第九話 愉悦に浸る修羅



 それからの私の日々は、正しく激動というほかない毎日であった。有り体にいえば、私は……とてつもない有名人になってしまったわけだ。



 というのも、多種多様な宣伝を行ったという前提があるとはいえ、だ。



 史上最速の再生回数一億回突破に加え、わずか半年という短期間で日本のオリコンチャートを総なめし、『高田文』という名がニュースとして取り上げられない日は一日……いや、半日の間すら開くことはなかった。


 さすがは、(諸々の疑問はさて置いて)かつては数千万枚を売り上げた歌だ。中学生の私が歌ったという物珍しさも相まって、その勢いは留まることを知らないようであった。


 そう……勢いは、日本だけでは留まらなかったのだ。


 売れたら儲け物という程度の気持ちで放った私の歌はネットを通じて世界中に広がり、歌を発表してから三ヶ月後にはアメリカだけでなく、世界中のDLランキングのトップを取った。


 しかも、それは一週間や二週間どころではない。文字通り、独走であった。2位を大きく引き離し、『TAKADA AYA』という名が、固有名詞として伝わるぐらいになっていた。


 我が事ながら、信じ難い話だ。たった一曲の歌だけで、世界中に私の名が知れ渡ってしまったのだから。


 世界はおろか日本国内ですら無名であった私が、たった数か月で。世界中の音楽業界にて名を轟かせている歌手たちを軒並みぶっちぎってしまったのだから……あっさり受け入れろというのが、土台無理な話だ。



 しかも、話はそこで……当たり前だが、終わらなかった。



 私の内心はさておき、『新曲を!』という声が爺さんたちからだけでなく、色々な業界から出た……いや、それは『出た』という生易しいモノではなかった。


 けれども、私は……正直なところ、二曲目を出そうとは思わなかった。


 それは、単純に興味が無いというばかりではない。いくら私に『願い』のアドバンテージがあるとはいえ、まぐれは一度きり。物珍しさも相まって、たまたま売れただけだと思っていたからだ。


 それに……確証は今の所無いが、どうして私の歌が売れたのか。その理由の一端を、私は推測していた。


 理由は分からないが、『俺』が知っている名曲たちが、存在していない。また、(これは後ほど調べた事だが)それ以外にも過去……歴史に名を残した様々な名曲が存在していない事になっている。



 私は、自分の歌が売れた理由がそこにあると思った。



 実際に調べてみて、何となく分かったのだ。有り体にいえば、音楽の方向性が偏ってしまっているせいで幅が狭い。ジャンルというものが、少ないのだ。

 『俺』の時とは異なり、私が今いるここでは、歌はとにかく明るいラブソング、ひょうきんなモノか、反戦ソングしかないという、何とも歪なモノになっていたのだ。


 そこに、私の歌が入れば……結果は、正しくケミストリー。だからこそ、私は二度目の奇跡は無いと思った。


 要は、真新しさと、珍しさと、年若さが、巧妙に噛み合ってウケただけ。


 私自身の歌唱力を考えれば、一発ウケただけでも上等過ぎる。率直な私の意見を、ありのままに爺さんたちに投げつけた。



 『――とりあえず、出せば結果が分かるから、二曲目を出そうか』



 だが、爺さんたちはそんな私の意見を一蹴した。あっさり、蹴り返された。


 仕方なく、巨額の赤字が出るのを覚悟しろと再三に渡って忠告してから、私は記憶から引っ張り出した二曲目(これも、名曲だ)をプロたちの下で生み出し……新曲として発表した。



 ――そしたら、売れた。思わず、ドン引きしたぐらいに売れた。一曲目と同じ……いや、それ以上に売れた。



 歌手としてデビューしてから、7か月目……二つ合わせて、3500万DL数だ。


 自分でも、何を言っているのかが分からない。実際、いったい何が起こっているのか。理解することが怖くなった私は、しばしの間通学すら止めて家に引きこもった。


 何せ、どこもかしこも『高田文』。右を見ても左を見ても、『高田文は何者なのか?』というキャッチコピーで溢れていた。


 もはや、ある種の社会現象であった。日本のマスコミだけじゃなく、私の取材をする為に、わざわざ海外からやってきた人たちが、それはもうわんさかなのだ。


 さすがに、これは想定外過ぎた。だが、まだ私は対処できると思っていた。いくら売れたとはいえ、二曲目が売れたのは一曲目の遺産のおかげだろうと思っていたからだ。


 これで三発目、四発目ともなれば、さすがに目も覚めてくるだろう。今時は興味の対象が変わるのが速いし……そう思って、私はとりあえず言われるがまま三曲目も作って、発表した。



 ――そしたら、三発目も売れた。ヤバいぐらいに売れた。四曲目もそうだし、五曲目も売れた。



 あまりに売れすぎて、販売サイトのサーバーが何度も飛んだ。今では絶滅危惧種に値するCDですら、特典を付けたら冷や汗が出るぐらいに売れて、工場の職員が過労で倒れるという笑えないニュースすら流れた。



「……疲れたから、しばらく止める」



 だから、私はそう言って歌手の活動を休止した。



「それじゃあ、気分転換がてら、モデルデビューしてみるかい?」



 すると、爺さんからそのような提案が成された。



 モデルデビュー……正直、面倒臭いというのが私の本音であった。



 だがしかし、メリットはある。というのも、あの女の娘……つまり、私の姉だが、どうにも素行が悪く成り始め、学校から度々注意されるようになったという話を、あの女から相談されたからだ。



 ――すぐに、原因が私に有ることは分かった。



 というか、考えるまでもない。素行が悪く成ったのは、歌手として私の名が売れた事で、地元でも私の知名度が上がり、『高田文の姉』として比べられているからだろう。


 高校生という多感な時期だ。同性異性問わずに『あの有名人の姉』として評価され、場合によっては『○○に比べたら……』と悪く言われれば……誰だって、面白くないはないだろう。


 姉についてはどうなろうが知った事ではないが、その影響からあの家の空気がますます悪く成り始めているのは、良い事だ。


 実際、今では親子や夫婦の会話がほとんどなくなっているといるらしい(あの女の話では、だ)……あの空間にはいたくないが、遠くから眺める分には、これ以上ない愉悦でしかなかった。



 なので、私はモデルとしてもデビューすることにした。



 中身はまあ、ファッションだったり水着だったり……つまり、同年代向けのファッション雑誌のモデルだったり、写真集だったり、だ。


 正直なところ、違いが私には分からないが、『グラビア』ではないらしい。


 まあ、私はそっちには何の拘りもない。こっちはカメラマンや山口(そっちもやっていたとか)のプロデュースなので私はただ、言われるがまま振る舞うだけであった。



 ……が、そこで誤算が一つ。



 いや、誤算といっても、そう思っているのは私だけで、爺さんを始めとして他のやつらは確信を得ていたらしいが……とにかく、何が誤算だったかといえば……私を載せた雑誌やら写真集までもが、売れたのだ。



 ――そう、とにかく売れたのだ。前評判があったとはいえ、本当に売れたのだ。爆発的に、売れたのだ。



 どれぐらい売れたかといえば、私を掲載した雑誌は軒並み数日後に完売。写真集も同様に数日後に完売し……二週間ほど間を置いてから追加したやつは全て、即日完売となったぐらいに、とにかく売れた。



 この結果に、私は……正直、嘘だろうと我が事ながら現実を受け入れられなかった。



 我ながら、自分の事は美少女だとは思っていた。スタイルだって男にも女にも好かれやすい黄金比だし、顔だって唯一無二だ。写真集として出したらそれなりに売れるだろうとは、思っていた。



 だが、これはそれなりなんてレベルじゃなかった。



 テレビを付ければ鬱陶しさを覚えるぐらいに私の特集が組まれ、ネットを見れば私に関する記事がこれでもかと乱雑し、不用意に街中を歩けば……比喩抜きで、追いかけ回される事となった。


 ……私は、甘く考えていたのだろう。『願い』によって生まれた私自身が、如何ほどの美人であるかを。その私が、金に物を言わせて徹底的に磨いたらどうなるかを。



 ……始まりは、モデルデビューする少し前。『もっと、ちゃんと磨きましょう』という山口の一言と、それに同意した爺さんたちからだった。



 山口曰く『素材がこれだけ良いのに、それで満足するのは女に対する冒涜』ということらしい。



 何一つ理解出来なかったが、あまりの剣幕に押されるがまま……私は、都内でも有名なエステへと通う事になった。


 ……都心には、多種多様の最新の美容施設が存在している。それは地元とは比べ物にならず、また、技術も相応に高い。そこが、私の新たな日課となった。



 本音をいえば、わざわざエステ通いをするのは面倒くさいの一言であった。



 世の女性たちからすれば嫉妬に血の涙を流しそうだが、私にとっては退屈極まりない一時でしかないからだ。そりゃあ、マッサージ自体は気持ち良いが……それだけだ。


 いくら施術する女から『これほど美しい肌を見るのは初めて!』と太鼓判を押されたとしても、私にとって、ソレにそこまでの価値は抱いていない。



 私にとって必要なのは、『あいつらを苦しめる為に必要となる人望を、得易くする為の美貌』だ。



 美人であることを『願い』はしたが、不特定多数に好かれたいという願望は、私には欠片もない。


 はっきり言えば、あいつらが苦しんでくれるのであれば、私は己が不細工であったとしても良いのだ。


 だが、不細工である利点は皆無で、そんな私の内心をわざわざ吐露する必要もなく……気付けば、押し切られていた。



 そのおかげで……東京に来て、一年と半年。



 それだけの期間を掛けて磨きに磨かれた私の美貌は……我ながら、ちょっと引くぐらいになっていた。具体的には……お前、漫画の世界から出て来たのかと思ってしまうような身体になっていた。


 御世辞抜きで、シミ一つ、日焼け跡一つない白い肌。無駄毛なんてものは初めからなく、赤ちゃんの肌よりも柔らかくてしっとりしていると、スタッフの女たちから真顔で言われた。


 顔立ちは幼さが一年と半年分だけ抜けて、その分だけ大人が前面に出た。だが、ただ大人になったわけではなく、西洋と東洋と中央の良い所だけを凝縮して美しく仕上げたかのようなモノになっていた。


 体つきだって、そうだ。さすがに巨乳巨尻を売りにしている一部のグラビアアイドルには負けるが、それも時間の問題だろう。中学二年とはいえ、既に私は相当なモノへとなっていたからだ。


 最初の頃、爺さんは『そっち方面が無名だったから初動が遅かったけど、今後はこんな感じになると思うよ』といったようなことを口にし、私はそうはならんと答えていたが……やはり、先見の目は爺さんの方にあったようだった。



 ……それからさらに、だいたい一年半。



 気付けば、東京に来て約3年。あの家の歯車の狂いがどんどん広がってゆくのを遠くから眺めながら、すっかり東京の臭いに慣れてしまった私は……どうにも、マンネリに近い感覚を覚える様になっていた。








 ……たとえ、億ションであろうと1LDKのマンションであろうと、だ。



 程よく空調の効いた室内とベッドの柔らかさに満足する程度の感性ならば、月80万円の家で寝ようが、月4万円の家で寝ようが、大した違いは覚えないのかもしれない。


 そのことを私が強く実感したのは、預金残高が億単位になって、セキュリティの為に億ションと呼ばれる物件への引っ越しを余儀なくされて……すぐの事で。



 ……程よく冷まされた風が、室内を流れていた。



 窓の向こうより聞こえて来る蝉の声、テーブルにはアイスコーヒー。そして、ベッドの上で横になっていた私は……そのままの姿勢で、傍に置いてあるスマホからの声に、返事をしていた。



『――あの子が、今日も帰って来ないの。これでもう3日目、友達の家を渡り歩いているのは確かなんだけど……ねえ、どうしたらいいかしら?』

「どうもこうも何も、私はそっちにいないから何も出来ないわよ……私じゃなくて、旦那に相談した方が早いんじゃないかしら?」

『駄目よ! あの人、私がいくら相談しようとしても知らんぷりするの! この前だって、疲れているんだからとか言って、話も聞いてくれ――』

「ああ、はいはい。まあ、言葉通り疲れているんでしょ。それで、結局そっちはどうしたいの?」

『どうしたいって……そりゃあ、あの子ももうすぐ受験だし、成績だって良くないし、就職活動だって全然……ねえ、私はどうしたらいいの、私はどうすれば……』



 どうすれば……そんなの、決まっている。



 私は、何時ものように電話の向こうにいる、困り切って憔悴しているあの女へと、囁く。



「何もしなくていいわよ。姉さんだって、もう高3でしょ。やって良い事と悪い事の区別ぐらいはあるわよ……まあ、遅い反抗期みたいなものでしょ」

『反抗期って……まだ、そうなの?』



 落胆、失望、軽蔑……様々な思いが入り混じるソレを、己が娘に向けるには、些か……だが、私にとっては喜ばしい事だ。



「まあ、人それぞれよ。いちいち気にしていたら、身が持たないわよ。当人が自覚するまで、放っておけばいいのよ」

『でも、もうすぐ卒業なのよ。文は反抗期も無くていつも素直なのに、どうしてあの子はあんなに……勉強も運動も、文なら……』

「私は私、姉は姉よ。姉さんだって頑張っているんだから、何時までも私と比べるのは可哀想よ」

『それは、そうだけど……でも、もうちょっと頑張って欲しいと思うのは悪い事かしら。せめて、文の半分は努力してくれれば……』

 私の半分……その言葉に、私は胸中より湧き出る愉悦を堪えながら、「姉さんだって、姉さんなりに努力をしているわ」そっと姉の擁護をする。

『文は優しいわね。それに比べて、あの子は……』



 そうすれば、案の定……あの女は、私が想定している中でも最悪の感想を零してくれる。



 それが、如何ほどに姉を苦しめる呪詛になり得てしまうのか。


 身内と比べられ、努力を否定され、常に『妹のように』と言われ続ける日々が……心にどれだけの陰を生み出し続けるのか。


 おそらく、この女は最後の最後まで……自覚しないままでいるだろう愚かな女を前に、私は……何時ものようにさっさと話を切り上げると。



『――ねえ、もう3年になるけど、何時になったら帰って』

「前にも言ったけど、今が一番頑張らないといけない時期なの。目処が付いたら一旦帰るから」

『でも……』

「応援するっていうのは、嘘だったの?」

『それは、そうだけど……』

「それじゃあ、応援していてちょうだい。ああ、そうそう、また色々と貰ったやつがあるから、そっちに送っておくから。捨てるなり何なり、好きにしてね」

『――え、また? でもいいの? 前に送って来てくれたやつも、まだ全部は着ていないのに……』

「いいのよ、私が持っていてもしょうがないもの」



 戸惑いつつも、喜びが見え隠れしている声色。まあ、無理もない。何故なら、私が送っているやつは……どれも、ブランド物の高級品ばかりだからだ。



「――あら、来客だわ。それじゃあ、電話を切るわね」



 何時もの言い訳を使って、耳障りな声を遮断すると……私は、胸中を満たす満足感に喜びを抱きながら……全ては順調だと笑みを浮かべる。



 ――既に、あの家は機能不全に陥っている。それが、あの家に対する私の率直な感想であった。



 何せ、現在進行形であの女は、娘の家出と無断外泊を直接咎めるようなことはせず、私に相談して来ているのだ。まだ中学生でしかない、私に向かって。


 あの男もそうだが、既にあの女もそうだ。


 娘と向き合うことを放棄し、どうして家出と外泊を繰り返すのか。何を想ってそのようになったのかを考える素振りすらせず、二言目には『文と比べて……』と比較するようになっている。



(何をやっても私と比べられ、何をやっても私以下の成績しか残せず、何をやっても『もっと頑張れ』としか言われない……私がその立場になったら、間違いなく家出するだろうよ)



 客観的に見て、姉は努力をしていた方だと思う。


 今のようになる前は学校では上位の成績だったし、部活でもけっこう良い線だった。友達だって多かったし、彼氏もいた……出来の良い娘なのは間違いない。


 そこに……私という存在がいなければ、の話だが。


 私がやったのは、姉よりも少しばかり良い成績を多岐に渡って残すという事だけ。


 だが、それだけで十分なのだ。重要なのは、繰り返しそれを行う事。それだけで、姉のプライドを砕き、精神を不安定にさせられる。


 最初は、そうではなかっただろう。だが、一年、二年と繰り返せば……必然的に、姉へと向けられる視線の中に、とある前提が入るようになる。



 『妹には負けるけど、頑張っている人だよ』……と。



 おかげで、姉はものの見事に心を崩した。何をやっても私に劣るという事実から目を背け、夜な夜な遊び歩くことで精神の安定を図るようになった。


 そうなったらもはや、悪循環だ。


 当人からすれば、地獄みたいなものだろう。逃避すればするほど、より『妹はあんなに……』という視線を向けられ、それから逃れる為にさらに深く逃避をするようになる。


 それを防ぐには、たった一言でも良いのだ。あの男と女が一言でも、姉と向き合って愛情の言葉を伝えれば……姉は、今みたいにはならなかっただろう。



 だが……あの男もそうだが、あの女はそうしなかった。



 さすがの私も本当の所は知らないが……おそらく、口走ったのだろう。今の電話口で話していたように、ぽろりと……『文なら、こうはならない』というような感じの言葉を。



 ――だから、姉は家出をした。外泊を繰り返し、あの二人を拒絶するようになった。



 おそらく、姉の内心に気付いている第三者はいるだろう。けれども、肝心のあの女は気付けない。何故なら……気付けないように、私が仕向けているからだ。



(家出と外泊を繰り返し反抗する生意気な娘と、甲斐甲斐しく愚痴を聞いて高級品を送って気遣ってくれる娘……いくら平等に扱おうと思っても、出て来てしまうものさ……注ぐ愛情の差ってやつをな)



 血の繋がった親子とはいえ、本質は他人だ。その愛情は無限ではないし、親孝行してくれる方に天秤を傾けてしまうのは……仕方ない事だ。



(さて、どのタイミングで突き放してやるべきか……判断に迷うところだな)



 言葉にこそ出していないが、既にあの女は私に依存している。いや、正確には、私から送られる仕送りを当てにした派手な生活にのめり込んでいる事を、把握している。


 口では娘の非行に胸を痛めている態度を取ってはいるが、その実は逆だ。娘がいないことを口実に、旅行やら何やらで浪費を繰り返しているのも、私は知っている。


 それは、あの男とて同じ。


 外車を購入したり、高級な釣竿一式を揃えたり、ビンテージワインを次々購入したり……私がいなかったら、ひと月と持たずに破産するであろう金遣いの荒さだ。



 ――そんな様だから、唯一お前らを想ってくれていたかもしれない娘から愛想を尽かされるんだよ……阿呆が。



 ゆっくりと、けれども、着実に。罪人を捌く為に、破滅へと繋がる階段を舗装してゆくような……何とも言えない充足感に満たされながら……ふと、私の視線が壁に掛けられたカレンダーへと向けられた。



(……もう八月も終盤か)



 ぼんやりと見やったカレンダーの日付は、8月26日。夏真っ盛り、夏休み真っただ中。当然のように友人など一人もいない私は、この日もまた何時ものように自室でのんびりしていた……わけなのだが。





 ……。


 ……。


 …………果たして、これで良いのだろうか。



 そんな一抹の不安が湧き立つのを、私は抑えられなかった。


 言っておくが、それは夏休みが終わるからだとか、あいつらに対する罪悪感等というモノではない。



 それは、未だにはっきりしていない、『代償』の事である。



 あいつらに関しては、既に破滅するのは確定しているから心配はしていない。


 私の思惑を今すぐ全て知ったとしても、一度浸みついた贅沢はそう易々と抜けない。年を経てから覚えた贅沢は、特に。


 同じように、姉もまた同様に、一度傷つき壊れてしまった心を治すのは容易ではない。心というのは、一度壊れるとそう易々と治せるものではないのだ。


 もう、あの二人の言葉は姉には届かない。どんな言葉を重ねようとも、姉の脳裏には楔のように打ち付けられているのだ。『妹なら、もっと……』という呪詛が。


 だから、心配はしていない。だからこそ、気に掛かってしまう。あいつらの事ではなく、現在においてもまだ解けない……疑問。



(芸能界に入って、もう二年……いや、三年か……未だに、『俺』の若い頃に名を馳せたアーティストが一人も表に出てくる気配はない……)



 そう、それだ。改めて調べ直したりしたが、結果は何時も同じ。


 理由は分からないが、何故か、始めから彼ら彼女らが存在していない事になっている。全員がそうではないが、私が調べた限りでは、音楽史に名を残した者たちは軒並み存在していないことになっている。



 ……仮に、これが『代償』なのだとしたら。



 いったい、これが私に対して何の『代償』というのだろうか。


 少なくとも、私はコレを使って巨万の富を得た……誇張抜きで、現時点で一生働かずに生きていける事だって出来るぐらいに。



(……考えたところで答えが出るわけでもないし、無駄か)



 天井を見上げたまま、しばしの間ぼんやりとしていた私は……そこで、思考を打ち切った。


 いくら考えたところで正解が用意されるわけでもないし、導けるわけでもない。


 ひとまず、手掛かりが見つかるまでは心の隅に留めておこう……そう結論を出した私は、横になったまま大きく伸びをした。





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