第七話 都会の洗礼に苦しむ修羅





 そんなこんなで、小学校卒業を期に東京へと単身向かった私は、爺さんの名義で借りたマンションにて一人暮らしが始まったわけだが……私が最初に抱いた思いは、ただ一つ。


 それは、用意されたマンションのセキュリティが思っていたよりも万全だとか、一通りの家具が用意されているうえに内装が綺麗だとか、風呂トイレ別キッチン有りだとか、そんなモノではない。



 ――初日の出を全裸で浴びたかのような解放感、それであった。



 我ながら下品な例えだとは思ったが、そこで目を覚ました私が抱いた感覚。それはもはや性的快感と勘違いしてしまいそうなぐらいで……だいたい、考えてもみてほしい。



 同じ空間にいることすら苦痛を覚えるやつらと、12年間だ。



 我ながら、ストレスのあまり精神病やら何やらを発症せず今日まで来られたことを褒めてやりたいぐらいだ。しかも、その間は、そいつらから施しを受けなければ死んでしまうような状況だ。


 ぶっちゃけ、ストレスで禿げるのではないかと心配になったことは、一度や二度ではなかった。というか、無意識に包丁を取り出したことだって、そもそも一度や二度ではない。



 だから、こんな形とはいえ、だ。



 別れの挨拶もそこそこに引っ越し先に来て、数個のダンボールに纏められた私物(全て、新品)と、爺さんが用意した楽器やら何やらの中で一晩眠った後。


 あいつらから離れ、あいつらのいない空間で目が覚めるというのは……実に清々しいものでしかなくて。


 その清々しさの前では、セキュリティや予算諸々の都合上マンションが東京郊外にあるとか、毎朝地獄のようなすし詰めに耐えて電車通学をしなければとか……全ては些細な問題でしかなかった。



 ……むくり、と。



 真新しいベッド(爺さんが、事前に用意してくれていた)から降り立った私は、大きく……それはもう力いっぱいの伸びをして、胸中に溜まり切っていた熱を、一気に吐き出す。


 次いで、寝間着代わりに使ったジャージ(これも、新品だ)を脱ぎ捨てる。そのまま、洗面所へと向かい…設置された鏡を前に、私は……緩みきっている頬を上から摩ってやった。



 ……あの家で使っていたモノは全て、あの家に置いてきた。



 ここは、私が私として自由に振る舞える場所だ。そんな場所に、あんな汚らわしい空気が浸みついたモノを持ってくる理由が、あるはずもない。



 だからこそ、たった一晩。されど、一晩だ。



 それだけで、まるで細胞中が新品に入れ替わったかのような身体の軽さを覚えていた。今なら、後先考えることなくあいつらを殺しても悔いはないぐらいの……いや、いやいや、待て。



(そんなやり方であっさり死なせるのは惜しい。時間を掛けて、ゆっくりと……なに、方法はすぐに見つかるさ)



 だから、落ち着け。


 ぱちん、と両の頬を叩いた私は、僅かばかり赤くなった頬を見やってから……一つ、息を吐いた。



(……爺さんのお願いは、極力叶えてやろう)



 この状況は、ギブ&テイクでしかないのだが、それでも、そうしたいと私は思った。それぐらいは、今の私にもあった。



 ……洗面所から出て、冷蔵庫へ。牛乳を片手に……ふと、ベランダへ。



 カーテンを開ければ、日差しの明るさに目が眩む。窓を開けて、外に出る。擦りガラスが設置されている柵に手を掛け……異なる空気を、大きく吸って、吐く。


 早朝かつ郊外であるとはいえ、人口の密度があの家がある市内とは、比べ物にならないぐらいにあるから……何気なく視線を下ろせば、様々な人たちの姿が見えた。


 ジョギングしている初老の男性、朝帰りであろう大学生の集団、通学途中の学生、スーツ姿の男女に、私服姿の男女。


 次の信号へと忙しなく歩く者、気にせずゆっくりマイペースに歩く者、他人のペースに合わせて歩く者、それら全部を追い越して走って行く者……そして、それよりもさっさと進んでいく、乗用車やバイク等々。



 ……あそこと同じ光景だが、あそこよりもはるかに人の数が多い。



 まるで、都心に雪崩れ込む血液のように、あるいは末端へと流される血液のように、人々が行き来している。脈動する血液が如く規則正しさが、そこには感じ取れた。



 ……ここが、東京か。



 正確に言えば、東京ではないのだが……何故だろうか。気分はもう、都内にいるような気がしてならなかった。







 ……。


 ……。


 …………それから、40分後。私は、ある意味では東京の本当の姿に直面し、苦闘していた。有り体に言えば、通勤地獄である。


 事前の下調べ通り、最も込み合う時間帯を避けることはしたが……なめていた。何となく、途中から嫌な予感というか、覚悟はしていた。


 何せ、改札口を通る前から人&人&人……呆れ果ててしまったぐらいの、人の群れ。


 まさかお前ら同じ電車に乗るのではないだろうなと、阿呆な事を考えてしまったぐらいで……案の定、予感は的中してしまった。



 ――構内に入って来た電車を見た時、ヤバいと率直に思った。



 何故なら、車両の窓から見える人影が、あまりに凄まじかったからだ。だが、本当にヤバかったのは、それからだった。



 ――お前、それはもう無理だろう、どう足掻いても入らないよね。



 そう言いたくなるぐらいにぱんぱんに詰められた車両内へ、強引に押し込められる人&人&人。いや、それはもう、押し込むなんて生易しいものではない。



 文字通り、圧縮だ。



 詰めに詰めたアタッシュケースに全身の体重を掛けて無理やり鍵を閉めるかのように、漏れ出た客を、体当たりするかのような勢いで押し込む駅員たち。


 そこに、男女の区別はない。相手が男であろうが女であろうが、一切の分け隔てなく、一切の手加減なく、押し込んで押し込んで……扉が閉められ、電車が走り出す。


 乗り込む際が地獄なら、中もまた地獄だ。いや、というか、幸運にも乗り込めてしまった人たちは……更なる地獄を体験することとなる。


 具体的には……隙間風一つ入らないであろう車内へ、更なる人間の追加である。


 そりゃあ、そうだ。私が乗り込んだ所だけ人々が乗車するわけもなく、次の駅、その次の駅で、人の乗り降りが行われるわけだ。


 都内の人口密集率は、他所とは桁が違う。駅によっては多少なり違いはあるだろうが、混雑することは有っても空いているなんてことは早々ない。


 車内から人が減っても、その直後に同じ数かそれ以上が追加される。それはまるで、折り畳んだ布団をさらに圧縮するかのような念の入用だ。


 おかげで、何時まで経っても、人&人&人。


 気付けば、すし詰めを通り越して、圧縮を通り越して、これではもはや凝縮だ。身体どころか、指一本動かすのが辛いと思ってしまうほどの圧迫感だ。



 ――こ、これが、東京……か。



 その中で、私は心を無にして耐えていた。むせ返る汗の臭い、香水の匂い、制汗スプレーの臭い、煙草やら何やらの臭い。それら全てが混ざり合う、形容しがたい……臭い。


 超人的なフィジカルを持ってしても、これは苦痛だ。いや、むしろ、他人より五感が利く分だけ、辛い。率直に、私はそう思った。


 噂には聞いていたが、実際に体感するのとではワケが違う。


 学生時代に一度訪れた覚えはあったが、あの時とは比較にならないほどの……ああ、もういい。



 ――この重圧の前には、『願い』によって得た私の美貌も、何の役にも立たない。それを、私は幾度となく思い知らされている。



 とにかく、早くしてくれ。一秒でも早く、少しでも早く。


 内心にて文句を吐きながらも、私はただただ……他の人達と同じように、一刻も早く目的地に着くことを願っていた。









 ……金のある私立学校(とはいえ、色々あるだろうが)というのは、とにかく建物が綺麗である事を知れたのは……爺さんのおかげなのだろうか。


 都内の私立中学校(芸能人の子供たち御用達……というのは語弊を招くだろうが)へと入学を果たし……気付けば、季節は梅雨に差し掛かろうとしていた。


 その間、時間にして二ヶ月ぐらいだ。


 爺さんより『準備が出来たら連絡するから、それまでは学生生活を満喫していてね』という話を頂いていた私は……実に快適な学生生活を送っていた。


 何故なら、さすがに人の数が多い都心だからか、あるいは都心特有の何かが作用しているのかは分からないが、私に向けられる視線が……明らかに少なくなったからだ。



 そりゃあ、皆無というわけではない。



 自意識過剰と言われればそれまでだが、私は美少女だ。美人というのは、ただそこにいるだけで周囲の注目を集める。


 それは私自身理解していたから、その点については今更どうこうするつもりはない。所詮、メリットとデメリットの問題だ。


 重要なのは、中学生という段階でも、地元(という言い方が、この場合は正しいのだろう)よりは比較的に個人主義が強いという点だ。


 私立だけあって、それなりに裕福な家庭環境の子が多いからだろう。小学校時代とは異なり、遠巻きに視線を向けつつも、むやみやたらとちょっかいを掛けてこない。


 加えて、芸能コースに来るだけあって、見た目が基本的に良い子が多い。化粧云々ではなく、単純にある程度の免疫が出来ているからなのだろうが……面倒な喧嘩が起こる気配が、今のところはない。



 それが実に、私にとっては快適であった。



 中学生になって男子たちも落ち着いた……というよりは、性的な感覚をより強く意識するようになったからだろう。照れているというよりは、気後れしている……というやつなのだろう。



 それが実に、私にとっては好都合だ。



 何故なら、いちいち相手に合わせて好かれる振る舞いをする必要がないからだ。『憧れ』というのは、こちらから何かをしなくても勝手に好意を高めてくれるから、とても楽なのだ。


 もちろん、弊害はあるし、何もかもが気楽というわけではない。


 何故なら、通っている校舎は同じでも、私が所属しているのは『芸能コース』という、一般とは少しばかり異なるモノであるからで……まあ、つまりは、だ。



 ――クラスメイトは、ライバルなのだ。特に、同性に対しては。



 おかげで、女子からの視線が小学校時代よりもさらに冷たいモノになっていた。ぶっちゃけ、入学して三日目には、私に対する苛めが始まったが……まあ、それはもう解決したからいいだろう。超人的なフィジカルは伊達ではない。


 とはいえ、まあ、考えてみれば当たり前の話である。


 芸能コースを選ぶだけあって、誰も彼もが大なり小なり『芸能界』を目指している。モデルだったりダンサーだったりと、目指す先は異なるが、意識の段階で、一般とは少しばかり異なっている。


 というか、ほとんどが子役経験者だったり劇団所属だったりしていた。意識が高いのは当然で、実も蓋もない話だが、私はそれを入学して初日に思い知った。


 まあ、だからどうしたというのが、正直な私の気持ちなのだけれども……そんなこんなで、二ヶ月強。


 爺さんが用意した楽器(ギターとピアノと……まあ、他にも色々)をちょろちょろとやりつつ、とりあえずは、あいつらに対する細々と嫌がらせはやっておいた。



 例えば、突発的に戻っては姉の周辺に姿を見せたり、あの男の衣服の一部に口紅を付けたり、あの女の衣服の一部に男性用の香水の臭いを浸みこませたり……等々。



 本当に細々としたやり方だが、正直、物凄く楽しかった。


 薄らとだが、分かるのだ。ヒビというには些か小さすぎるが、それでも……あいつらの中にあった互いの信頼に、少しずつ違和感が生じ始めている事に。


 その違和感が、何時に亀裂に変わるのかは……私にも分からない。


 だが、時間を掛ければ掛ける程、それが表に吹き出した時……より取り返しがつかなくなる。それを思えば、あの家の空気を吸うぐらい、良い子のフリをするぐらい、欠片も苦にはならなかった。


 そうして……だ。


 面倒くさい同性の親しい友人を作るわけでもなく、異性の友人を作るわけでもなく、業界にコネを作るわけでもない私の元に、ようやく準備を終えたらしい爺さんが連絡してきたのは……6月17日の事だった。







 ……放課後。



 着いて来てくれという爺さんに案内されるがままやってきたのは、都内にある『芦田スタジオ』……まあ、爺さんが所有しているスタジオだ。


 スタジオの外観は、そう珍しいものではない雑居ビルよりは幾らかオシャレな感じ……というのが、率直な私の感想であった。


 中には、フィットネス教室と音楽スタジオが併設されているらしい。今回、私が案内されたのは音楽スタジオの方であった。


 広さは……どうなのだろうか。素人の私には分からなかったが、通っている学校の音楽室よりは幾らか広い。部屋が二つに分かれていて、手前の部屋には色々な機械が置かれ、設置されていた。



 ――本当に、色々だ。



 様々な収録機器(一部は、違うのかもしれないが)が部屋の隅やら真中やら至る所に置かれており、壁には防音の為に小さい穴が規則的に開けられている。



 奥の部屋は……何だろうか。



 同じように機械やらテーブルやらマイクやらが置かれているが、密室のようだ。分厚く頑丈なガラス扉に隔たれた、その中を覗いた私は……ふむ、と頷いた。



「……音楽室の中みたいだわ」

「というより、音楽室だよ。最も、アレよりもずっと防音に金を掛けたら、だいたいこんな感じになるんだけどね」



 ポツリと零した私の感想に、傍で聞いていた爺さんは笑った。「へえ、なるほど」知識が一個増えたことに再度頷く私を他所に、がちゃり、と後から室内に入って来たのは……数人の男女であった。


 おそらく、スタッフなのだろう。見れば、誰も彼もが爺さんへ親しげに挨拶をし、爺さんも挨拶して……慣れた様子で、機械を始めていた。


 その中で目立つのは、室内なのにサングラスを被った初老の男性と、品の良い恰好をした恰幅の良い女性と……何だろうか、ギターケースを持った男性であった。



 この3人は……別格なのだろう。



 その証拠に、この3人だけは作業している他のスタッフとは違い、(社長である)爺さんに対して態度が比較的フランクだ。そのうえ、ソファーに座って談笑している……知り合いなのだろうか。



「――その子が、芦田さんが話していた『とっておき』かい?」



 果てさて、いったい何をさせられるのかと思っていると、サングラスの男が、唐突にこちらを見やった。


 一拍遅れて、他の二人もこちらを見やる。その内、ギターを持っていた男はこちらを興味深そうに見ていて……女の方は、かなり厳しい眼差しをこちらに向けている。


 男も女も、同性に対する評価は厳しいモノだ。理由は、色々とある。能力だったり、若さだったり、美醜だったり、一方的であっても何ら珍しくは……いや、そうじゃない。



 ……『とっておき』って、もしかして私の事か?



 いや、まさかね……そう思って爺さんに視線を向ければ、そっと視線を外された。偶然かと思って回り込めば、今度は顔ごと逸らされた……ちょ、おい、待て。



(こいつ、いったい私の事をどんなふうに言いふらしているんだ?)



 これは、放って置いてはならない。


 そう思って問い質そうとしたが、「――そういえば、紹介がまだだったね」それよりも早く爺さんが場の流れを持って行ってしまった。



「やあ、初めまして。俺は端方一(はしかた・はじめ)。作曲家兼ギタリストってところかな。今後とも、よろしく」

「ワシは、緒方才三(おがた・さいぞう)。しがない映画監督さ……まあ、よろしく」

「はあ、よろしくお願いします」



 ギターの方が、端方さん。


 サングラスの方が、緒方さん。



 よく分からんが、とりあえず二人の名前を記憶する。というか、そろそろ説明の一つぐらいしろと思って爺さんを見やった「――最近の子は、挨拶もろくに出来ないのね」途端、溜め息と共に嫌みを言われた。


 言ったのは……この3人の中で唯一自己紹介をしていない、恰幅の良い女であった。


 視線を向ければ、こちらを見下すかのように冷たい眼差しを向け……いや、何で?


 そもそも、私は今がどんな状況なのかすらさっぱり分からないのだ。堪らず、私は困惑気味に首を傾げるのを抑えられなかった。


 見れば、他の男二人も少しばかり困惑した様子であったが……この女は、意に介した様子がなかった。



「勘違いしないでほしいわね。私は、芦田さんがどうしてもとお願いするからここに来たの。でなければ、教え子を放っておいて、貴方みたいな子供の所に来たりはしないわよ」

「ちょ、あの、山口さん、いきなりそんなキツイ態度は……」

「あら、貴方たちも同じでしょ。こういうのはね、最初が肝心なのよ。でないとこの子、勘違いしたまま天狗になっちゃうでしょ」



 宥めようとする二人の言葉など、どこ吹く風。


 いや、むしろ逆に燃え上がってしまったようで、小娘だとか何だとか、言い回しがこちらを小馬鹿にしたモノになって……いや、何で?


 同性に嫌われるのは慣れているが、それとこれは別だ。


 さすがに顔はおろか名前すら知らない初対面の相手から、こうまで一方的に嫌われるには……相応の理由があるはずだ。



(……やっぱり、初対面……だよね?)



 思い返してみるが、心当たりは皆無だ。ということは、やはり爺さんか……そう思って、改めて爺さんを見やれば。


 ――ぱちん、と。ウインクされた。



(……は?)



 まるで意図が分からない。困惑する私を尻目に、「ははは、山口さんは手厳しいお人だ」爺さんは朗らかに笑うと……チラリと、私を見やった。



「それじゃあ、とりあえずはギターを弾いて貰おうかな」

「……は?」



 さすがに、今度ばかりは思わず素を出してしまった。



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