



 駄目だと思っていた。

 終わると思っていた―――会場で無数の人間が行う終わらない暴力行為、ステージから控室に逃げても、は歩いてきた。

 さあ、四面楚歌だ。

 どのルートも見通しが悪く、完全に無理ときたものだ。



 諦めたくもなる。

 たしかにライブ空間では―――今回の舞台はそれなりに観客も羽目を外すだろうと思っていたが、自分の命の心配まですることになるとは。



 果たして生きてここから出られるか。

 死んでから出るか。

 そう、あの暴動者―――彼ら彼女らは死んでいるように見える―――とは私の感想だけれど。


 人間なのか。

 健常な人間とは動きがちがう。



 そんななか、私は何か秘策でもないかと彼らを見ていた。

 ステージからだから眺めるような距離だけれど。



 その呆然と口を上げたままうろつく彼らを。

 唾液のような感覚なのか、血を顎にまで垂れ落とす口。

 うつろな目。

 その後ろを、何人かが逃げていく。

 この騒ぎから脱出するため。


「……?」



 逃げていく彼らを、追いかけない。

 呆然と口を開けたまま、何もしない―――暴動者。

 動きが止まっている。

 よく見ると首を曲げ頭を上げ、天井を見上げている、仰いでいる。


「あれ?」


 愛花も、声を上げる―――気づいたようだ。

 なにかが起きたことに。

 いや置きなくなったのか。

 暴動がキャンセルされた。

 暴れていない、が、何人か駆けていくのが見えた。

 敵から離れようとする。


 なにか音がした。

 床にはマイクが落ちている。

 拾い上げると、コっ―――、とわずかに、しかし会場中に音は響き渡った。


 観客を見た。

 一人、茶髪に染めている若い男がいる。

 若い男だった―――のか。

 今となっては暴れる病人だ。



 その瞳は白く濁り、大理石のようであった。

 だらしなく開けた口から、血の色が覗いている。

 そしてそのまま呆然としている。

 かと思うと、ふ、と視線を目の高さに戻す。

 のろのろと、歩く。

 再びざわつき始める場内。



 私は一度、見上げて天井のパイプ類を眺める

 あれを見ていたのか?

 学校の体育館天井にも似たあの、普通の―――

 無数の暴動者と天井と。

 見比べる。



 ―――




 真弓は切羽詰まっていた。

 脱出方法を次々と思考しては、却下するの繰り返し。

 答えはない、出ない。


 ―――私の目から見て、夢呼は黙って立っているだけに見えた。

 そうするしかない。

 だがよく見れば、眼下の観客を見つめている。

 何をしてもそこに希望などない。

 あまりにも壮絶な絵なので、感覚、感情が狂ったのかもしれない。

 気が狂ったか。



 私がこの時心配したことがある。

 夢呼がとち狂って妙なことを言い出さないかどうかだ。

 つまり、そこを行こうと。

 控室までの通路が駄目だったから、観客席を走って突っ切るしかない、などという。



 私にはとても無理だ。

 発想は沸いたが、その実行は在り得ない。

 それが私。


 今ここで何かを言い出すとしたら、この四人では夢呼なのだ。

 やりかねない、そして愛花が素直に頷きでもしたらと思うと、恐ろしいことになる、気が気でない。

 今は動かない方がいい。

 まだいい、時間はあるかもしれない、暴動者が上がってきたらまた私が倒せばいいんだ。

 そうそう数はいないからまだなんとかなる。

 足元を確認する―――靴はともかく、動きやすい服装であるのは幸いだろう。



 下手に刺激をしなければいい……。

 ここで、控室廊下を通ってきた奴が、観客席にゆっくりと移動し、ずるりと落ちていった。

 大勢いる方に混ざろうっていう魂胆か?

 喰らいあっている。

 そのあと、空を見上げた。


「なん……だ?」


 思わずつぶやく私。

 会場にひびく音があった。

 なんの音なのかはすぐわかった―――伊達にバンドマンやってない。

 マイクから出た音だ。

 マイクのすぐ近くを踏んでいたらしい。

 誰か?

 ステージのどこかにあるかも……夢呼の足元にマイクが、あって。



 かすかな鳴音を起こした。

 だが妙だな、この状況のステージで、マイクスタンドはあったか?



 よく見れば予定とはかなり違うところに倒れていた。

 前のバンドは、予定通りに事は運ばなかったのだろう―――すべてではないが予想できる部分もある。

 パフォーマンスの最中にこの騒ぎは始まったのか。

 前バンドのボーカルは今、行方不明だ。



 マイクは転がっていて。

 夢呼が近くを踏んでしまったのだ―――それを手に取り、持ち上げるボーカル。

 口元に近付ける。

 平常過ぎる動作。



『あ ―――あ』



 まさかと思う間もなく、その女はやりやがった。

 声が会場中に、それは響き渡り、山びこのようだった。

 これだ、さっき聞こえたのは会場の音響設備からの。



 暴動者たちが顔を上げる。

 なんてことを。

 なんてことを―――ここでそんな目立つようなことをしたら、連中は。

 自分のバンドのメンバー、そのあまりの愚かさに怒りが沸いた。



 そして暴動者はといえば、じっと睨んだのは、夢呼ではない。

 宙をぼんやりと見上げ、右往左往。

 その間、音は会場中に響くようになっている。



 音に反応している。

 既に絶命したかのような暴動者ではあったが。

 会場の観客席内にいる暴動者が、その主行動たる暴動を取りやめ、全員が空を見上げている。

 当然、空などはなく―――天井の裏面、簡素な金属部を。



『丸根マネェ、 音響ォオオオ―—―ッ!』



 いつも軽薄な笑顔を崩さないボーカルが、マイクに向かい吠えた。


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