第29話

平日だというのに新宿の街はどこから沸いてくるのか人だらけだ。


僕は駅に向っていたが今頃から歌舞伎町方面に向う人の波も大勢いて、駅前の交差点では人をよけるのに苦労した。


最近めったに都内なんかに出たことがなかったので、酔いも手伝って少し気分が悪くなった。


このまま電車に乗ったら吐きそうな予感がしたので、駅前交差点の近くの喫茶店に入った。

ここも夜九時過ぎというのに人だらけで、ようやく一席見つけて座ることができた。


「コーヒー」


店員に告げると窓越しに行き交う人ごみを眺めていた。

外の景色を眺めていたはずだったが、いつの間にか意識は内向して、先ほどまで傍に座っていたヒカルの姿を思い出して反芻はんすうしていた。


あどけない笑顔、ミニスカートから覗く長く

透き通るような白さの綺麗な足、しなやかな指先、なで肩の華奢きゃしゃなシルエット。

本当に深雪を失って以来、女性というものを意識したことが全くなかった僕にとって、まさに晴天の霹靂へきれきといっては大げさか……

でも、それくらい新鮮な、いや、忘れかけていた“男の本能”を呼び起こしてくれた。


同時にそれは、人間としての生きがい、生きていくための活力、原動力。


この半年、ただ、起きて、仕事をして、必要なだけの食事をして、寝て……そう、およそ人間としてではなく、同じサイクルに乗せられたただの動物としての生しかなかった。


人間としての価値は僕の中に全くなかった。ただ、同じ時間を繰り返す人形のようなものだった。

だから当然男としての感覚などまったく忘れていた。


へんな話だが、自慰行為さえ、まったくしていなかった。

若い三十代の男としては異常なことかもしれない。

同僚等は口を開けば「女の話」しかしないのに、そんなことにすら興味を失っていた。


ヒカルの出現は、男としてだけではなく、人間としての感覚を俺に思い出させてくれた。その夜、久しぶりに自慰をした。

その相手は深雪ではなく、ヒカルだった。


終わった後少々の罪悪感と男を思い出させてくれたヒカルへの感情が交錯した。


翌日、仕事を終えたのは20時を回っていた。


少し遅くなってしまったが、またヒカルに会いたいという気持ちが抑えられずに、蝶子ママの店に向かった。


「あら、いらっしゃ~い。

常連さんになってくれそうね。

うふっ、ヒカルちゃんの効果絶大ね」

「あ、いや、そういうわけじゃ……」


「口で何言っても、顔に描いてあるわよ。ヒ・カ・ルってね。

ヒカルちゃん、こちらご指名!」

「わぁ、松木さん今日も来てくれたんですね。うれしいです!」


「いや、ちょっと仕事が早く終わったんで」

「えー、もう八時半ですよ。これで早いんですか?

お仕事大変ですね」


僕は他愛もない話をしながらも、様々に変化するヒカルの表情に惹かれていった。

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