第一話 耐え忍ぶ修羅




 ――高田文たかだあや



 それが、生まれ変わった俺の新しい名前。



 それからの俺の日常……一言でいえば、地獄の中で蹲るような日々であった。


 何せ、この世の何よりも憎んでいる二人の血を、俺は受け継いでしまっている。その事実を前に、俺は……とてもではないが、平静ではいられなかった。


 俺が、俺として存在している、それ自体が苦痛でしかなかったのだ。


 仮に俺が幼稚園児……小学生の段階で『俺』になっていたら、すぐさま自殺を図っていただろう。それぐらいに、俺は俺が嫌でたまらなかった。


 性別など、何の関係もない。男であろうが女であろうが、些事だ。


 今世では女として生まれた俺だが、それはあの二人の子供として生を受けた……この事実を前に、どうでもよいことになっていた。



 あの女に似ているのが嫌なのだ。


 あの男に似ているのが嫌なのだ。



 二人のDNAを受け継いでいる、それがとてつもない嫌悪感を俺にもたらしてしまう。一滴足りとて我慢ならない、我慢できない。


 いっそのこと、俺としての自我を全て消して欲しい。それが無理なら、俺を殺してくれと……何度も、思った。何度も、『願った』。



 だが、その『願い』は……叶わなかった。



 どれだけ願っても、どれだけ後悔しても、あの時の爺さんは一向に俺の前に姿を見せない。時には恨みを込めて罵倒(声は出せないから、心の中で)したが……現れない。



 その事に……最初は怒りを抱かざるにはいられなかった。


 だが、その怒りは、そう長くは続かなかった。



 薄々とだが……分かってはいたのだ。転生を果たした後だけど結果が気に食わないから……そんなことで対応してくれるのであれば、わざわざあのように念押ししたりはしない。


 選んだらもう、取り返しが付かない。選んだら最後までやるしかない。だから、あそこまで何度も……だから、俺は現状を受け入れざるを得なかった。



 ――とはいえ、仕方ないで納得出来るわけもない。



 せめてもの抵抗と言わんばかりに二人への憎悪を募らせる俺を他所に、この世で最も憎んでいる、当の二人は……俺に対して愛情深い眼差しを向け続ける。


 それがいったい、どれだけの屈辱を俺に与え続けているのか……二人にとっては、思いもよらない事だろう。


 だって、伝わらないから。俺がどれほどの嫌悪感と憎しみを抱いても、二人が俺に向けるまなざしは変わらない。一切の反応を見せないようにしても、何も変わらなかった。



 ……今の俺は、赤ちゃんだから。



 とにかく、何もかもが屈辱でしかなかった。


 母乳を与えられることも、オムツを変えられることも、身体を洗われることも、何もかも……だが、俺は無力であった。


 母乳を拒もうにも、気付けば俺は乳を吸っている。一口飲む度に嫌悪感と吐き気を覚えているというのに、身体が求めていう事を利かない。


 オムツの交換を拒もうにも、赤ちゃんの力ではどうにもならない。身体を洗われることだって、一緒。


 わずかに手間を掛けさせるのが精いっぱい。俺が何を思った所で、只々受け身にならざるを得なかった。



 ……けれども、そのおかげで……考える時間だけは幾らでもあった。



 まず、二人から聞こえて来る会話から推測する限り、俺はまだ1歳にも達していない。既に首は座っているが、自力で立ち上がることすら、まだ難しい。


 独りで立てるようになるまで、最低でも後3か月ぐらい。何となくだが、それが分かる。


 おそらくは、『願いの副産物』なのだろう。自分の身体がどのように成長しているのかが、手に取るように分かる。それは、自分の身体に秘められた潜在能力も含まれていた。


 さすがは、『願い』によって生み出されたモノだ。このまま成長すれば、どれだけのモノになるのかまで……分かる分、私は将来の自分に怖れ半分の期待を抱いた。



 ……だが、あくまでそれは、未来の話。



 将来的には違うだろうが、肉体的にはまだ制御が思うように利かない。故に、成長しようとする肉体の本能が押し勝つ……どう足掻いてもオムツを汚してしまう事から、それは嫌でも思い知らされた。



 ……それもまた、俺にとっては屈辱であった。



 二人の血を受け継いでしまっているのもそうだが、それと同じぐらい嫌なのだ。二人の手を借りなければどうにもならないこの状況が、この身体が。


 けれども、それでも必死になれば……少しずつではあるが、制御が利くようになってくるだろう。まだ立つことは出来なくとも、本能を意図的に振り払うことが可能になって……なった。



 そうして、俺が俺として自我を得て、二か月後。



 ようやく、意志の力で本能を完全に振り払うことが出来ると確信を得た俺は……その直後から、一切の食事を取ることを止めた。


 それは、俺にとってかなりの苦痛を伴うやり方であった。だが、自らを物理的に害して死ねないのであれば、これ以外に方法はなかった。



 当然……というのも癪だが、ミルクも何もかも飲まなくなった俺に、あの二人は大慌てであった。



 その様は、俺にとって愉快痛快……絶え間なく襲い掛かる『飢餓』という苦しみが快感に変わる程の爽快感を、俺にもたらしてくれた。


 刻一刻と時間が経てば経つほど、顔色を悪くして右往左往する二人。俺が味わった苦しみの僅かでも……そう思えば思う程、俺は満足であった。



 ……だが、しかし。俺の喜びは、そう長くは続かなかった。



 何故かといえば、二人は俺を病院に連れて行ったのだ。そこで、俺は栄養点滴をされたのだが……そこで俺が目にしたのは……目にしたのは、だ!



 ――医師より、看護師より、同情され励まされる……二人の姿だった。



 それは、転生してから最大といっても過言ではないぐらいの、屈辱であった。臓腑が焼け爛れたと錯覚してしまう程に、腸が煮えくり返る瞬間だった。



 どうして、お前たちが同情を受ける。


 どうして、お前たちは励まされる。


 どうして……お前たちが、周りから心配されなければならないのだ。



 ――これでは、逆だ、逆効果だ。


 俺の抵抗が、俺の憎悪が、二人を悲劇の夫婦に仕立て上げてしまう。このままでは、俺の死ですら……そう思った俺は、翌日から食事を再開した。


 能天気な二人(と、医師たち)は喜んでいたが……俺は、どうにもならない怒りを抱えて耐える他なかった。



 ……憎悪の中で、俺は思う。



 普通に死ぬだけでは、駄目なのだ。何らかの形で、二人は同情され励まされ悲劇の夫婦として人々の記憶に留まってしまう。


 仮に、俺が何らかの形で二人を殺したとしても……結果は同じだろう。どのような形に収まるのかは分からなくとも、二人は『善』として終わる……それは、変わらない。


 それならば、死ねない。どんな形であれ、二人がそのようにして終わるのであれば……俺は死ねない。そう思った時……俺の中からは、『自殺』という言葉は消えていた。

 死ぬのは、怖くない。今すぐ舌を噛み千切って窒息しても、何ら後悔はない。今すぐ手首を切っても、何の後悔もない。


 しかし、俺はまだ歯すら生え揃っていない。刃物を握るための握力すら弱く、刃を沿えることすら……まだ、出来ない。



 何をするにしても、俺はまだ幼すぎるのだ。



 兎にも角にも、大きくなってからでなければ……何も出来ない。それまでは、せいぜいこの二人を利用しなければならない。


 だから、耐えるのだ。ただ、利用しているだけなのだから……そう、己に言い聞かせた俺は、ただ耐えた。ひたすら、耐え続けた。






 ――そうして、月日は流れた。





 一ヵ月が過ぎ、二か月が過ぎ……半年が過ぎ……一年が過ぎる。その間、『願い』の影響も相まってか、俺の身体は順調に成長を続けた。


 他人よりも早くハイハイが出来るようになり、他人よりも早く独りで立てるようになり、他人よりも早く離乳食が食べられるようになり、他人よりも早くオムツが取れるようになり。


 世間一般の親御さんからすれば、俺はさぞ育てやすかった事だろう。


 必要時以外では夜泣きはせず、癇癪を起こして泣き喚くこともなく、余計なワガママは言わず、言われたことをしっかり守り、好き嫌い無く出された物を食べ、決められた時間に寝る。


 仮に、俺が親の立場であったなら……少しばかり大人し過ぎると思って心配したかもしれない。


 まあ、事情を知らないあの二人は特に疑問に思う事はなかったが……そうして俺は耐え続け……気付けば、私は……中学入学を間近に控えていた。










 ――ぴりぴりっ、と。


 枕元に置いてある目覚まし時計が、定められている時間を指した、その瞬間。


 音が鳴り響くと同時に目を覚ました俺は……いや、『私』は、何時もと同じように……ベッド柵の向こうに広がる光景を見やる。


 1人部屋にしてはそれなりに広く、二人部屋にしては少しばかり手狭な広さ。私から見て右側に出入り口があり、正面壁の左右には勉強机が二つ並び、間にはプラスチックの衣装タンスが縦に重なって一つずつ。


 左側は、カーテンが閉められた窓。その下には漫画雑誌やらが収められた小さい本棚がある。相変わらず、何の変化もない。昨日と同じ光景が、目覚めた今も……続いている。



 ……やれやれ、だ。



 自然と零れそうになった溜息を、私は寸でのところで堪え……んふぅ、と鼻から息を吹いた。分かってはいるが、夢であって欲しいと思ってしまうのは、ある意味では何時もの事……ん?



 ――ふと、二段ベッドがギシリと軋んだ。反射的に、私は上段ベッドの裏を見上げていた。



 私には、姉がいる。姉の名は……まあ、どうでもいい。私よりも3年早く生まれた女の子で、中学3年生……一つの部屋を共同で使っている。


 顔立ちは……あの二人の血を程よく混ぜ合わせた感じだろうか。その姉は、まだ寝ているようだ……っと、おや?



 ――はて、どうして姉がいるのだろうか?



 脳裏を過った疑念に、私は首を傾げる。というのも、姉は朝練(テニス部らしい)がある部活に入っている。


 現在の時刻は、6時30。姉の普段の起床予定時間は7時40分で、朝練がある時は一時間ぐらい早まる。


 だから、何時もならもう姉は起き出しているか、目覚ましの音が鳴り始めているはずだ。


 その目覚まし音が、まだない。姉が、まだこの部屋にいる……寝坊だろうか……ああ、いや、違うな。


 そういえば、明日は部活が休みとか云々と話していたような……そうやって、昨日の事を思い出す。


 ただ、思い出せたのはそこまでで。正直、それ以上の事を思い出すつもりがなかった私は、さっさと気を入れ替えて、身体を起こした。



 ――途端、鋭い冷気が素肌の部分から這い上がってきた。



 年が明けて、今は2月半ば。外よりは温かくされているとはいえ、一日中暖房が点いているわけではなく……我慢して、ベッドから飛び出る。


 そうすると、ぱさり、と。肩に降りかかった自分の髪の毛を、私は無意識に払う。次いで、ちゃっちゃと寝間着を脱いでベッドへと放り投げた私は……部屋の隅へと向かう。


 そこには、全身を映せる姿見(共有物)がある。それにパンツ一枚となった裸体を映した私は……我ながらとんでもない身体だなと、毎朝のことながら思った。



 ――超人的なフィジカルに見合う容姿。その『願い』は、月日を重ねる度に、現実のモノとして形になりつつある。



 例えるなら美の黄金比、ミクロの狂いすらない精巧な時計……というやつなのだろう。


 顔のパーツを始めとして輪郭は言うに及ばず、骨格の太さに長さに反り、筋肉の付き具合に形などのバランス具合。


 必要な場所には必要な分だけを配分された脂肪に、それら全てを磨きに磨かれた陶磁器のような皮膚でコーティングされた……全身。


 アスリート体系とは、少し違う。年齢という幼さはある。何せ、私はまだ12歳。大人びているとはいえ、まだ中学生にもなっていない。


 だが、それでも……その美しさの片鱗が、既にそこには現れている。



 本当に、我ながらとんでもない美少女になってきているな……と、思った。



 これは、自慢でも何でもない。事実、自分が美少女であると思い知らされる場面は多々ある。その最たる例は……男子(男性も含めて)たちからの扱い……と。



 ――尿意を覚えた私は、少しばかり足早にトイレへと向かう。



 この時間は、あの二人もまだ夢の中だ。なので、朝から鉢合わせして気分を害するということもない。


 そうして、すっかり慣れてしまった作業を終えて手を洗い……ふと、洗面所の鏡に映った己を見て、改めて思った。



(……もう、12年も経つのか)



 この世に生を受けて、12年。言い換えればそれは、私が『俺』として自我を得て……約12年ということになる。


 さすがに12年も経てば、女の身体にも慣れる。最初は違和感が強かったが、12年も付き合えば……嫌でも馴染んでしまう。


 だがしかし、馴染んだとはいえ、私の身体は普通ではない。何故なら、私の肉体は『願い』によって生み出された産物でもあるからだ。


 『願い』と『代償』は、表裏一体。今の立場が『全ての代償』であるならば良いが、そうでないなら……どのような形で『残りの代償』が降りかかるか、何も分からない。というか、残りがあるのかすら、不明だ。



 ……怖いのは、目的を達せられないまま終わるということ。



 私は、今もなお自分の命に対する執着心は薄い。はっきり言って、あの二人がこれ以上ないぐらいに惨たらしく苦しんで苦しんで苦しみ抜いてくれるのであれば、今すぐにでも喜んで手首を切るだろう。



 だが……今の所、そうなる可能性も方法も、私にはまだ見えていない。



 故に、私はあの二人を利用する。道筋が見えないのであれば、見えるようになるまで、徹底的に利用する。媚を売り、『自慢の娘』らしくしてきた。



 見返りは、あの二人への……全ては、あの二人に絶望を与える為だ。



 ただ、単純に終わらせるのは駄目だ。ただ、死なせるなんて真っ平御免だ。ただ、その首を切り裂いてやるだけでは……到底、納得出来ない。



 もっと、もっと……もっと苦しんでから、然るべき結果を。



 そう思うたびに、反射的に噴き出しかけた憎悪を押し留めることが出来た。包丁へと伸びる手を、階段から蹴り飛ばそうとする足を止めることが……っと。



 ――だらだらと考え込みそうになる頭を、左右に振って気持ちを切り替える。



 行きと同じく帰りも、足音を立てないように気を付ける。これも、すっかり慣れた手順だ。そうやって、自室(正確には、共同部屋だが)へと戻ってきた私は……さて、と耳を澄ます。


 ……変わらず、姉の寝息が聞こえて来る。一定のリズムで行われているソレに変化はなく、起きる気配がないのを察した私は……改めて、日課を始める事にした。


 まあ、日課といっても大したことではない。ただ、たっぷり時間を掛けて筋トレとストレッチをするだけだ――ただし、私がやる筋トレを……同年代の同性がこなすには、些か無茶だとは思うが。



「――ふっ」



 姿見から離れ、カーテンを開いて窓を開ける。次いで、枕元に置いてあるバスタオルを部屋の中央に敷く。


 その上で、全身を軽くストレッチした後。深呼吸を三回した私は、その場にて……腕立て伏せを始める。


 ゆっくりと、大胸筋に効かせるように。次いで、脇を閉めて腕に効かせる。次はプランク……横からみれば『へ』の字になるように姿勢を維持し、前面側に効かせた後、角度を付けた腹筋等を行い、同じく足幅を変えたスクワット等を行う。


 それが終わったら、うつ伏せになって両手と両足を浮かせ、下す。次に四つん這いになって、太ももの裏を天井に上げ下げ、踵を上げ下げ、ぐるぐる回す。次いで仰向けになり、ブリッジする。背面側の筋肉を意識し……それらの工程を繰り返し、ほとんど休みなく行ってゆく。


 汗が、噴き出す。顔だけでなく、全身から。顎先から、指先から、胸から足から背中から……胸中から、臓腑から、濁り固まらずに溢れてしまった憎悪が滴り落ちるような気がする。


 ……いわゆる、時短筋トレというやつだ。


 体力的、肉体的な負担は非常に大きいが、効果は十二分。こなすのは難しいが、時間を掛けて筋トレを行うのと同等の効果を得られるコレを、私は10歳になった頃から続けている。


 何故そんな事をしているのか……大した理由ではない。ただ、様々な条件が重なった時、あの二人の首をへし折れるようになっておきたい……ただ、それだけだ。


 どんな生き物も、最初はか弱いモノだ。例え、将来的には上位に立てる生物であろうとも、獅子であれ象であれ、子供の内は弱い。


 素養があろうとも、それは同じ。そして、より強くなるためには、より強くなるために必要なことをしなければならない。


 この筋トレは、正しくソレだ。『超人的なフィジカル』を始めから得ているというアドバンテージを、最大限に活かす。故に、私はこれを続けているというわけだ。


「……ふう」


 最後に、逆立ちしたままで腕立て伏せを終えた私は……着替えを片手に、今しがたまでマット代わりに使っていたタオルを持って、浴室へと向かった。










 ――外へと出た私は、日差しの眩しさに少しばかり目を細めた。



 超人的なフィジカルを持つとはいえ、肉体の反射には逆らえない。ランドセルを背負った私は、何時ものように独りで学校へと向かう。


 すっかり見慣れた道、すっかり見慣れた人影、すっかり見慣れた登校作業。その最中、私は……掛けられる挨拶に一つ一つ返事をする。



 ――おはよう、文ちゃん

「おはようございます、行ってきます」


 ――おはよう、今日もいい天気だね

「おはようございます、そうですね」


 ――おはよう、お姉ちゃん!

「おはようございます、今日も元気にね」



 私に声を掛けてくるのは、それこそ老若男女の区別はない。


 家の前を掃除している近所のおばさんもそうだし、時間的に顔を合わせるバス停の爺さんもそうだし、幼稚園バスに乗り込もうとしている子供たちも、そうだ。


 すっかり慣れてしまった事だが、今日も変わらず視線が己へと集まるのを、私は実感していた。


 私の恰好に、おかしい所はないだろう。シャツにズボンにスポーツシューズ。化粧をしているわけでもないし、目立つアクセサリーを付けているわけでもない。


 極端に背が高いわけでもなければ、低いわけでもない。また、異常に太っているわけでもなければ、痩せているわけでもない。けれども、視線は私に集まってしまう。



 理由は、分かっている。何故なら、今の私は……誰が見ても美少女であるからだ。



 そう、客観的に判断しても、私は美少女である。『俺』として見ても、今の私は間違いなく美少女だと断言する。贔屓目抜きに、私は、私以上の美少女を……テレビでも、ネットでも、目にしたことがない。


 こちらから挨拶をすれば、彼ら彼女らは戸惑うことなく挨拶を返してくれる。当たり前のことなのかもしれないが、取って付けたものではなく、誰もが朗らかに対応をしてくれる。


 それは何も、名前すら知らない近所の顔見知り……だけではない。その証拠に――。



「あっ、文、おはよう!」


 ――背後から掛けられた声。



 振り返れば、美少年と評価して差し支えない風貌の男子が、私の傍へと駆け寄ってきて……傍に並んで歩き出す。


 この少年の名は、和也。名字は……忘れた。名前で呼べと言われたから名前で呼んできたせいだろう……が、まあそこはいい。


 重要なのは……だ。


 僅かばかり少年の頬が赤らんでいるのを見やった私は……何時ものように、「――おはよう、和也」笑みを浮かべて挨拶を返した。


 途端――少年の頬が一気に、更に赤らんだ。


 それだけでなく、「お、おはよう……」目に見えて動揺を露わにしているのを見て……内心にて、私は何とも言い表し難い感覚を覚えていた。


 この少年の気持ちは、分かるのだ。前世では『俺』だったから、気持ちは察せられる。


 客観的に見れば、今の私は確かに美少女ではある。精神面は別として、胸だって膨らんできているし、女性器だってある。肉体的には、紛れもなく女性である。


 ……仮に、私が自らを男であると自称しても、だ。


 少年が潜在的な同性愛者であったり、特殊な性癖であったりしなければ……麗しい異性に恋心を抱いたとしても、何ら不思議な話ではない。


 ……私の内心は別として、その点については理解している。



(……見る目がないな、この子も)



 とはいえ、理解したから好意を返す……というわけではない。それもまた致し方ないことだろうと……向けられる好意の視線を感じながら、私は思っていた。


 これは何も、傍の少年……和也に限ったことでは……止めよう。


 とりあえずは、しどろもどろになっている和也を落ち着かせながら、一緒に学校へ向かう。(わざわざ置いて行って、心証を悪くする必要はない)その途中で、私は……同級生に限らず、幾度となく声を掛けられる。


 その度に、傍の和也が僅かばかり不機嫌になったが……気付かないフリをする。そうして6年間通い続けた小学校に到着した私は、同じく和也を伴って教室へと向かう。



「――おはよう!」「おはよう、文さん!」「おはよう!」「おはよー」「おはようございます」「おはよう」「おはよう!」「おはよー!」



 教室の扉を開けた途端――私の下へと次々押し寄せて来たのは、男子たちから向けられる好意の挨拶と……女子たちの視線の合間から見え隠れしている嫉妬であった。


 ……。


 ……。


 …………これもまあ、慣れたものだ。



(もうすぐ卒業だっていうのに、何時までもぐだぐだと)



 とりあえず、挨拶をしてきた男子たちに返事をしながら、席に座る。それは私に社交性があるから……ではなく、純粋に同年代にも通用する可愛さが私にはあるからだ。

 そんな私に対して、男子たち……クラスメイトたちは我先にと声を掛けに来る。一度は席にランドセルを置きに行った和也とて、例外ではない。私に好かれたいと、男子たちは思っているのだろう。


 それは……朝のHR(ホームルーム)が始まり、授業が始まっても変わらない。


 さすがに授業中もちょっかいを掛けてくる馬鹿はいないが、休み時間が来る度に話しかけてくるやつはいる。というか、男子の半数が話し掛けてくる。



 席に座っていれば話し掛けられ。


 席を立てばこれ幸いにと話し掛けられ。


 本を読んでいれば『何を読んでいるのか』と話し掛けられ。


 トイレに行こうと……いや、まあこれは気付けというのも無理か。



 とにかく、時間にして10分。授業と授業の合間の、10分の休憩時間。


 そう、たった10分だ。しかし、そのたった10分の間に、次から次へと男子たちが押し寄せて来る。


 色気付いて来ているとはいえ、まだまだ子供……こちらの挙動を察して対応を変えるといったことは、してこない。



 ――正直、鬱陶しい。それは、率直な感想。



 けれども、好かれるというのは強い武器になる。未だ小学生の身分ではあるが、それでも過去から今に至るまで、これでもかと思い知らされている事であった。


 だから、私は愛想を振る舞ってやる。律儀に挨拶を返し、時にはこちらから話しかけ、微笑んでやる。


 たったそれだけの事だが、たったそれだけの事で、誰も彼もがだらしない笑みを浮かべる。そうでない者も、気恥ずかしそうにしている。私に好意を向けてくる。


 反面、女子から向けられる視線は……まあ、世辞抜きで好意的なモノはない。中には違う者もいるが……今の私にとっては迷惑でしかない以上は、気付かないフリをする。



(……この調子だと、中学生になっても同じだな)



 ぼんやり考え込んでいると、午前中の授業を終了するチャイムが鳴った。


 途端、ふわりと……授業中特有の気配が和らいだのが分かった。


 さすがに、この時ばかりは男子たちの目も私ではなく給食へと向けられる。所詮は小学生、色気より食い気……ということなのだろう。



 ――この給食も、後一ヵ月とちょっと……か。



 感慨深くもないし、名残惜しくもない。ただ、12年という月日の長さを振り返りつつ……私は、何時ものように机を動かし始めた。






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