Living Dead Live
時流話説
序章 ライブ会場から脱出せよ
暗闇に漂うのは人の匂いだった。
いささか濃すぎる人間の匂いだった。
人間の汗や血の匂い。
体臭、いや体内までひっくり返して被ったような空気の中に、私はいる。
私は、小さな男の子と向き合っていて。
幼い彼と目の高さを合わせようにすると、自然、しゃがみ込み膝が中途半端に曲がった姿勢となった。
丸く赤いライトがその中を細く照らして。
赤、青、黄と変化していく。
それは信号ではなかった。
ライブ会場である―――車道はないのだ。
ライブ、そうライブ。
音は暗い空間に溢れる。溢れている。
ステージの脇に設置されている演出のための機材が、正常に稼働している。
あるいは正常なのは機材だけ。
そうとも取れて滑稽だった。
ひときわ強い白が天井から降り注ぐと、大勢の観客の存在が映し出された。
まばたきのようなもので、すぐにその、眼孔から転がり落ちそうに飛び出した瞳は闇に消えたが。
ホールか、フロアか、行き慣れない場所は呼び方がわからないものだ。
急いでこの会場に駆け付けたため、地図には最低限にしか目を通していない。
ほとんど道に迷っていた。
進むのが困難なほどに、人がひしめき合っている。
漂うスモークが光を柔らかく受け止めている。
細く頼りない光源は、真夜中の海に光る灯台を思わせる。
その中で、ステージ上の長身ギタリストが黒く浮かび上がった。
会場に音を通り越して振動が響き渡る。
私の肌も叩かれる、力強いリフだ。
黒髪が頬や首筋に張り付き、表情までは窺えない。
白いライトの逆光でその奏者の輪郭がわかり―――女だ。
膝丈のスカートから伸びる脚が、男の自分から見ても長く感じた。
彼女の腕が、弦を、そして会場をかき鳴らす。
ホールにひしめく観客が一斉に反応し、重低音でどよめく。
歓声とも溜息ともつかない声だ。
……そういう表現にとどめておこう、私は今それどころではない。
「キミ、立てるか?」
私の腰くらいの身長の男の子に、そう言って呼びかける。
彼の両肩を持って、無理にでも立たせる。
返事はないが、その黒い瞳で私をじっと見据えた。
お母さんはどこにいる?と問おうとしたが、場外に出てから探してもいいと判断した。
今この場においては、まずは自分たちのことを考えなければならない。
そもそもこの中から人間を探すのは無理だ―――見えるわけがない。
照明、視界が良くなることは期待できない。
大盛況だ、人数の問題もある。
今この人数の中から探すのは不可能だ。
たとえこの幼い子にとって重要な人―――肉親であってもあきらめなければならないものはある。。
このライブ会場を後にしなければならない。
出入り口に向かって、歩調を早め、歩幅は今人生で一番ながくなるように―――。
走ることができない、焦燥。
かなりの規模の会場内、大ホールだったが、運よくだろうか、周りと多少肩をぶつける程度で、出口に迎えた。
白い光がステージから点滅する。
点滅。
私が通り過ぎた隣の女。
鼻から血を流していた。
その汚れを恥じる様子もない。
音楽に聴き入ったように、その瞳には力がなかった。
早歩きを続けていると、また光が瞬いて、通り過ぎる真横の男を照らした。
光がその肌を撫でる。
若い男は頬をケガしていた。
日常生活でついた
誰かに殴られたのだろうか、今のこの会場ではあり得ることだった。
その男は傷の手当てをしようという意志がその白濁した瞳になかった。
演奏に聴き入って両手をあげている。
青紫の光が瞬いて過ぎる。
観客の一人が―――女だった。
口から顎にかけて血がべったりとついていた。
視線は何故か天井に向けて、まばたきを忘れたような呆けた顔だ。
関節部だけ死後硬直を起こしたかのような身体の動き。
彼女は壊れそうな動きで、腕を上げていく。
周囲と同じように両手を高く上げている。
周期的な閃光に照らされて、宙を掻くその手が、溺れているかのような動きだった。
私はその観客から離れるように、男の子の手を引いて早歩きを続ける。
彼の体重、おぼつかない足取りを右手に感じながら。
一刻も早くこのライブ会場から抜け出さなければならない。
ここは危険であり、奇怪な状況だ。
叫び声は意外なほどに少ない。
悲鳴を上げるには喉が涸れたのか、それとも声を上げる人数が減ったのか。
♪ 見出した 自由なら―――
肌を叩くほど会場に響いている。
甲高く、しかし耳に痛くはない歌声が。
伸びる、伸びていく、ああ、なんてことだ―――歌っている。
この会場の、こんな会場の、ステージ上で歌っている。
私はそれに背を向けて、ひたすらに出口を目指した。
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