第十一話 憎悪の行き先
とりあえず、『もうすぐそこに着くから!』という爺さんからの通話が切れて、すぐ。
私は、上手く思考が動かない頭を何とか動かして、部屋着から外出着へと着替える。そうして、ぼんやりした意識のまま待っていると。
……勝手知ったると言わんばかりに、爺さんが合い鍵を片手に入って来た。
爺さんは私を目にした瞬間、私の手を取った。連れられるがまま車に乗せられ、新幹線のホームへ。ぼんやりした頭のまま、そのまま新幹線に乗り込み……揺れる事、幾しばらく。
地元に私が到着したのは、もう日も暮れた頃であった。
そのまま私は爺さんに手を引かれるがままホームを下りて、タクシーを使って病院へと……あいつらの遺体が安置されている病院へと、向かう。
その途中、様々なモノが見えて来る。タクシーの窓から見える外の景色は……私が此処を出た時から、ほとんど変わっていないように思えた。
約3年……そう、3年だ。
徐々にライトを付ける車が増え始めている最中、私は……ふと、思う。
3年ぶりに見る景色はどこも見覚えがあって、けれども、何処となく見覚えがない。まあ、所詮は小学生の動ける行動範囲だし、あくまで外から見た程度でしかない。
例えば、駅を出てすぐの所にあるドーナツ屋は見覚えがある。だが、その中がどうなっているかを私は知らない。興味は有ったが、あいつらに好みを知られるのが嫌だったから。
例えば、大通りの交差点を曲がった先にある大きな電気屋は知っている。だが、その中がどうなっているかはあまり覚えていない。同伴するあいつらが嫌で嫌で堪らなかったから。
例えば、例えば、例えば、例えば……通り過ぎてゆく景色を見送りながら、止め処なく色々な事を思い返し……ふと、私は何も知らないでいる事実に、舌打ちをした。
(……ああ、忌々しい)
故郷というには、些か狭い。年数だって、そう長くはない。大して愛着など抱いた覚えはなかったが、それでも……心に入り込むこの感覚は、何なのだろうか。
悲しみではない。断じて、コレは悲しみではない。だが、空しさとも違う。怒りとも違うし、哀愁でもない。
ただ……どうしようもない感覚だけが、胸中にて脈動している。掻き毟りたくなるような、嫌な感覚で……と。
「……何よ?」
視線を感じて振り向けば、爺さんと目が合った。だが、爺さんは何も言わず、黙って首を横に振って……窓の外へと視線を向けた。
――反射的に舌打ちを零した瞬間、私は……思わず、口元を手で押さえた。
無意識に、苛立っているのかもしれない。いや、苛立っている。それを認識した私は、深呼吸をして……苛立ちを抑える。
……爺さんの意味深な態度というか、食えない態度は何時もの事だ。
言い換えれば、その何時もの事が鼻についてしまうぐらいに、今の自分は平静ではない。余裕が、ない。
……これは、らしくない。『私』はしばらく引っ込んでいた方が良さそうだ。
そう判断した私は、何時ものように『私』を『私たち』の誰かに入れ替えようと……思ったが、おや、と私は目を瞬かせた。
何故ならば、『私たち』の誰もが、『私』と似たような心理状況にあるのが伝わって来たからだ。
というか、むしろ逆だった。『私たち』の中で、最も平静でいるのが『私』のようで……不本意だが、このまま主導権を所有している方が良いかもしれない……そう、思った。
……そうして、到着した病院は……何というか、探せば幾らでも見つかりそうな大きさと古さが伴っている市民病院であった。
特別な真新しさもなければ、極端に年月を感じさせるわけでもない。強いて印象を上げるのならば、普通だ。
バリアフリーも後から増設されたのか窺い知れる諸々を横目に……救急外来用の入口より中へと入った私が最初に感じたのは、消毒液の臭いであった。
時刻はもう、夜だ。それ故に、院内の消灯は幾らか落とされ、人の気配はほとんどない。パッと見た限りでは、私と同じく緊急的にやってきた者たちばかりだ。
そこに、老若男女の区別はない。私より年若い子もいれば、老人たちの姿、親子らしき姿もある。誰もが、無言のままに椅子に座っている。
……静かだ。
いちおう、傍の救急外来の中では医師たちが処置を行って物音がかすかに聞こえる。つまり、それが聞こえるぐらいに静まり返っているというわけ……と。
「――文くん、こっちだ」
呼ばれて、振り返る。目が合った爺さんと医師(あるいは、看護師なのかもしれない)に連れられるがまま、エレベーターに乗り……地下へ。
人通りどころか、もう何年も人が入っていないと思わせる静まり返った廊下を進み……プレートすら張られていない扉の前で、爺さんたちが立ち止まった。
……霊安室なのだろう。無言のままに、視線で促された。
一つ頷けば、医師が扉を開ける……けれども、誰も入らない。最初に行けということかと察した私は、そのまま中へと……そして。
――大して広くもない室内にて並べられた3つのベッドに安置された、3つの遺体を前にした。
……僅かに臭う消毒液などの薬液の臭いを除けば、室内はほぼ無臭だった。
地下なので窓は無く、線香を始めとした仏具などは設置されていない。大きな病院によっては少しばかりサービスしてくれるところもあるらしいが、ここは違うようだ。
かち、かち、かち。壁に設置された時計の秒針が、妙に煩く思える。
背後から向けられる視線を感じながら、私は無言のままに……遺体を覆っている布を取ってやる。すると、露わになったのは……痛々しい傷口が縫合された、あの男の顔であった。
「顔の傷は――」
「それよりも、アレは、なに?」
説明しようとした意志を、直前に黙らせる。男の顔ではない、私の視線の先……部屋の隅に置かれた折りたたみテーブルの上に並べられたソレに、「――ああ、それですか」医師は少しばかり目を瞬かせて答えた。
「私も詳しくは聞いていないのですが、車の中にあった遺品らしいです。警察の話だとフシミ健康ランドで売られている物だそうで……事故は、そこへ向かう途中で起こったそうです」
「……そう、ありがとう。少し、一人にしてちょうだい」
状況が状況だから、医師は特に気分を害した様子もなく、「では、用が有れば1階の救急外来へ……」それだけを言い残して部屋を出て行った。
「……僕は、1階の正面受付の方にいるよ」
それを見て、爺さんも気を利かせたつもりなのだろう。
何やら意味深な目で私を何度も見やった爺さんは、何かを言いよどむかのように何度も唇を震わせた後……無言のままに部屋を出て行った。
……。
……。
…………後に残されたのは、私だけであった。
生きているのは、私だけだ。その証拠に……顔を覆っている布を取れば一目で分かる。あの女も、姉も……目を瞑ったまま、呼吸一つしていない。
死化粧は既に終えているのか、目立つ傷口は全て縫合され、血は拭われている。そっと、あの女の頬に触れれば……冷たくなっていた。
……どうやら、既に冷やされているようだ。
まあ、季節が季節だ。人間大の死肉なんぞ、早急に冷やさなければあっという間に腐敗が始まってしまう。軽く掛布団を捲れば、胸や腹などにアイスブロックが置かれていた。
……。
……。
…………ああ、やっぱり死んでいるのか。
それを見て、改めて私は……こいつらが死んでいる事を思い知らされた。
……。
……。
…………その、直後。
「――まさか」
私は――気付いてしまった。
「これが……これこそが、『代償』なのか」
それはまるで、回路のスイッチを切り替えるかのような感覚であった。がちゃん、と頭の中でスイッチを切り替えた、その瞬間……その時にはもう、私は『代償』の正体を理解していた。
私が本当に望んだモノ。今世の全てを捧げてでもやり遂げようとした復讐の相手が……叶う直前で果たせなくなる。
――つまり、私の願いが、本当に私が欲しているモノは、有象無象の区別なく……私の前から消えてしまう。
私がまだ『俺』だった頃に愛した音楽等が無くなっているのも、そうだ。私になってもまだアレらは愛している。
だから、ここには……この世界には、始めから存在していない事になっている。
それが、私に与えられた『代償』。
願いを手にする為に得た力は全て、願いには絶対に届かない。そして、その『代償』によって生み出された結果が……眼前のそれらであって……私は、それらが心から気に入らなかった。
「何で?」
だからこそ私は……否、『私たち』の胸中に沸き立ったのは。
「何で……何故、何故、何故、何故!」
自分でもどうしよもない……爆発的としか言いようがない。
「――お前ら、何で仲直りしているんだよ!」
とてつもない……溜めに溜め込み続けた、憎悪であった。
フシミ健康ランド……それは、姉がまだ小学生だった頃。一時期『お風呂』というモノに嵌っていた姉の要望の下、私も一緒に連れられた温泉施設である。
私は特に思う事はない、苦痛しか感じなかった思い出だが……分かる。
家族仲良く行った、その思い出は、あの3人が今みたいにこじれる前の、輝かしくも温かかった過去の象徴。あの3人にとっては……かけがえのない、思い出の一時。
「行かなかっただろう! 今の今まで、行かなかっただろう! それを何故! 何でだ! そうならないように、時間を掛けて滅茶苦茶にしてやっただろう!」
テーブルに並べられたソレの一つは、姉が好きだったお菓子だ。それを、私は――渾身の力を込めて踏みつける。
ばん、と。中の空気が弾けて、スナックの臭いと欠片が室内に飛び散る。けれども、私は構わず……一緒に置かれた他の菓子を、3人に投げつけた。
「何故――死んだ! 仲直りするぐらいなら、この手でお前らの首をへし折ってやりたかったのに!」
そう叫んだ瞬間、拳に衝撃が走った。と、同時に、あの男がベッドから飛び出して、ばたんと床を転がった。ごろりと露わになった顔の骨が……べっこりと凹んでいた。
――無意識に振り被った拳で、殴りつけた。
それを私が理解したが、だから何だという話だ。その程度で、この怒りが……この無念が治まるわけもない。「――くそが!」そのまま、私はあの女をベッドから引っ張り出して……馬乗りになると。
渾身の力を込めた拳を、叩き付けた。
骨が砕ける音と感触が、した。と、同時に、ぴりぴりとした痛みと痺れが拳から走る――が、構わず、私は二撃目を物言わぬ亡骸へと放つ。
鼻が、砕ける。べりっ、と。皮膚の下に留まっていた血液が、指に付着する。それを、お返しする為に三撃目を叩き込む。
頬骨が、割れた。四撃目は、顎先を。五撃目は、反対の頬骨を。六撃目は、砕いた頬骨をさらに砕き……なおも、叩き込む。
怒りが、止まらない。憎悪が噴き出している。砕いて砕いて砕いて砕いて……生前にこそしたかった後悔を、流し込む。
女が終われば、次はあの男だ。同じく馬乗りになって、亡骸に拳を叩き込む。自分の指が折れたのが分かったが、構わず顔の形を変えてやる。
それが終われば、最後は姉だ。姉もこいつらと同様に、その顔を砕いてやる。いや、それだけに留まらず、全身の体重を込めて……骨盤ごと、子宮がある下腹部に蹴りを叩き込む。
この身体を得て、『私』になってから初めてとなる、本気の暴力。『願い』によって得た超人的なフィジカルを、相手を破壊する為だけに全力を注ぐ。
面白いように、人の身体が変形する。空しさすら覚えるぐらいに、皮膚が裂けて骨が砕けて臓腑が傷つく。致命傷を、次々に与えてゆく。
……。
……。
…………与える、だけだった。
「はあ! はあ! はあ!」
全身の臓腑が溶けて煮え滾る感覚と共に、私は……歪な形になった肉の袋から立ち上がる。私の耳には、私自身の鼓動と呼吸と、時計の音しか入ってこない。
両手から滴り落ちるのは、こいつらの臓腑から浸み出した冷たくも穢れた血か。
それとも、砕けた骨が皮膚を突き破って溢れ出した傷口から流れた、己の血か。
私には……いや、『私たち』には分からなかった。
「…………」
無言のままに、両手を見やる。歪に変形した両手は、ほとんどの人から『一刻も早く病院へ』と判断されるぐらいの負傷だろう。
……が、しかし。
今の私ならば、この程度は負傷にならない。その証拠に……ぺきぺきと音を立てて骨が内部へと引っ込んだかと思えば、裂けた肉と皮膚が修復され……5分と経たない内に、私の手は元通りになった。
超人的……いや、もはや怪物染みた回復力。小学生の時から片鱗を感じ取り、最近は特にそれを強く意識するようにはなっていた……今まで、私はそれを都合の良い道具程度に思っていた。
無いよりは、有る方が良い。弱いよりは、強い方が良い。
強いやつの庇護を得る為に弱さを武器にするのは否定しない。だが、見方を変えれば、強いやつのお気持ち一つで立場がガラリと変わってしまうということ。
だから、力を欲した。
いざとなれば素手でこいつらを殺せるだけの力を、苦しんで苦しんで苦しみ抜いたうえで死を選ばせるように、素手でこいつらをどうにか出来る力を……『フィジカル』という曖昧な言葉で欲した。
結果、曖昧に望んだモノだけは手に入った。本気でこいつらを殴った事で、改めて理解した。
今の私なら、素手で人間を殺すぐらいは簡単に出来る。拳で相手を殴るだけで、殺せるのだ。いや、殴るだけじゃなくて、色々な方法で。
首を掴めば容易く窒息死させられるし、そのまま折る事が出来る。蹴りを放てば臓腑を破裂させられるし、頬に張り手を打てば、脳に致命的な損傷を与えることだって……簡単だ。
……だが、それに何の意味がある?
殺したいぐらいに憎んでいた相手は、勝手に死んだ。こいつらの魂はもう、ここにはない。ここにあるのは、こいつらの亡骸であって、こいつらではない。
たとえ、私の糞尿塗れにしようが、こいつらは何も感じない。生命活動を停止して冷え切った肉体、後は腐敗し悪臭を放つだけの、物言わぬ有機物でしかないのだから。
……今日までの私は、『俺』は、『私たち』は、何だったんだ?
わずかに立ち昇る、血の臭い。もう落ち着き始めている己の鼓動をぼんやりと感じ取りながら……気付けば、私はその場に座り込んでいた。
――全てが、徒労になってしまった。
何もかもが、私の手の届かない場所に行ってしまった。私が目指した復讐の果てに辿り着く前に……全てが、終わってしまった。
……時間にして、約15年。
それだけの日数を、私は、『俺』は、『私たち』は……復讐の為だけに費やしてきた。傍目には自分を磨いてきた年月に思えるだろうが、私にとっては全て復讐の為だった。
美しくなろうとしたのも、肉体を鍛えていたのも、芸能界に入ったのも、歌を出したりドラマに出たりして有名になったのも、それら大本は……こいつらの依存先になるため。
その第一歩として、こいつらの金銭感覚を壊し、経済的に私に依存させた。私の影響で不安定になった姉から目を逸らす為に、こいつらはより金にのめり込んだ。
対して姉は、そんな両親の気を引きたいために非行をエスカレートさせていった。けれども、私はさらに金を送り……悪循環によって、あの家はもう半ば機能不全に陥っていた。
私が輝けば輝くほどに濃くなる影……それが、こいつらだ。
だが、そうではなかった。確かに壊したはずなのに、それなのに、こいつらは立ち直っていた。もしかしたら違うのかもしれないが、私にはそうとしか思えなかった……と。
――ぷすん、と。
自分の中にある何かに、穴が開く音を聞いた気がした。
それが何なのかは分からない……というか、どうでもいい。罵声をぶつける気力すら、湧かない。ただ、どうしようもない……無力感だけが、私の中で渦巻いていた。
――もう、何もかもが、どうでもいい。
そう思うと同時に立ち上がった私は……とりあえず、外に出る。アレと一緒の部屋にいるのが、嫌だったから……でも、どうしたらいい?
――そこから先……私は、何をすればいいんだ?
どうにも、頭が動いてくれない。辛うじて身体は動いてくれるから、何とか手足を動かして……爺さんが待つ1階の正面受付へと向かう。
エレベーターを降りた私は、ぐるりと辺りを見回し……壁に設置された時計を見上げる。気付かないうちに、1時間近い間、私はあの場にいたようだ。
……時間が時間だからか、病院に来た時よりも人の気配がない。
古ぼけたポスターに、幾らか汚れが見られる年期の入った壁のシミ。ワックスが掛けられた床も同様で、僅かばかり……塗装が剥げているのも見受けられた。
……そうして人の気配が途絶えた薄暗がりの廊下を進むと、正面受付に出る。
まあ、受付といっても職員は一人もいない。時間が来たら全ての受け付けは『救急外来』が担うからで、ここにあるのは……並べられたソファーやら椅子だけであった。
その中で、爺さんの背中はすぐに見つかった。ちょうど、自販機の正面に設置されたソファーに腰を下ろしている。その手には、缶コーヒーが握り締められていた……と。
「――っ!?」
私の気配に気づいたのか、爺さんはフッと顔を上げ……私の姿を目にした瞬間、大きく目を見開いた。
かたん、と手から零れ落とした缶コーヒーが、床へ流れ出ているのを尻目に、足早に私の下へとやってきた爺さんは……しばし私を見下ろした後、大きく息を吐いた。
「その手は、どうしたんだい?」
「……ああ、これ?」
尋ねられたので、「あいつらを殴って汚れた」率直に答えた。
「……怪我は、していないわけだね」
すると、爺さんは……どう、表現したら良いのだろうか。初めて見る表情に目を瞬かせる私を他所に、爺さんは……屈んで、私と目線を合わせた。
次いで、爺さんは私の手を取った。赤黒く汚れて、異臭を放っている私の手を包み込むようにして……そのまま、爺さんは黙ってしまった。
……。
……。
…………沈黙が、私たちの間を流れている。張り巡らされた蜘蛛の糸を掻き分けるかのような、気持ち悪さを伴った静けさだった。
私は、静かなのは嫌いではない。だが、こういう静けさは嫌いだ。声一つ出す事すら憚れるような、こんな静けさは……と、思ったら。
「――君は、どうしたいんだい?」
何時ものように、これまでと同じく、爺さんはまるで私の内心を読んでいるかのように、焦れた私が唇を開く前に……尋ねてきた。
……どうしたい?
その質問に、私は首を傾げる事しか出来なかった。何故なら、私にとって生きるということは、あいつらへの復讐であったからだ。
ただ、あいつらが苦しむ為に。ただ、『俺』が受けた苦しみを少しでもあいつらに……ただ、それだけを望んで今日まで来た。
だが、それも今日まで。あいつらはもう、死んだ。私の手に掛かることなく、勝手に死んだ。
心血を注ぎ続けた私の努力と憎悪をあざ笑うかのように、あいつらは……家族として、夫婦として、親として、子として、私の手が届かない場所へと行ってしまった。
……まるで、道化だ。
いや、まるでじゃない。正しく、私は道化だ。何も成せなかった、哀れな道化だ。私がやって来た事は、結局のところ……何の意味もなかったのだ。
ただ、私はあいつらに分不相応の贅沢をさせただけだった。結果的に私は、あいつらにとっては親孝行な娘でしかなかった。
あまりに、受け入れがたい現実……と、不意に、頬を包み込む掌。そっと顔を上げた私の目に止まったのは……そんな私を見つめる、爺さんの力強い眼差しであった。
「もう一度、聞こう。君は、どうしたいんだい?」
どう、したい……そんなの、そんな事なんて。
「……何も無い」
「何も? 何一つ無いのかい?」
「私は、負けたんだ。『俺』は、『私』は、『私たち』は……あいつらに負けたんだ」
「……負けたとは、どういう意味だい?」
「そのままだよ……『私たち』の全てを掛けた計画は、終わった。もう、私には何も無い。何一つ、する気もない」
そこまで言い終えた辺りで、「……ああ、映画ならちゃんと出るから安心しなよ」ふと、爺さんが考えているであろう不安に答えてやった。
売れっ子で有ろうが無かろうが、気分でどうにか動いて良いわけがない。どの段階にまで至っているかは知らないが、既に相当なお金が動いているのは想像するまでもない。
私としては、それは親切心のつもりであった。3年という期間とはいえ、相応に芸能界事情というものには接してきた……だから、爺さんの面子もある以上、私は映画に出るつ――っ!?
そこまで考えた瞬間、頬に衝撃が走った。とはいえ、痛みはない。
ただ、驚いただけだ。これまで私に対して敬意を払い、穏やかな調子で接してきていた爺さんからの、張り手。
あまりに予想外の状況に、私は冷たい眼差しを向ける爺さんを見上げる他出来なかった。
「自惚れもそこまでだよ、文くん」
「え?」
「僕が惚れたのは、昨日までの君だ。相手が好む性格を瞬時に理解し、幾人もの自分を人格レベルに使い分け、声や仕草を使って意図的に、息を吐くように容易く他者を魅了していた……昨日までの君だ」
「……今は?」
「はっきり言えば、今の君は抜け殻だ。世界を魅了した『TAKADA AYA』と同じ姿をした、朽ち果てようとしている皮だ。僕が欲しかったのは中身だ。大金を積まれたって、抜け殻のプロデュースなどしたくない」
「…………」
「煌々と輝く太陽に焦がれる者はいても、燃え尽きて転がった石ころに目を向けるモノ好きは少数だ。今の君は、その少数の心にしか響かない……そんな15歳の少女になっているんだよ」
「…………そう、か」
何も、言えなかった。というより、何かを言う気力すら、今の私にはなかった。
爺さんの言う通り、今の私は抜け殻だ。燃え尽きて灰になり掛けている、黒焦げの木片だ。
そんな存在を、爺さんは求めるだろうか……求めないだろう。
付き合いはそう長くはないが、これでも私は爺さんの性格をある程度は分かっていた。
だからこそ否定せず受け入れた私は、「……さようなら」そっと爺さんの手を外し、背を向け歩き出して……すぐに、足が止まった。
何処へ行こう……何処へ向かえば良いのだろうか。
何をすれば良いのかが、分からない。復讐の相手はいなくなり、芸能界に身を置く理由すら無くなった。抜け殻でしかない今の私は……どこに進めば良いのだろうか。
「――今の君は、振り上げた拳を下ろせなくなって途方に暮れる、哀れで意固地な男みたいなものだ」
どうしたらいいのか悩んでいると、背後から爺さんの声が響いた。
振り返れば、「だから、まずは拳を振り下ろすところからだよ」何時もの……何というか、胡散臭さを感じさせる笑みを、爺さんは浮かべていた。
「拳を……振り下ろす?」
「君は私が知る限り誰よりも器用だが、誰よりも不器用な面がある。何を始めるにせよ、終わらせるにせよ、まずは振り上げた拳を下さなくてはならない」
「……どうしろと?」
「それは、君が決める事だ。君が納得しない限り、君は何も掴めない。掲げた腕で出来ることなんて、電球を変えるぐらいが関の山だよ」
「なに、それ?」
「おや、ウケないね。私の自伝にも載せている決め台詞なんだけど」
「面白くはないけど、嫌いじゃないわ」
思わず……あまりにつまらない事を言う爺さんに、私は苦笑した。
「握手をするには、相手と目線を合わせなければならないからね」けれども、爺さんは大真面目な様子で……不意に、笑みを引っ込めた。
「後の事は、私に任せなさい」
「……それは、どういう意味で?」
「ここの医師にも話は通しておくし、葬儀やその他諸々は僕の方でやっておく。君は、振り上げた拳の下ろす方法を考えていなさい」
その言葉に、私は「――何時になるかは分からない」とだけ答えた。
「何時までも、君の帰りを待っているよ……都内の自宅に、帰るのかい?」
すると、爺さんはそう返事をした。頷いて答えれば……次いで。
「車は、いるかい?」
そう、尋ねてきたので。
「いらない……今はただ、独りになりたい」
私は、そう答えた。
爺さんはそれ以上、何も言わなかった。中学生の女の子が、数百キロ近い距離を徒歩で帰ろうとしているのに……何も言わなかった。
その事実が、不思議と……私には嬉しかった。それはまるで、『俺』がまだ無邪気に他人を信じていられた時を思い出させる……嫌な感覚であった。
だから、私も何も言わず……両手に付着した血もそのままに、病院を出る。
当然、途中で何人もの(病院のスタッフ、外来者、問わず)人達から不審な目を向けられたが……構う事はない。
昼間の熱気が強く残る、アスファルトの臭い。己から立ち昇る血の臭いと混じるのを感じながら……私は、無言のままに歩き出したのであった。
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