KAC2:箱庭の中の学祭 (お題:最高の祭)

 白井静香がこの小さな大学に来ることを決めたのは、ちょうど一年前だっただろうか。前の大学の人事が変わり、その大学を去ることになった。知り合いので、田舎の小さなとある国立大学に来ないかという誘いを得た。大きな大学と違い、大学内の競争はほとんどないし食いっぱぐれることはないという。しばらく迷っていたが、白井はその大学に行くことにした。旅行ですら行ったことのない県というのは迷うものは確かにあるのだが、環境を変えるのも悪くない、そう思った。


 白井は准教授という新しい役職を得て、教授一人と准教授一人と助教一人しかいない、小さな物理学教室の一員になった。あまりにも小さな教室である。


 その大学は、学部数は三つ、一つが理系で二つが文系だった。学部も学科も一つしかない理系のキャンパスは文系のキャンパスとは異なるところにある。

 大きな旧帝大の大学を卒業し、そこでずっと研究に勤しんできた白井にとっては驚きの連続であった。この大学にきたことを少し後悔もしていた。この設備の少なさ、人の少なさ、金のなさでありながら国立大学なのか、というカルチャーショックがあったことは学生には言えない。


 薄々自覚はあったものの、齢四十三にして自分の世間知らずを改めて知らされたような気がした。


「先生、どこの大学なんですか」

「出身の話?」

 物理学実験実習は昼を回って休憩に入ったばかりだった。一人の学生が、白井の机の前に自分の椅子を引きずって白井のそばに座った。髪を一つに縛った化粧っ気のない、若い時の自分を彷彿とさせるあどけない女子学生である。


 食事には行かないのかと尋ねたら、財布を忘れたのだという。金を借りようにも、仲の良い友達とは班が違うので話しかけて実験の邪魔をするのも悪い。昼抜きとはかわいそうに。

「もともと金欠なので、別にいいんです」

 照れくさそうに、化粧もしていない女子学生は笑った。


 レポートの採点をしていた白井は、その束を手前に寄せる。驚くべきことに、学科二百人に対して学校が与えているパソコンは十台に満たない。レポートを手書きで出してくる学生も少なくなかった。


 白井が出身大学名を答えると、女子学生はきゃっきゃと喜んだ。

「頭いいんですね」

 いや、研究者となるにはこの学歴でも足りないくらいだ。世の中の物理学の研究者には驚くほど頭の良い人間が山ほどいる。

「教授なんか、東大よ」

「えっ、ハゲなのに?」

「……本人に言っちゃダメだよ」

 白井は苦笑である。この三人しかいない小さな研究室でも、上には上がいる。白井が学歴を気にするのを辞めたのは博士号を取ってからだ。その時は大人になったつもりでいたのだが。


「でも先生の大学、わたし行ったことありますよ。学祭に行ったんです」

 白井は学生の頃を思い出した。垢抜けない自分と垢抜けない男子学生(当時の物理学科に女子は非常に少ないため友人は男ばかりだった)の友人と、みんなで模擬店を出した。楽しかった。その思い出もあり、白井は学祭というものが好きだった。院生、ポスドク、助教、講師、どんなに忙しくなっても毎年白井は時間を見つけて学祭に顔を出していた。


「この大学には学祭ってあるの?」

 白井は汚い文字のレポートと格闘しながら、学生に尋ねた。秋も半ば、学祭のシーズンに差し掛かっている。

「来週の土曜日と日曜日にありますよ。あっちですけどね」

 学生は窓の外を指差す。文系キャンパスの方だ。キャンパスごとに学祭があるというものではないらしい。あちらも理系と負けず劣らずの小ささで、二学部三学科で定員は三百人程度だった。足せば大学全体でひと学年五百人。白井がいた学部の人数より少ない。


「行ってみようかな」

「しょぼいですよ。誰も来ませんし」

「来ないって?」

「立地も悪いし、狭いし、人もいないし。近くに住んでる人は全然来ないし、幼稚園がお散歩のついでに寄るくらいです」

 幼稚園児相手では客にならないだろうな。白井は笑った。


「ライブとかあるんじゃないの?」

「ありませんよ、そんなの」

 白井は逆に気になった。そんないしょぼい学祭は、逆に想像もつかない。逆に興味が湧いてきた。この穏やかな大学と研究室なら、きっと学祭に顔を出すこともできるだろう。


「わたし、ずっと自主企画の健康診断の部屋にいるので、良かったら来てください。待ってますから」

「自主企画なんかやってるんだ」

「学祭委員が出してるやつです。学祭がしょぼすぎて、少しでも盛り上げようって企画したものなんです」

「人は来るの?」

 答えはわかっていたが白井は尋ねた。

「来るわけないじゃないですか」


* * *


 文系キャンパスに足を運ぶのは数度目になる。駅前はいつも通りの閑散具合で、学祭をしているとはとても思えなかった。ここを志望している高校生も来ないのかしら、と白井は思ったが、女子学生が来ないというのなら来ないのだろう。


 実際に学祭に足を踏み入れて、白井は驚いた。本当に何もないじゃないか。校舎一つと研究棟一つ。さらに講堂と生協のコンビニで文系キャンパスも完結してしまっている。四つの建物に囲まれた中庭は、小さな箱庭を思わせた。


 箱庭の中には六つのテントがある。各サークルが出している模擬店のようだった。だが客らしい客はほとんどおらず、学生同士が互いに買っているだけである。赤字を白井は心配していた。


 女子学生の言った通りだった。彼女がスタッフだという健康診断は、校舎の一階で行なわれているとパンフレットで見たので(パンフレットも無人のテントで積み上げられたものを勝手に一部頂戴したものだ)、白井はそこに向かった。


「先生っ」

 彼女はすぐに声をかけてきた。よほど暇だったらしい。学生が数十人は入りそうな教室でありながら、スタッフは彼女一人、客はもちろんゼロ。身長計や体重計といった、毎年春に行われている健康診断の道具を持ってきて床に置いただけの殺風景な部屋だ。


 大学の備品を置くだけの自主企画、予算などいらない。なるほど、学祭委員も考えたものである。白井は見も知らぬ委員の頭の回転に唸った。


「本当に来てくれたんですね」

「暇だったからね」

「先生、椅子どうぞ」

 教員である自分が座っていいものか迷ったが、人もいないのでありがたく腰掛けた。


「本当にしょぼいでしょ、先生」

 女子学生は窓のカーテンを開けて自嘲気味に笑った。

「毎年こんな感じなんです。大学からはお金なんてほとんど出ないし、頑張っても頑張らなくても人は来ないので、みんな頑張らなくなっちゃいました」

 窓の外は、さっきの箱庭のような中庭だ。


「あなたは、うちの大学の学祭、見に来たんでしょう?」

 前の大学をうちの大学と呼んでいることに白井自身は気付いていない。

「行きました」

 女子学生もまた、その事実には気付いていない。


「やっぱり、ちょっと寂しいよね」

 白井の声が教室に溶けた。白井がずっと好きだった学祭というものに、この学祭を含める気にはなれなかった。相変わらず化粧っ気のないこの女子学生は、白井が体験したような楽しい学祭で友人と盛り上がることはないのだろう。大学を卒業しても、学祭は二度と体験できるものではない。

 そう考えると、白井は彼女のことがひどくかわいそうに思えてくるのだった。


「そりゃ寂しいですよ。ほんとは、先生の大学みたいなすごい学祭がとても羨ましいです。でも、わたしはこの学祭が好きですよ。しょぼいし、寂しいけど」

 彼女が窓の外を見るのにつられて、白井は外を見た。


 楽しそうじゃないか。客はいなくとも、互いに互いが売っている食べ物を買うだけでも、学生ですらまばらでも、彼らは互いに仲良く喋り、笑顔でそこに立っている。


 白井は大きな大学の大規模な学祭を知ってしまっている。だからこの学祭は妙に物足りなく思えてしまう。だが、この大学の学生たちは、その学祭を知らず、この味気ない学祭を唯一の学祭として、数少ない大学の娯楽として楽しんでいる。


 これはこれで学祭の一つだ。白井自身の大規模な学祭を愛する気持ちや小さな学祭を物足りなく思う気持ちを否定しなくとも、この箱庭の中の小さな学祭の良さは白井に染みる。

 わたしは出身大学の学祭が好き。でも、この大学の学祭も好き。


「外で飲み物でも買ってくるね」

 白井は立ち上がり、相変わらず客のいないサークルのテントに向かった。

 環境を変えるのもいいかもしれない、という一年前の白井の見立ては当たった。いつかハゲた教授が退官する日も、自分はこの大学にいるだろう。

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