ノアの方舟 day5~day7
朝が来た。朝から防護服に身を包んだ警官が南沢の死体を回収し、現場検証が行われた。本当は皆に事情聴取したいそうだが、それよりも警官の感染リスクを考えて今は行わないらしい。顔を隠した白服はそう言って船で去っていった。
井上は部屋の窓からデッキを遠目に眺めている。
「感染ってそんなに怖いのかな」
「怖いんちゃう? 手遅れの俺らにはわからんけど」
「ウイルスを開発したほうも開発したほうだよ。この日本で生物兵器を撒き散らす意味が分からない。こんな研究をするクソ研究者は研究者の恥だ。死ぬべきだよ」
「あのう」
越智が話に熱が入る二人の後ろから恐る恐る声をかけてきた。
「これ、お二人のですか」
越智が手帳を見せてきた。
「いや、違いますけど」
言いつつも井上は手帳を手に取り、ページをめくる。
「南沢さんのじゃないですか、これ」
井上が見せたページには、南沢の家族写真が挟まっている。間違いない。
「僕らで部屋まで持っていきますよ。暇だし」
「すみません、助かります」
とはいえ、二人は南沢の部屋の鍵を持っていない。合鍵を持つ越智は結局ついてきた。
「じゃあ開けますね」
そう言って鍵を開けて扉を押した越智の手が止まる。
「あ、チェーンが……」
越智はチェーンと格闘するが、当然開くわけもない。
「開けましょうか?」
檮木は越智からネクタイを借り、チェーンの一端に引っ掛けて扉を閉め、対側を引っ張った。カコンと軽い音がしてチェーンが開く。鮮やかな手捌きに越智と井上が拍手を贈った。
「俺、ミステリも好きなんで」
檮木は大きく扉を開けてみせ、手帳を机に置いた。
「ありがとうございます」
越智は丁寧に礼を言い、足早に去っていった。
「ほんま変な船やな」
越智の背中を眺め、檮木が呟く。
「そだね」
井上は檮木を見て小さく頷いた。
* * *
六日目の夜、檮木がデッキに皆を呼び出した。手すりには未だ南沢の血がべっとりとついている。正直、見るだけで怖い。
「急に何なのですか?」
少し苛立ちを含んだ声で杏樹が問う。
「南沢さんが殺されたことについて、お話しします」
檮木が静かに呟いた。越智が驚きのあまりぐっと喉奥を鳴らす。
「事故じゃないんですか?」
越智は心底驚いていた。この船に死体が転がる時点で信じられないのに、殺人とは。頷く檮木の自信が越智には怖かった。
「一体誰が殺したっていうの? 動機は?」
「動機はない」
檮木は南沢の赤黒い血痕にちらりと目をやる。
「動機がない殺人となれば答えは一つ。正当防衛や」
檮木の唇が動く。
「そやろ、井上」
周囲が困惑にどよめく。井上は黙って檮木の目を見つめていたが、ついにそっと目を伏せた。
「……僕だ」
「嘘っ」
小さく樹里亜が叫ぶ。
「僕は堀田さんとの関係を尋ねただけなんだ」
急に恋人の名前が出てきて困惑する杏樹だが、彼女は話に食いついてきた。
「真さんがどうしたの?」
「だって、おかしいだろ。ただの医者が生物兵器について詳しいわけがない。僕たちは堀田さんの後輩で、杏樹さんは堀田さんの彼女。絶対に南沢さんも堀田さんに関係あると思うのは当然だ」
「……真さんは今どうしているの?」
「殺されてると思います」
朗報を期待していたらしい杏樹の目が大きく見開かれる。
「あんたが殺したの?」
杏樹が井上に殴り掛かる。井上は抵抗もせずやられたままだ。慌てて樹里亜が止めに入る。
「堀田さんを殺したのは南沢さんや!」
檮木が怒鳴るように言う。杏樹の手が止まった。井上はおもむろに立ち上がって頬をさする。
「そうやろ、井上」
井上は頷く。その光景を目の当たりにする面々は困惑と恐怖と衝撃の入り交じった顔を互いに見合わせるばかりだ。
「南沢さんに、堀田さんと何があったんですかって訊いたら、急に態度が変わって」
井上は細い目に力を込めてこちらを見た。
「知ってるやつは生かしておけないって、カッターで襲ってきたんだ」
甲板に逃げた井上だが、そこに逃げ場はなかった。追ってくる南沢に、せめてもの反撃を、と跳び蹴りをかましたところ、南沢は吹っ飛んでデッキの手すりに頭をぶつけた。手すりには装飾があり、そこに強く後頭部を打ちつけた南沢はしばらく呻いて動かなくなった。打ち所が悪かったらしい。
「井上が堀田さんとの繋がりを尋ねたのを、南沢さんは堀田さんを殺したことについて尋ねられたんやと勘違いしたんやろな」
「本当に南沢さんは堀田を殺したのか」
越智が呟く。杏樹の目から更に涙がこぼれる。
「真さん、真さんはどこ?」
杏樹の切な訴えに檮木は黙って客室を指さした。杏樹が走り出すのを皆が慌てて追いかける。
「南沢さんの行動は明らかに変や。俺たちが外からチェーンを開けるにはトリックを使わなあかんのと同様、トリックを使わんと外からチェーンはかけられへん。わざわざトリックを使ってチェーンをかけるのは、ヤバい何かを隠してる証拠や」
越智から鍵を受け取った檮木は部屋の扉を開ける。クローゼットにまっすぐ歩くと、一気に開けた。中から何かが倒れてくる。堀田だ、堀田で間違いない。杏樹が叫んで堀田に飛びついた。
「失礼します」
越智が杏樹の傍からそっと堀田に手を伸ばした。
「外傷はない……毒かな。死斑は消えず、死後硬直も強い。死後一日ってところか」
「いや、もっと前。恐らく航海初日や」
越智の後ろから檮木が囁く。
「え?」
「変な匂いがする。ホルマリンで固定されてるんやな」
「そんな、どうして……」
「夏は死体が腐るからや」
泣き崩れる杏樹を除いて皆が目を剥く。
「南沢さんは堀田さんを殺すために船に乗ったんやろな。長身の堀田さんを丸ごと固定できる量のホルマリンを持ち込んでたんやから、完全に計画犯や」
「まさか……」
越智は乾いた声で呟いて震えた。
「越智さん、随分人体に詳しいみたいですけど」
「え?」
「本当にツアコンなんですか?」
檮木が疑いの目を向ける。はっとしたように越智は顔を背けた。
「それ以外にも所々怪しかったで。ボロ出しすぎや」
越智は恥ずかしそうに頭を下げた。
「えっ、越智さんは嘘をついてたってこと?」
「ある意味嘘やない。このツアーの計画を立てたのは越智さんやからな」
越智は俯いたまま微かに頷いた。
「樹里亜さん、ツアーのチケットって誰に貰ったん?」
買った、とは言わない。檮木は確信していた。
「杏樹が堀田さんに貰ったって……」
「俺らと同じや。堀田さんは越智さんと仲間なんやろな。このツアーの企画を二人で立てて、堀田さんがチケットを配ったんや」
「嘘よ! 真さんが私たちを変なウイルスの感染者にするわけがないわ!」
杏樹が涙に濡れた顔を上げる。檮木はニヤリと笑った。
「ねぇ越智さん、本当に感染者なんているんですか?」
越智は力なく首を振る。驚いたのは井上だ。
「えっ、いないの?」
「いない」
越智は小声だが明瞭に答えた。死を覚悟していた井上の膝から力が抜ける。井上だけではない。姉妹も船員もざわめく。生き返るというのはこういう気持ちのことを言うのか。
「全部話してもらえますよね? 俺らは当事者なんやから」
檮木が真剣な顔で越智に詰め寄る。越智は頷く。そして、口を開いた。
「僕は日啓の人間だ。堀田とASPEの研究をしてたんだ」
「やっぱり、堀田さんは生物兵器を研究してたんですか? 堀田さんが?」
察してたとはいえ井上は未だ信じられなかった。堀田は誠実を固めたような人間だ。そんな研究をするわけがない。死ぬべき、とまで井上は言ったのに。
「君たちを守るためだよ」
「え?」
越智の言葉に井上だけではなく檮木も動揺した。
「ASPEは麻疹の変異体と麻疹を組んで作る。当然、開発には麻疹の研究者が必要だ。堀田と君たちは、世界でも麻疹の研究が進んだ研究室にいる。院生の堀田が誘いを拒否すれば日啓は学生を狙うだろ」
「僕らのために、ですか?」
「小遣い稼ぎもしていただろうけどね。でも君たちが日啓に捕まれば、素直に研究室のデータを渡してしまう可能性がある。堀田はそれを心配していたんだ。その証拠に堀田は絶対に研究室のデータを持ち込まなかった」
上層部にとって、堀田は困ったちゃんだった。折角、麻疹の研究室から人間を引っ張ってきたのに、それらしい働きを全くしない。
「ASPEの調整は上手くいかず、危険すぎる生物兵器が生まれた。失敗だよ。その失敗作は金に換えられそうになっていた。もう一度開発するにしても、研究費がないからな。ASPEは海外に売っぱらう予定だったはずだ。僕は日啓を辞めたかった。だって、やってられないじゃないか……」
越智が堀田の真意を知ったのはその頃、堀田宅で酒を飲んだ時だ。酔った彼が全てを喋った。
「ノアの方舟を作ろう。堀田はそう言った」
「『ノアの方舟?』」
「この船は日啓が持っている船だ。理由をつけてこの船を持ち出し、日啓に狙われる人を船に隔離して日啓を潰そうって」
堀田が日啓を離脱すれば、檮木たち学生に魔の手が及ぶ恐れがある。潰すのは学生を隔離してからだ。長谷川姉妹は人質だった。折角船に標的を隔離して告発するはずなのに、日啓が何かの方法で本当にウイルスを船に撒いたら困る。船に手出しは許さない。
「離脱に積極的だったのは僕だ。なぜ僕じゃなくて堀田が殺されたのか。それはわからない」
「きっと私のせいよ」
落ち着いていた杏樹がまた荒れる。愛する者の亡骸を前にしての慟哭は悲痛だった。
「堀田さんは父の決めた人ではありませんでしたから、杏樹と堀田さんの関係は監視されていました。それで堀田さんが日啓を告発しようとしていると知られてしまったのでしょう」
樹里亜が杏樹の代わりに説明する。
「杏樹のせいじゃないわ。気にしては駄目」
優しい樹里亜の声は杏樹に届いていると信じたい。
「僕と堀田は船の上で日啓が潰れるのをのんびり待つはずだった。この船に乗ったはずの堀田がいない理由はずっとわからなかったけど、まさか南沢さんが殺していたとは」
杏樹がすがる堀田の亡骸に越智はちらりと目をやった。
「南沢さんをこの船に招いた理由は何ですか?」
「あの時は彼も狙われるはずだったんだ」
越智は大きく息を吐く。
「彼はウイルスのデータを外部に流そうしてバレた有名人だった。立派な日啓の鴨さ、その時はね」
「その彼が真さんを殺す理由は何なの?」
杏樹は睨むようにこちらを見た。それもそうだ。日啓の標的である南沢が、同じく標的の堀田を殺害する理由にはならない。
「南沢さんは日啓製薬の上層部に吹き込まれたんやろうな。『堀田を始末すれば許してやる』って」
南沢の苦悩はどんなものだっただろう。南沢の常に疲れた表情を檮木は思い出す。同士を手にかける決意はどれほど重いものだっただろう。
その南沢を殺してしまった井上の背中に檮木はそっと手を伸ばす。まだ井上は細かく震えている。井上は恐る恐る越智の方を見た。越智はうつむいていた。
「僕は気づかなかった。ずっと気づかなかった。ごめん、堀田。こんな結果になってしまって」
越智は目にぐっと力を込め、膝を抱えて冷たく倒れる堀田の肩を撫でた。何とも言
えない感情が檮木の心をえぐる。こみ上げるものを必死にこらえていた。
* * *
七日目。日差しの強い朝だ。小さく神戸港が見えてきて、デッキで遠くを見つめていた皆が声を上げた。歓喜、安堵、希望が混ざり合った声である。上を向いた越智の頬を涙が伝う。ああ、憎らしいほどの青空だ。
まだ終わったわけではない。失ったものは大きい。これから色々なことが待っている。それでも、前を向くしかない。
大海原を彷徨ったクルーズ船は港へ向かう。
七日目、長雨が終わってノアの方舟から旅だった一羽の鳩のように。
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