ちくわぶ密室殺人事件 ~解決編~
「これから、
事件と聞かされて、容疑者たちはざわめいた。事故であってくれ、これが容疑者たちの総意だったからである。
「さて――。一茶さん、魚の練り物が嫌いだということは、ちくわも嫌いなんですよね?」
「ええ、そうですけど」
唐突に間抜けな話題がやってきて、
「当然、あの日のおでんにもちくわは入っていませんね?」
栗子はまた大きくうなずいた。
「これがこの事件のミソです。一茶さんがちくわを嫌っているというのを利用して、犯人はわざとおでんにちくわを入れようとしたんです。おでんを食べているときに一茶さんがちくわに気づけば、一茶さんは怒って食器をひっくり返し、家を飛び出すでしょう。道で倒れて発見されたらただの心臓発作にしか見えませんから、司法解剖にはなりません。死因が毒とは判明しないわけです」
「おでんにちくわを入れようとした、ってまさか……」
皆の視線が一人に集まる。刺さる視線に耐えられなくなった本人はそっと目を伏せた。
「おでんの買い物リストを作った鳥井さん、犯人はあなたです」
「ぼ、僕じゃありません!」
驚いて鳥井は否定した。だがそんな叫び声など
「今から、推理を聞いてください。話はそれからでお願いします」
強引な朝日に反論も許されなくなってしまった鳥井は、口を開けたまま呆然としている。
「元々、鳥井さんは部屋を密室にする予定はありませんでした。密室にしたら、殺人事件になってしまいますからね。一茶さんは病死として処理してもらう予定だったはずです。病死であれば、解剖されないので毒のことも判明しませんし、ずっと屋敷の中を動き回っている鳥井さんにはアリバイがなくても何の問題もありませんから。密室になってしまったのは誤算だったんです」
鳥井は不貞腐れた顔でうつむいていた。どうせ、反論も許されないのだから。
「誤算が始まったのは、買い物の時からです。ちくわを買うはずだった栗子さんが、一茶さんがちくわ嫌いであることを考慮して、『ちくわぶ』を買ってしまったんです」
「ちくわぶ……って何ですのん?」
千代子が首を傾げた。
「そう、関西の方はあまり知らないのですが、世の中にはおでんネタとして『ちくわぶ』というのがあります」
関西人の弟子たちがざわざわする。それに驚いたのは栗子だ。
「みなさん、ちくわぶを知らないんですか……!?」
「初めて聞きましたわ……」
千代子が呆気にとられたという表情で答えた。説明を引き取ったのは朝日だ。
「ちくわぶは、ちくわとは異なります。全く魚の成分は入っていません。魚の練り物ではないので、一茶さんは、ちくわぶを食べることができたんです。だから栗子さんはちくわぶを買った。そうですね?」
「はい……」
今日初めてこの邸宅に来た鳥井は、一茶がちくわ嫌いであることを知らないのだと栗子は思った。だからおでん種として買い物メモにちくわを入れてしまったのだと栗子は判断し、ちくわに外見が似たちくわぶで代用したのである。
「買い物リストにちくわが入っていたのはわざとだったんですか……」
「世の中にはちくわぶというものがあるんですか……」
容疑者たちの驚き方は様々である。
「鳥井さんが犯人であろうがなかろうが、関西出身の鳥井さんが作った買い物リストにちくわぶが入っているのは不自然なんですよ。とにかく、このような流れで、おでんにはちくわではなく、ちくわぶが入りました。一茶さんはおでんを食べて怒ることはなく、いつも通り食事を終えて席を立った。そして皆さんご存じのように一茶さんは自室で亡くなりました。路端で亡くなったと見せかける計画が狂ったわけです」
鳥井の心の中は穏やかではなかったはずだ。おでんにはちくわのようなものが入っている。一茶は激怒するはずだ。だが彼は平気な顔でおでんを食している。
「一茶さんにニコチンを盛った方法は、食器でしょうね。食器は誰が使うか分からない、というのは確かですが、並べる人が別にいれば話は変わってきます。栗子さんはおでんを作っているのだから、食器類の準備は鳥井さんに任されていたはずです。違いますか? 実際、栗子さんはおでんを作ったら食卓の上のコンロに鍋を置いた、と言っていました。誰か別の人がテーブルにコンロをあらかじめ置いていたのは明白です。つまり、食卓の準備は別人がやったんだ」
鳥井を除く容疑者は頷いた。部下は感嘆した。これは捜査資料にも書いてあることだが、読まずとも朝日はこの答えにたどり着いた。なるほど、捜査資料を読まなくてもやっていけるわけだ。でも読めよ。
「ニコチン中毒の症状は食事の後半から出ていたはずです。ニコチンは無味無臭ですし、一茶さんもまさか自分に毒を盛られたなんて思いませんから、食事を終えるとすぐに体調不良だと思って部屋に引きこもった。ニコチンの中毒症状には、筋硬直もあるそうです。一度部屋にこもって鍵をかけてしまえば、もう一茶さんは部屋を出られることはなかったでしょう」
その話を聞く面々はぞっとした。体が動かなくなり、心拍が下がっていく様子は想像するだけで鳥肌が立つ。
「こうして、一茶さんは密室で発見され、事件であることが発覚したわけです」
額に冷たい汗を垂らしながら、面々は頷いた。恐ろしい事件の真相が華麗に紐解かれていく。だがその鮮やかさはあまりにも非現実的で、話を聞く自分自身の心はここにあらずであるような気分にさえなる。
「ですよね、鳥井さん」
朝日は鳥井の目を見て尋ねた。鳥井は、真剣に朝日の目を睨みつけるように見つめ返し、頷いた。
「けど、本当に鳥井さんなんですか? だって、鳥井さんは、一茶先生がちくわがお嫌いだと知りませんし、この家にくるのも初めてなのに、食器に毒を仕込むなんてできないでしょう?」
え、と鳥井がつぶやいた。栗子が立ち上がる。
「そうです、食器に毒を仕込むのは難しいですよね」
栗子は勝ち誇った顔だった。その異常な光景に部下は震えていた。無実を訴えるのが、犯人だと名指しされた鳥井ではなく栗子で、肝心の鳥井は青い顔で縮こまっているばかりだなんて。
「それに、動機は何なんです? 師匠である一茶先生を殺しても、後ろ盾があらへんくなるだけの鳥井さんに、何のメリットがあるん?」
朝日に楯突いたのは、今度は小枝だった。
「そう、鳥井さんには動機はありません」
「やめろ!」
朝日の言葉を鳥井が制止しようとする。だがそれでやめる朝日ではない。
「でも、千代子さんがいたら話は変わってきますよね?」
鳥井の眉が動く。口からわずかに息が漏れた。
「千代子さん、あなたは鳥井さんの協力者ですね?」
「…………」
千代子は力なく首を振る。違う、と力強く否定されない時点で、朝日は勝ったと思っていた。
「この家のことを知らなければ立てようがない計画ですから、計画の立案者は千代子さんの方でしょうね。だが目の不自由な千代子さん一人では、計画の実行は不可能に近い。だから協力者として鳥井さんを選んだ。違いますか?」
「ちゃいます!」
鳥井が叫んだ。千代子を守るように立ちふさがっている。
「動機は恐らく、家政婦さんたちの噂にあるのではありませんか?」
「噂って……」
全く事情を知らない小枝は不思議そうな顔をしていた。だが噂のことを朝日にばらした栗子の顔が凍り付いている。
「この様子を見ると、鳥井さんと千代子さんができている、という噂は恐らく真実なのでしょう。一方で、千代子さんと一茶さんができている、という噂もまた真実だったわけです」
「やめて!」
千代子が甲高い声で叫んだ。
「私が、私が、やりました……」
ガタンと音がした。千代子が何かを払いのけるように大きく手を振り、その手が周りのものに当たったのである。
「目が見えんくなってしもた私を屋敷に置く代わりに、師匠は私と関係を迫ってきました。でも子供のころからお茶しかあれへんかった私には、この家を出ることができんかったんです。だから、断ることができんかったんです……。私が骨折して、小枝さんが来てくれてからはなくなりましたけど、骨折ももうすぐ治ります。そしたら、私は、また……」
千代子が涙をぼろぼろ流して語り始めた。朝日の心がちくりと痛んだ。千代子と鳥井の関係を見るために容疑者が一堂に会するこの状況を作った朝日だが、そのせいで彼らの傷が必要以上に抉られてしまっている。
だが千代子自身はそんなことは気にも留めていなかった。むしろ、師匠と慕うべき男の真実をこの場で告発できた清々しい気持ちすらあった。特に小枝は、一茶のことを何も知らないはずだ。いつ、彼女も被害者になるかもわからない。
ずっとうつむいていた鳥井が、千代子の方を振り返った。殺人を実行したのは鳥井だけなのだから、千代子に物的証拠は何もない。千代子が黙っていれば、鳥井にすべての罪を擦り付けることができるはずだ。それを千代子は振り切った。鳥井とともに罪を背負うことを選んだのである。
「私が師匠を殺したんです」
「ちゃいますッ」
彼女の声を遮るように叫んだのは鳥井だ。
「僕が頼んだんです。彼女には知らせとりません。僕が一茶先生を殺したんです」
「鳥井さん……」
千代子はほとんど見えないはずの目を潤ませていた。
「千代子さんから、世間話のふりをして、一茶さんが使う食器の話もこの家の構造の話も全部聞き出したんです。千代子さんは僕の質問に答えただけや! 千代子さんは、僕の質問に答えたことに罪悪感があるだけなんや!」
鳥井は千代子の背後に回り、彼女の口を塞いだ。部下が鳥井の元へ駆け寄ろうとする。千代子を人質に取った、そう見えたからだ。だが朝日は部下の腕を引っ張って止めた。鳥井はすぐに千代子を離した。そして横に回り、ぎゅっと千代子を抱きしめた。
「千代子さん、お願いですから何も言わんといてください。僕、僕だけでええんです。千代子さんが余計なことを言っても、僕の罪は変わりませんよ。僕が一茶さんを殺したという事実は変わりません」
千代子がぐっと黙った。千代子は小さく首を振り続けていた。
「裁判所から、逮捕状が出ました。鳥井三太さん。あなたを、伊藤一茶さん殺害容疑で逮捕します」
涙を流す鳥井は、頷いて大人しく両手の手錠を眺めながらパトカーへと向かった。
「いいんですか、千代子さんのことを逮捕しないで……」
覆面パトカーのハンドルを握る部下が呟いた。
「逮捕状が出てないからな」
「でも、これから逮捕状を取るんですよね?」
一抹の不安を抱えた部下は、祈るように尋ねた。
「……俺たちは、鳥井さんから話を聞くだけだ。鳥井さんから話を聞いて、千代子さんを逮捕すべきだと思ったら逮捕したらいい。俺の推理はあくまで憶測でしかない、そうだろう? 鳥井さんが何を喋るかは鳥井さん自身に決める権利があるし、千代子さんが何を話すかも彼女の自由だ。それだけの、たったそれだけのことさ」
朝日は両手を広げた。
「それでいいわけないじゃないですか! 自分たちは、殺人者を捕まえるのが仕事なんですよ」
「真実がどうなのかは、どんな事件でも永遠にわからない。もちろん、俺たちは限りなく真実に近づこうとするべきだし、真実が隠されようとしていればそれを暴く義務がある。だが、証拠が出なければ立件はできない」
千代子には物的証拠がない。朝日が千代子の逮捕状を請求しなかったのもそれが理由だ。
「こんな解決の仕方があっていいんですか!?」
「俺は、なんとも思わないけど……」
そういう朝日の顔が随分曇っていることに部下は気づいた。パトカーの後部座席の朝日はきゅっと口元を引き締め、鋭い目線はどこへやら、ぼうっと窓の外を見ていた。
「千代子さんは裁かれるべきだ、それは変わらない。だけど、それじゃ誰も救われないんだよ。俺はもう二人に触れたくない。それは、許されないことかな」
「わがままだとは、思いますよ」
部下は静かにそう言ったが、朝日の囁きにぐらりと心が傾いている自分自身に気が付いていた。
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