第二話 戸惑う修羅


 ……。


 ……。


 …………何事もなく午後の授業最後の終了を告げるチャイムが鳴った。直後、クラスメイト達のテンションが一斉に上がる。


 けれども、教室を飛び出して……ということはない。この時間に騒ぐと、担任の判断で騒ぎが静まるまで下校時間が遅らされるから。


 だから、この時ばかりはクラスメイト達も素直に準備をして待っている。それは私も同様で、担任の指示と共に行われた号令によって……本日の作業は終了となった。



 ――途端、蜂の巣を突いたかのように、一気に教室内が騒がしくなった。



 その顔ぶれに、男女の違いはない。まあ、無理もない。『俺』が子供の時……精神と肉体とが同年齢であった頃も、似たようなものだったから……特に思うところはない。



「――高田っ! これから遊びにいかね!」



 ちゃっちゃと教室を出ようとした私ではあったが、背後から掛けられた声に振り返る。そこにいたのは……クラスどころか学年通して女子から人気がある……男子だった。


 パッと見た限りでは、和也とはまた違ったタイプの美少年だ。


 強いて違いをあげるとするなら、和也が知的美少年であるなら、この……えっと、眼前のこいつは、爽やか系美少年……といったところだろうか。


 同年代……というか、まあ、好みは分かれるが、女子たちから放っては置かれないタイプであるのは間違いないだろう。


 ……実際、今もそうだ。


 ちらりと、一瞬ばかり横目でこちらの様子を伺っている女子たちを見やった私は、「ごめんなさい、今日はちょっと……」もったいぶらずにさっさと断ることにした。



「えー、また!? 何か用事でもあんの?」

「図書館に、調べ物」

「ふ~ん……ちょっとだけでもいいからさ、一緒にやろうぜ」



 けれども、眼前のこいつは納得しなかった。些か強引にも誘いを掛けてくる……正直、苛立ちを覚えないわけではなかった。


 何故なら、私は元々……この手のタイプが嫌いだからだ。


 何と言い表せればいいのか……とにかく、傍にいるというただそれだけで苛立つぐらいに、私はこいつが嫌いだ。



 ――この手のタイプは、忌々しくも血が繋がっているあの野郎に似ている。顔も雰囲気も異なっているというのに、そう思ってしまう。



 こいつを見ていると、どうしても苛立ちだけがどんどん煮え滾ってゆくので……だから、極力こいつと一緒に行動したくはなかった。



「ごめんね、後もうちょっとで区切りが付くから……また、今度ね」



 とはいえ、こいつには欠片の落ち度もない。


 ただ、私が一方的に嫌っているだけだ。


 仮に責められるとするならば、それはこいつではなく……私の方だろう。



「……どうしても?」

「――ごめんね」



 しかし、駄目なのだ。コイツは今、私に対して縋るような目を向けている。自覚は薄いが、自分の顔が良いということを薄々理解したうえで、あえて庇護欲を刺激させるような態度を無意識に取っている。


 それが……あの女を、私が最も憎んでいる片方を想起させてしまう。「――誘ってくれて、ありがとう」反射的に出そうになった嫌悪感を、私は笑顔の中に押し込める。



「また今度、誘って。その時は……ちゃんと、呼んでくれるのを待っているから」

「――っ! 約束だぞ、次は一緒に遊ぼうな!」



 日に焼けた……えっと、こいつの頬が赤くなる。次いで、彼は気恥ずかしそうに私から目を逸らし、ランドセルを片手に教室を飛び出して行った。


 それを見て……いや、見送って。


 手を止めて、一連の流れを見ていたクラスメイト(男子)たちが、一斉に動き始めた。


 私が今日、誰とも遊ぶ気が無い事が分かったからなのだろうが……その中に和也が名残惜しそうにしながら混じっているのが見えた。


 和也は……さっきのやつとは違い、強引に誘いを掛けてこない。


 しかし、自分もそっちに用があるという体で、同行しようとしてきたことが、過去に何度かあった。


 今はさすがに露骨すぎると思ったのか、それはしなくなったが……何にせよ、あの様子だと今日は声を掛けてくることはないだろう。



(――お前も、あの二人に似ている所があるからな。正直、傍に来てほしくはないんだ)



 そう心の中だけで呟いた私は、挨拶をしてくる男子たちに挨拶を返しながら……先ほどの発言通り、図書館へと向かった。




 ……。


 ……。


 …………もちろん、図書館に行く用事などない。


 しかし、一度は図書館に行くと口にした以上、実際は行かなかった事が露見した場合のリスクを考えれば、用事が無くても行かなくてはならない。



 ――人の嘘なんていうのは、どこで露見するかなんて分からない。



 事実、あの二人の不貞……否、裏切りが露見したキッカケは、ほんの些細なモノであったから。だからこそ、私は出来うる限り、嘘を嘘にしないように心掛けている。


 故に、私は……図書館で何をするのかを、今から考えなくてはならなかった。





 ……。


 ……。


 …………子供の足でもそこまで時間が掛からない場所に市営の図書館があるというのは、恵まれた環境ではあるのだろう。



 少なくとも前世の、『俺』がまだ子供の時だった頃を考えれば、けっこう恵まれた環境だと思うところだ。


 何せ、当時は今みたいに交通の利便がそれほど多くはない。加えて、『子供が一人で暇を潰せる娯楽』がそれほど多くはなかった。だから、ゲーム機等を持っていない子供とかが、よく図書館で暇を潰したりしていた。



 ……しかし、今は違う。



『俺』が子供の頃は、大まかに見積もっても30年近く前。その頃はスマホはおろか、携帯電話ですら所持している庶民はそう多くはなかった。だから、図書館は何時行っても子供が大勢いた。


 けれども、今は子供(さすがに、小学1年生2年生はいないが)でもスマホ(あるいは、タブレット)を所持していても何らおかしくはない時代だ。


 わざわざバスなり何なりを使って図書館へ行くよりも、タッチ一つであらゆる調べ物が済んでしまうスマホに子供たちの興味が移ってしまうのは、致し方ない事だろう。


 そのうえ、小説にもなれば百科事典にもなるだけでなく、ゲーム機にもなるとなれば……子供たちの足が図書館へと向かなくなるのは……まあ、必然だろう。


 その証左に、私が図書館に到着した時……館内には、私を除けば子供は数人しかいなかった。


 その子供たちだって、低学年(7歳、8歳くらいだろうか)だ。傍には親御さんらしき人がちらほら……教育の一環なのだろう。


 私ぐらいの人はおらず、高校生(おそらくは、受験生か?)らしき人が数名、隅の方に設置さえている長テーブルで勉強しているのが見える。


 それ以外は……まあ、似たり寄ったりの顔ぶれ。具体的には、昼間は暇を持て余している老人だ。


 保管(観覧も可能)してある以前の新聞を読んでいる者、館内に設置されたテレビ(一人一台の小さなやつで、教育系のビデオが見られる)を見ている者、借りる本を吟味している者など……まあ、そう変わりはない。



 ……かく言う私もこの図書館の常連であったりするが……まあいい。とりあえず、館内の奥へと進むことにする。





 ――今日も今日とて静まり返ったこの図書館は、真上からみれば横に置いた長方形の形をしている。




 4年前に中を改装しただけあって、内装はどれも綺麗で真新しい。さすがに4年も経てば何処かしら汚れてはきているのだろうが、少なくとも私に見える範囲では、それはない。


 自動ドアを入ってすぐ右手側に、貸出受付。正面左側に各社の新聞(全国紙と、地方紙合わせて10社)が、直近の一年分が何時でも閲覧できるようになっている。


 真正面には、各種類の雑誌が棚に並べられ、出版社で探せるようインデックスが施されている。その奥には、2階へと続くエレベーターと階段がある。


 そして、そこから右側に……ずーっと、本棚が続いている。図書館というだけあって、様々なジャンルが収められている。寄贈されたモノから、新たに購入されたものまで、本当に色々だ。



(……さて、何の本を読もうか)



 入口では薄かった古びた冊子や酸化したインクの臭いが、濃くなってゆく。あまり好きな臭いではないが、書物には付き物なので、我慢する。



(……小説のコーナーは……まあ、後だ。いちおうは『調べ物』という体でここに来たから、何かしらの言い訳を作ってはおきたい)



 とはいえ、何に手を付ければいいか……そう思い、何気なく本棚の間に作られた通路を進んでいると。



「――っ!?」



 そこは、本棚の影。位置的には幾つかある通路のうちの一つ。そこにパイプ椅子を置いて座っていた老人と、目が合った。



(びっ、くりした。まるで気配がしなかったから、全く気付けなかったぞ……)



 ばくん、と音を立てている鼓動を速やかに静めつつ、老人を見やる。


 老人は、端的にその姿を述べるのであれば、コートを着た、紳士然とした爺さんであった。とりあえず、不穏な気配は感じられない。


 というか、向こうもぼんやりしていたのだろう。私と同じく、相当に驚いたようで、目をまん丸に見開いたまま黙ってこちらを見ていた。



 ……ふむ、見覚えはない。



 今までにも幾度かここには訪れているが、始めて見る顔だ。まあ、曜日も時間もバラバラだから、そう何度も出会う方が不自然だが……ていうか、さっきから動かないぞ、こいつ。



 ……ショック死とか、していないよな?



 嫌な予感を覚えた私は、そのまま様子を伺ってみる。何かしらの反応があれば安心するのだが……何故か、反応がない。目を見開いたまま、不気味なぐらいに動きを止めている。



 ……え、もしかして本当に死んでる?



 脳裏を過る嫌な予感が、現実になるかもしれない。そう思った私は、「あの、どうしましたか……?」ひとまず老人の無事を確かめようと駆け寄った……瞬間。



 ――がしり、と。



 唐突に、伸ばした手を掴まれた。「――っ!」さすがに、これには驚く。思わずギョッと目を見開いた私を他所に、私の手を掴んだ老人は……まん丸に見開かれた目で私を見つめたまま。



「天才に、出会った」



 そう、ぽつりと呟いた。






 ……何だこれは、どうすればいいというのだ?





「……あ、あの?」


 意図が分からずに困惑する私を他所に、老人は私の手を掴んだまま立ち上がる。そうして、気付く。


 思いの外、相手の背が高いということに。小学生とはいえ、それなりに背丈のある私が見上げる必要があるぐらいであった。



「…………」



 しかし、それだけだ。立ち上がったまま、老人は何もしてこない。話しかけてくるわけでもないし……性的悪戯を働こうという素振りすらない。


 声を掛けてみるも、何の返答もない。ただ、黙って私の手を掴んでいるだけ。


 いや、まあ、その時点で悪戯の範疇ではあるのだが……単純にぶっ飛ばしてよいのかどうか、迷うところだ。


 何せ、12歳とはいえ、今の私の筋力は大人並みにある。人前では誤魔化してはいるが、誇張抜きに握力だけでリンゴを握り潰せるぐらいにはある。


 腕力だって、同等にある。実際、何度か確かめてみたから……だから、やれないことはない。相手が男(老人とはいえ)であっても、やられっぱなしにはならないだろう。



(……どうすればいいんだ?)



 しかし、不思議と……私は手を出すのを戸惑っていた。


 何だろうか、敵意ではないのだ。老人からは、私を害そうという意志が感じ取れない。とはいえ、それにしてはこう、目に宿る光が鬼気迫るというか、何というか……と。



「……三つだ」

「はい?」



 前触れもなく、唐突に。ポツリと呟かれた老人の一言に、私は思わず困惑に小首を傾げた……が、「……すまない、驚かせてしまった」老人はそんな私の反応を他所に、あっさり手を放した。



「…………」

「…………」

「…………」

「…………」



 そのまま、私たちは無言になった。いや、正確には、老人は再び椅子に腰を下ろしたのだが……まあ、それだけだ。



 ……何だ、何が三つなんだ?



 好奇心が疼くのを、私は実感した。立ち去ろうとも思ったが、今しがたの発言も気になる。


 さっさと逃げるのが得策かと思ったが、「あの、何が三つなんですか?」とりあえずはと、率直に尋ねてみた。



 ……しかし、すぐには返事をされなかった。



 たっぷり、一分ぐらいだろうか。まさか、このまま無視されるのかと思って諦めようとした時、ようやく……爺さんは口を開いた。



「君の、顔だよ」

「顔? 顔って、私の?」

「そうだ、正確には、ペルソナという……君の内面から滲み出る顔のことだ」

「ペルソナ?」

「心理学においては、外向き……つまり、表に出て外界と向き合う際に使われる人格みたいなものだよ」



 そう言うと、爺さんは……年齢相応の皺だらけの指先を、私の顔へと向けた。



「さっき、君を目にした瞬間。僕は、こんな人間が存在しているのかと驚いた。本当に……今も、驚いている」



 ――褒められているのだろうか。


 ――あるいは、貶されているのだろうか。



 どうにも、分からない。


 そう思っていると、その内心が表に出たのだろう。「もちろん、悪い意味じゃないさ」気づいて言葉を付け足した老人は、「なんたって、君は綺麗な子だからね」そう話を続け……不意に、視線が動いた。


 いったい何だと思ってそちらを見やれば、通路の奥。少しばかり離れた場所に、老人が座っているのと同じ種類のパイプ椅子が置かれていた。



 ……座れってことなのだろう。



 私が年齢通りの少女であったなら、怖がって逃げ出すところだが……まあいい。私もそうだが、この人も只の爺さんではなさそうだ。


 眼前の老人に興味を抱いた俺は、椅子を老人の隣に置いて腰を下ろす。


 そうして、少し間を置いてから、ふと、老人は思い出したようにコートの内側から……一枚の名刺を取り出し、刺し出してきた。



(……芦田虎雄(あしだ・とらお)。聞き覚えのない名前だ)



 名刺に書かれた名前の下には、『芦田芸能プロダクション代表取締役』と記されていた。芸能プロダクション……要は芸能事務所か……ふむ。


 あいにくと、芸能関係は前世と同じく今世でも興味は薄い。しかし、全くの無縁というわけではない。何度か、町中で声を掛けられた覚えがあったから。


 けれども、正直なところ良い印象は欠片もない。ぶっちゃけ、この爺さんが相手でなければ即座に席を立っていたであろう……というのが本音である。



 というか……何で芸能事務所の社長がこんな場所にいるのだろうか?



 曖昧な笑みを浮かべたまま、私は内心にて首を傾げる。最近の芸能事務所は暇なのだろうか……それとも、新手の発掘方法なのだろうか……うむ、分からん。



「……芸能界への興味は、無いって感じだね」



 考えていると、こちらの様子を伺っていた老人……いや、芦田の爺さんが話し掛けてきた。「うん、全く。スカウトなら他を当たってください」とりあえず、期待を欠片も持たせずにバッサリぶった切ってやった。



「――いや、君だ。君以外に、いない。だから、僕は君を説得するよ。是が非でも、首を縦に振ってもらうように」



 だが、爺さんは欠片も諦めてはくれないようだ。まっすぐに、只々まっすぐに、私を見つめている。





 ……。


 ……。


 …………まあ、たまにはいいだろう。



 そう思った私は、他所へと向いていた身体を爺さんに向ける。途端、嬉しそうにする爺さんを他所に、「……何で、私なの?」まず、率直に理由を尋ねた。



「理由は、三つある」



 すると、返された言葉がソレであった。



「三つ……さっき呟いた、三つの事?」

「おおむね、その通りだ。じゃあ、まず一つ目だ」



 その言葉と共に、爺さんは「――とにかく、外見が良い」一切を隠すことはせず、率直に理由を述べた。



「少なくとも、僕が見てきた夢抱く多種多様な子供たちの中でも、断トツだ、胸を張って言える。我が生涯の中で、君はその誰よりも美しい……と」

「はあ……そうなんですか?」

「そうだよ。でも、君はそれだけじゃない。こうして話してみて、分かった。外見だけじゃない、君は既に大人並みに聡明で精神も成熟している。その内に秘めた能力も、断トツだ」



 ――だからこそ、更に驚いたんだ。



 そう語る爺さんの目は……興奮で、僅かに震えていた。「……ええっと、二つ目はね」いや、震えているように、私には見えた。



「君が、既にその若さで自覚していたからだよ」

「……と、いうと?」



 意味が分からずに首を傾げる私に、「なあに、難しいことじゃない、簡単な事さ」と、爺さんは呟いた。



「君のような子はね、大なり小なり天狗になるんだ。いや、天狗というよりは……自分の価値というものを理解してくるんだ。特に、即物的に評価されやすい『容姿』という一点に恵まれた人は……故に、それが表に出るんだ……過信という形でね」

「……過信?」

「心当たりはあるだろう? 『美人は得』だってことだよ。君みたいに飛び抜けた子は、特にそう。美人であるメリットがスタンダードに……つまり、善意や好意を向けられるのが当たり前で、それが普通であると思い込んでいる事が多いってことだよ」

「……ふ~ん」

「大人になるにつれて、大体の場合はそうじゃない事に気付く。井の中の蛙というやつでね……思い知るんだ。外に出れば、自分よりも容姿端麗で、自分よりも人々の目を集める異性や同性がいる……とね」

「…………」

「若い内は、気付けないんだ。若さというのは、それだけで武器になるからね。歳を経て、その武器が錆びつき……初めて、だいたいの人が気付くんだ。中には、その現実を受け入れられず、様々な理由を付けて排除しようとする者もいるが……まあ、それはいい」



 ――何にせよ、君は違う。根本的に、君は違う。



「君は、自分が美人であることを自覚している。しかも、現在の自分がどのような立ち位置にあって、どれ程の影響力が及ぶのかを自覚し……それを丁度良い加減で使いこなしている。その若さで、それが出来ている……大したものだよ」



 ――なるほど、と。



 爺さんの話しに私は、率直に納得した。と、同時に、感動にも似た感嘆のため息をわずかに零した私は……「それで、最後は?」三つ目を尋ねていた。



「…………」



 だが、不思議な事に。何故か爺さんは三つ目をすぐに話そうとはしなかった。これまでの二つは、あっさり話したというのに、だ。


 もしや……三つ目はブラフだったのだろうか。


 そう思っていると、そんな私の内心を読んだかのように、「……知りたいかい?」爺さんは……ポツリと呟いた。



 当然――知りたいと私は思った。



 幾らなんでも、こんな中途半端な所で切り上げられるのは堪らない。そういうのはいいから三つ目を教えろと急かせば、爺さんはにんまりと締りのない笑みを浮かべ……私の手元にある名刺を指差した。



「二週間後、そこでオーディションをやる」

「……いや、あの」

「受けてくれるなら、三つ目を教えるよ――っと、これは交通費とその他諸々だ」



 困惑する私を尻目に、爺さんはいつの間にかに取り出した財布から札を抜いて、椅子から立ち上がると……半ば強引に私の手に丸めたソレを握らせた。



「では、今日の所はこのへんで」

「ちょ、あの――」

「名刺の裏に書いておいた住所が、此度のオーディション会場だ。来てくれるのを楽しみに待っているよ」



 握らされた札束の分厚さのせいで、反応が遅れた。返そうと思った時にはもう、爺さんは見た目不相応の動きで走り出し、本棚の向こうへと行ってしまった。



 ……追いかけようと思ったが、止めた。



 爺さんが着けていたコロンの僅かな香りだけが、残されている……いや、違う。私の手元に残された……パッと数えた限りでも、二十枚以上ある紙幣に目を向ける。



 ……全て、万札だ。



 ちらりと、視線を上げる。監視カメラは……ある。手渡されたお金には、爺さんの指紋がべったり付いているだろう。だから、やろうと思えば……出来なくはない。



(……あの爺さん、見ただけで私が普通でないのを見抜いた?)



 だが、そうするには……些か早いのではないかと、私は思った。


 もちろん、ブラフの可能性はある。先ほどの二つだって、結局のところは当たり障りのない言い回しだ。


 適当な答えを用意して、ただオーディションを受けさせるための釣り得でしかない可能性は……高いだろう。



(……芸能界、か)



 しかし……どうしてか、私はあの爺さんに強い興味を覚えた。



 それは、行き詰まりしている現状が原因かもしれない。何せ、12年……12年も我慢を重ねているというのに、私は未だに手を下してはいない。


 躊躇しているのではなく、どのような形で手を下せば満足出来るのか……それがまだ、分からないからだ。


 刃を振り下ろすのは簡単だ。だが、それでは足りないのだ


 機会は、一度しかない。殺してしまったら、次が楽しめない……となれば、知らず知らずのうちに溜め込んでいるストレスが原因か……いや、よく分からない。


 自分でも、よく分かっていない。何でそこまで、興味を引かれたのか。


 ただ、この状況を変化させる何かを、あの爺さんから感じ取ったから……とりあえずは、そのように結論を出した私は……すぐに、踵をひるがえしたのであった。





 ……。


 ……。


 …………いちおう、スマホから本人かどうかを調べてみたが、本人とみて間違いなかった。


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