セカイ系アンソロジー「平令成和」(10,000字)

20190905 文学フリマ Osaka

ノアの方舟 day1~day4

「あなたもツアーのお方?」

 夏の日が強く肌を焼くクルーズ船のテラスで、談笑するうつの背後から声がかかった。振り返るとそっくりの女性が二人微笑んでいる。この暑いのに真っ黒の洋服、所謂ゴシックロリータだ。夏だからか服は薄手である。滲む色っぽさに檮木は唾を飲み込む。


「双子……ですか?」

「ええ。私、長谷川杏樹と申します。こちらは妹の樹里亜ですわ」

「俺は檮木、こっちは友達の井上」

 檮木に紹介された井上は軽く頭を下げた。


「ウツキ? どんな字かしら?」

 難解な漢字を説明する間に井上は檮木の煙草の火を消す。


「おいくつですか?」

 井上の無遠慮な質問に彼女たちは笑顔で返す。

「今年で二十四になります」

「じゃあ俺と同い年やん!」

 檮木は手を叩いて喜ぶ。何がそんなに嬉しいのか。


「あら、失礼。歳下の方だと思っていましたわ」

「二浪やから、二十四でも大学生やねん」

 驚く姉妹に檮木は照れた。


「大学生でクルーズですって。洒落た趣味の方ね」

「明後日にはダイビングもなさるのでしょう?」

「私たちが学生の頃はクルーズなんて無縁だったわ」

 長谷川姉妹は各々話しながら檮木たちのテーブルにつく。


「いや、チケットは貰い物ですよ」

「そうそう。研究室の先輩がくれてん」

 檮木はチケットをヒラヒラさせる。


「チケットを譲るだなんて優しい方ね」

「そらもう。すごくええ先輩ですよ。普段は金欠やけど」

「じゃあ、きっと奮発したチケットなのね」

 少人数向きツアーの船だから小さいが、それにしては豪華な船である。少なくとも、先輩が無理をしたのだろうというのは間違いない。


「チケットは二名一室、彼女と旅行に来たかったんでしょうね」

「ツインの部屋で助かったわ」

「あの人、割とウブだからダブルを取る勇気はなかったんだろうね」

「でも折角のチケットを譲ってしまったのね」

「振られたんですよ。恐らくは」

 井上の下世話な推理に樹里亜が笑う。見た目に反して意外といける口らしい。


「失恋したのなら、尚更リフレッシュで旅行すればいいのに」

 樹里亜が紅茶を飲みながら言う。

「本当ね。きっとあの方もリフレッシュしに来たのよ」

 細い指で杏樹が示したのは、デッキに繋がる食堂の中を歩く四十前後の疲れた男性である。


「……あの人もダイビングするのかな」

「……せやろな」

 檮木が怪訝な顔で井上とささめきあっていると、この暑いのにスーツを着た三十路の気弱そうな眼鏡の男に肩を叩かれた。デッキ傍の食堂に集まるように促され、檮木、井上、長谷川姉妹の他に例のおじさんが集まる。前にスーツの男が立つ。

 彼は誰かを待っているようだった。横を見ると確かに余分な椅子がある。しかし誰も来ない。しびれを切らしたらしい彼は慇懃に礼をした。


「ツアーコンダクターの越智でございます」

 こちらも礼をして軽く自己紹介する。

「集まって頂いたのは他でもありません。この船は明日、横浜港に寄港予定なのですが、実は寄港を拒否されまして……」

 越智は必死に詫びる。客たちはざわめいた。


「拒否? なんでまた」

「ウイルスだそうです。新種ウイルスの感染者がこの船にいるそうで」

「嘘でしょ」

 樹里亜が小さな悲鳴をあげる。越智は土下座しそうな勢いで謝るばかりだ。しかし、越智を責めても何も出まい。困惑が広がるばかりだ。


「新種のウイルスというのは?」

「なんでも、ASPEというものだそうで……」

 それ以上のことは越智も聞かされていないらしい。

「ASPEって何? 知ってる?」


 檮木は首を振る。似た名前のSSPEなら詳しい。麻疹ウイルスが変異したSSPEウイルスによる病で、発病すると治療法はなく数年で死に至る。人から人には伝染らない。


「私は知っている」

 手を挙げたのは例のおじさんだ。

「ASPEウイルス、つまり急性硬化性全脳炎ウイルスは、ウイルスを進化させた生物兵器だ。麻疹の感染力とSSPEの危険性を掛け合わせた恐ろしいウイルスさ。風邪よりも感染しやすく、発症したら必ず死ぬ。本来、この世に存在してはならない病原体だよ」


 とんでもない説明に場が凍り付いた。


「……詳しいんですね」

 井上がやっと声を発するのみである。


「詳しい職業のつもりなんでね」

 おじさんは立ち上がって名刺を配る。南沢政彦、職業は医師。なるほど。

「寄港を拒否された理由は明白だ。感染者が陸に降りたら、一気にパンデミックだからな」


 こちらは大パニックだが。

「え? 俺、死ぬん?」

 檮木が間抜けな声で自分を指さして尋ねる。

「発症したら、な」

 南沢によると発症するかどうかは人によるらしい。


「マスクで予防しましょう。まだ間に合うわ」

 樹里亜の呼びかけに、檮木が苦い顔で答える。

「無理や。麻疹は空気感染やからマスクじゃ防がれへん。この中に感染者がおったら手遅れ。もれなく全員感染や」

「……本当?」


 杏樹が檮木を疑わしそうに見る。

「俺と井上は、京大の感染制御学教室の学生やねん。微生物には詳しいつもり」

「しかも麻疹がメインの研究室なんです」

「……ウイルスを持ち込んだのはあなたたちじゃなくて?」

「俺らはウイルスを勉強してるだけや。生物兵器とは関係ない」

「御託はいらないわ。あなたたちのせいで私たちは感染したのよ!」


 樹里亜が檮木に細い指を突き付ける。杏樹の制止ごときで樹里亜は止まらない。


「さっき言ったやろ、隔離したところで手遅れなんやってば」

 話は振出しに戻った。各々が頭を抱える。

「ワクチンはありませんの?」

 杏樹が鋭いことを言う。


「SSPEウイルスは元々伝染しないウイルスだからワクチンはない。麻疹ワクチンで代替になるとも考えにくい」

「さ、最悪じゃないですか」

 越智が震える声で眼鏡に飛んだ汗を拭う。


「だから船ごと隔離されているのさ」

 南沢が答える。

「全世界の人間を救うために、私たちは船に監禁された。全く、船に閉じこめたら世界が救われるだなんて、ノアの方舟みたいだな」


「私たち、どうなるの?」

「治療法が確立されるまで隔離、あるいは一生隔離か」

「そんな……」

「相手は生物兵器だぞ。当然の対応だよ」


 理不尽な扱いを受けても南沢は冷静だ。

 太陽が眩しい。誰も立ち上がらない。時折雑談が聞こえ、あとは船のエンジン音と海の香りだけ。


 静かだ。悲愴な程に。


 こうして、神戸発小笠原イルカウォッチ・ダイビングクルーズ四泊五日の旅は、最悪の雰囲気で始まった。


* * *


「本当に隔離されてるんだね、僕たち」

 井上はテレビを見てぼやいている。

 夜が明け、旅行が成り立たなくなった面々の暇潰しは、テレビを見るか寝ることくらい。井上はワイドショーに釘付けだ。ワイドショーがこの船の話でもちきりなのは、誰かがマスコミに告発したかららしい。


「僕たちは死ぬのかな」

「多分な」

 檮木は冷静に答えた。一晩寝ずに考えた結論である。

「遺書でも書く?」


 明るく尋ねた井上に、檮木は煙草に火をつけながら首を振る。

「もう書いた」

「もう書いたのかぁ」


「まだ、これから増えるかもしれんけどな」

 船は進んでいる。どこに向かっているのだろう、と天井を見ながら檮木は考えている。


* * *


 三日目になり、ようやく睡眠が取れるようになってきた。しかし体力が回復しても、時間を潰す娯楽は相変わらず少ない。皆が皆、食堂のテレビをかじりつくように見ている。頬杖をついて半分寝ながらテレビを眺める檮木だが、ふと聞こえてきた音に背筋を伸ばした。


 トイレから出てきた井上に、飛びつくように檮木が駆けてきた。その眼力に思わず気圧される。

「おい井上、今テレビで言ってたんやけどな、ウイルスのことを告発した人、堀田さんらしい」


「堀田さんって、あの院生の堀田さん?」

「ああ。俺らにチケットをくれた、あの堀田さんや」

 堀田は二人が所属する研究室の院生である。実家に帰るからという理由で二人にチケットを押し付けた張本人だ。その彼が告発の主だという。


 いよいよ分からない。堀田は檮木と井上を船に乗せ、告発によってその船を世界中から隔離したということになる。

「僕たち、実は堀田さんに恨まれてた、とか」

「……尊敬してる人に恨まれるって嫌だな」


「あら、真さんをご存知なの?」

 杏樹のふわりとした髪が檮木の顔にかかる。女子慣れしていない檮木は顔を赤らめた。こんな時に暢気な奴だ。

「杏樹は堀田真さんの恋人なのよ」

 樹里亜にバラされ、杏樹は可愛らしく照れた。


「堀田さん、女と別れたんじゃないのか」

 井上が檮木の背後から囁く。

「じゃあ俺らのチケットは何やったんや?」

「実家に帰るんだろ」

「アホか、じゃあ何で二人分のチケットやねん」


「……僕らをこの船に乗せるため?」

「何の目的でや?」

「僕たちを隔離するため……」

 となると、感染者は檮木と井上になる。初日に樹里亜が言った通りだ。衝撃的な事実に気づいた二人は目を白黒させた。


「おいおい」

「嘘やろ」

「その場合、堀田さんは杏樹さんがこの船に乗ると知っていて、僕らにチケットを渡したことになるけど」

「偶然ちゃう?」


 しばらく考え込んでいた二人だが、ふと井上の方が顔を上げ、テレビを指さした。

「おい、テレビ見ろ。新情報だ」

 画面を見つめる檮木の目が鋭くなる。

「ASPEを開発したんは日本の企業やったんか」

 檮木の背中には冷や汗だ。


「日啓って企業、お前知ってる?」

 投げかけた言葉に反応したのは井上ではなく長谷川姉妹だった。

「あの、知っています。私たち」

「日啓製薬は、私たちの父が経営する企業です」

「私たち、関連企業で働いているくらいですもの」

「でも知らなかったわ。まさかウイルスを開発していたなんて」

「酷いことを言ってごめんなさい」

「感染者は私たちかもしれないわ」

 二人が深々と頭を下げる。


「……なるほどな。この船は感染者と不幸な一般人が乗った船やない。関係者同士が乗り合わせた船やったんか」

「あのぅ、私も関係者なんですか?」

 越智が話に参加してきた。

「いや、越智さんと船員さんは不幸な一般人やろ。南沢さんは……何かほじくり返したらあるんちゃう? 医者やし、製薬会社と何かありそう」


 案外雑な檮木である。井上は脱力して椅子にもたれかかった。

「肝心なところでそれはないよ檮木」


* * *


 四日目、早朝ながら、檮木たちは騒がしさに目が覚めた。

「どうした?」

 井上の疑問に答えをくれたのは船員だ。そもそも数日のツアーを予定していたこの船では、もうすぐ燃料も食料も尽きる。船を大海原に浮かべるべく、政府は必要な物資を届けに来たらしい。船員が指さす先には、防護服に全身を包んだ人間たちがいた。騒がしいのはその作業のせいだった。


「こういう時だけ来るんだ」

「私たちには、あの物々しい恰好はさせてくれないのね」

 杏樹がため息をつく。

「今更着ても無意味やで」


 檮木が身も蓋もないことを言う。横で井上が防護服の写真を撮っている。

「何してるん?」

「友達に見せようと思って」

 井上が答えた瞬間、防護服の一人が近づいてきた。奴は井上の端末を取り上げ、海に投げ込んだ。ぼちゃんと間抜けな音がする。


「あっ」

 井上が叫び、細い目をさらに細くして睨みつける。

「お前、ネットで好き放題情報をぶちまけているそうだな」

 冷たく男の声がした。井上がぶるりと震える。情報統制だ、と吐き捨てた防護服は、踵を返して白の団体にまた紛れた。


「おい!」

 井上が吠える。檮木は井上の腕を掴んで止めた。

「お前、何したんや」

「船の様子をたまに載せてた」


 ネットで井上の洩らした情報がマスコミに流れ、さらに事態が燃え上がっているのだという。

「何が悪いんだよ。こんな時くらい少しネットしたっていいだろ」


 井上が連絡を取っていたのは、旧知の友人、家族、そして恋人だった。突然船に隔離され、致死ウイルスに身体を侵されている身として、電波も弱い大海原で行う僅かな交流ですら救いになることはよくわかる。檮木は黙った。


「家族との連絡まで監視されているのね」

 姉妹も心当たりはあったのか、不安そうな顔だ。

「それだけ我々がVIPってことさ」


 南沢の一言でぐっと気が重くなった。また遺書が長くなるな、と檮木は思う。井上は半べそだ。弱い所を見せない井上にしては珍しい。


* * *


 報道によると、日啓製薬に捜査が入ったらしい。事態は快方に向かっていると檮木は確信している。井上も落ち着いてきた。ようやく気を緩められるか、と思った次の瞬間である。


 女性の悲鳴が船のエンジン音に絡む。姉妹の声だ。樹里亜は檮木と井上のもとに駆け寄ると、甲板の端を指さしながら崩れ落ちた。その指先は赤い。血だ。

「南沢さんが血まみれなんです」


 井上と檮木は互いに顔を見合わせる。と同時に甲板へ駆け出した。南沢はすぐに見つかった。南沢は頭から血をぽたぽたと流し、甲板の手すりにもたれて死んでいた。


「事故?」

「病気以外で死人が出るとは思ってもなかったわ」

 井上が震えながら頷く。

「手すりに頭打ったんかな?」

「多分ね」


 目を見開く南沢に近寄れず、離れたところから二人は囁く。騒ぎを聞きつけたのか、すぐに越智が姿を見せた。まさかの死体に慌てふためく越智に落ち着いた声で声をかけたのは井上だ。


「越智さん、警察を呼んでください」

「残りの人はもう部屋に帰って寝ましょう。船員さんも絶対に死体には触らんといてくださいね。樹里亜さん、これどうぞ」


 樹里亜にハンカチを渡した檮木は自室に戻る。また眠れなくなりそうだ。

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