第十三話 修羅は心をさらけ出す

※暴力的なシーンがあります、苦手な方は注意








 ――久しぶりに外に出た私を出迎えたのは12月初めの、冷たい季節風がマンションやら何やらの隙間を通り過ぎてゆく、夜であった。



 現在、私が住まうマンションは、私が都内に上京してきた時に住んでいたマンションとは違い……まあ、都心より少しばかり離れた場所にある。


 いわゆる、億ションと呼ばれるやつだ。


 新宿や原宿へは電車を使ってすぐに行ける距離にあるが……不思議と、私の足はそちらへは向かなかった。


 どうしてかは、分からない。


 行き先も何も、決めたわけではない。


 そもそも、何処へ向かえば良いのか。


 何をすれば良いのか、何一つ私には分かっていない。


 けれども、分かるのだ。何故かは知らないが、私には分かっていた。というか、説明の出来ない予感を覚えていた。



 時刻は、深夜というには些か早い時間だ。



 なので、本来であれば会社帰りやバイト帰りの人達がそれなりに行き来し、一人になるなんていう状況が早々ないのだが……不思議と、この時は違った。


 立ち並ぶマンションの傍を歩いても、立ち並ぶ一軒家の前を歩いても、他人とすれ違う事がない。公園の傍を通っても、少しばかり開けた道路に出ても、それは変わらない。


 車が横を通り過ぎる(それでも、明らかに数が少ない)ことはあっても、人が歩いていないのだ。まるで、この時間、この時を見計らっていたかのように、他人の気配がないのだ。


 おかげで、誰も私に注目しない。時折通り過ぎる街灯の下を進んでも、コンビニから漏れ出た明かりに照らされても、誰も私を見て来ない。


 まるで、神の見えざる手に操られているかのように。


 まるで、舞台に立った一人の役者として振る舞うように。。


 ごうごうと通り過ぎてゆく時の流れの中を、私は突き進んでいる。運命に導かれる物語の旅人のように、私を、『俺』を、『私たち』を、何処かへと誘ってゆく。



 それは、私の生涯においては初めてとなる感覚であった。



 まっすぐ、前を向いて歩いている。なのに、私は自分が歩いているという気が、あまりしない。


 歩いているというよりは、運ばれている……というより、案内されているという感覚が……いや、違う、これはそうじゃない。



 ――そうだ、私は今、『代償』の最中にいるのだ。



 私は、願った。爺さんの想いに応えるが為に。


 私は、心から願った。それ故に……私の願いは、届かない。


 ギリギリまで、私の手は伸びるだろう。指先が、願いを掠めるだろう。


 しかし、そこが限界だ。それが、『代償』なのだ。私の願いは、届かない。どうにもならない、私が背負った定めなのだ。



 ――けれども……それが分かっていてもなお、私はやるしかないのだ。



 たとえ、私の願いが届かないと分かっていても。


 たとえ、全てが徒労に終わると分かっていても。


 私は、やるしかないのだ。いや、私は……それをやりたいのだ。



 ……そうして、どれぐらい私は歩いただろうか。



 気付けば、辺りには人の気配……というか、車すら全く見掛けなくなっていて、私は……見知らぬ公園の入り口に立っていた。


 住宅街というよりは……何だろうか。住宅と工場の合間に出来た、停滞した空間……というべきなのだろうか。



 そこは、広くも無ければ小さくもない、寂れた公園であった。



 遊具は古臭く錆が見られ、数もそう多くはない。パッと見た限りでは、ブランコに鉄棒に滑り台……他にも、ちらほらと。


 時計台のようなモノは設置されておらず、申し訳程度に園内を照らす外灯だけが、公園の中心にてぽつんと存在感を示していた



 その、見知らぬ公園の中に……人がいた。



 場所は、公園の奥。唯一の明かりよりさらに先……暗闇の中にぬるりと伸びているジャングルジムの上に……何者かがこちらに背を向ける形で座っていた。



 ――気配に気づいたそいつが、こちらへと振り返った……その、瞬間。



 私は、理解した。暗闇の中でも浮かび上がる、そいつの赤い瞳。たん、と信じ難い身軽さで鉄棒を蹴って空を舞ったそいつは……とたん、と軽々と私の前に着地した。


 そいつは……女の子と称して差し支えない風貌をしていた。


 正確に言いなすのであれば、超という言葉が上に付く、黒髪美少女だ。瞳の色が赤いという点を除いても、周囲の者が放ってはおかないだろうと思ってしまうぐらいの、美しい少女であった。



(家出……でもしているのか?)



 ただし、その反面、恰好は……というものだった。季節感もバラバラで、みすぼらしいというわけではないのだが、こう……随分と使いこんでいるのが一目で……いや、違う、そうじゃない。



 ……この子は、普通じゃない。



 私の中にある何かが、超人的な感覚が、眼前の子に対して強い違和感を抱かせた。それもまた、私が私として生きて初めてとなる……直感にも似た感覚であった。



「……お名前を聞かせてもらって、いいかしら?」

「私に名前なんてものは無いよ。まあ、他人は私を『名無し』だとか呼ぶけどね」

「ななし……?」

「名前が無いから、『名無し』だよ。まあ、人によっては宿無しホームレスの何にもないやつだから、『宿無し』って呼ぶやつもいるけどね」



 どちらかといえば、名無しの方で呼んでくれたら嬉しいね。


 そう名乗る彼女に、私は「貴女、いったい何者?」率直に尋ねた。



「私は、私さ。まあ、見た目通りってわけじゃないよ……あんただって、私とは違うけど似たようなものだろう?」

「――っ、それは、どういう意味かしら?」



 思わず、私は息を呑んでしまった。まさか、私と同類?


 いや、有り得ない話ではない。内心にて、私は思う。


 私を転生させた、代弁者だとか何だとかを自称したあの『爺さん』は、私が選ばれたのは『たまたま』だと話していた。


 それはつまり、私以外にも、『願い』と『代償』を受け入れて転生を果たした者が存在している可能性があるということ。


 眼前の彼女がそうと決まったわけではない。けれども、その可能性を否定する根拠が無い、自然と私は……身構えていた。



「そう怖がらなくてもいいよ。世界には、色んなやつらがいるってことさ。堅気を装った極道がいるように、ね」

「……ふ~ん、そう」



 案の定というべきか、彼女は答えなかった。



「まあ、私の事はいいさ……それよりも、あんた」

「はい?」

「ずいぶんと、溜め込んでいるね……下手に暴れて堅気に迷惑を掛けるものじゃないよ。ほら、私が相手になってやるよ」



 そのまま、彼女は曖昧な笑みではぐらかし、こきこきと首を鳴らした。見た目とは裏腹な、ずいぶんと粗暴な口調と態度であった。


 しかし、仕草は堂に入っている。ふざけているようにも見えないので内心にて小首を傾げていると、彼女は突然……ふわっと衣服を脱ぎ捨て、半裸になった。



 ……は、なに?



 まるで、意味が分からない。けれども、そんな私を他所に、彼女はぐるぐると筋を解すかのように両腕を回した後……瞬間。フッと、目と鼻の先にいた。



「――っ!?」



 繰り出される拳を受け止められたのは、偶然であった。反射的に身体を守ろうとした腕に、彼女の拳が――べきりと、食い込んだ。



 ――ぐげぇ。



 人間大のトラックと正面衝突したかのような、衝撃。痛みよりも苦しみよりも前に、体内に残っていた空気が衝撃によって押し出され、気付けば……私は、蹲っていた。



 げっ、げっ、げっ。



 血の臭いと胃液の臭いが交じり合った液体が、口からごぼっと吐き出された。伸ばしっぱなしの髪の毛が、私の視界を覆い隠したのが見えたが……何が何だか、私には分からなかった。



「――っ!? ぎっ、ぐぅ!?」



 と、同時に、両腕から走る強烈な激痛に……ビリビリと痺れが走る腕に意識を向ける。折れたかと思ったが……そうはならなかったようだ。


 ……刺すような痛みに耐えながら、深呼吸をする。


 それだけで、私の中に広がった痛みが瞬く間に静まってゆく。けれども、治ったわけではない。それを感覚的に認識しつつ、私は……己を見下ろす彼女を睨みつけた。


 ……先ほどの直感の通りであった。この子は、普通じゃない。


 肉体こそ女ではあるが、その頑強さは私が一番良く知っている。感覚的に、自分がどれほどの肉体的な力を有しているかを、私は理解している。



 ……やはり、この子は……私と同じように、『願い』と『代償』を受け入れた、私と似た境遇の人なのだろう。


 あるいは、『代償』の為に生み出された存在……しかし、それが、何だというのだろうか。



 ソレを眼前の……名無しと名乗った彼女に問い質したとして、何の意味があるのだろうか……何の意味もない。時間の無駄でしかない。


 この子は普通ではない。私と同じく……いや、私以上の、普通ではないナニカ。それさえ分かれば……ひとまず、この場では十分なのだ。


 そう、私は己の中で結論を出した。



「……そうそう、難しく考えたって、答えは何も変わらないさ」



 すると、そんな私の思考を見透かしているかのように、「迷った時は、パッと吐き出すのが一番さ」彼女はそう言いながら、ははっ、と笑った。



「説教をする気はないが、いちいち頭で考えると面倒だぞ。二進も三進も行かなくなって、気持ちが袋小路に入り込む」

「…………」

「そうなったら、抜け出すのは大変だぞ。何せ、入口も出口も分からなくなて、自分が何処へ進んでいるのかが見えなくなる……だから、一度頭の中を空っぽにするのさ」



 そう言うと、彼女は自らの頬を私に見せびらかすように、ぺちぺちと叩いた。



「さあ、殴ってもいい理由を作ってやったんだ。一発、本気で私を殴りなよ……私も、殴り返すけどな」

“……何が、目的?”



 衝撃で肺の辺りが引き攣っているせいか、上手く声が出せない。けれども彼女は識別出来ているのか、「なにって、あんたがしたがっている事だよ」あっさり答えた。



 私が……したかった事、だと?



 まるで意味が分からない。煙に巻くかのような意味深な言い回しは、好きではない。痛みもあって苛立ちを覚えた私は、“ふざ……けるな!”震える足腰に鞭打って、立ち上がった。



「いや、冗談じゃないよ。私はさ、そういうのは何となく分かるんだ。あんた、それがしたかったんだろ?」



 けれども、彼女は意に介した様子は無く……むしろ、分かっちゃいないなコイツはと言わんばかりに、「あんたの顔に、デカデカと書いているよ」私を指差すと。



「誰になのかは知らないけどさ、本当は殴りたかったんだろ? 良心も何もかもを捨て去って、ぶん殴ってやりたかった相手が……いたんだろ?」

“……え?”

「そいつを殴れないなら、代わりの者を殴るしかない。だから、私を殴りな……あんたが吐き出したかった、本音と一緒に」



 そう、告げた。



(――っ!)



 その、瞬間。私は……私の中にあったナニカが、カチリとハマる音を……聞いた気がした。


 まるで、心を拭われたかのような感覚であった。汚れて向こう側が見えなかったガラス。その向こうより姿を見せた、ソレは。



「ほら、どうした? また逃げるのか? 出来なかったその時と同じように、また良い子の言い訳を重ねるのかい?」

 “……っ”

「さあ、来いよ。受け止めてやるから……さあ!」

“――ぁ!!!”



 私がこれまで直視してきた憎悪……よりも、もっと純粋なモノ。それは、私を裏切り騙し否定した全ての人達に対する……悲しみであった。



 ――気付けば、私は走り出していた。



 彼女へと、大きく拳を振り上げていた。笑みを浮かべて仁王立ちする彼女の顔面に、私は……溜めに溜めた力を全て拳に握り締めて、その頬に振り下ろしていた。



 ――がつん。



 硬い……柔らかくも硬い鉄骨を殴ったかのような感触。握り締めた拳の指先から腕を通って肩へと進み、そこから脳天へと突き進んだ――その、瞬間。



 ――ぱぁ、と。



 光が……否、私の中に、『俺』の中に、『私たち』の中に有った、『私たちすべて』が今の今まで気付けなかった……塊が、弾けた音を聞いた。


 ……気持ち良かった。とにかく、気持ちいいと反射的に思った。


 それは、数年前。私がこの身体になって初めて芽生えて覚えた性の悦楽。その時、同時に感じた爽快感……今しがたのこれは、それを軽々と上回っていた。


 こびり付いていた錆が、剥がれ落ちてゆく。大きく息を吸って、吐く。澱んでへばりついていた胸中のソレらもまた、吐き出されてゆくような……ああ、何だこれは。


 身体が……震えた。制御できない、胸の痛み。息をすることすら難しく……それもまた、初めてで。


 振り抜いた拳の先が、痛む。痺れが、酷い。ぶるぶると震える指先をどうにか動かし、拳を開く……爪先が食い込んだ掌には、僅かに血が滲んでいた。


 そこに……水滴が、ぽたりと落ちた。雨かと思って夜空を見上げれば、雲一つない。


 なのに、手に振り注ぐ水滴に変化はない。じゃあ、どこから……ああ、そうか、そうだ、これは雨じゃない。



 私の……涙だ。



 頬が、燃えるように熱く、濡れている。そっと、頬に当てた指先を伝って滴り落ちる、涙。


 それは、意識して止められる勢いではなかった。次から次へと噴き出す涙は次から次へと掌に零れ落ち、視界が潤んで歪み……そして。



“――どうして、『俺』を裏切ったんだ”



 気付けば、私は……いや、『俺』は、その言葉を口走っていた。



“俺はお前たちを信頼していたのに……どうして……”



 自分が何を口走っているのか。


 その意味を理解は出来たが、止める事は出来なかった。


 涙が、止まらない。嗚咽も、そうだ。両手で押さえても、止まらない。


 歯を食いしばっても、唇を噛み締めても、蹲っても……止められない。次から次へと溢れ出す涙が掌を濡らし、地面に滴り浸みこんで――ああ、そうか。



(俺は……俺はただ、裏切られた事が辛かったんだ。誰も俺を信じてくれなかったことが、悲しかったんだ)



 俺は……気付いてしまった。俺は、只々辛かったのだ。只々、悲しかったのだ。


 怒りよりも、憎悪よりも、何よりも。


 愛していた妻と、信頼していた親友が己を裏切っていた事が、辛かった。俺ではなく、誰もがあの二人を信じるという現実が悲しかった。


 あの男を愛していたのであれば、どうしてアイツと一緒にならなかったのか。どうして、俺と一緒になったのか。


 俺から金を巻き上げる為に仕組んだことで、俺たちの間にあった信頼は全て嘘であったのか。


 友人だと思っていたのは、俺だけだったのか。俺の好意は全て、お前たちの私腹の糧でしかなかったのか。


 俺は、それを知りたかった。けれども、それを知るのが怖かった。


 まだ、信じたい気持ちが俺の中にあった。きっと、何かの間違いなのだと。何か、事情があるのではないかと、思いたい気持ちがあった。



 けれども、同時に、不安が常に俺の中にはあった。



 もし、これまでの思い出の全てが嘘であったなら。これまでの日々、それら全てがまやかしでしかないのであったなら。


 きっと、俺は耐えられない。けれども、逃げることも俺には出来ない。目を逸らしたとしても、俺はあいつらを忘れる事は出来ないから。



 だからこそ、知るのが怖かった。だから、俺は憎悪で誤魔化した。



 心の中を憎悪で満たしている間は、只々恨みをぶつけている間は、怒りを向けている間は、ソレから目を逸らしていられたから。



 けれども、そうしている間に、あいつらは死んでしまった。



 俺は、機会を永遠に失ってしまった。あいつらを許したい為ではない。己の心に区切りをつけるチャンスを、俺は掴み損ね――っ!?



“ぎっ。”



 ――がつん、と。顎から広がった鋭い痛みと共に、視界が暗転した。



 殴られたのだということを俺が……『私』が理解したのは、その直後で。ぐらんぐらんと揺れる視界の中で、私は……己へと手を伸ばす彼女を見上げた。



「ほれ、立てるか?」

 “……貴女、本当に何者?”

「普通の人間じゃないのは確かだろうよ。とりあえず、良いパンチだったよ」



 手を掴まれた瞬間、まるで落ちていたタオルを拾うかの如く、私の身体がふわっと浮き上がって……その次にはもう、私はその場に立ち上がっていた。


 手を、放される。途端、ぐらりと倒れそうになったが……寸での所で堪えた私を見て、「……うん、良い顔をするようになった」彼女はニヤリと笑った。



 良い顔……そうかもしれない。



 言われて、私は自分の両手を見やる。今しがたの痺れは治まっていて、痛みもない。けれども、殴った感触と熱だけは……まだ、残っている。


 嫌な……感覚ではない。


 顎から伝わるジンジンとした痛み、全身泥だらけの擦り傷だらけ、血の味がする口内の感覚……不快ではあるはずなのに、私は何一つそれらを嫌だとは思っていない。


 それどころか、むしろ……心地良いとすら思った。


 掌を握り締め……開く。汗と土で両手が汚れている。先ほど倒れた時に擦り剥いたのか、僅かに血も……それを見て、私は……ゆっくりと、それでいて大きく……息を吸って、吐いた。



 ――その時。胸の奥にあったナニカが、砕けた音を聞いた。



 それが何なのか、私には分からなかった。鎖のようにも思えたし、炎のようにも思えたし、鋭く尖った刃のようにも思えた。


 ただ、それはとても大事なモノで……同時に、何時かは捨て去らなければならないモノであるという事だけは……不思議と、私は理解していた。



(……身体が、軽い)



 気付けば、ぐらついていた視界は治まっていた。息を吸う度、息を吐く度、まるで澱みを放出しているかのように、私の中が澄み渡ってゆく。


 止まっていた鼓動が、動き出す。それは例えようもない熱気となって血管を通り、私の中を巡り巡って、火照らせて……ああ、そうか。



 ――私は、ようやく振り上げた拳を下せたのだ。



 そう思った瞬間……私は、笑っていた。悲しくもないし、嬉しくもない。なのに、私は笑って、笑って、笑って、そして。



「……行かないと」



 そう己に呟いた私の視線は、定まっていた。それは、憎悪ではない。怒りでもない。かつてと同じく、私の想いは一点に向けられていた。



「――行くって、こんな時間にかい?」



 その言葉に振り返れば、地面に放り投げていた衣服を肩に掛けた彼女が、小首を傾げていた。



「いったい、何処へ?」

「病院よ。爺さんが……私に目を掛けていてくれた恩師が、病院にいる。私は、そこへ行かないと行けないの」

「……? それなら何で、あんたはこんな場所にいるんだ?」

「宿題……という言い方も変だけど、そんな感じのモノを出されたのよ。それを見つけ出すまでは、顔を出せなかったってわけ」

「ふ~ん……で、見つかったのかい?」



 尋ねられて、私は……静かに首を横に振った。「正直、コレはっていう感じなのは何にも分からない」それが、今の私が出せる答えであった。



「でも、今しかない。確証はないけど、今を逃せばもう二度と……そんな気がする。だから、私は行かなければならない」

「……なるほど」



 それでも、彼女にとっては十分だったのだろう。何処となく満足そうに笑みを浮かべる彼女の姿に、私は……と、そうだ。



「それで、申し訳ないんだけど、スマホか携帯を持っているなら貸してくれない? タクシーを手配するから」

「あ、タクシー? それなら……よし、ちょっと待て」



 スマホが手元に無い以上、公衆電話ぐらいしかタクシーを呼ぶ手段が無い。


 なので、この際だと思ってお願いしてみれば、当の彼女はスマホを取り出すわけでもなく、キョロキョロと辺りを見回して……少し後。



「――おい、日本太郎。お前の車でこいつを病院に連れてってやりな」



 誰もいない、暗闇の向こう。公園の奥へと向かって、誰かの名前を呼んだ。思わず、私は目を瞬かせた。



 いや、いやいや、何だその名前は?



 こんな時に、そんな冗談を言う子だったのだろうか。意図が読めずに内心にて首を傾げていると……フッと、暗闇の向こうから人影が一人、姿を見せた。


 そいつは、年齢にして40代後半ぐらいだろうか。


 ピシッと着こなしたスーツに、革靴。エリートサラリーマン、あるいは大企業の重役を彷彿とさせる、何処か胡散臭い雰囲気を放っている……穏やかな笑みを浮かべた男であった。



「わたくしを足代わりに使おうとは、貴女にしては珍しい事をなさいますね。よほど、その人を気に入ったのですか?」

「別に、そんなんじゃないよ。ただ、家無しの女子一人の尻を追いかけ回すよりは、よっぽど有意義だろ」

「ははは、そうですね。偶には他の御嬢様をご案内するのも、悪くはありませんね」



 その言葉と共に、「――では、こちらに」日本太郎(本名、何だろうか?)と呼ばれたその男に誘われる。怪しさ満載ではあるが、彼女がさっさとその男に付いて行くので……仕方なく、二人に続く。


 ……そうして二人の足が止まったのは、公園の外。街灯の光が届き難い位置に留められた、一台の乗用車の前であった。


 よくある、セダンのタクシーではない。見た目は本当に普通の乗用車で、たしか『過去5年間でもっとも売れた一般車』というニュースを見た覚えが……いや、待て。



「え、タクシーの人じゃないの?」

「はて、運転手とわたくしは名乗りましたでしょうか?」



 そう言いながら、彼は後部座席の扉を開ける。何時の間にエンジンを掛けたのか、ととととっ、と静かながらも確かなエンジン音が私の耳に届いた。


 車内灯に照らされた車内は、外からでも隅々まで清掃が行き届いているのが分かる。恐る恐る近づいてみれば、つい今しがた納車をしたかのように私物は一つも無く、新品の臭いしかしなかった。



「……貴方、何者なの?」

「ああ、そういえば自己紹介をしていませんでした。申し訳ありません、遅くなりましたが、わたくし、こういう者でございます」



 その言葉と共に差し出された名刺を、受け取る。『防犯課:日本太郎』としか書かれていないそれの裏は……真っ白。え、なにコレ?



「……本当に、貴方たちって何者なの?」



 3年程度とはいえ、芸能界にいたからこそ、よく分かっている事がある。この世界には、絶対に首を突っ込んではならない領域というものが存在しているという事を。


 それは、物理的な話に限ったことではない。有り体にいえば、裏稼業……ヤクザやマフィア、極道と呼ばれる世界がそれで、私も何度かその筋の者を見たことはあった。



「何者と尋ねられましても、わたくしは、しがない公務員でございます」

「家無しの小娘としか言いようがないかな」



 しかし、この時……私は、そんな目に見える形で恐ろしさを体現している者たちよりも。



「――あ、そうそう。出来ればで構いませんが、後でサインを貰えますか? 知り合いが貴女のファンでありまして、自慢が出来るというものです」

「え、は、はい?」

「いやあ、世界の『TAKADA AYA』から直筆サインを貰えるだなんて、生きていて良い事もあるものですね」

「…………!!??」



 この人達の方がずっと恐ろしく、得体の知れない存在なのかもしれない。


 一見、善良な人物を装っているやつの方が、はるかに恐ろしいということを……私は、改めて思い知らされて。



「じゃあな、後は頑張れよ」

「あ、は、はい、ありがとうございます……あ、あの、一つだけ聞いてもいいかしら?」

「ん、なに?」

「その、今更こんなことを聞くのも何ですけど、どうして私にここまでしてくれるの? 私たち、初対面のはずよね?」

「……あ~、まあ、うん、それはアレだ」

 そして、同時に。

「あんたが、かつての私を見ているようだったから、つい、ね」

「かつての……?」

「私は、気付くのが遅すぎた。全てから、逃げ出してしまった。物凄い遠回りをして、その事に気づいたのは、み~んないなくなってから……後の祭りってやつだよ」



 ぽつりと呟かれた、その言葉。


 その目は私を見ていたが、私ではない、どこか遠くを眺めているかのような、届かない何かを思い出しているかのような……そんな目をしていた。



「気付いた……それは、いったい?」

「言葉に出来るようなモノでもないさ。私一人が分かっていればそれでいいモノさ……そうだね、せっかくだ。老婆心という言い方は何だけど、一つ人生の先輩としての忠告をしよう」



 彼女は……そっと、私の額を突いた。



「人間、恥も矜持も捨ててありのままを素直にぶつけた方が良い時もある。大事なのは、それを何時やるかってことだよ」

「何時……やるか?」

「早くても駄目、遅くても駄目。けれども、機会を逃せば二度目はない……ほれ、行きな。あんたはまだ、間に合うかもしれないんだろ?」



 その言葉と共に、彼女は私を強引に車の中に押しやり、扉を閉めた。


 一拍間を置いて、車が走り出す。窓越しに見える彼女は、私を見送っているのか手を振って……でも、どうしてだろうか。



 ……泣いている?



 彼女の異質さは、身を持って分かっている。けれども、涙一つ零していない彼女のその顔は……どうしてか私には、過去を想って涙を堪える、一人の小さな女の子にしか……見えなかった。




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