第十話 日常が終わる修羅



 ――そうしてふと、唐突に。



「……納豆入り出し巻き玉子が食べたい」



 そんな言葉が、私の口から飛び出した。


 ……何でそれを食べたいと思ったのか、それは私にも分からない。


 ただ、エアコンの聞いた自室の中で何時ものように筋トレを終えて、プロテインを摂取した後。


 何気なくテレビを点けた時、『出し巻き玉子に何を混ぜる?』というフレーズを目にしたのが今から二時間前……ああ、それが原因か。



 ……いや、まあ、理由は何であれ、食べたくなったのだ。



 買いに行こうか……いや、面倒だ。むくりとベッドから身体を起こした私は、リビングへと向かい……冷蔵庫を開ける。卵はあるが、納豆は無い。



 ……納豆を買いに行くか。



 そう思った私は、床を転がっていた麦わら帽子を被って、スマホを片手に玄関を出る。途端、家の外……正確にはマンションの廊下だが、扉を出てすぐの所で立っている二人のスーツの男が、私を見た。



「――高田様、お出かけですか?」



 直後、小走りで私の元に駆け寄って来た二人。その内の一人、オールバックの髪型をした『鈴木(すずき)』が、私に話しかけてきた。



「ちょっと、納豆を買いに行くだけよ」

「……納豆、ですか?」

「納豆入り出し巻き玉子が食べたくなったの。納豆が無いから、納豆を買いに行くのよ」

「それなら、私たちが買いに行けます。御自宅でお休みいただいてもらって構いませんが……どうしますか?」

「ついでに外の空気も吸いたくなったから。車を回してちょうだい」

「了解致しました……少々お待ちください」



 そう答えてすぐ、男は胸元から取り出したスマホで連絡を取り始めた。残った一人……坊主頭の彼の名は『佐藤(さとう)』。周囲に視線を配っては何時でも動けるように身構えている。


 ……彼らは何者なのか。一言でいえば、ボディガード(SP)だ。


 言っておくが、私が雇ったわけではない。


 公表していないが、現時点での私の握力は100kgを超えている。素手で鉄棒を曲げるぐらいの腕力もあるし、大人一人を一発で昏倒させる蹴りも放てる。


 ……医者曰く、筋肉の密度や骨格の頑強さ等が常人のソレではない、ということらしい。見た目は華奢な女の体躯だというのに、『願い』の影響なのは言うまでもない。


 なので、ボディガードなど必要ではないのだ。実際、以前の話ではあるが、私を攫って金づるにしようとしたとある犯罪集団を返り討ちにしたこともあった。


 ……もちろん、全員仕留めた。一人の例外もなく、内臓を破裂させてやったが……まあ、それはいい。


 伊達に、累計数千万枚のCDとダウンロードコンテンツを売り上げているワケではないというやつだろう。望む望まないに関わらず、今では私の命を狙うやつは大勢いるのだ。


 無理もない事だ。私の弱みを一つでも握れば、億単位の金が転がり込むのだ……魔が差すやつが現れても、何ら不思議な話ではない。というか、何度かあった。


 おかげで、すっかり慣れてしまった。ボディガードが付き従うのも、伴って連れ歩くことにも……非常に煩わしいが、慣れてしまった。



(ただ、惜しいのは私よりも弱いのが難点なのが……)



 まあ、この二人も、それは分かっている。けれども、彼らはプロだ。だから、私に警護など必要ではないと分かっていても、雇われている以上は職務を全うする。



 ……と、いうのも、だ。



 この二人は名目上は私のボディガードだが、その実は違う。どちらかといえば、私の『異常性』が露見しない為のカモフラージュ……それが、彼らに与えられた役割だ。


 二人とも背丈や体格があるだけでなく、サングラスを付けているせいか威圧感がある。ボディガードという前情報がなければ、大抵の人は思わず一歩身を引くだろう。


 それが、良いのだ。けれども、私にとっては見慣れた二人だ。最初の頃は体格差もあって多少なり驚きはしたが……今では、傍に立てられても何とも思わなく……と。



「――高田様、お車の手配が出来ましたので、ご案内致します」



 たかが納豆を買う為だけに……と思わなくはなかったが、せっかく用意してくれたのだ。ここは、お言葉に甘えておこう。


 そうして、促されるがままエレベーターで一階へ。


 空調の効いた建物の外に出れば、途端、むせ返るほどの熱気が纏わりついてきた。「……さすがに、暑いわね」踵をひるがえそうかと思ったが、気合を入れて乗り込む。



「――やあ、おはよう」



 すると、車内には先客がいた。というか、爺さんだ。「……ちょっと驚いたわ」予想外の事に目を瞬かせる私を他所に、爺さんはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。



「ドラマの出演依頼が来ているんだけど、どうかな?」

「それはもうやらないって、言ったでしょ」

「まだ、気は変わらないのかい?」

「前にも言ったけど、女優業には全く興味は無いの」



 動き始めた車の中で、私は深々とため息を零す。ちらりと視線を窓の外に向ければ、誰も彼もが茹だるような暑さにまいっているのが見えた。



「そもそも、ドラマは一度きりという約束を持ち出したのは貴方でしょ。その貴方が、約束を反故にするのは如何なモノかと思うのだけれども?」

「では、ドラマじゃなくて映画ならどうだい? それなら、約束の反故には当たらないだろう?」

「あら、私がそういうツマラナイ言葉遊びは嫌いだってこと、忘れちゃったの?」



 ちらりと睨めば、「――いやいや、冗談だよ」爺さんは相変わらずの食えない笑みを浮かべて誤魔化した。



「でも、考え直す気はないかい?」

「今の所、無いわね。ていうか、この話……前にもしなかったかしら?」

「元々、僕は君の演技力に惚れこんだんだ。何度でもするし、それで愛想を尽かされても、僕は君に頼み込むつもりだよ」



 しかし、諦めきれないのだろう。私にとっては既に終わった話なのに、今日はやけにしつこく推してくる。


 思い返せば、前にも……そこまで考えた辺りで、私は……ふと、一度だけゲスト出演という形で参加したドラマのことを思い出した。



「……あの時は私、どんな役だったかしら?」

「『シリアルキラーの男』と、『強い母性を備えた女』と、『臆病な子供』という、三つ人格を持つ少女の役だったね」

「ああ、そうだった。何時ぞやのオーディションの時と似たようなモノだったから、それなら簡単だろうと思って受けたんだったわね」

「アレを『簡単だろう』の一言で済ませるのは、世界広しといえど君ぐらいなものだよ」

「……あれって、そんな難しい役だったの?」



 私はただ、私の中にある『私たち』から、求められている役に近しい『自分』を引っ張り出し、意識を切り替えてそのまま振る舞っていただけなのだが……。



「一流スタントマン並みの身軽さで迫る男の動きと、恐怖で固まってぎこちない子供の動き。これをこなせる中学生が、世界に何人いると思っているのかな?」

「ここにいるでしょ。というか、死んだように見せかけて実は……みたいな次回を臭わせる作りをしたのは、そっちでしょ。物珍しさは、一回しか通じないものよ」



 そう告げると、爺さんは何も言わずに苦笑を深め、何時も持ち合わせている鞄からタブレット端末を取り出し……しばし操作をした後、私に画面を見せた。


 それは、私が出演したドラマのレビューサイトであった。


 いったいこれがどうした……と思っていた私は、記載されているソレを見て……思わず、目を瞬かせた。


 何故なら、一言でいえば……そこに有ったのは、絶賛であったからだ。


 それも、ただ絶賛しているのではない。如何に私の存在がドラマを引き立たせていたかを事細かく記されており、私の存在無くしてあのドラマは傑作にならなかったとすら記述されて……おいおい。



 ――いくら何でも、褒め過ぎだろう。



 そう思って他のレビューを見てみるが……恐ろしい事に、どこのレビューサイトも似たようなものだ。中には低評価を下している者もいるが、極々少数……いないに等しい。



「――お二人は、あのドラマは見たかい?」



 予想外の事実に呆然とする私を尻目に、爺さんは、前の席に座る佐藤と鈴木に話しかけていた。



「ええ、見ましたよ」

「凄かったですね……正直、他の役者がみんな霞んでいました」

「演技だとは分かっていましたけど、本当に多重人格なのかと思いましたね……妻は、あの子は怖いって言いながらも目を丸くして見ていましたよ」

「そうそう、特にシリアルキラーに人格が変わった時のが凄かったですね。こう、なんというか、動きが完全に男性で……あれを演技でやれるのかと同僚と盛り上がりました」



 口々に褒め称える二人。普段は寡黙に職務に徹する二人が、こうも口が軽くなるあたり、本心なのかもしれない。


 正直、私としてはこうもまっすぐ褒められると悪い気はしないが、ズルをしている気がしないわけでもない。


 まあ、私から話すことはないから、ソレが露見するようなことはないが……まあいい。



「お世辞を重ねられても、ドラマにも映画にも出るつもりはないから」

「そう言わず、ゲストとして出られないかい? 再放送で視聴率30%を叩き出すドラマだから、各所から色々と突かれているんだけど」

「私を使わず、30%を出せばいいでしょ。わざわざ続編を臭わせるような終わらせ方をしたのはそっち、私には何の関係も……」



 ――いや、待てよ。



 そこまで言い終えた辺りでふと、私の脳裏に閃きが走った。



 ……仮に、だ。



 爺さんの言う通りにドラマに出たとしたら、間違いなく宣伝はされるだろう。出来の良し悪しはともかくとして、前作の貯金があるから、宣伝にも相当な力を入れるはずだ。


 となれば……姉も、目にするはずだ。例え、姉が見ないようにしていても、姉の周辺にいる人たちがそれを見て……話題がてら、姉に話すはず。



 そうなれば……姉は相当に苦しむ。



 私の影が残るあの家から遠ざかりたくて逃避しているのに、その逃避先にも私の影を感じ取れば……心穏やかにはいられないだろう。



(……あれ、意外と悪くないぞ)



 そう考えてみたら……何だか悪い話ではないように思えてくる。


 いや、むしろ、何時もとは違う方向性でやれる分、良い話ではないだろうか。



「――気が変わった。良いわよ、その話、受けてあげる」

「え、本当かい? 僕としては嬉しいけど、何でまた急に?」



 さすがの爺さんも、私の心までは読めない。


 突然の心変わりに喜びつつも、訝しんだ様子で私を見つめてきた。



「別に、大した事じゃないの」



 だから、私は。



「ただの、気紛れだから」



 そうして、追及を誤魔化したのであった。








 ……。


 ……。


 …………とまあ、それはそれとして、だ。



 密かに気に入っている都斗(とと)スーパー。都内に複数ある高級スーパー(質が良い分、値段相応)へとやってきた私は、ちゃっちゃと店の中に入る。


 このスーパーを気に入っている理由は、行き届いた店内の清潔さよりも、客層の良さだ。


 置いてある商品が基本的に高め(お菓子等は普通)だからか、ガラの悪い人が入店してくる割合は低い。なので、いちいち店内で騒ぐ人がここにはいないから、色々と気が楽だ。



 ……ちなみに、爺さんは置いて来た。



 いや、さすがに私の足に爺さんは付いて来られないから、大人しく車内で待ってもらうのだ。若々しさがあるとはいえ、実年齢は相当だし……ついでに、ボディガード両名も同様だ。


 これは、私がそうしろと以前に命令したからそうなっている。


 いくら何でも、あんな体格の良い男が二人も傍に立てば、嫌でも視線が集まる。となれば、必然的に傍の私が露見するのも……私が一人で向かうのも、ある意味では合理的なのだ。



(卵は……良し、有った)



 卵が置かれているのは店の奥。せっかくだからと一番高いやつと……ついでに、値段高めの納豆と、ドロップス缶を一つ手に取った私は、そのままレジへと向かう。


 レジは三つあって、今日は二つが稼働している。どちらも同じ列の長さで、片方の最後尾が成人男性、片方が女子小学生らしき二人組であった。


 ……とりあえずはこっちが早そうだと思った私は、小学生の方へと並ぶ。


 列の消化速度は……まあ、同じだ。当たり前といえば当たり前で、やることのない私はボケッとしたまま自分の番が来るのを待っていた。



 “――ねえ、知ってる? 文ちゃんって、整形疑惑があるんだって”

 “――あ、知ってる。何か整い過ぎているっていうやつでしょ”



 すると、唐突に……という言い方も何だが、二人の会話が私の耳にするりと入ってきた。



(……整形? 私がか?)



 何だ何だ私の事かと思って耳を澄ませていると……どうも、私に関する噂話を話し合っているのが聞き取れる。


 彼女たち曰く、私は全身を整形しているサイボーグ少女だとか何だとかで、歌も本当は別人が歌っているのだとか。


 その根拠は……お世辞にも根拠とは言い難い。ネットで見たとか、友達のお姉さんから聞いたとか、クラスの誰かが言っていたとか……信憑性も糞もない話だ。



(……まあ、そう思うのも無理はないな)



 とはいえ、仕方ないとは思う。事実無根も甚だしいが、仮に私が第三者の立場で『高田文』を評価するなら……この二人と似たような事しか言わなかっただろう。



 何せ、これまでの私を客観的に、かつ、事実をありのままに述べるとして、だ。



 何のレッスンも受けた事のない素人の12歳が芸能界に入り、その年で歌手としてデビューしたかと思えば、世界中にその歌が売れに売れて、たった数か月でワールドデビュー。


 そこからさらに二曲目、三曲目と立て続けに大ヒットを生み出し、『TAKADA AYA』の名がトレンドに幾度となく上がり、ライブのチケットは末端にして1万ドルにも達したというニュースが流れた。



 モデルとしてデビューすれば、それも大ヒット。



 高田文が載った雑誌は軒並み売り切れが続出し、写真集に至っては異例の増刷回数7回。販売して半年以上が経つというのに、いまだに追加注文の依頼が海外からも来ているらしいから……まあ、信じる気持ちは私も分かる。



 だが、しかし。



 所詮は只の雑談だとしても、こうも真っ向から『お前は作り物だ』と言われるのは好ましくない。まあ、言い得て妙という気持ちもあるから、怒るに怒れず……このまま聞き流しておくべき……か。



「――あっ」



 そう思って眺めていると、何やらふざけ合っている二人の内の一人が、ぽん、と私に背中を預けてきた。「あっ、ごめんなさい!」直後、ぶつかった事に気付いたその子は、謝りながら振り返り……ピタリと、動きを止めた。



 ……。


 ……。


 …………そのままたっぷり、5秒は動かなかった。



 異変に気付いたもう一人の子も、私を見やった途端に動きを止める。(あ、これはヤバいぞ)嫌な予感を覚えた時にはもう遅く、訝しんだ店員が私を見て、動きを止め……ああ、もう。



「みんな待っているから、早くしなさい」



 とりあえず、そう促してやる。途端、我に返ったその子は店員に商品を手渡し、店員も同様にそれをスキャナーに通し……二人が抜ける。次いで、私も商品を並べる。



「――あ、あの、高田文さんですか?」



 支払いも終わり、さあ、後は帰るだけだと思ったら、やはりそうはならなかった。



(あ~、これはバレてしまった。下手に言い訳をしても、絶対に信じないな、コレは)



 振り返れば、「あ、あの、その……!」先ほど私にぶつかった子が前に、もう一人はその子の少し後ろから私を見上げていた。



(……7人。いや、9人……12人。半分はもう、私が誰かを分かった上で私を見つめている)



 視線を二人に向けたまま、自分へと向けられる視線を数え上げる。無視して帰ろうかと思ったが、これでは駄目だ。注目を集め過ぎてしまった。


 他人の関心なんぞ欠片の興味もないが、私は人気者でなければならない。そうでないと、姉を苦しめる原因の一つが無くなってしまうからだ。



(とはいえ、このまま放って置いても事態は悪化するだけだが……ふむ、仕方ない)



 あまり外で『私たち』に入れ替わりたくないが……そうも言っていられない。早急に結論を出した私は、『私たち』の中から適当だと思われる『私』を取り出し……カチリと、入れ替えた。



 ――途端、意識が、見方が、『あたし』に切り替わる。



 そうしてから、改めて二人を見下ろす。東京の子らしいというべきか、細やかな部分でお洒落にも気を使っているのが見て取れる。



 ……さて、と。



 ちょいちょい、と、手を出すようにジェスチャーをする。「……?」二人は首を傾げながらも、素直にあたしに向かって掌を上にするようにして差し出した。



 ――そこに、今しがた購入したドロップスを一個ずつ乗せた。



 当然、それだけでは意図は伝わらない。現に、意味を読み取れない二人は首を傾げ、あたしと、自らの掌に乗せられた飴を交互に見やっている。


 なのであたしは、二人に顔を近づける。もちろん、周囲にもあたしの動きが見えるようにゆっくりと……十分に視線が集まったのを確認したあたしは。



 しぃ~、と。



 唇を縦に遮るように指を一本立てて、これ以上は何も言うなというジェスチャーをした。二人にだけ聞こえ、最もリラックスできる声色で。



 そうすれば……あら簡単。



 心ここに有らずと言わんばかりに、二人の心は忘却の彼方。いや、二人だけでなく、様子を伺っていた幾らかが、言葉を失くして呆然としているのを尻目に……私は、サッと身を翻すと。



「Bye」



 ただ、それだけを言い残して……その場を後にした。









 ……それから、3日後。


 夏休みも残り数日を前にして、私は……相も変わらず自室でダラダラと過ごしていた。具体的には、ギター片手に、記憶を頼りに作曲兼練習を行っていた。


 以前に住んでいた場所とは異なり、家賃も相応に跳ね上がったここでは、多少なり物音を立てたところで文句は言われない。


 というか、相応の防音設備が整っているから、大声を出したとして大した意味はない。だから、私は何の気後れもなく、今日もギターの弦を弾く。


 最初は興味もなかったギターだが、一年以上も続けていると色々と楽しくなってくる。特に、『願い』の影響から上達を他人より実感しやすい分、余計に。



 超人的なフィジカルというのは、こういう芸術的な分野にも影響が出るようで。最初の頃は『何とかミスをせずに弾き終えた』という感覚が強かったが、今ではそれもない。


 難易度の高い曲も、今では数回練習するだけで最後までミスせずに弾き終える事が出来る。三日も練習すれば、強弱やリズムも完璧に近い形に出来るだろう。



 ……だが、最近になって……それだけでは足りないという事を私は知った。



 正確には、その先があるのだという事を、端方(私に作曲のイロハや心構えを教えてくれた人で、一曲目の作曲に立ち会った人)から遠まわしにそれとなく告げられた。


 曰く、『文ちゃんは弾くのはべらぼうに上手いけど、感情を載せるのが下手だな』という事らしい。


 その時の私は、はっきり言ってしまえば調子に乗っていた。何せ、『願い』によって得た能力をフルに活用出来るのだ。運動系では加減が難しい分、その不満を演奏に傾けていた。


 それ故に、私の演奏の腕はメキメキと上達した。爺さんたちが付けてくれたプロの人を、『もう、教える事は何も無い』と二ヶ月でお役御免にしたぐらいに、私は一時それに熱中していた。


 演奏する曲が難しければ難しいほど、面白かった。


 例えるなら、買ったゲームの操作に慣れるにつれ、ゲームの難易度をイージーからノーマル、ノーマルからハード、ハードからベリーハードといった具合に、どんどんハードルを上げていくのと同じ感覚であった。


 弦を弾く速さが必要なら、反射能力をフルに活用した。物理的に指の長さが届かないなら、筋力に物を言わせて強引に指を届かせた。有り余る体力で、最後まで息切れせずに演奏すらやってのけた。


 向かうところ敵なし……それが当時の私が抱いていた感覚であった。おごりといえばそれまでだが、本当に私はそう思っていた。



 ――だが、そこに待ったを掛けたのが、端方であった。



 端方は、私に足りないモノがあるといった。私にはソレが、分からなかった。だから、率直に何が足りないのかを尋ねた。


 すると、端方は『――君の出す音には、君がいないんだ』という、何とも抽象的な答えを出した。正直なところ……言われた瞬間、鼓動がざわめいた。



 ……私だけの音。



 思い当たる節は、あった。というか、思い当たる節しかなかった。何せ、私が世に出した曲は全て、『俺』の記憶にある、『俺』の生前には存在していたはずのモノだからだ。


 言うなれば、私は何一つオリジナルを出していない。全て、記憶の底にある他所様の借り物に過ぎない。おそらく、端方は無意識にそれを察知したのだろう……と、思っていたのだが。



『――あ、違うよ。君の歌は素晴らしいんだ。歌詞にしろ曲調にしろ、それは君のオリジナルだ。僕が言いたいのは、君の音には……君だけの想いが感じられない点なんだ』



 そうではないと、すぐに否定された。



『歌そのものには、凄い情熱を感じる。何であれ、『熱意』は感じ取れるんだ……でも、その熱意は君自身からではなく、歌からだ』


『君の歌は素晴らしい。正直、嫉妬したぐらいだ』


『聞いているだけで心がざわつくし、時には子守唄のように安らぎを覚える。相手を喜ばせる為の歌声で、それは凄い才能で、君だけのオリジナルだ。心から、誇って良いことだ』


『だからこそ、思うんだ。君は……高田文は、歌を歌う時……何を考えて歌っているのかってことを――いたっ!?



 ――ぴん、と。


 当時の事を思い返していた意識が、我に返る。指先に走った痛みに目を向ければ、指先に血の玉が出来ていた。


 傍には……切れて弾けたギターの弦が弧を描いている。その先端が、うっすらと赤く染まっているのが見えた。



「……何を考えている、か」



 珠になった血液ごと、指先を舐める。露わになった指先は……もう、出血はおろか、傷口すら完全に無くなっていた。



(感情を五線に乗せて、彼方へと放つ……か)



 思い返せば、歌う時に想いがどうとか考えた事すらなかった。ただ上手に、ただ言われるがまま歌ってきただけだ。


 結果的には売れに売れたから、私の歌は他者を引き付けるだけの『力』を有してはいるのだろう。というか、それは端方も太鼓判を押していた。



 だが……言い換えれば、それは……。



 言葉が、出てこない。だが、と言葉だけが思い浮かぶばかりで、それ以上が無い。いや、そこから先が……私の中にはまだ、無いのだ。


 その先が重要であるのは、考えるまでもなく分かっていた。だが、その先へと行く手段が無い。手掛かりが、全く無い……手詰まりであった。



(……止めよう。こんな調子で練習したって空回りするだけだ)



 一つ、ため息を吐いた私はギターを傍に置いて、立ち上がる。とりあえずはと、冷蔵庫から取り出したコーラ(酒は、まだ早い)を飲むが……どうにも、美味くない。



 息抜きがてら、筋トレでもしようか?



 そんな考えと共に、部屋の隅に置かれたトレーニング器具に目を向けるが……駄目だ。どうにも、やる気が出ない。もしかしたら、夏バテだろ――っと。



 ――ちくり、と。



 下腹部から走った痛みに、私は思わず動きを止め……少しばかり間を置いてから、グイッとスウェットパンツを開けて……深々と、ため息を零した。



 ……どうやら、今回は一日ばかり早かったようだ。



 これまでの経験から、明日の昼頃だと思っていたが、上手くいかなかった。アレを付けると蒸れるというか、感触がどうにも慣れないのでギリギリまで付けないのだが……それが仇となってしまったようだ。



(こればかりは、未だに慣れないな。どうにも、今のお前は女だぞと念押しされているかのような気分だ……)



 まあ、ため息を吐いた所で事態は何一つ変わらない。ちゃっちゃとスウェットパンツを脱ぎ捨てた私は、太ももを伝う生温さと脈動する痛みに顔をしかめながら、洗面所に向かう。



 ……そこで何をするって、股を洗うのだ。



 洗った傍から滴り落ちてくるが、私ぐらいになるとそこに力を入れるだけで、ある程度溜まっている分を一気に出すことが出来る。


 というか、私は血が止まるのも滅茶苦茶速い。


 ぶっちゃけ、一度ひり出したら、数分後には完全に塞がっている。翌日には、膣内に残っている血も完全に下りて……私の生理は実質、だいたい十数分で終わる。


 世間一般から考えれば、私のコレは軽いを通り越して浮上しているぐらいに楽なのだろう。痛みもほぼ無いし、出血量も常に安定して、薬の世話になった事は一度としてないからだ。


 ……けれども、毎月の事だが憂鬱だ。コレとの付き合いはもう3年近くになるが、それでも……だからこそ、憂鬱だと私は思った。



(子供なんぞ産む気も無いのにな……)



 じゃばじゃば、と。さっさと股を洗い終えてさっさと拭い終えた私は、ショーツ型ナプキンに足を通す。オムツを履いている気分だが、一日の我慢だと己に言い聞かせながら――ん?


 自室に戻ってきて、何気なく室内を見やった私は……ベッドに投げ出したままのスマホのランプが点滅していることに気付いた。


 ……そういえば、練習に集中したいからと思って放り出していたっけ。



(緊急時は家電にもいれろといっているから、緊急では……あ、家電の留守電も入っている)



 ランプの点滅が、止まった。両方に掛けているということは、緊急事態か……正直、心から面倒臭いというのが私の本音であった。


 私に対して電話をしてくるのは爺さんたちか、あの女のどちらかだ。


 前者ならまだ良いが、後者なら……と思ったが、相手は爺さんからだった。というか、着信が……21件だと?



 ……急遽、件の話が中止にでもなったのだろうか。



 そういう所にはしつこいぐらいに気を使う爺さんらしいなあと思っていると、再びスマホが震えた。丁度良いので、そのまま出る。



『――文くん、今はどこにいるんだい? 僕は今、君の家に向かっているところだよ』

「どこって、自宅。ちょっと集中したい事があったからスマホから離れていただけよ……で、何があったの?」



 前提を抜きにしても、声だけで十分に分かった。動転しているというか、普段とは異なる精神状況にあるのが窺い知れた。だから、単刀直入に尋ねた。



『……いいかい、落ち着いて聞いてくれ。ゆっくりと、深呼吸をしてから……ゆっくりと、だよ』

「余命幾ばくかの患者に言い渡す医者のような言い回しね」

『文くん、今だけはふざけないで聞いてくれ。今だけは、僕は君の保護者としての立場で話しているんだ』

「なら、さっさと話してちょうだいな。保護者なら、保護者らしく」



 茶化したつもりはない。だが、勿体ぶった言い回しは嫌いだ。そう告げれば、爺さんは数秒ほど間を置いた後。



『つい一時間ほど前に、病院から連絡が有った』

「病院? 身体を悪くしたの?」

『君の、ご家族に関してだよ』

「……はい?」

『詳細は省くが、君の御両親とお姉さんを乗せた車が事故にあった。とても、痛ましい事故らしい』



 まるで、配布された資料をそのまま口頭で伝えるかのように。



『その結果、御両親とお姉さんは……病院に搬送されてすぐに、死亡が確認された』



 私の……私にとっては忌々しい事実でしかなかった三つの生命体が、その命を終えた事を……私に教えた。




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