最終話 修羅の願いは届かない





 日本太郎さんの運転は、メトロノームを思わせるぐらいに丁寧かつ正確であった。まるで、規則的に動かされているコンベアに乗っているかのような気分であった。


 いくら東京とはいえ、時間帯によっては道路状況も空いている。時刻が時刻なので、東京の道路に慣れている者からすれば、運転はし易かっただろう。


 けれども、それを差し引いても……ぶっちゃけ、気味の悪さを覚えてしまったのは……私は悪くはないだろう。


 何せ、私が『TAKADA AYA』であることを知っていたのもそうだが、行き先を告げるよりも前に、『――入院した、芦田虎雄さんの病院ですね』と言われたのだ。



 そりゃあ、気味が悪いだろう。そりゃあ、怖いだろう。



 だって、テレビでは『入院した』という情報しか流れていなかったのに、日本太郎さんが何処かへ電話を掛けたかと思ったら、『――○○病院にいるそうですので、そちらへ行きます』と来たもんだ。


 厚意に甘えている以上は、私は良い客人でなければならないし、そう努めなければならないが……正直、恐怖と不安を覚えるのも当然というものだろう。


 けれども、そんな不安とは裏腹に……日本太郎さんの運転は堅実で、何事が起こるわけでもなく、私は……言葉には言い表し難い緊張感に苛まれながらも、目的の病院へと到着したのであった。



 ……病院の正面入り口向こうの照明は、薄暗く落とされている。



 鍵は、閉まっていないようだ。また、タクシーすら一台も停まっていない時間帯ゆえに、正門出入り口の真正面に停めても、他の車が入ってくる気配はなかった


 ……時刻もそうだが、場所が場所だからだろう。病院の周辺には、人の気配というか、マスコミの気配もない。


 一般人がいないのは別として、マスコミ関係者が見当たらないのは……おそらく、病院側が手を回しているのだろう。


 『俺』の時……昔とは違い、今はSNSの影響もある。『俺』の時代の時みたいな無理やりを押し通す……いや、違うか。


 日本でも名の知られた芸能プロダクションの社長に対して無礼を働けば、自分たちの首を絞める結果になりかねない。要は、忖度というやつなのだろう。



 どちらにしろ、私としては好都合だ。



 下手にマスコミが集まっている最中に飛び込めば、どんな騒ぎになるか分かったもんじゃない。そう己を納得させた私は、そのままの勢いで病院へ入ろうと――。



「――これで、手や顔の泥を拭ってください」

「え、あ、ありがとうございます」



 ――しかし、その前に日本太郎さんに止められた。


 いったい、何処にしまっていたのか。差し出されたのは封が切られていないウエットティッシュと、小さな手鏡であった。


 手鏡まで、何時の間に用意したのだろうか……疑問に思いつつも、アルコールの臭いが僅かにするそれを、私は恐る恐る受け取った。



 ……とはいえ、それとは別に鏡で己を見てみれば、今の自分はけっこう酷い有様だった。



 いちおう、衣服に付着した泥は確認した。けれども、所詮は手ではらった程度。傷自体は治っても、元の状態に戻るというわけではない。


 髪の間にこびり付いて乾いてしまった泥は取れないし、涎や血で汚れた衣服もそのままで、生地の一部は変に伸びてしまっている。


 ぶっちゃけ、『お前、今まで何していたの?』と不審者を見るかのような視線を向けられても、何らおかしくない有様……それが、今の私である。



(病院の中だし、少しは綺麗にしてから入った方が良いか)



 そうして、汚れた(けっこう、泥がついていたようだ)ウエットティッシュを差し出されたゴミ箱に入れながら……そうしながら、ふと、思う。



(病室で顔を合わせて……私は、何をすればいい?)



 それは、勢いのまま来た私が今になって抱いた不安であった。


 素直に顔を見せる……だけなら、意味は無い。私が見せなければならないのは、爺さんが見たかったであろう『かつての私』……いや、『かつてを乗り越えた先にある、今の私』だ。


 衝動に突き動かされるがまま、私はこの場に来た。名無しと名乗ったあの子に喝を入れてもらったおかげもあって、今の私なら……爺さんの前に立つことは出来るだろう。


 だが……立つだけだ。あくまで、芦田虎雄の前に立つだけの覚悟が出来ただけで……そこから先をまだ、私は見つけていない。しかも、私には一つ、懸念材料があった。



(……そうだ、『代償』の事もある。爺さんの想いに応える為に私が、仮に答えを導き出したとして……その瞬間、私の願いが届かなくなってしまうかもしれない)



 それで……いや、目を逸らすのは止めよう。私は、内心にて頭を横に振る。



 家を出た……もっと前だ。テレビで爺さんが倒れたというニュースを目にした瞬間、私は……直感的に理解している。既に、私は『代償』の最中にいるということを。


 だから、私の願いは届かない。直感的に分かっている、それはもう確定している未来なのだ。


 仮に今すぐ病室に駆け込んだとしても、この車の中で小一時間休憩したとしても、あるいは自宅に引き返したとしても……結果は何一つ変わらない。


 爺さんは私の姿を見ることなく命を落とす。これは、運命なのだ。芦田虎雄にとっての天命……私が自我を持ち直し、こうしてここにいるのも『代償』の副産物に過ぎない。


 例え私がこの世に存在していなかったとしても、芦田虎雄という人間はこの夜に命を落とす。いや、むしろ、『代償』によって、爺さんは一時的に命を繋いでいるだけ。


 私が踵をひるがえせば、その時点で爺さんは速やかに天寿を全うするだろう。私がいるかいないかの違いなんて、せいぜいがその程度の事なのだ。


 そう考えれば、今の私がやろうとしているのは……徒労以外の何物でもない。言うなれば、盛大な自己満足でしかないのだろう。



(……けれども、それでも)



 ――もう、逃げないと決めたのだ。



 ここで逃げたら、私はもう二度と立ち上がれなくなる。だから、私は……爺さんに会うのだ。


 だからこそ、考える。『かつての私』ではなく、『今の私』を爺さんに見せる為に……最後の最後まで私を待っているであろう、爺さんの為に。



(顔の造形、肉体の美しさ、女としての成熟……違う、そうじゃない。爺さんが見たかったのは、そこじゃない)



 そっと己の唇に指を当てれば、鏡の向こうにいる私も同じ動きをした。



(考えろ……考えろ、高田文。世界を魅了したように、爺さんを魅了する方法を……かつての私ではない、かつて以上の、今の私で……!)



 脳裏に浮かぶ爺さんの……芦田虎雄を思い浮かべながら……まるで霧を掴むかのような手応えの無さに、私は思わず笑みが零れた。


 何となく、想像は出来るのだ。けれども、あくまで想像だ。


 爺さんが言いそうな事は幾つか思いつきはするが、実際にその場面を想像すると……いや、これは言わないだろうなと思ってしまう。


 食えない人だと思う。穏やかな雰囲気を醸し出してはいるが、その実は激情家で、コレはと定めた事には頑として方針を変えない一面もあった。



 でも……それらはあくまで、私が知る芦田虎雄の一面だ。



 爺さんとの付き合いは、仕事に限定していた。暇さえあれば私の所に顔を見せに来てはいたらしいが、立場が立場だ。私に割く時間よりも、他所に回している時間の方が多いだろう。


 自身が経営している演技指導の様子を見に行く事だってあるだろうし、各業者への顔合わせや打ち合わせもあるだろう。個人的な所用で動いている場合だって、ある。


 私と爺さんとの付き合いなんて、結局のところは、それらの間にふわっと出来た隙間でしかない。年齢差という理由もあるだろうが、それを差し引いても……だ。



(……思い返してみれば、私は爺さんの事を何も知らないんだよなあ)



 何だかんだ言いつつ今世において最も付き合いが長く興味を持てた相手は、あの爺さんだけだ。けれども、私は爺さんの事を何一つ知らないでいたことに、今更ながら……いや、そもそも、だ。


 一通り汚れが落ちたのを渡された手鏡で確認しながら……私は、鏡に映った己に問い掛ける。



 ――私にとって……爺さん、いや、芦田虎雄という人物は、いったいどのような立ち位置なのだろうか?



 その問い掛けに対し、私の胸中から最初に出てきた答えは『恩人』であった。


 芦田虎雄は、私に対して様々な事をしてくれた。


 自宅を用意してくれたのもそうだし、芸能人としてデビューさせてくれたし、私が伸し上がる為の後押しを全力で行ってくれた。


 それは、あくまでギブ&テイクでしかなかったのかもしれない。


 けれども、そうであっても、彼は私に対して様々なモノを見せ、駆け上がる私を常に見つめ続けてくれていた。



 それは、確かだ。だからこそ、『恩人』なのだ。



 経緯や結果はどうあれ、私にとって芦田虎雄という人物は恩人であり、前世では想像もしなかった場所へと連れてきてくれた二つとない存在でもある。



 故に、『恩人』という言葉の次に出てきたのは、『感謝』であった。



 ――そう、そうだ。私は、芦田虎雄という人物に感謝しているのだ。



 憎悪と殺意の中で泳いでいた、あの日々。暇さえあれば、アイツらの人生をどのように滅茶苦茶にしてやれるかと考えていたが……だからといって、それだけではなかった。


 何がどう違うのかは、まだ私にも分からない。けれども、確かに違うと、それ以外のナニカがあったと……ああ、そうだ、そうだよ。



(私は、『俺』は、『私たち』は……あの人に、この恩を、感謝を返したいんだ)



 かちり、と。


 自分の中で、何かが噛み合った音を聞いた。それは、私の中で燻っていたナニカが動いた音。燃え尽き朽ち果てようとしていたモノに、命が吹きこまれた……瞬間であった。



 ――と、同時に。



 私は、理解した。いや、理解させられた。また、『代償』を支払う時が来た。私が背負った『代償』によって繋ぎ止めていた運命が、動き始めたという事を。



 ――死ぬ。爺さんが、芦田虎雄が、もう間もなく死ぬ。



 それは、直感を超えた天啓にも似た予感……いや、予知であった。気づけば、私は手鏡を放り投げて車の外へと飛び出し――駆け出そうとした直前に、足を止めた。



 ――駄目だ、まだ駄目だ。このまま行っても、駄目なのだ。



 背後から、「――どうされましたか?」日本太郎さんが小走りで駆け寄って来る。でも、私は彼に返事は出来ない。振り返ることだって、出来ない。



 どうする、どうすれば、何をすれば、何をしたら、何を話せば、何をすれば、どうする、どうする、どうすれば、何をすれば、何をしたら、どうする、何をしたら――考えろ、考えろ!



 己に問い掛ける言葉が、脳髄を埋め尽くす。けれども、何も出てこない。


 只々、言葉だけが頭の中をぐるぐると回る。その中に紛れて、爺さんとの思い出や、芸能人として過ごした日々、復讐に燃え続けていた過去……それら全てが、私の中で浮かんでは沈んでゆく。


 でも、答えは出ない。掴めそうな気がするのに、全てが指の間から零れ落ちてゆく。もう時間が無いのに、もう悩む猶予なんて無いのに、私の指先がそこへ届かない。



 ――どうすれば良い、どうすれば勝てるのだ。



 ぐるぐると、思考が回る。でも、噛み合わない。空回りする歯車だけが、頭の中でぐるぐると。回転ばかりが速くなって、肝心の部分がカラカラと……気付けば、私は病院へと歩き出していた。



 ――駄目だとは、分かっていた。



 このまま行っても駄目なのは分かっている。でも、今すぐにでも駆け付けたい気持ちがどんどん強くなって……いや、そうじゃない。私はもう、爺さんの下へ向かいたいんだ。


 しかし、それは駄目なんだ。分かっている、そう、分かっているのに。


 どうしても、足を止められない。どうしても、向かいたい気持ちを抑えられない。もう会えなくなるのが、今の私には……堪らなく恐ろしくて、悲しい。



 ――結局、私はまた負けるのか。



 心の秒針が時を進める度に、弱音が顔を見せ始める。ソレは瞬く間に私の心に忍び寄り、迷いを消してしまう。まだ、私は何も見つけていないのに。



 ――そう、思った瞬間。



「あだっ!?」


 ごつん、と。



 鋭い痛みと衝撃が側頭部より響いた。それはまるで横合いからいきなり殴りつけたかのようで、思わずたたらを踏んで体勢を崩すぐらいであった。



 いったい、何が起こったのか。



 衝撃が走った部位に手を当てれば、鋭い痛みが脳天に響いた。と、同時に、指先より伝わる滑り……見れば鮮血に指が濡れていて、それが頬を通って顎先へと伝わるのが分かった。


 ……痛みによってか、こんがらがっていた頭が冷えた。


 ぶれる視界の中で振り返れば、足元に、コンクリートの大地には不自然な大きさの石が転がっている。僅かに赤く濡れているソレから、日本太郎さんへ……私ではなく、あらぬ方向を向いて。



「――まあ、そうなるだろうとは思っていたよ」



 いた……と、思った瞬間。


 私は、自分の耳に届いたその声を、最初は幻聴だと思った。けれども、そちらへと視線を向けた直後、幻聴ではないことを理解した。


 この場にはいないであろう存在。あの場、あの公園にて別れたはずの少女……名無しと名乗っていた彼女が悠然とこっちに歩み寄って来る現実に、私は思わず言葉を詰まらせた。



「――どうして、ここにいるの?」

「ああ、後から思うところがあって走って追いかけた。日本太郎は気付いていたようだけどね」

「……走って? からかっている?」



 ……冗談、なのだろうか。いや、冗談ではないのだろう。



「出来るから私はここにいるんだよ。まあ、私はほら……『鬼』だからさ、そういうことも出来るわけよ」

「…………ああ、そう」



 いや、『鬼』ってあんた……あ、いや、そうじゃない。


 辛うじて動き出した頭で、わざわざ私の下へとやって来た理由を訪ねようと思った瞬間。からからと笑っていた彼女は……不意に、「なあ、あんた……」私の目を見つめた。





「また、同じことを繰り返すつもりかい? 私と同じような後悔を抱えるつもりなのか?」

 




 ――瞬間、痛みも何もかもが消えた。夜の冷たさも、脳天に響く痛みも、頬を伝う熱も、何もかもが消えて……彼女だけが、私の視界に残った。



「言っただろう、素直になれって」



 そんな私に対して、彼女から向けられた言葉が、それであった。



「……素直、に?」

「そもそも、あんたは何がしたいんだ? 何の為に、ここに来たんだ?」



 そう、改めて尋ねられた私は、「何って、それは……今の私を見せたいんだけど……」それ以上を答えられなかった。



「だったら、見せればいいじゃん。何を迷っているんだい?」

「それは、だって、見せるっていったって、今の私の何を見せたら……」

「何をって、全部だよ」

「全部って……」



 あっけらかんと言い放つ彼女に、私は思わず目を瞬かせた。だから、全部って具体的に何をどうすればいいということを、私は知り――。



「全部は全部さ。変に畏まろうとするのも含めた、全部を見せたらいい」

「――え?」

「何を驚いているのさ。全部見せるってことは、そういうことだろう?」



 ……。


 ……。


 …………しばしの間、私の中の全てが止まっていた。



 動き出したその瞬間は、私にも分からない。しかし、緩やかに、動き出す。と、同時に、頭の中に彼女の言葉が染み渡ってゆく。


 スーッと、耳から入ったそれらが脳天を通って心臓へ。そこから脈動に合わせて全身へと巡ってから、心臓を通って再び脳天へと……ふ、ふふ、ふふふ。



 ――ああ、そうか、そうだったのか。これもまた、私の『代償』なんだ。



 どうやら、私が考えている以上に、『代償』の影響は多岐に渡っているようだ。その反面、私以外の者から手助けしてもらえれば、こうもあっさり……なるほど、これもまた『代償』の一面なのか。



(コレと付き合って生きて行かなければならないのもまた、『代償』というわけか)



 願いに届かないようにする為の思考誘導すら、無意識に行われる。これはもはや『代償』というよりも、『呪い』だろう。思わず、苦笑が零れた。


 けれども、それは絶対的なモノではあるが、同時に、非常に弱いモノでもある。


 何せ、あれだけこんがらがっていた思考も、たった一言で解けたのだ。おそらく、彼女でなくとも……第三者の言葉一つでどうにかなる程度の、脆い呪いであるのは確かだ。



 それが分かっただけでも、良かった。



 私はこちらを見やる彼女に対し、「ありがとう、迷いが晴れたわ」お礼を述べてから……がばり、とセーターを捲って脱ぎ捨てた。これは、以前の私のモノだから。



「――っ、失礼」



 傍の日本太郎さんが、幾分か慌てた様子で私に背を向ける。構わず、下着姿になった私は……そのまま、一息に下着も脱ぎ捨て、裸体を夜風の中に晒し……最後に、靴も脱ぎ捨てて裸足になる。



 その瞬間……文字通り、私は、『今の私』になった。



 大きく両腕を広げ、胸を張る。『かつての私』はもう、どこにもない。視線を下げれば、『かつての私』は無造作にアスファルトに捨てられ、夜の闇の中へと溶け込んでいるかのようであった。



 ……不思議な気分であった。



 澱んで汚れていた脳細胞に、澄んだ雪解け水が浸み込んでゆくかのような、感覚。素肌を晒しただけなのに、まるで固まりに固まっていた皮を脱ぎ捨てたかのように……心が軽くなってゆく。


 そこに、羞恥心はない。誇らしさもなければ、性的な感情もない。あるのは、強烈な解放感。身動ぎするたび、見えない皮が肌から剥がれ落ちてゆくかのような錯覚すら、覚えた。


 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。


 熱が、唇から外へ。でも、寒くはない。吐き出した熱気よりも、胸の奥より湧き出す熱気の方がはるかに大きい。ともすれば、汗すら吹き出しそうな気さえしてくる。



「……こんなことで、私は悩んでいたわけか」



 絡みに絡み合っていた毛糸に手こずっていたのが、フッと閃いた直後にするりと呆気なく解けた。今の私の気分は、まさしくそのような気分であった。









 ……。


 ……。


 …………照明が落とされた病院の中は思いの外、肌寒い。(経費削減なのだろう)病室やナースステーション等の必要な場所を除き、空調も合わせて落とされているようだ。


 静まり返った廊下は外より幾らか温かさが残されているが、それはあくまで昼間の残照。ペタペタと、私は足音を立てながら、爺さんは運び込まれている場所へと足を進める。


 冬の寒さを感じさせる床の冷たさはなめらかで、掃除が行き届いている。壁に貼られたポスターには院内感染を防ぐ為の注意事項が記されていたり、献血への協力を促したりといったモノが記されている。


 薄らと嗅ぎ取れる、消毒液と空調設備の臭い。それらは昼間の喧騒を想起させ、ここが病院の中であることを……嫌でも、私に思い知らせてくる。


 始めて入る病院故に、何処に何の病室があるのかが分からない……はずなのだが、不思議と私には何処へ向かえば良いのかが分かっていた。


 だから、私の足は止まらない。迷いなく、目指すべき場所へ、行かなければならない場所へと、まっすぐ進んでゆく……と。



「――うぉ!?」



 ちょうど、最後の角を曲がった所だろうか。制服を着た、警備員らしき男が角を曲がって来て、私を目にした瞬間……ギョッと目を見開いて、硬直した。



 ……彼の背後には、自販機とベンチが設置されている休憩スペースがある。それ故に、そこだけは他と比べて明るい。


 どうやら、位置的に自販機のライトが私の身体を照らす形になっているようだ。その証拠に、最初は驚愕に目を見開いていた彼の視線が、私の胸や腰……まあ、全身を行き来し始めている。



 その顔は……困惑の色が強く表に出ていた。



 まあ、そりゃあそうだ。彼からすれば、裸体の異性とはいえ場所が場所だ。「あの、ど、どうされました……?」ここが繁華街ならまだしも、さすがに情欲よりも事件性を感じ取るのは、何ら不思議な事ではない。


 けれども……今は、彼に構っている暇はない。


 そう結論を出した私は、さっさと彼の横を通って先へ行く。すると、「あ、あの、待って!」彼はそう言って私の肩を掴んで止めた。



「その、何か事件があったんだよね? とりあえず、これを……上に連絡して、警察を呼ぶから!」



 振り返れば、彼はまくしたてるようにそう言って、私に……自分が今しがた着ていた制服を差し出して来た。



 ……それを、私は……無言のままに押し返した。



 当然、彼は困惑に目を瞬かせた。しかし、私は構わず彼の胸に制服ごと、伸ばされた腕を押しやる。そうしてから、私は彼から離れ、爺さんの下へ――。



「あの、待って!」


 ――向かおうとした瞬間、また呼ばれた。



 しつこい、これもまた『代償』の影響かと思って振り返れば……不安と心配とが入り混じる視線が、私に向けられていた。そこには、先ほど僅かに見せた情欲はなく……ただ、こちらを案じる思いだけがこもっていた。




 ……。


 ……。


 …………ああ、なるほど。



 しばし、視線の意味が分からなかった私だが……答えは、すぐに出た。



「……この先の集中治療室に、私の恩人が運ばれているの」

「え?」

「別に、事件とかじゃない。私は、恩人と交わした約束を果たしに行くだけ……この恰好は私なりの約束の形なの。どう、納得した?」

「あ、はい」



 あくまで声は平常のまま、それでいて少しばかり語気を強めにすれば、彼は心ここに有らずな様子で返事をした。


 久しぶりだが、やり方は忘れていない。手応えは十分なようで、状況は飲み込めないが、事件性が無いことだけは納得しているようであった……と。



 ――もしかして、高田文さん?



 ふと、唐突に彼が口走った言葉。同時に、顔を上げた彼の視線が、私を捉え……徐々に、その目が大きく見開かれ、遂には閉じていた唇まで大きく……。


 しぃ~、と。


 開かれ、声を発する前に。私は、唇を縦に遮るように指を一本立てて、これ以上は何も言うなというジェスチャーをした。彼にだけ聞こえ、最もリラックスできる声色で。


 そうすれば、ほら……彼はもう、ぽかんとした様子で、心を何処かに飛ばしてしまっている。しばらくすれば目を覚ますだろうが、今は無理だろう。



「職務ご苦労、それじゃあ」



 なので、私はさっさとその場を離れて先へ行った。







 ……そうして、長いようで短かった行程も終わる。爺さんが運び込まれているのは、建物の裏手側……1階奥の集中治療室。


 日本太郎さんの話では、爺さんは既に意識も混濁していて、かなり危険な状況にあるらしい。


 心臓に病を抱えていたとか、昔の病気が再発していたとか。12歳の私が出会ったあの時も実は闘病中(その時は、薬で安定していたらしい)で、最近になって一気に病状が悪化した。


 ……元々、薬で痛みや症状を散らすことはやっても、手術などによる延命治療は拒否していたらしい。


 だから、体力はかなり落ち込んでいる。そのうえ、年齢的にも今からの対処は難しいらしく、手術をしても身体が手術に耐えきれず、術後まもなく……となる可能性が非常に高いとのこと。


 なので、現時点で行われている処置は酸素吸入と鎮痛剤の投与だけ。それ以上の事はもう何も出来ない……という事だそうな。



(会えなかったら会えなかったで、縁が無かったということか……変な所で潔いというか、相変わらず何を考えているか分からない人だ)



 思わず、苦笑してしまう。どうやって日本太郎さんがそれを把握していたのかはさておき、爺さんが峠を迎えているというのは、『代償』を通じて感覚的に分かっている。


 だから、その事については何も驚いていない。私はもう、覚悟が出来ているから……とはいえ、だ。



(端方さん、緒方さん、山口さん……)



 集中治療室に入って、すぐ。電子機器の音が規則的に鳴っている室内にいたのは、一人の医師と……見覚えのある三人であった。


 考えてみれば、この三人がいても不思議ではない。


 最初に出会った時も、この三人とだけは親しそうにしていたから。「……お久しぶりです」なので、私は3人に向かって頭を下げた……と。



「き、君、どうしたんだ?」



 振り返った全員の内、医師が最初に反応を示した。医療関係者故に、同性異性問わず肌は見慣れているのだろう。一瞬ばかり驚いて動きを止めたが、我に返るのは誰よりも速かった。



「――待ってください」



 だが、その手が私に伸びる事はなかった。何故なら、それをするよりも前に、医師の手を……端方さんが止めたからだった。


 医師からすれば、不思議でしかないのだろう。しかし、端方さんは訝しむ視線を受けながらも医師を制止し続け……その間、ずっと私を見つめ……ふと。



「……もしかして、文ちゃん?」



 ぽつりと、私の名を呼んだ。瞬間、目を剥いてこちらを見やった緒方さんと山口さん……3人を前に、私は一つ、頷いた。


 ……まだ、私の事を覚えていてくれたのか。


 それは、私にとって喜ばしい事実であった。けれども、今は感傷に浸っている場合ではない。


 呆気に取られている4人(医師を含めて)を他所に、私は彼らの前を通り……寝台にて横たわっている芦田虎雄を見下ろした。



 ――その姿は、今にも消えようとしている蝋燭のようであった。



 病状が悪化した影響なのだろう。最後に見た時よりも、肉が削ぎ落ちている。頬はこけ、無精ヒゲはそのままに、あの時見せていた胡散臭い雰囲気は見る影もない。


 掛けられたブランケットから出ている腕は、骨と皮だ。いや、腕だけじゃない。血管が浮き出て皮がたるんだ胸元などには、衰弱の状態がまざまざと現れていた。



 ……目は、静かに閉じられている。開く気配は、全く無い。



 見れば、取り付けられた酸素吸入器が、シューッと音を立てている。口周りを覆うプラスチックが、僅かにくもっている。まだ、生きている……辛うじてだけれども、まだ。




「……爺さん、約束を果たしに来たよ」




 ポツリと、己に言い聞かせる意味もあって呟いたその言葉。背後で、気配がたじろいだような気がしたが……構わず、三回ほど深呼吸を行った後。




 ――想いを、言葉に変えた。




 それは、私の、『俺』の、『私たち』の、オリジナル。『俺』の記憶にしかない歌たちの模倣ではない。


 間もなく死を迎える爺さんへの、私が出来る恩返し……最初で最後の、ララバイ(子守唄)であった。




 歌詞の調整も、音程の調整も無い。

 ただ、心のままに。ただ、想いのままに。

 私は、歌う。心を込めて、想いを込めて。

 作り出した出来立ての五線譜に、感情を乗せて。


 ――想いを、歌う。たった一人の為に、私の全てを込めて。


 遮るモノは、何も無い。ここにいる私は、今の私だけ。

 かつての私は何処にも無くて、有るのは私だけ。

 そこに、違いは無い。私も、『俺』も、『私たち』も、無い。

 とても、不思議な感覚であった。でも、嫌ではない。

 私の中にあった全てが混ざり合い、一つになってゆく。

 私の歌に、『俺』の歌が重なる。そこから、『わたくし』が混じる。

 次いで『ぼく』が、『あたし』が、『わし』が……重なってゆく。

 そうして気付けば、私は1人になっていた。でも、独りじゃない。


 ――爺さん、聞こえているか。これが、今の私だ。


 積み重ねてきた私たちによって育まれた、今の私。

 幾つも存在していた『私たち』はもう、いない。

 今の私は、一人だ。だが、消えたわけじゃない。

 私は一人だ。でも、この想いは1人じゃないんだ。


 ――ただ、歌う。あなたの為の、ララバイを。






 ……それは、時間にして2分にも満たない歌であった。



 けれども、その2分を歌い終えた瞬間。私は、精も根も尽き果てていた。その場に膝をついてしまうぐらいに、消耗していた。


 負荷の強い運動をしたわけでもないのに、息が乱れてしまう。堪らず両手を付けば、顔に浮かんでいた汗がぽたぽたと床へと滴った。



 これほどに疲労を覚えたのは……何時以来だろうか。



 くらくらと、視界が揺らぐ。足が、震える。しばらくは、自力で立ち上がることすら無理そうだ……と。


 不意に、眼前に二つの手が差し出された。


 思わず顔を上げれば、こちらに向かって手を伸ばしている端方さんと、緒方さん。目を瞬かせる私とは対称に、二人の目には……涙で潤んでいた。


 いや、二人だけじゃない。


 見やれば、部屋の隅にて口元を隠して嗚咽を零している医師の姿もある。背中からでも涙を堪えて我慢しているのが分かった。



(……何で、泣いているんだろう?)



 意味が分からないが、とりあえず二人の手を取って立ち上がる。途端、足腰が崩れて倒れそうになるが、その前に二人から支えられた……直後、背中から何かを掛けられた。



「年頃の娘が、何時までもそんな恰好をするんじゃないの」



 そう私に声を掛けたのは、山口さんだった。見やれば厚手のコートが私の肩に掛けられ、肌を隠すようにするりと巻かれ……そこで初めて……静まり返っている爺さんに気付いた。



 爺さんは……息を引き取っていた。



 不規則ながらも湿っていた吸入器も、今は止まっている。今更ながらに認識する、心電図のアラーム音。僅かに上下していた胸元も……そうして、見つめていると。



「見て、文ちゃん。芦田さん、笑っているわ」



 何も言えないでいる私を他所に、山口さんはそう言って爺さんの口周りを覆っていた酸素吸入器を外す。露わになったそこを見て、「あっ……」私は思わず声を漏らした。



 ――笑っている。確かに、笑っていた。



 まるで、楽しいモノを前にした子供のように。頬が吊り上り、目尻が下がり……そんな、穏やかな笑みを浮かべたまま、爺さんは最後を迎えて……ああ、そうか。


 その笑みを見た瞬間――私は、自分が涙を流している事に気付く。


 止める事も出来ないまま、頬を伝ってゆく。ぽたり、と、胸元に落ちたその熱が……理解となって、私の中に広がり、それが新たな涙となって頬を伝ってゆく。


 けれども、悲しくはない。いや、むしろ、嬉しかった。


 私の願いは、結局のところは届かなかった。爺さんの願いも、結局は届かなかったのかもしれない。しかし、それでも……一つだけ、分かる事があった。


 願いは届かなくても……想いは届けられたのだということを。




 ……。


 ……。


 …………そうして、しばしの間、涙を流していると。



「……凄い歌だったよ。俺の音楽人生の中で、一番だと胸を張って言えるぐらいの……素晴らしい歌だった」



 袖で涙を拭っていた端方さんから、そんな評価を貰った。「ああ……歌で涙が出たのは、これが初めてだ」そして、その評価は緒方さんも、山口さんも……ついでに、医師も同意見のようだった。



「ところで、文ちゃん。今後は、芸能界に復帰するつもりなのかい?」


 ――と、思っていたら。


「いきなりなによ、藪から棒ね」



 前ふりもない唐突な話題に、私は思わず涙を止めて端方さんを見やった。



「芦田さんの口癖じゃないけど、俺は……いや、俺たちは冗談でこんな話はしないよ」



 しかし、困惑する私を尻目に、端方さん……だけでなく、私を見つめる緒方さんと山口さんの目も、力強い本気の目をしていた。



「以前のダウナーな感じも素敵だったけど、今の君も素敵だ。いや、前以上に、全身からパワーというか、存在感というものが溢れているのが分かる」

「……そうかしら?」

「そうだよ。俺はね、生まれて初めて人間に対して畏怖の念を抱いた。だからこそ、思ったんだ。君がどこまで駆け上がるのかを、この目で見てみたい……と」



 言われて、私は……不思議と、悪い気はしなかった。


 いや、悪い気どころではない。


 この気持ちをどう言い表せば良いのかが分からないが、今の私は……とにかく、自分とは思えないぐらいのやる気に満ちているのを自覚する。


 その熱気は、かつての私が抱いていた熱気に、よく似ている。


 でも、決定的に違う点が一つある。


 それは、燃え上がれば燃え上がるほど冷たく煮え滾っていた前とは違い、今のこれは……まるで青空に浮かぶ太陽のように、何処までも広がる爽快感を伴う、心地良い熱気であった。



 ……芸能界、か。



 それほど悪い思い出は無いが、大して良い思い出もない世界。しかし、それは爺さんを始めとして、今の私を作り上げた世界の一つでもある。



 ……やるだけ、やってみるか。



 そう、心の中で決めた瞬間。ふう、と吐いた溜め息と共に……カチリと、私の中のナニカが動き出したような気がした。


 それが何なのかは分からないけれども……何か、私にとっては大切な何かなのだろうという事だけは……と。



「……そういえば、さっきの曲なんだけど」



 昂揚感に身を任せていると、不意に尋ねられた。振り返れば、端方さんが興味深そうに首を傾げていた。



「アレは、オリジナルだよね。曲名はもう、決まっているのかい?」

「曲名……ああ、それなら決まっているわよ」

「差し支えなければ、聞いても?」

「『修羅の願いは届かない』よ。ジャンルは、ララバイ(子守唄)」



 端方さんから、そう尋ねられた私は……すぐに、答えた。


 初めからそこにあったかのように、その曲名は……私の中から、ふわりと湧き出した。



「……修羅? ララバイ(子守唄)なのに、ずいぶんと物騒な名前だね」

「いいのよ、それで」



 曲名に困惑する端方さんたちを他所に、私は……ただ、一言だけ。



「だって、これは私が歌うララバイ(子守唄)なのだから」



 そう答え、私は笑ったのだった。



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