第五話 一人ではない修羅



 ハッと顔を上げた私と、私を見つめる幾人かの視線が交差する。その中には……爺さんの視線も混じっていた。



「……もしかしなくとも、私のこと?」

『はい、そうです。その、まだお名前を伺っていなかったみたいで……』

「……そうだったかしら?」



 言われて、爺さんの方を見やる。すると、爺さんは顎に手を当て……そういえば聞いていなかった言わんばかりに首を横に……そうか、言ってなかったか。



「――市立尋常しりつじんじょう小学校、6年2組。高田文(たかだ・あや)、12歳です」



 ならば、まずは他の人達がそうしたように、自己紹介をするべきだろう……そう思った私は、他の人達と同じように自己紹介をした。



『……えっと、それだけですか?』

「……? 仰っている意味が分からないのですが?」



 困惑した様子で首を傾げる審査員に、私も首を傾げる。


 それだけと尋ねられても、これ以上何を言えばいいのか……意味が分からずに困惑していると、『――どこか、所属している教室とかはありますか?』爺さんの隣に座る、もう一人の審査員が助け舟を出してくれた。



「教室……いえ、特に習い事はしていません」

『何も? 歌やダンスの教室も、何もかい?』

「生まれてこの方、一度も。発声練習とかそういうのもしたことは……ああ、音楽の授業で合唱練習ぐらいはしました」

『……冗談、じゃないよね?』

「こんな面白くも何ともない冗談、私は好きではありません」



 話を盛った所でバレるだろうし、包み隠さず伝える。すると、何故かさらに困惑を深めた様子でマイクをテーブルに置き、隣の爺さんに話しかけているようだった。


 当然……という言い方も何だが、審査の結果を待っている他の応募者たちからも、かなり困惑している気配が……視線を通じて、背後からビシバシ浴びせられているのが……と。



『――歌は、何を歌えますか?』



 そう、私に尋ねて来たのは……審査が始まって初めてマイクを手にした、爺さんであった。



「……歌えと言われても、歌は興味が無いので知りません。メロディを含めて覚えがあるのは……まあ、一部分ぐらいなら何とか……」



 正確には、『俺』の子供の頃に祖母がよくラジカセで聞いていた演歌の一部分だけ。まあ、世代であれば誰もが知っている有名な歌らしいけれども。



『では、それでけっこうです。覚えている部分だけを、歌ってください』



 何にせよ、それでもいいと言うのであれば、歌うだけだ。


 そう思った私は、記憶の奥底で埃被っているメロディを引っ張り出す。ノイズと汚れだらけのソレを、丁寧に磨いて修復しながら……ふと、思い出す。



 ……それは、私がまだ『俺』であった頃。何もかもが真新しかった時の記憶……他人を好きでいられた時の記憶であった。



 あの頃は……まだ、『俺』の心は憎悪に染まっていなかった。心を殺す裏切り、それらは全て遠い彼方に起こっていると……欠片の疑いすら抱かず、本気でそう思っていた……過去の自分。


 今ではもう、『願い』の影響もあってか他人に対する思いやりなんぞ欠片も感じない。他人の想いを分かっていて、その想いを利用して目的を達することに……微塵の罪悪感すらない。


 だが……それでも、思い出すことは出来る。


 まだ、他人を信じる事が出来ていた時の想いを。まだ、他人を愛することが出来ていた時の想いを。思い出す事だけは……分からないけれども、そうだったという感覚だけは、思い出せる。



(声で、他人の心を揺さぶる……か)




 ……。


 ……。


 …………どうやれば良いのか、それは私には分からない。



 だが、分かる部分はある。何せ、私は12年……復讐を誓ったその時からずっと、自分の為に、只々自分の為だけに、そうして来たのだから。



(要は、同じだ。心を揺さぶるのと、想いを操るのは……根本は、同じ……形が違うだけで、本質は同じだ)



 それならば……簡単だ。何時ものように、日常的にやっていることを、この場でやれば良いだけなのだ。


 違うのは、何時もならば視線や仕草、手足の動きや声色その他諸々を混ぜたやり方ではなく……声一つでやらなければならないだけ。



 ――ならば、話は簡単だ



 そう、思った瞬間。脳裏で行われたメロディの復元が完了する。合わせて、記憶している限りの歌詞と共に……私は、何時もそうしているのと同じようにして、歌った。






 ――時間にして、それは10秒にも達しない僅かなメロディでしかなかった。





 記憶の底より引っ張りだした、うろ覚えなメロディ。私としても、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、そのメロディを声に出しただけ……ただ、それだけであった。



「……?」



 だが、僅か数秒の断片を歌い終えた後。これで終わりだと、審査員席を見やった……私は、思っていたのとは違う光景に首を傾げた。



 何故なら……審査員の席に座る3人が、無言だったからだ。



 そう、無言だ。思っていた以上に短いメロディに困惑するわけでも、ふざけているのかと怒り出すわけでも、他の人達にしたように淡々と手順を進めるわけでもない。


 変化が有ったのは、遠目からでも分かるぐらいに見開かれた瞳と、ぽかんと開かれた唇だけ。その唇からは……何の返答も成されない。



 ……どうしたんだろうか?



 とりあえず、爺さんを見やる……が、同じだ。そっちも、茫然自失……困惑しながら振り返り……さらに、困惑が深まる。


 何故ならば、オーディションに臨んでいる彼ら彼女らもまた、審査員たちと同じような表情を浮かべていたからだ。よく見れば、部屋の隅にいる他のスタッフたちも……同様だ。



 ……本当に、どうしたんだろうか?



 状況が分からずに困惑していると、審査員の一人が……ぱしゃりと、お茶の入ったペットボトルを倒した。「――あっ」思わず、発した私の声が、気付けになったのかもしれない。


 ハッと、我に返った様子のその人が、「あっ、と、すみません……」少々慌てた様子でテーブルの上に並べられていた書類を退かした。少し遅れて、駆け付けたスタッフがちゃっちゃと片付け……そして。



『……すみません、もう一つテストをさせていただいて宜しいでしょうか?』



 お茶を零していない方の審査員が、マイクを片手に唐突に話を切り出した。それは、これまでにないパターンであった。



(……そりゃあ、あんな一瞬で審査しろっていうのも無理な話か)



 彼らが思っていた以上に歌が短すぎて、審査できなかったのだろう。まあ、しょうがない。そう、私は納得する。


 他の人たちは最短でも一分ぐらい歌っていたのに、私は数秒程度だから……他のやり方でテストを行おうとするのは、当然の事だろう。



 ――お好きにどうぞ、と。



 そう言って促せば、『では……『せいいき』と『せいりょう』を聞かせてください』その審査員は、次のお題を提示……なに、せいいき?



(『せいいき』、『せいりょう』、せいいき、せいりょう……ああ、『声域』と『声量』の事か)



 理解するのに少しばかり時間を要したが、それはいい。問題なのは……だ。



「声域って言われても、どうすればいいの? というよりも、どういうものなのかが分からない」



 二つの内、『声量』は分かる。つまり、声の大きさだ。本気で大声を出した事はないので自信はないが……アドバンテージが有る分、人並みよりは出せるだろう。


 だが、『声域』というのが問題だ。聞かせてくれと言われても、どう聞かせればいいか検討すら付かない。声の強弱か何かだろうか……そう思っていると。



『声域とは、声の大きさではなく、声の高さと低さの範囲の事です。低い声、高い声、と聞いたら、イメージが湧きますか?』

「あ~、うん、分かった」



 さすがに予定外のテストを行うからなのか、親切にも教えてくれた。



『これから私が、ドレミファソラシドといった具合に、指示を出します。最初のドを一番低く、そこから一段ずつ高い声を出すようにしてください』

「あ、それ授業でやった。あれって声域の練習だったのね」

『小学校の授業でやるのは、声域の訓練というよりは、喉のストレッチでしょう……今回はそれを、こちらが限界だと判断出来るところまで行います』

「……と、言うと?」

『どこまで声色を細かく、それでいてどこまで低い音から高い音まで出せるのかを測るテストです。そちらのタイミングに合わせてスタートしますので、そこからは私の指示に従って一段ずつ声を高くしていってください』

「分かった」

『後、これは出来る範囲で構いません。声を出す時は、その声の高さを維持したまま、出来る限り大きな声でお願いします』

「はい、了解」



 つまり、階段を登るように一段ずつ声を高くすればいいわけか。


 思ったよりも簡単そうで良かったと思いつつ、んっんっんっ、と軽く咳をして……一つ、審査員に向かって頷いた。



『では、始めます……『ド』』



 ――我ながら、思っていたよりもかなり低い声を出せた。



 とにかく喉に力を入れ、意識すれば……おお、この状態のまま、大きな声も意外と出せるものなんだな。



『……『レ』』

 ――一段、高く。


『ミ』

 ――一段、高く。


『ファ』

 ――一段、高く。


『ソ』

 ――一段、高く。


『ラ』

 ――一段、高く。


『シ』

 ――一段、高く。


『ド』

 ――一段、高く……さすがに辛い。



 息苦しさを覚えた私は、そこで息をつく。『……まだ、出せますか?』尋ねられたので、頷く。三回深呼吸をしてから、もう一度声を出す。



『レ』

 ――一段、高く。


『ミ』

 ――一段、高く。


『ファ』

 ――一段、高く。


『ソ』

 ――一段、高く。


『ラ』

 ――一段、高く……さすがにここまで来ると、自分でも声色に変化が現れなくなったのが分かる。もしかしたら違うのかもしれないが、私としては違いが分からない。


 なので……そこで、声を出すのを止めた。審査員たちも、同じ事を思っていたのだろう。特に困惑した様子もなく、マイクを手に――と、思ったらマイクを落とした。



 がたん、と。



 スピーカーから響くノイズ。一度ではなく、二度、三度と続く。いったいどうしたのかと思って見やれば、『……良かったよ』フォローするかのように爺さんが口を挟んできた。



『…………』

「…………」

『…………』

「……? 無言のままだと、どうしたらいいか分からないのだけれども」



 だが、それだけだった。何か言われるかと思ったが、本当にそれだけ。黙ったまま、爺さんは目元を頻りに擦っている。


 最初は黙っていたが、あんまり無言が続くから、思わずこちらから声を掛けてしまうぐらいの、長い沈黙だった。



『あ、ああ、すまない。僕は今、とても感動していてね……言葉が上手く出せなかったんだ』

「はあ、そうなんですか」

『おや、疑っているね。というか、欠片も喜んでいないね』

「嬉しいのは嬉しいわよ。ただ、貴方の感動と私の喜びとが、釣り合っていないだけよ」

『はは、なるほど……本当に末恐ろしい。僕は、巨万の黄金が眠っている金山の入口に立った気分だよ』

「……?」



 意味が分からずに首を傾げている私を他所に、『――では、次に演技の審査に入ります』爺さんは私の背後にいる他の人達に……あっ。



(そういえば、知りたかった三つ目は……最後までやらないと駄目なんだろうか?)



 嫌な予感が脳裏を過ったが、過った時にはもう、『今から、お題を出します。まず、演じて――』私が口を挟める空気ではなくなっていた。







 ……そんなこんなで、私の内心を他所に始まった二つ目のテスト、『演技』。その内容は、審査員の出したお題を全て演じて見せろ、というものだった。



 ――演じるのは、『異性(男なら女、女なら男)』、『殺人鬼(各人がイメージした者)』、『親(これはどちらでも良い)』の三つである。



 どの順番で演じるのか、どのタイミングでやるのか、どのような形で表現するのか、それらは全て自由。演じるこちら側に全て一任し、審査員側からは指示しない。


 ただし、一度演技を始めたら、三つのお題をクリアするまでは止めてはならない。どんな形であれ演じ切る必要があり、三つ合わせて5分以内の演技に留めること。


 使用出来る道具は、この会場にある物なら何でも良い(ただし、取り外す等の用意に時間の掛かる物は不可)。それは、審査員が所持している物も同様。


 他の人に衣服を借りるのもいいし、逆に貸すのもいい。ただし、会場の外から調達するのは一切不可、この会場に有る物と、自分の頭を使って演技をしてほしい……というものであった。



 ……。


 ……。


 …………そうして、『演技』のテストが始まったのだが……会場には、何とも言い表し難い嫌な沈黙と緊張感で満ちていた。


 誰も彼もが、考え込むように視線をさ迷わせ、時には下ろし、悩むかのように腕を組んでは唸っている。


 そこに、老若男女の違いはない。年若い女も、美形の男も、中学生ぐらいの少年も、同伴する保護者も、右を見ても、左を見ても、悩み抜いているのが一目で分かる形相を浮かべていた。


 ……そうなるのも、致し方ない話である。


 何故なら、この演技はぶっつけ本番。故に、各々の頭の中でイメージを固める猶予として10分を与えられているが……言い換えれば、たった10分でどう演じるかを定めろというわけだ。



(そりゃあ、難しい顔にもなって当然だよな……)



 顔を強張らせてゆく人たちを横目で見やりながら、無茶苦茶な話だと私は思った。はっきり言って、受からせるつもりがないだろうとすら、私は思った。


 とはいえ、それを不満として責めるつもりは、毛頭ない。


 私には分からないが、プロを目指すにはそれぐらい出来なくてはならないということなのだろう。なので、そこに文句を言うつもりは全く無かった。



『――文さん』



 その点については、全く無かった……が、しかし。



『せっかくですから、お手本を見せてはどうですか?』



 どうしてだろうか……何故か私から視線を外さない爺さんが、悩みに悩み抜いている人たちを尻目に、ポツリと私に尋ねてきた。



 ……いや、何で?



 思わず……思わず、私は爺さんを睨んだ。けれども、爺さんは欠片も答えた様子もなく、ニコニコと笑っている。



 ……ぶっちゃけ、張り倒したいと思った。



 とはいえ、やるつもりはない。やろうと思えば簡単だが、それをするのはまずい……というか、止めろ。両隣のスタッフも止めろ……と、思って睨みつけるが、やっぱり反応が薄い。



 ……やはり、見た目なのだろうか。



 内心にて、軽くため息を吐く。『願い』の影響からなのだろうが、どうにも普通に睨んだだけでは幼稚園児すら気にも留めない。


 それが良いか悪いかはともかく、こういう時に限っていえば……の話でしかないけれども。


 いっそのこと、帰ってやろうか……いや、それは負けたみたいで少し悔しい。それに、三つ目が気になる。幾度目かとなる『帰宅』の二文字を、内心にて否定する。



(とりあえず、この爺さんのおかげでアイツらの人生に苦痛を一滴与えることは出来たし……まあ、その分は付き合ってやろうか)



 審査員のみならず、他の人達からも視線を向けられている最中。そうして結論を出した私は……カチリと、肉体を動かしている『私』から、『おれ』に入れ替えた。



 途端――意識が、見方が、入れ替わった。



 今しがたまで見ていた景色と何も変わっていないのに、全てがぐるりと入れ替えられたような感覚を、『おれ』は認識した。それはおそらく、おれにしか分からない感覚であった。



 ……この身体になって、何時の頃からこうなったのかは分からない。



 気付いた時、おれの中には幾つもの自分があった。まるでメモリーカードのようなソレを入れ替える事で、おれは『私』になれるし、それ以外にも成ることが出来るようになっていた。


 ソレが、おれの中にいったい幾つあるのか……それは、おれには分からない。『私』にも、『俺』にだって分からない。



 ――とにかく、いっぱい、いるのは分かっている。数えきれないだけの自分が存在しているのは、感じている。



 しかし、ある種の多重人格と呼べばいいのか、あるいは別の呼び名があるのか、それとも『願い』の影響なのかすら、おれには分からない。


 ただ、何かに利用出来るだろうという程度の認識で、おれは今日までコレを使い分けていた。言い換えればおれは、ある意味では演技のベテランかも……まあいい。



 ――やることさえやれば、後は成るように成れ。



 そう結論を出したおれは、「――分かったよ、やればいいんだろ、やれば」ひとまず、「で、演技って具体的に何を見せんの?」演技とは具体的にどういうものなのかを尋ねた。



『……どう、とは?』



 すると、爺さんたち三人は驚いたように目を瞬かせた。まあ、驚きもするだろうとおれは思った。


 何せ、口調が違う。声色もそうだし、細かい所作が違う。今のおれは『私』じゃない。身体こそ変わらずに『私』だけど、表に出ているのは『おれ』だ。



 それも、前世の『俺』が死んだ頃のではない。おれがまだ、今の『私』くらいの頃の、おれだ。



 傍目から見れば、年若い女の子がいきなり男っぽい口調と態度に変わったのだ。そういうのは演技で見慣れているだろうが、それでもいきなりされて困惑しているようであった。



「いや、だってさ、演技しろって言われて、そう成ったとして。どうやってそれを審査するの?」

『……それを含めて演技をしてください』

「えー、そんなん詐欺じゃん、無理じゃん。子供に子供の真似させて、何が――あ~、ごめんって。ちょ、ちょ、怒らないでよ」



 あぶねー、いきなり怒り出そうとしたよ、この人。



 怒られるのは嫌だから、急いで離れる。足の速さに自信があるおかげか、爺さんたちはおれを追いかけようとはしなかった。


 ……けれども、何か変だ。


 振り返ったおれに見えたのは、さっき以上の困惑と……何か、変な顔になった爺さんたち。それと、でかい口を開けてこっちを見ている他の人達だった。



 ……何だよ?



 話しかけてくるわけでもないし、近寄ってくるわけでもない。でも、変な顔でおれを見てくる。嫌な目ではないけど……正直、好きではない目だとおれは思った――と。



『文くんは、スカートを履いていて平気なのかい?』



 いきなり、爺さんが……マイクを片手に、おれを見つめながら聞いてきた。何か真剣な様子で俺を見てくる姿に……おれは、カッと頬が熱くなった。



「恥ずかしいに決まってるじゃん! でも、これを着て来ちゃったんだからしゃーねーじゃん!」

『恥ずかしがらなくていいよ、とても似合っているから』

「――全然、嬉しくねーよ!」



 今ので、おれはこの爺さんをちょっと嫌いになった。こいつ、絶対に分かって言っているのが分かったから……ああ、無理、もう無理!



 ――これ以上、スカートでいるのは耐えられない。



 そう思った途端、おれは『俺』へと切り替わる。『おれ』が収まったカードが抜かれ、代わりに私の身体に『わたくし』が収まったカードが差しこまれる。



 ――再び、意識が、見方が、ガラリと入れ替わった。



 今の私……いや、『わたくし』は、『おれ』よりも2,30歳は上だ。肉体年齢は12歳でも、精神年齢は40後半に差し掛かっている。



 わたくしは、今世と前世の年数分を合わせて生まれた。目的の為に、より多くの者たちに愛される為に、『願い』の影響を色濃く受けた『私』であり、それが、わたくしなのだ。



『……あの、文くん?』



 切り替わった意識の中で、爺さん……いえ、芦田さんを見つめる。


 困惑したかのように……いえ、困惑しているのでしょう。


 まあ、怒っていた人がいきなり黙ってしまったら、気味が悪いとわたくしも思ったでしょうから、それはいいのです。



「……ごめんなさい、さっきの言葉、もう一度仰っていただけますか?」

 ただ、それよりも、そんな事よりも。

『――と、言いますと?』

「その、スカートがどうのこうの……その辺りを」

『……? スカート、お似合いですよ』

「ああ……そう、ですか」



 この歳になって、スカート姿を褒められる。先ほどとは違う意味で、頬が熱を持つのが分かる。思わず握り締めたスカートの裾に、皺が寄る。


 意中の相手以外に褒められるのは気持ち悪いだけと思う方も、いるでしょう……ですが、この歳になって、こうして率直に褒められるのは。



「……悪い気は、しませんね」



 照れくさい反面、嬉しいと思ってしまうのを抑えることは出来なかった。


 だって、褒められるっていうのは、それだけわたくしに魅力を感じていることに、ほかならないから。




 ……。


 ……。


 …………ん?



 反応が、帰って来ない。どうしたのかと思って視線を上げた私は……状況が呑み込めず、首を傾げた。



『…………』

「……あの?」

『…………』

「えっと、その……?」



 何故か、また、大口を開けている。芦田さんも、他の方々も、みんなが不思議なモノを前にしたかのように……呆然としている。


 そのまま、幾しばらく。ようやく照れ臭さも過ぎ去って、浮ついた気持ちが落ち着いて……それでもまだ、芦田さんたちは呆然としたままだった。



(……どうしましょうか?)



 このまま放っておいても良いが……お次の方のお時間もあるでしょうし、残りのお題もさっさとやってしまいましょうか……ああ、でも。



(けれども、残るは『殺人鬼』……ですか)



 それは、どういう人なのでしょうか……いまいち、想像が出来ない。



(人を殺すから殺人……でも、『鬼』と名が付くのでしょうから、ただの人殺しでは……ないのでしょうね)



 殺人……鬼……殺人の、鬼。殺す鬼、殺す人、鬼を殺し、人を殺す。


 殺人を犯す人を、殺人鬼と呼ぶのか。


 鬼が殺人を犯すから、殺人鬼なのか。



(あるいは……人も鬼も恐れる程に、それ程までに誰かを殺したい、殺めたい、苦しめたいという……自分でもどうにもならない憎悪を宿した、その時)



 人は……殺人鬼に成り果ててしまうのだろうか。


 果たして、それが正解なのか、間違っているのか……わたくしには、分からなかった。


 けれども、分からなくとも……それに近しいイメージを浮かべる事は、簡単だった。


 何故なら、それは既に、わたくしの中にあるから……いえ、違う。



 ――わたくしたちの中に、全ての己の中にもう、宿っているのだから。それが、わたくしたちの根源であるのだから。



 だから、カードを差し替えるのではない。むしろ、逆だ。


 そう思うと同時に、わたくしの中にある全ての自分を……一斉に、差し込んだ――その、瞬間。



「……こんにちは」



 『わたくし』は、『私たち』になって……私になっていた。









 ……。


 ……。


 …………それから、爺さんたち(審査員たち)がどのような判断を下したのか、それは私が知り得る事ではない。


 ただ、歌の審査の時とは異なり、私の演技の審査が終わった後、とにかく会場は静かになっていた。


 いちおう、他の人達も審査はやっていた。だが、どうしてか……誰も彼もが諦めきった顔をしており、中には途中で帰り出す者までいた。



 いったい、何があったのか……気になったが、それを私が知る術はなかった。



 何故かは知らないが、途中で帰る人も、審査を受ける人も、一人の例外もなく……涙で潤んだ目で、私を睨みつけてゆくからだった。



 ……いったい、私が何をしたのか……気になったが、それもまた、私が知る術はなかった。



 何故かは知らないが、尋ねようとするたび、爺さんだったり、スタッフの人だったりが、私に話しかけて来るからだ。


 だから、結局は何も分からないまま……まるで葬式の最中のような静けさの中、厳かに審査が進み……終わる時も、そんな感じであった。


 ……結果は、私一人が合格となった。


 私よりずっと上手に歌えた人もいたし、私よりずっと上手に演技を魅せた人もいた。なのに、私以外の全員が落ちた。



 いったい、何を見てその判断を下したのか……それも気になったが、まあ、あえて知りたいとは思わなかった。



 はっきり言えば、合格したところで、私は始めから芸能界入りする気などなかったからだ。それは、始めから何一つ変わっていなかった。


 だが……それに待ったが掛かった。掛けたのは、爺さんたちであった。曰く、100年に1人の逸材だとか……正直、どうでもよかった。



 だから、私は拒否しようと思った。


 さっさと帰ろうとも思った。


 だが……出来なかった。



 ――辞退します。言えなかった、その一言。



 どうして言えなかったのか……それは、審査に落ちた他の人達から向けられる視線が原因で。



 ――ぶっちゃけ、断ったらこの人たちに闇討ちされそうな予感がしたから。



 だから、断れなかった。とりあえず、不利益な契約を結んだら、ありとあらゆる手を使ってやるとだけ、こっそり爺さんに告げた後……後日連絡するという事で、その場はお開きとなった。



 ……そうして、試験が終わってから数時間後の夜。



 何処かギスギスとした空気を醸し出す、私にとっては心地良い晩飯(あの女の作るモノなんぞ、口にいれたくはないが)を終えて、一通りの寝る準備を終えた後。



「……あ、三つ目聞くの忘れた」



 当初の……最初の目的の事を思い出したのは、そんな時で。既に私はベッドの中にいて……そうして、何時もとは異なる私の一日は終わったのであった。



(……ていうか、もうどうでもいいや……何か今日は疲れた、寝よう)



 そんな、面倒臭さと共に。



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