第40話

3か月後



「それじゃなんですか。

歌手の山科やましなさんの方が積極的にアプローチしたってことですか」

「みたいなんです。

ドラマでは家庭的な良いパパを演じる島田さんですが、今回の不倫スクープで一気にそのイメージが崩れ……」


テレビのスイッチを切り、鞄を掴み玄関に向かう。

鍵をかけ、エレベーターを待つ。

乗り合わせた何人かに


「おはようごさいます」


と形だけの挨拶をして何食わぬ顔で一番出口に近い場所に陣取る。


エレベーターのドアが開くと同時に、早足で駅に向かう。


世の中はすっかり日常を取り戻していた。


テレビのワイドショーは芸能人の不倫ネタを面白おかしく伝えている。


3か月前の大事件が嘘のようだ。


あの工場爆発のあと報道はこの事件一色だったのに、次の週には、別の殺人事件が、その後は芸能人が覚せい剤使用で逮捕されたなど、次々と話題が変わり、あの事件は欠片かけらも報道されなくなった。


いや、むしろ、忘れようとしているかのように新聞はもちろん、週刊誌にさえ、あの事件のことは取り上げられなくなった。


事件直後、大多数の大人は気持ちがえた。


工場爆発のあとに見つかった、アジトに残されていた一通の手紙が、世の大人たちに、得も言われぬ虚無感きょむかんを抱かせた。



『戦後から今日まで日本は世界に類をみない発展をとげ、経済大国となりました。 


しかし、それと引き換えに、モノを言えない、いえ、正確には支配されている側は支配している層に逆らえない。


例えば会社であれば、ヒラ社員は係長に逆らえず、係長は課長に逆らえず、課長は部長に逆らえず、部長は役員に逆らえず、役員は社長に逆らえず、といった構造があらゆる組織に浸透され、サイレントマジョリティが生み出されました。


結果個人のモチベーションは下がり、『組織は金銭を得る手段』と言い聞かせて、逆らわず揉め事を起こさず、定年まで無事に乗り切ることだけを考える大人ばかりになり、国においても同様の仕組みが出来上がりました。


それでも右肩上がりの時代はまだ良かった。


しかし、バブル崩壊、リーマンショックという2度の挫折を経験し、知識人は日本の組織構造が疲弊していることを感じ、実力主義だ、働き方改革だと欧米の受け売り施策をまことしやかに語ることで、多くの経営者や官僚が呼応し、無理やり施策を動かしました。


しかし、終身雇用や年功序列にどっぷり浸かっていた大人たちに180度の転換を迫ってもほとんどの者はついていくことはできませんでした。


さらに容赦なく賃金は減り、税金は様々な形に変わってより多く徴収され、唯一のモチベーションのり所だった金銭面さえ不安にさらされました。


当然のことながら、一般の人々のモチベーションは下がり、組織や経営者に不満を抱き、でも、その怒りをぶつける相手はおらず、結果、何を言っても無駄と思い、さらなるサイレントマジョリティを生み出しました。


そこで大きな被害をこおむったのは子どもたちでした。


気力のない大人は子どもへの関心も薄れて未来像など考えることもなく放任する者が増えました。


一方で自分の未来への不安から子どもに過度な期待をかけ、プレッシャーをかけ、期待に応えられなかった子どもには無能のレッテルを貼りました。


さらにひどかったのは、自分の無能さが我が子に投影されたかのように感じ、我が子への虐待をし始めました。


ニュースに取り上げられた死亡した子の虐待の後ろには何万もの表に出ない虐待があります。


私たちの組織の子どもたちも、ほとんどが親や親代わりの大人からあらゆる形の虐待を受けていました。


疲弊した大人たちが、自分の怒りのやり場を見つけることが出来ず、身近にいた子どもたちにその怒りをぶつけ、はけ口にして発散していました。


そしてそれが社会問題化した途端に、法律の改正だ、児童相談所の権限を強くするなど、場当たり的な施策を打ち出して


「ほら、政治家はちゃんと対処してるでしょ、だから選挙の時はよろしく」


ということがありありとわかり、しかし、他の大人はそれを容認していたのです。

全く子どもたちのためには、なっていないことをわかっていながら。


私たちはこのまま大人たちに任せていては本当に世の中はダメになる。

そう思って立ち上がり、非合法であることを承知であらゆる手段で大人を目覚めさせようと試みました。


おそらくこの事件がきっかけで、いえ、せめて、今、この手紙が公開されている、この時だけは皆が真剣に考えてくれることを願っています。


しかし、おそらくはひと月もしないうちに、この事件のことは取り上げられなくなるでしょう。


そして、また、日常に戻り、何事もなかったように、日々を過ごすことでしょう。


それでも、私たちが活動したこと、世の中に一石を投じたことは、誰かの記憶、ほんの一握りの良識ある大人の心に波紋を与えたと信じています。


皆さん、今こそ立ち止まって考えてみてください』



真知子たちが投げかけたことは、あの時多くの大人たちの心に波紋を広げたと思う。


しかし、波紋はやがて、その波動を少しずつ減衰し、静かな水面みなもへと還る。


真知子たちが言ったように、大半の大人は日常に戻り、もうあの出来事も真知子たちの訴えも、心から消えていることだろう。


しかし、僕の心には確かに一本の鋭いとげが刺さったままになっていた。


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