保健室の微熱
藍沢 紗夜
保健室の微熱
高校二年生の秋口、まだ夏の残響が聞こえるような、よく晴れた日の昼過ぎのこと。僕はその日、その一瞬のことを、今でも鮮やかに思い出せる。
その日、僕は体育の授業で軽い怪我をしたので、身体検診ぶりに保健室に向かった。保健室が何処にあるのかも曖昧にしか分からないほどの健康体の僕は、それまで保健室には全く縁などなく、養護教諭である彼女と話すのはそれが初めてだった。
「ああ、膝擦り剥いちゃってるね。何の競技をやっていたの?」
彼女は、木漏れ日のような暖かさの、柔らかなメゾソプラノで優しく問いかけた。
その人は、まだ二十代前半の若い先生で、よく生徒の相談に乗っているらしく、多くの生徒から慕われていることは知っていたが、実際に目の当たりにして、合点がいった。たしかに、物腰柔らかで、年齢はそう離れていないにもかかわらず、十代の僕たちにはないような落ち着きがある。
「グラウンドでサッカーをやってました」
「サッカーか。あれ、結構激しいよね」
先生は消毒液やガーゼを用意しながらそう応えた。
「待ってね、すぐ終わるから」
てきぱきと手当てする先生の姿に、僕は思わず見入ってしまった。低めの位置で結われた、流れるような艶のある長い黒髪。華奢な指先。清潔感のある楚々とした女性という印象だ。そして、同級生の女子とは明らかに異なる、大人の女性なのだと感じさせる、甘い香りと上品な化粧。
きれいだと思った。誰もが振り向く美人というわけではないけれど、それでもその一瞬で僕は、今まで人生で見てきた誰よりも何よりも、彼女に惹きつけられてしまった。
「はい、終わったよ。――佐伯くん? 終わったよ?」
「……あ、すみません、ぼうっとしてしまっていました」
我を忘れて見惚れてしまっていたことに気付いて、僕は目を逸らす。
「結構抜けてるのね、佐伯くんって」
彼女がクスクス笑う。鈴を転がすような可愛らしい笑い声で、それにも心臓が大きく高鳴ってしまうのを感じた。僕は恥ずかしくなって、熱くなってきた頬を隠すようにそっぽを向いて、誤魔化すようにぶっきらぼうに返す。
「結構失礼ですね、先生も」
「そんなことないでしょ。
さ、授業に戻りなさい、また何かあったら気軽に来てね」
「はいはい、戻りますよ。
でも気軽にとか、そんなこと言ったら、僕、毎日のように来ちゃいますよ」
軽い冗談のつもりで言ったことだったけれど、彼女は悪戯っぽい笑顔でこう返した。
「うーん、いいけど、程々にね」
拒否される前提で言ったことだったから、僕は呆気にとられた。毎日、来てもいいのか。……会いに行っても、いいのだろうか。
本当に行っていいものか悩んだものの、あれから何をしていても彼女のことが頭から離れず、結局それから僕は定期的に保健室に足を運ぶようになった。
「ちょっと保健室行ってくる」
「またかよ、今度は何?」
「吐き気がするってことにしておいてくれ」
「りょーかい、お大事にな」
級友に授業担当の先生への報告を頼んで、僕は教室を後にする。僕が突然保健室に通うようになったことに対して、多少なりとも疑問はあるだろうに、彼は何も訊かずに送り出してくれる。彼なりの優しさなのだろう。そして僕は彼の優しさに甘えて、今日も保健室に向かう。
ノックをして、「失礼します」と言いながら扉を開けた。いつ来てもここは清潔な匂いがする。そして、いつ来てもその中に、微かに花のような甘い香りが混じっている。
「佐伯くん、おはよう、今日はどうしたの」
「今日は吐き気がするという設定です」
「設定、ねぇ」
諦めたように先生は息を吐いた。
「こんなに頻繁に来て、単位は大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ、各科目何回まで授業休めるか計算して、ちゃんと単位は落とさないように考えてますから」
「あのねぇ、有給休暇じゃないんだからそういう休み方しないの」
そう呆れ笑いする先生は、そう言いながらも僕を追い出したりはしない。椅子の上で読書する僕の側で書類仕事をしている。そんな空間が心地好くて、忙しない学校生活の中のささやかな癒しになっていた。
そうやって合間を縫って保健室に通ううちに、たくさんのことを知ることになった。
養護教諭の仕事は、怪我や病気の生徒の応急処置だけではないということ。生徒の悩みを聞いたり、学校保健に関する仕事もしたりしていること。生徒の相談を聞く先生の、真剣な横顔。授業をサボってここに来る僕に対しても、嫌な顔一つせず迎え入れてくれる先生の優しさ。保健室の静けさ。一コマ七十分の短さ。
それでも僕は、彼女のことを何も知らない。正確な年齢も、どこに住んでいるのかも、恋人の有無も、好きな食べ物さえも。どうしようもなく、僕と彼女は、生徒と教師だった。
そんな安らかな日々が続いていたある日、僕は少しふらつきながら保健室に向かっていた。定期試験前の課題で寝不足気味だったからか、あるいは疲労が溜まっていたのか、分からなかったけれど、とにかく静かなところで休みたかった。
「どうしたの、珍しく具合悪そうだけど」
少し驚いたような顔の先生に、いつものように軽口を叩く余裕もなく僕は答える。
「頭がぼうっとしていて」
「熱、あるんじゃない?」
「熱なんかないですよ」
「本当に? ちゃんと計った?」
先生の手が、額に触れた。そのことに僕は数瞬気付かなかった。
額に触れている少し冷たい感触が、あの華奢な指先だとわかったとき、僕は一気に顔が熱くなるのを感じた。
「……っ、本当ですから、離れてください」
先生の手が触れた額が、熱かった。心臓が、壊れそうなほど脈打つ。胸が痛くて、呼吸が上手く出来なくて、堪えられないほどの熱情が溢れそうになる。
「とりあえず、ベッドで横になる?」
「……いえ、今日は帰ります」
先生の方を見られなくて、俯いたまま「失礼します」とだけ言い残して、僕は早足でその場を離れた。
「え、待って、佐伯くん、ねえ、佐伯くんってば!」
先生が焦ったように大声で僕を呼び止める声が聞こえる。でも僕は立ち止まらなかった。立ち止まってしまえば、口を滑らせて、決して言ってはいけないことを言ってしまいそうな気がした。
先生、僕は、先生のことが。
――僕は、先生のことを、どう思っているのだろう?
彼女のことを、きれいだと思う、この気持ちはただの憧れであって、恋ではない。恋であってはならない。卒業するまでに出来るだけ長く側に居たい、ただそれだけでいい。ずっと、そう思ってきたはずだった。
それなのに、あの瞬間、自分の本当の感情を知ってしまった。身体中から湧き上がる熱情。煩いほど速く脈打つ鼓動と、隠せないほどに火照る顔。何より、もう一度、あの人の手の温度を感じたい、と願ってしまったことが、先生が僕にとって特別な人なのだと、はっきりと証明してしまった。
だめだ、だめだ、こんなの。
だめなのに、家に帰ってからも、あのひんやりした柔らかな感触が消えなくて、掻き消すように僕は勢いよくベッドに倒れこむ。頭の中がぐしゃぐしゃになって、息が苦しくて仕方がない。
ごめんなさい、ごめんなさい、先生。僕は、悪い生徒です。
次の日から、保健室に通うのをやめた。
そうして、何もかも忘れるように勉強に集中した。曲がりなりにも進学校であるこの学校の、そこそこに進度の速い授業を何度か休んでしまっていたので、その穴を埋めるように猛勉強した。ちょうど定期試験の前だったこともあり、呆気なく僕は、彼女について考えなくなった。まるであの時間は幻だったかのように。
そうこうしているうちに、いつの間にやら季節は過ぎ去って、セーター無くしては過ごせないほどに冷え込むようになった。
「そういえば、お前、最近保健室行かなくなったよな」
授業の合間の休み時間、いつも授業を休む時連絡を頼んでいた例の友人が、思い出したようにぽろりと零した。
「うん、まあ、そうだな」
曖昧に濁す僕の顔を、彼はぐっと覗き込んだ。
「何か、あったのか」
「別に」
「何かあっただろ」
質問が尋問に変わる。僕は観念して「まあ、ちょっと、ね」と答える。
彼は溜息を吐いて、呆れたようにこう続けた。
「言いたくないなら聞き出しはしないけど。お前が保健室に通ってる理由に俺が気づいてないとでも思ったか?」
「……は?」
「いや、は? じゃないだろ、なんだその顔」
「いや、だって、何も言ってないだろ、僕」
「何も言わなくても、わかるくらいには顔に出てんだよ、お前」
嘘だろ、と僕はあんぐりと口を開けて呆然としてしまう。顔に出てたって?
「気まずくなるようなことがあったんだろうけど、そのまま有耶無耶にして何もなかったことにできるのか、お前。どうせ卒業までぐちゃぐちゃ考えるだろ」
「そんなこと言われても、どうしたらいいんだかわかんないし、それに僕は……」
「とりあえず会って、お前が悪いなら謝って、悪くないならご無沙汰してますでいいんじゃねえの」
「そんな適当に言われても」
「お前が慎重すぎるんだよ。行動してみてから考えるくらいでちょうどいいことって、意外とあるもんだよ」
そうかなぁ、と唸る僕に、そういうとこだよ、と彼は肩を叩く。唸りながらも、なんとなく、彼が正しいような気がしてきて、僕は決意の揺らがぬうちにと、放課後に保健室に寄ることを決めたのだった。
数週間ぶりに保健室のドアを開くと、驚いたような顔で先生が出迎えてくれた。
「もう、来ないかと思ったよ」
「まあ、受験生になりますからね、僕も」
半笑いで応えると、先生も薄く笑う。
「佐伯くんが真面目になったって、先生たちの間で話題になってたよ。頑張ってるんだね、えらいじゃん」
先生が優しく僕の肩を叩く。その手が少し震えていることに、僕は気付かないふりをした。
「あの、あの日、勝手に帰って、すみませんでした」
「ああ、あのことね、誤魔化すの大変だったんだから。貸しにしておくからね」
初めて会ったあの日と同じ、悪戯っ子のような笑顔を見て、僕の胸は締め付けられたように苦しくなる。気持ちが溢れて、彼女以外、何も見えなくなる。
――先生はきっと、本当は気付いていたのだろう。僕が保健室に行かなくなった理由と、僕の本当の気持ちを。でも彼女は、気づかないふりをして笑ってくれた。
「ありがとうございます、あとで倍で返しますから」
「返さなくてもいいからさ、立派になれよ、少年」
「はい、頑張ります。それじゃあ、今日はこのくらいで帰りますね、勉強もしなきゃなので。……ああ、それと、」
「好きでしたよ、先生」
先生の目が見開かれる。でもすぐに先生は、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう」
それは、僕が今まで聞いた言葉で一番優しくきれいな『ありがとう』だった。先生そのもののような言葉だった。
ようやく僕は、これが初恋だったと認めることができたのだった。
保健室の微熱 藍沢 紗夜 @EdamameKoeda
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