死体埋めアンソロジー「密葬」(3,000字)
20200506 文学フリマ Tokyo
ホワイトアウト
12月29日~1月1日(3泊4日)
往路:上高地→明神→徳沢→横尾→本谷橋→涸沢ヒュッテ→穂高岳山荘→奥穂高岳(3,190m)→涸沢岳(3,110m)→南峰→北穂高岳(3,106m)→北穂高小屋→大キレット→南岳(3,032m)→天狗原稜線分岐→中岳(3,084m)→大喰岳(3,101m)→槍ヶ岳山荘→槍ヶ岳
復路:槍ヶ岳→槍ヶ岳殺生ヒュッテ→グリーンバンド→天狗原分岐→水俣乗越分岐→ババ平→槍沢ロッヂ→横尾→徳沢→明神→上高地
***
柳井の死体はもう半分以上が埋まっていた。寺沢が雪をかける間にも、柳井の上半身には雪が積もってゆく。本当なら柳井を埋めている場合ではない。体力があるうちに下山しなければ。だが、寺沢は柳井を放って進むことはできなかった。手が勝手に動いていた。
*
吹雪と霧で視界はゼロに近かった。あまりの寒さに手が痺れていたが、寺沢はロープで自分の身体を少しずつ谷に下ろしていく。谷底にはなかなか辿り着かなかった。柳井はこの高さを落ちたのか、と考えるとロープを握る手が緩みそうになる。
「寺沢ァ、降りたら危ないぞ」
谷底からの柳井の叫びは風の音に半分かき消されていたが、寺沢には聞こえた。
「危なくても、やらなきゃいけないだろ」
柳井に聞こえないように寺沢は独りごちた。谷底に着いた寺沢は手探りで柳井の身体を探す。運よくすぐに見つかった。倒れた柳井がこちらに疲れた目を向ける。
「起き上がれるか?」
柳井は首を振る。足にそっと手を触れると、柳井が呻き声を上げた。恐らく骨折している。
「ここで
寺沢は慣れた手つきで雪洞を掘り、中に柳井を引きずり込む。
「ごめん」
横になったまま頭も上がらない柳井が寺沢の目を見つめて謝った。
柳井の怪我は骨折だけではなかった。全身が挫創だらけだった。落差を考えたら生きているのが不思議なほどで、おまけに柳井は寺沢が助けるまでに体力を大きく消耗していた。このままでは夜が明けても動けない。
「晴れるまで待とう。これじゃ俺一人でだって厳しい」
「俺、多分歩けないよ」
「俺がお前を背負っていく。二人で下山しよう」
「正気かよ」
柳井は静かに笑った。
「正気じゃないよ」
寺沢は
「でも、ここでお前を置いて行ったら死ぬだろ」
柳井は歩けない上に外は吹雪だ。この男の命は寺沢にかかっている。
「寺沢、俺のこと置いていけよ」
「……どういうこと?」
「俺を連れて行ったらお前が危ないからさ」
「何のために俺が谷に降りたんだよ。お前のことは絶対に置いていかない」
「でも、この天気で俺を連れて行くのは不可能だろ」
「……きっと助けは来る。大丈夫だから、頑張れ」
だがそれは気休めにもならないことは明らかだった。この天気だとヘリは来ないし、そもそも吹雪で電波は入らず救助要請は無理だ。空虚すぎる言葉だと双方が分かっていたが、それでも口にしなければ精神が保たなかった。
「柳井、今日はもう寝ろ」
寺沢は柳井に毛布をかける。全く寝付けない山の夜は、柳井と出会って以来初めてだ。
出会いは高校一年のときに入った登山部だった。山岳部に入るために同じ大学を選び、共に様々な山を漁った。社会人になっても暇や金と睨み合いながら世界中の山に二人で登り続け、八千メートル峰に挑むという青い夢を未だに持っている。
柳井の方が知識も技術もあった。登山歴はほぼ同じだから、その差は生まれ持ったセンスによるものだと寺沢は思う。柳井は山に登るためだけに地学を専攻していた。何たる熱意か。
雪崩に先に気づいたのも柳井だった。早く気づいたおかげで雪崩からは逃れられたが逃げた先が悪かった。先を走る柳井の身体が急に消えた。滑落だった。
生きていてよかった。だが、命の猶予は数日だろう。状況が厳しいのは二人とも分かっていた。
「寺沢、今までに山で死ぬのを真剣に考えたことってある?」
寺沢は首を振る。どこか他人事だった。
「俺さ、もし山で死んだら化石になりたいんだよね。何万年か後に、誰かに発見されるかもしれない」
「化石になりたい奴なんて初めて見た」
かすれ声だが、笑顔で冗談を言えるのならいつもの柳井だ。元気そうじゃないか。寺沢の口元に笑みが浮かぶ。
「大学で地学やってるうちに、なってみたくなってさ」
「化石に?」
「うん」
「化石って山で死んでもなれるんだ」
「なれるよ、理論上はね。俺が地面に埋まれば、の話だけど」
「埋まらないとなれないのか」
「かなりの圧力が必要なんだよ」
「なるほどな。でもその夢、いつか別の山で死ぬときにとっとけよ」
寺沢が自分の方をじっと見ている。諦観が見透かされていることに柳井は驚いた。こいつはこの状況でも挫けない強さがある男、だから俺はずっと寺沢と一緒に山を登ってきたんじゃないか。柳井は気づいて目を閉じた。
三日経っても吹雪は止まなかった。柳井に渡す食料も尽きかけた四日目の朝、明らかに衰弱した柳井を見て寺沢は出発を決めた。雪はひどいが柳井を背負って運ぶことくらいはできる。尾根に登れば元のルートに戻れるだろう。もし天気が回復すれば助けも呼べる。
「俺が背負っていくから。頑張れ」
「ごめん、寺沢」
寺沢に背負われて、その背中の広さに初めて気付いた。そういえば寺沢は背が高かった。柳井は何度目になるかわからない謝罪をする。
「謝るなよ」
寺沢は自分のために柳井を背負っているのだから。
「死ぬ前にさ、俺、あってさ、言いたい言葉が……」
一歩ごとに揺れる背中の上で、柳井が呟いた。
「何?」
「我が生涯に、一片の悔い無し、って」
「……悔いあるだろ」
「ないよ、俺、悔い」
「俺は、悔いはあってほしいけどな」
笑いながら寺沢の目から涙が出てきた。その涙も氷点下の気温にすぐさま凍っていく。風が凍った涙をかっさらった。
出会ってからずっと山に取り憑かれていた男がこのまま山で死ぬ、それは果たして幸せなのだろうか。幸せなのかもしれない、と途切れ途切れの柳井の声を聞いて寺沢はそう思った。
「また一緒に山に登ろう」
足は痛いし、先の見通しは悪い。寺沢の心は折れかけていた。だからこれは自分を鼓舞する言葉でもあった。励ましを何度も口にした。柳井の返事は次第に小さくなり、短くなった。限界が近い。早く助けを呼びたい。だが電話は通じない。雪のせいだ。あるいは場所が悪いのか。
「柳井、次はどの山に行こうか」
柳井は答えなかった。かすかに柳井の頭が動いた気がした。柳井の温かい息が寺沢の首筋に当たったその時、背中が急に重くなった。首元から柳井の手がするりと抜け、頭が寺沢の肩に当たる。その瞬間、何が起こったのか寺沢には分かった。そっと柳井を背中から下ろして装備を外してみると、彼は静かに目を瞑っていた。何をしても呼吸は戻らなかった。
寺沢の負けだ。
寺沢は雪の上に膝をつき、柳井の身体に積もった雪を払い除ける。服の所々が赤く染まっていた。その血の量は、柳井の忍耐の証だった。なぜ柳井だったのだろう。こんなに山を愛していたのに。その罠のような自問に答えはない。
気づけば、寺沢は柳井の身体を埋めていた。雪洞で柳井が遺した言葉の真意に、柳井が死んで初めて気が付いた。
「化石になりたいなんて、ふざけてるだろ」
文句を垂れたが誰も聞いていない。言葉は行き先をなくして雪に溶ける。
柳井が本気で化石になりたいわけではないのは分かっていた。死んだ場所が明白な以上、埋めてもすぐに警察が掘り返してしまうことは柳井も知っている。
なのに柳井がそう言ったのは、寺沢に山を辞めさせないためだ。こいつは自分が死ぬ程度では俺を山から離してくれない男、だから俺は柳井と一緒に山を登ってきたんじゃないか。
「また、すぐ来るからな」
柳井を掘り返すのは俺だ。俺は山から逃げない。
冷たい雪が柳井の身体を完全に覆う。寺沢は柳井に背中を向け、足を踏み出した。雪に足跡が付きはじめる。吹雪はまだ止まない。
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