おかえりなさい

 駅に着くと黒のスーツとサングラス姿の屈強そうな男たちが立っていた。その中でも特に屈強そうな男が僕と彼女にゆっくりと近付く。彼がこちらに向かうたびに終わりを告げるカウントダウンが頭の中で流れてくる。僕は彼女の手を握った。彼女は黙って小さな手で握り返してくれた。 別れはすぐそこだった。

 男が僕達の元へ辿り着く。男が言った。

「片桐様ですね?」

 確信に近い問いだった。だから僕も、

「はい」

としか答えなかった。男は頷くと、

「それでは回収にあたり、最終確認をさせて頂きます」

 そう告げると男は淡々と次のことを述べた。

「片桐様は二年前の十月十日に事故に遭いました。その際に娘さんである夕日さんを亡くされております。その一年後の十月十日、片桐さんは我が社の商品であるレンタルヒューマノイド、娘型番の№8『チェルビアット』をレンタルしています。期間は一年。返却は本日、十月十日の十六時となっております――以上でよろしいでしょうか?」

「はい」

 私は隣にいる彼女、チェルビアットを一瞥しながら答えた。

「わかりました。片桐様の支払いは口座からの引き落としとなっています。口座番号と支払いできるだけの経済能力の有無はこちらで確認が取れておりますのでご安心ください。支払い時、口座内に料金分の振込みがない場合は契約違反の対象となります。また、回収後におけるチェルビアットとの接触は一切禁止されております。これを破りますとこれまた契約違反の対象となりますのでご注意ください――以上になります。何かご質問はございますか?」

 男はそこで僕を窺った。彼は無表情で問うてはいたがサングラスから覗かせるその眼は、余計な手間をかけさせるな――とでも言いたげな眼力がそこにはあった。

「ない、です」

 たどたどしく僕は言った。男は頷くと、

「それではチェルビアットを回収させていただきます。今後も我が社のレンタルヒューマノイドのご利用をお待ちしております」

 そう言って一礼をすると、チェルビアットの腕を掴んだ。そこには人としての扱いはないように思えた。本当に商品として、一人の者としてではなく一つのモノとして男がチェルビアットを見ていることが分かった。正直言って握った手を離したくはなかった。もう二度と会えないことは分かっている。レンタルヒューマノイドをレンタルするには相当のお金がいる。僕も夕日のために何年も貯めておいた全財産をつぎ込んでやっとレンタルできたのだ。男は今後もなんて言っていたが僕にそれが無理なことぐらい承知していることだろう。彼はビジネス口上をただ淡々と述べているだけなのだ。

それに、何より――彼女は処分されるだろう。

次はもう、ない。

このまま男を殴って彼女を渡さないという考えも浮かんだ。しかし、どう見ても目の前にいる男は僕よりも強そうで、僕が本気で殴ったところで微動だにしなさそうだ。それにそんなことをして困るのは彼女なのだ。何をやったって意味がない。実際どうにもならないことだってたくさんある。僕の身体についてもそうだ。だからこれはあれだ。いつも通り。

だからこれはしょうがない。

 自分に言い聞かせる。使いなれた諦めの言葉を繰り返す。

――この子を諦められるか?

しょうがないんだ。

――また奪われてしまっても?

しょうがないのか?

――いや、違う。

しょうがない!

――そうだ、これは。

しょうがな――いわけがないだろう!!

僕は離れようとした小さな手を握った。

「……何をやっているのでしょうか。その手を離してください」

とても静かな冷たい声で男は言った。本当に、僕は何をやっているんだろう。だけど抑えきれない感情が僕を突き動かす。

「この子は渡さない!」

「……もう一度言います。手を離してください」

ぞっとするほど声音を低めて男は言った。

「いやです!!」

 それでも僕はチェルビアットの手を離さなかった。

「僕は理不尽に大切なものを失った。だから今度は僕自身が理不尽になって大切なものを、それを取り戻してくれるこの子を守って見せる。もう奪わせやしない。誰に何と言われたって僕は僕の大切なものを取り戻してみせる」

「……馬鹿が」

 男はもう苛立ちを隠そうとはしなかった。男は手を上げる。後ろに控えていた男の部下が僕とチェルビアットの方へ近寄ってくる。

「よく言われます」

僕は男たちに笑いかける。じりじりと距離を詰めてくる。

「しょうがないでしょ。僕は理不尽を受け入れてしまえるような大人ではなかった、ただそれだけですよ」

僕は女の子の手を強く握った。

「なるべく無傷で取り返せ」

 男のその言葉が合図となり、男の部下たちは襲い掛かってきた。僕は女の子を左脇に抱え、右手に持っていた杖を振り回しながら駅の出口に向かって駆けだした。なるべく目や喉などの急所を狙う。それが功を奏したのか、男たちはわずかに身を引いた。その隙をついて一気に走り出す。男たちの横を通り過ぎる際に杖は掴まれてしまったのですぐに手放した。

「待て!」

 背後から追いかけてくる男の怒声が聞こえる。僕は振り返らずに必死に走った。

 奪わせない、もう二度と。

 ひたすらその想いで。がむしゃらに。呼吸が苦しくなろうと、頭が痛くなろうと関係ない。これからのことなんて考えない。とにかく今を乗り切る。ただそれだけだった。

だがどれだけ必死になろうとも現実は甘くない。子供を一人抱えているハンデがある。足音が徐々に近づくのが聞こえる。息も切れてきた。脚も段々ついてこなくなってきた。

「くそっ!!」

 悪態をつく。やるせなさが僕の中に出てきたが、その感情すらも今は走る原動力へとシフトさせる。一瞬だけ加速するが、あくまでも一瞬だった。どれだけ激しい気持ちをぶつけても期待に応えることはない。後ろを振り向くと、思っていたよりも男たちと僕たちの差はなかった。焦りが生じた。

 ここまでなのか!?

僕が諦めかけたとき、聞き覚えのない電子音がどこからか鳴り始めた。どうやら電子音はチェルビアットが嵌めていた足輪からだった。するとそれまで大人しくしていたチェルビアットが急に暴れ出した。

「なっ――!?」

 ただでさえ疲労した僕にチェルビアットをしっかりと抱え直す力は残っておらず、チェルビアットを落してしまった。僕は急いで彼女を拾い上げようと方向転換しようとしたが、勢いを殺すことができずに脚がもつれて派手に転んだ。転んだ拍子に僕は道路に飛び出してしまった。

 盛大なクラクション音が響き渡る。

 大型トラックが勢いよく突っ込んで来ていた。とても避けれるスピードでも、体勢でもなかった。死という言葉が頭に浮かぶ。するとチェルビアットが僕の前に立った。こちらを少しだけ振り返る。彼女は微笑んだような気がした。そしてすぐに彼女は大型トラックと相対した。僕は静止の言葉をかけることも、庇ったりすることもできなかった。

とにかくそれは一瞬だった。

だから僕はその決定的な瞬間を見ることはできなかった。

大型トラックとチェルビアットに衝突しようとしたまさにその時、僕は思わず目を瞑ってしまったからだ。聞いたこともないような激しい音が鳴り、これまた激しい風が吹いた。そして次に目を開けた時には変わらず僕の前に立っているチェルビアットと、フロント部分が拳状に大きく凹んでしまった大型トラックだった。

男たちが追いついた。彼らはすぐにチェルビアットの身柄を確保した。特に抵抗する様子はなかった。僕は立ち上がることさえできなかった。

チェルビアットは振り返ることはなかった。

 彼女は僕の元を去ろうとしている。どんどん男と彼女の後姿は小さくなっていく。

 彼女は何も言わなかった。言ってくれなかった。だから僕が代わりに言おうと思う。一年間付合わせてしまった。最初は娘の代役としか見ていなかった。君と娘を重ねていた。自分をそれで誤魔化そうと思っていた。失ったものを埋めるように。しかし当たり前のことだけど娘とは彼女は違う。その差異に苛立ち、彼女にあたったこともあった。とんだ最低野郎だ。随分身勝手な考えだし、これでは夕日にもそうとう怒られると思う。本当に酷いことをした。けれどそこから立ち直れたのも彼女のお蔭だ。気まずくて何をすればいいのか分からない毎日だったけど、彼女が何を考えているのかなんて理解できなかったけど、今まで生き続けられたのは彼女がいたからだ。だから僕は彼女と一緒にいて感じたこと全てを込めて言った。

「ありがとう」

 僕の言葉が彼女に届いたのか分からない。

 彼女はいつもかくれんぼをしていた。心を上手に隠していた。僕はそれをなかなか見つけられなかった。彼女は隠れるのが得意で、そして慣れていた。

 見えなくなるぎりぎりのところで彼女はこちらを振り向いた。何か言っているようだったけど聞こえなかった。そしてそのまま去っていった。何も聞こえなかったけど、不器用でいつも言葉が足りない彼女はこういったような気がした。

「ばいばい」

 かくれんぼは終わったのだ。



気付くと僕は駅のホームに戻っていた。痛みが走る。それは今までにないほど大きくて鋭い痛み。

「んぐっぅ、ああぁ」

 ついには痛みに耐えきれなくなり、その場にうずくまってしまった。どくん、と一鼓動するたびに痛みが破裂する。頭の中から始まり、神経を通して目や耳、実際には及ぶはずがない部分にまで痛みはやってきた。奇声を発しないのはそれすらも辛く、また呼吸するのがやっとだからだ。もがくだけで精一杯だった。

 周りの人々も何事かと集まり始めた。視界が歪む。ゆらゆらと人混みが揺れて見える。

 ああ、僕はもう駄目だ。

 肉体がいよいよ限界を迎え、最期を迎えようとしている。けれど、精神的には普段とそこまで変わらない。だから少し拍子抜けでもあった。もちろん、激しい痛みが伴っているのできついことにはきつい。だけどそれ以上にこんなものなのかという気持ちが大きい。死というのは肉体的にも精神的にもすれすれで、消耗している状態だと思っていた。恐怖が全くないわけではないけれど、事前に知らされていたので今来たかとある種達観している。走馬灯はない。しかし思い残すことはある。だけど今さらどうしようもない。諦めたいわけではないが、明らかな事実だ。

ごめんなぁ。ほんと、ごめん。

謝らないといけないことが多すぎて、もう誰に対して謝ればいいのか分からない。そんな不甲斐ない自分に対して涙が出てきた。みっともなく、泣いてしまう。

 目を開けているのもつらくなってきた。痛みは極限を通り越し、心地良さへと変化していた。

今ならゆっくりと眠れそうだ……。

意識が絶たれようとした――その時、

「ねえ、おじちゃん。どうしたの?」

子どもの声がした。驚いた。何かの間違いだと思った。声がした方を向くほどの力は残っていなかった。だから少しだけ顔を傾けて自分の目玉をこれでもかと寄せる。そこにいたのは小さな女の子。しゃがみ込んで心配そうに僕の様子を窺っていた。視界はぼやけてしまい、はっきりと顔は見えない。他人であるのは間違いない。だけど何故だか懐かしい面影がある気がした。

「つらいの? まってて、おじちゃん。ママにおいしゃさんよんでもらうから」

そう言うと女の子は急いでどこかへと走っていった。

「…………だ、いじょぉぶ、だ……よ」

 僕は笑う。離れていく彼女の姿をずっと見ながら。ぼやけて見えなくなっても、ずっと、ずっと。

不明瞭だった欠片は埋まり、僕の中の色が戻ってきた。僕は写真を思い出す。

写真には僕と朝日、そして二人の間には娘の夕日が並んで写っていた。とても幸せそうに笑っていた。

僕は目を瞑る。もう何も見る必要はない。やっと取り戻せたのだ。この思い出に浸ろう、最期の時まで。

……ああ、そうだ。これだけは言っておこうかな。

おかえりなさい、愛しい娘(チェルビアット)。

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