第一話 控室/会場大ホール1

 その三十分前―――【11月29日19時30分】




「いやあ、テンション上がるよね。 よくもこんなステージにまで立てたもんだよ」


 ボーカルの夢呼ユメコが、楽屋でぽつり呟いた。

 いつものゆるんだ頬から緊張感のない笑い声を漏らす。

 周囲を見回し、幾つかの文字列に目を留めた。

 赤い無機質な壁だったのだろうが、今はそこに様々な横文字が並んでいる。



 部屋の雰囲気は無機質だった。

 ほとんど飾り気のない楽屋、灰な金属製なロッカー。

 しかしある特定の壁はにぎやかだ。

 ステッカーが貼ってある……それも一枚や二枚ではない。



 多様なフォントで張り付けてある、大量の文字列。

 縦に、斜めに、無差別に。

 すべてではないが、彼女にとって見覚えのある名前もある。

 どうやら全てがバンド名を示しているようだ。

 感慨深さを感じつつ、それを眺める。



「おぉ~、『THEBEYONDザ ビヨンド』も発見~」


「夢呼……あんた緊張とかはしないの?」


「してるよ? 緊張して、ここで緊張していたら―――キリがないよね、これからのことを色々考えるとさ―――」


 今日も演奏できるのがたまらない。

 このライブはとても楽しみたいが、終わりではない。

 もちろん終わりではない―――あくまで途中経過。

 それが楽しくて仕方がないと出も痛げに、眼鏡の奥の瞳を光らせる夢呼。



 今夜行うライブは今までよりも規模が大きなことは確かだが、それでも最終目標ではないという。

 にやけるボーカルに対し、ギターの真弓マユミがぎこちない笑いだ。

 長身ですらりと伸びた体つき、髪は染めていないがロングの髪は墨で描いたような力強さがある。



 本人の心の持ちようはまた、別であるが。

 いつも使っているパシフィカはまだケースに収めたまま放置されている。



「私はへらへらとできない」



 なんならうんざりしているくらいだ。

 ギタリストの瞳は危うげに揺れている。



 こうしている間にも、本番は迫る。

 私たちの出番は着実に近付いてきている。

 観客の大群と鉢合わせする。

 時限装置の秒数、分数は確実に短くなってきている。

 瞼を閉じれば導火線が見えそうな気持ちだ。



「……ここまでデカいと、失敗できない」



「あっはは!んもう―――マユミ、ここまでデカいとこに来れるだけのことをやって! やっておきながらどうした?なぁにが失敗なんだか!? 完全に成功だと思うけれどねっ」



 高笑いの夢呼、そのテンションの落差。

 それを合わせようともしない。



 壁から視線を外し振り向くボーカルが、真っすぐ見据える。

 拳サイズほどありそうな丸眼鏡に、ところどころ跳ねたショートカットが散らばり混ざるような髪。

 平時から楽観的な笑みを湛えている女だ。

 楽しい時は笑っているし、辛い時でも笑えるように行動を起こす、のがポリシーなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。



 初めて彼女のボーカルに合わせた時から、

 その時から―――いや、初めて会った時からか。

 その笑み、不敵な態度は彼女のトレードマークだ。

 もっとも、ライバルと言える他バンドがいなくなった今、敵は室内にいない。



「このライブハウスのキャパシティは2000人―――ウチらにとって、これは多い?少ない?」



 ああ、スタンディングで、だったっけ客席数じゃなくて―――と付け加える眼鏡の女。

 会場にだってはいない―――。

 そんなことを、不敵な女は言う。



 黒髪は押し黙り、重たげに腕を動かし、肩を抱く。

 その指だけが動き―――弦を押さえる練習か、それは。

 練習でもなく、自分を落ち着かせるためのルーティンかもしれなかった。



「………いや、多いよ」


「でも再生数なら300万いったことあんじゃん」


「それはそれ。……『聞きに来てくれる2000』それは……その人数は、多いよ………!」



 昨年の四人だったなら在り得ない快挙だった。

 それが昨年で、今年も、何故こんなことになっているのか真弓にはわかっていない。

 ただ、ネットでたくさん曲をアップロードしているうちにそうなってしまったというだけ。

 ライブハウスという舞台での行い、ステージに立ったことは決して多くはないだろう。

 それを不安と取るのがギター、嬉しさが勝り、ひたすらに笑うのがボーカル。


「あっはは!」


「マユミ? ウチらを見に来た子ばかりじゃあないのよ」


 ベースの七海ナナミが柔らかい流し目を向けて言った。

 垂れ目に、ふんわり鳶色の髪が僅かに揺れた。

 全体として上品な雰囲気を漂わせている。



 彼女は戸惑うギタリストに助け舟を出したつもりだろう。

 たしかに自分たちのバンド以外を追いかけているファンも多い。

 ここは自分たちのホームグラウンドではない。

 まあ敵地でもないが。


「あぁこう、練習しよ。 死ねる。 駄目だわ―――落ち着かないわ」


 相棒をケースから取り出した黒い長髪の女。

 ボディのくびれを右足のつけ根に乗せたあたりで、彼女はそれでも、弾くことを躊躇した。

 リハーサルの時に音は合わせたので、少しでも変えたくない。

 そうして起こした流れ、結局はかなり手を抜いた。



 力はほとんど込めず、遊ぶように弾かれたメロディ。

 隣で聴く夢呼にもなんの曲だかわからなかった。

 それでも有名な曲かな―――どこのバンドかに似ているかも、等と考えてみた。



 私は大舞台の不安の中にいる。

 自分たちの番、その直前になって慌て、平静さを失っているのだろうか自分は。

 いや、ボーカルがちょっかいをかけてくるから、それが面倒でこうしているだけだ。

 状況をわかっているのか、本当に。

 真弓は自分にそう言い聞かせる。



 ……準備はした。

 機材のことも、技術面でも、準備してきた。

 リハーサルは行なった。

 スタッフや、今日参加している他バンドの人たちはおおむね人格者で、別段問題も不和もない。

 比較的新顔である自分たちを可愛がってくれてもいる。

 かなり順調だ、わかっているんだ。



「何事も……起こらないといいけど」




 ――――――

 ――――





【11月29日19時38分】

 ライブ会場 大ホール



「すごかったねー新曲のお披露目」


 ライブ会場にやってきた一般人組、二人は喋っていた。

 今しがた男性グループの曲が最後の曲を終えたところだ。

 髪をゆるくカールした女が、ステージを後にしたバンドの感想をなんとかして言葉に表そうとする。


「人気絶頂の『ウィンチェスター』だからね! でも次はいよいよだよね、もー来る、もー来るよ」


「イントロ!イントロがもうヤバかったもん。ベストかも。この日を待っていた甲斐があった!」


 ひたすらにやばいやばいを連呼する二人。

 曲の魅力を言語化、もしくは説明はできないもの、互いの声色だけでテンションは共有できていた。

 同じ曲を、ライブを体感した。

 故にお互いに言いたいことはすべて理解できた。



「あたし、飲み物買ってくるから、ユキちょっと待っててね」


「うん!気を付けてね」



 飲み物は持っていたはずだが、もう無くなってしまったのか、飲んだのか。

 そうなのだろう、叫びすぎで喉が枯れそう、などと喚いていた相方を目にしていた。

 拍手した掌、一日が終わるころには腫れているかもしれない。

 周囲にひしめいている観客も、全員同等の高揚を感じていた。

 そういって二人が別れた後だった。



 手持無沙汰に、周囲の雑談を聞いたりする時間がしばらく続いたユキ。

 時計を見る―――妙に長いと感じた。

 見回してもちかくに彼女は戻ってくる気配はない。

 次のバンドの出演は何分後だったか。

 私がいる場所がわからなくなったか―――長いな。

 なにげなく辺りの楽し気な雑談を見回している




 ど、とサンドバッグを叩いたようなくぐもった音が聞こえた。

 おどろき何事か、と振り返る。

 と、思いもよらぬ光景が飛び込んできた。

 男と女が密着している。



 ふざけ合っただけ。

 それだけだと―――、目にした彼女はそう思った。

 暗がりでもみ合っているさまは、最初は男女間の人目憚れる何かかと思って、なんともTPOを弁えないカップルもいたものだと、赤面するユキだった。



 ライブで上昇するテンションで突拍子もない行動に出る連中が同年代にいることは、多少なりとも予想がついていた。

 まああるのだろうな、と。

 だが最初の接触が、いささか体当たりじみた動作だったのが、違和感として尾を引いた。

 あんなこと、なんというか、痛そうだけれど……。

 女の人、大丈夫かな?



 女の方が、首から黒い液体を流して天井を見上げている。

 首が、異様に暗い―――このホール照明の影響で?

 のろのろと、滑り落ちるように床に伏した。

 あるいは崩れるように、か



 獣のように歯をむき出しにしている男。

 その服の胸や腹に血の跡が残っている。

 ぼたぼたと、今もしたたり落ちている。

 そこで異常性に気付く―――異常が、数メートル先で起こっている。



 口元を両手で抑え硬直したのはユキだけで、周囲の人間はステージの方を向いている。

 もしくは手元の光る画面をいじっている。



 助けを呼ばなければ……ケガをしている、大きなケガをしている。

 いや、助けというより……?

 首にはっきりと見えたあの大きさの傷口、損傷の状態では。

 既に、し、死……?



 赤面から一転して血の気が引いた。

 みるみる青ざめる。

 そして後ずさる。

 予想だにしなかった事態に混乱する。



 場内で異常に気づけた者はまだ少ないのか、左右を見回しても心情を共にする者はいない。

 次のバンドの演奏開始準備には時間があり、皆スマートフォンを眺めたりしている。



 どん、と背中を押されたので振り向く。

 ぶつかった男が早口で謝罪するが、すでに彼女は駆けだしていた。

 精神的に背を押された状況だった。


「はあ―――はあ、」



 何、何なの。

 どれくらい移動しただろうか、見慣れた友人を、視界の端に捉えた。

 髪型を見間違えはしない―――。

 途端、自分の表情がやわらぐのが自分の意識でも感じた。


「ああ!ユリコ、探したのよ、遅いってば!私の場所、わからなく」


 暗くて表情が見えない。

 俯きがちだが、自分に返事をしない、どころか反応も。

 床に目を向けている。


「ユ……ねえ!ユリコ……ッ さっきっ…… ヘンなことがあって……」


 途中で息が詰まった。

 口が、いや鼻も。

 鼻に痛みはないが、何だ、この悪臭は。

 近くに何か、生ゴミのような―――?



 友人の手から、何か液体が垂れていることに気付いた。

 水は在り得ない―――濃い色の液体だった。

 いや、よく見れば赤―――。



 俯きがちだった彼女、だが見つめる先は床ではなく、そこに伏している何者かだった。

 垂れた液体の先、床には倒れた人が、痙攣している。

 状況がまったくわからない。

 これはいったい―――この人と、何があったの?

 友人の顔を、いま一度見た。



 ステージから届く淡い光が一瞬だけ舐めると、鼻と口のあたりを血で染め、剥いた歯の隙間から半液体状の何かが―――嘘だ、こんなの。

 唇の端から垂れ下がったのは肉片だった。

 事態に戦慄する彼女に、友人だった者は歯を剥き、それを先端として体当たりをした。



 会場内ではやがて、悲鳴が連続した。

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