狼
ジョーダンを見送ったあと、トリシャはまたベッドを振り返り、デニスの両肩を掴んだ。一度揺さぶって顔をあげさせ、じっと怯えた眼を見つめる。
「説明して」
デニスはまた、叱られた子供のようにしばらく俯いていたが、やがて目を伏せると話はじめた。
「僕にもよく分かりません。そもそも、どうしてこんなことになったのか……」
その祭りの日の夜、デニスは突然意識が遠退くような感覚を覚えたらしい。ふ、と身体から力が抜けて意識が霞みがかり、全て物音が遠ざかった。自分の身体が自分のものじゃないように感じて、気づいたら勝手に行動していて…………夢現の状態で、村の人を襲っていたのだ、と。
「止めようと思ったけれど、止められませんでした。なんだか別の人の行動を見ているような気分で、いろんな人を傷つけていくのをただ見ていたかのような……」
だが、そのうちに自分の意思で動けるようになったのだと言う。そして、自らの仕出かしたことが現実として目の前に現れて、その恐怖で村を飛び出した。
けれど、勢いがあったのはそこまで。丘を下り始めた瞬間から、全身が怠くなり、今度は完全に意識が混濁しはじめ、気付いたら地に伏していた。それからトリシャたちに拾われるまでの間、あの場所で熱に浮かされていたのだ、とデニスは語った。
「さっきトリシャさんは、人を殺すようになったら助からないと言いました」
それから彼は、凪いだ瞳でトリシャを見上げた。さっきまで取り乱していたのが、まるで嘘のようだった。
「……僕は、死ぬんですか?」
トリシャはようやく少年の肩から手を離す。ベッドの傍らに立ち竦み、ぐっと両の拳を握りしめた。
「…………これまでの症例を見る限りは、そのはずだ」
吸血鬼感染症は、病状が進むと身体を変化させ、脳にもダメージを与える。どちらもまた急激かつ大きな異変であるため、人体に多大な負荷が掛かるのだ。
そして、最後はその変化に身体が耐えられなくなり、死に至る。どんなに体力がある者でも、その負荷には耐えることはできない。ひとしきり暴れて、突然糸が切れた繰り人形のように動きを止めて息を引き取るのだ。
「でも、アンタは生きてる。どうしてなのかは分からないけれど、医者である以上、アタシはなにもしないでアンタを死なせるわけにはいかないんだ」
そう言って薬一式を取り出してからトリシャは悩んだ。
今のトリシャの見立てでは、デニスの症状はまだ初期段階だ。彼の意識ははっきりしているし、身体の変化も見られない。体温も正常だ。薬を投与するなら、弱いもので良い。
だが、デニスの話が本当なら、処方すべきは末期の患者に投与する薬だ。急いで投与し、病状の進行を止めなければならない。吸血鬼感染症に使う薬は劇薬だ。薬の効力が強いぶん、副作用も大きい。投与量が過剰であった場合、病気が治っても副作用の所為で身体機能に異常を来す可能性が大きくなってしまうから、迂闊なことはできない。
普段であれば、適切な処置を施すことができるはずなのに。この少年はどう対処すれば良いのか分からない。
生憎、助言を施してくれる先輩も今は外だ。自分で判断を下さねばならない。
悩みに悩んだ末、トリシャはデニスに弱い方の薬を打った。
注射器を片付けながら、トリシャは苦々しい表情で言った。
「アンタの話が本当なら、こんなんじゃ大した効果はないかもしれない。経過観察が必要になる。きちんと責任もって面倒見るから、今は大人しくしていて」
そうして鞄の蓋を閉じ、床に置いて立ち上がると、横になっているように、とデニスに言い付ける。
「トリシャさんは何処に?」
「先輩を手伝ってくるよ」
えっ、と少年は息を飲んだ。
「危なくないですか? 僕が噛んでしまった人も、たぶんもう手遅れなんですよ?」
罪悪感と不安を滲ませるデニスを安心させるよう、トリシャは微笑みかけた。
「一応こっちはプロだから。大丈夫、アンタを治さずに死んだりはしないよ」
強がりが通じたのかどうか。それ以上少年に呼び止められることはなく、トリシャは部屋を出ていった。ふう、とため息を吐く。果たして自分の処置が正しいものであったのか、今となっても不安で仕方がない。
もちろん、そんな姿を患者に見せるわけにもいかないが。
一度深呼吸して、外に向かう。様子を見に行ったジョーダンはどうしているのだろうか。何事もなければいいのだが……。
しかし、月明かりの照らす光景に、いとも容易く希望は打ち破られた。
「先輩!」
ジョーダンは玄関に背を向けて立ちはだかるようにして立っていた。そして、彼を囲うように群がる人だかり。そのただならぬ様子に、トリシャは息を呑んだ。
「はは……参りました……思ったより数が多い」
軽口をたたくように、しかし声は引きつらせてジョーダンは言った。表情は見えないが、冷や汗を垂らしているだろうことは、容易に想像ができる。トリシャもまた、背中に冷たいものを感じているからだ。
「これは……“吸血鬼”……?」
明らかに感染しているだろう彼らの様子を見て、トリシャは戸惑った声を上げた。
家を囲う人々は、おそらく村人だろう。なんとなくデニスと似通った格好をしている。その数、七人。しかし、ここにいる者はみな一様に正気を失っているようで、飢えた瞳でジョーダンを見ていた。
背を丸め、頭を低くして、唸って、涎も垂らして。まるで獣だ。
普通の吸血鬼患者も確かに我を失い人に噛みつくが、もう少し人間的だ。きちんと二本足で立つし、獣のような声は出さない。ここまで動物的な行動は今までみたことがなかった。
「どうも、ボクたちが知っているのとは症状が違うようです」
嘘でしょう、と口をついて出てきそうになった言葉をなんとか飲み込む。先程から考えないようにしていたが、やはりデニスは、普通の吸血鬼感染症とは違った病に掛かっているようだ。
そして、デニスに噛まれたと思われる目の前の村人たちもまた、その病に掛かっている。
「さて、どうしましょうか、トリシャちゃん」
「……みんな眠らせるしかないでしょう。麻酔弾が足りるか分かりませんが」
「はは……ですよねー、やっぱり」
乾いた笑いを漏らしながら、ジョーダンは銃を抜いた。それから眉を下げてポツリと言う。
「ボク、こういう荒事苦手なんですよ」
「ンなこと言ってる場合ですか!」
だから病院勤めしてたのに、とこんな状況でもぼやくジョーダンの呑気さに、トリシャの感情は爆発した。畳み掛けてやってくる"予想外”にだいぶ余裕をなくしつつあった。
トリシャもまた、自分の銃を抜いて構えた。まず一発、近くの右側にいた女性に向けて撃つ。先に小さな注射針のついたカプセル型の弾が女性の肩口に当たる。女性はしばらく撃たれた様子も見せずにトリシャに踊りかかろうとしたが、突然力が抜けたように地面に崩れ落ちた。普段と症状が違うが、麻酔弾は問題なく効くようだ。
「お見事」
ジョーダンもまた両手で銃を構えて、村人に向けて麻酔弾を発射した。
何発か撃ったところで、引き金を引いても弾が発射される手応えがなくなった。ガスが切れたのだ。舌打ちをしつつ、グリップに嵌められたガスカートリッジを取り外す。換えのものを取り出そうと腰をまさぐるが、指先は何も触れることはなかった。慌てて腰元を見てみれば、あったはずのポーチがない。
辺りを見回して見ると、地面に落ちているのを見つけた。戦っている最中にベルトの金具が外れてしまったらしい。トリシャは身を投げ出すように地面を蹴ると、ポーチに手を伸ばす。
と。
「パトリシア!!」
ジョーダンのいつになく切羽詰まった声にハッと顔を上げる。トリシャがポーチに気を取られた一瞬の間に村人がトリシャに接近、のし掛かろうとしていた。
覆い被さる大男を見上げると、トリシャの身体は固まってしまう。暴れる患者を相手することがあると言っても、トリシャはただの医者だ。ジョーダンではないが、荒事に慣れているわけではない。自分と体格も力も違う大人の男から逃れる術など持ち合わせていない。
万事休す――と、襲い来る痛みに目を瞑りかけたそのとき。
小さな影が、トリシャの前に立ちはだかった。
「なに……?」
尻餅をついた格好のまま、トリシャは目の前に現れたそれを見つめた。
それはまるで、巨大の犬だ。人間サイズの奇妙な犬。全身は毛むくじゃら。耳は人のものと同じところにあるが、三角形に尖り、口元には長い牙がある。手は丸く握り込まれ、指先には三日月型の鋭い爪。立ち姿はかろうじて二足だが、地面に手が付いてしまいそうなほどの前屈み。膝は曲げ、踵を浮かせており、臀部からはふさふさの尾が下履きからはみ出ていた。
手足の尺度が人間のそれなのがなんだか奇妙で。毛がなければ地面に這いつくばった人間なのに、とも思う。
ちら、とそれはトリシャの方を少しだけ振り返った。鋭い眼光。――違う。犬ではない。狼だ。
狼男。トリシャの脳裏にそんな言葉が浮かぶ。
まさか。あり得ない。医療で吸血鬼を否定したこの時代に、狼人間だなんて。
だが、目の前の生き物のくぐもった声を聴いて、トリシャは更なる衝撃を受けた。
「トリシャさん、大丈夫ですか!?」
「その声……デニス?」
はい、と小さな返事があった。その声は間違いなくさっきまで話していた少年のものだ。
「アンタ……どうして?」
どうして助けに来たのか。
どうして末期症状なのに、自我を保っているのか。
そもそも、その姿はなんなのか。
何を訊きたいのか自分でも分からず、トリシャは言葉を飲み込んだ。
「やっぱり心配で……これは、僕の所為だし」
獣の貌に苦渋の色を浮かべて、デニスは呻いた。
「だとしても、患者のアンタが出てくる理由は……」
この事態の原因は確かに彼にあるようだが、医者であるトリシャにとってはデニスはあくまでも患者の一人にすぎない。患者である以上、彼が危険に晒させる云われもないというのに、なんて無茶をしたものだ。
さっきまで体調が悪かった少年だ。何かあっては大変だと思い、叱りつけようとすると――。
「トリシャちゃん、話はあとにして!」
ジョーダンの叫び声に、トリシャは自分の周りの状況を思い出した。そうだ、まだ凶暴化した患者は残っている。
トリシャは今度こそ落ちていたポーチを拾い上げると、銃のガスカートリッジを手早く交換した。それからデニスと組み合っている男に照準を合わせ、撃つ。男が崩れ落ちるのを確認しないまま、次へ、また次へ。心は急いていたが手元は狂うことなく、感染者たちを眠らせていった。
騒ぎは嘘のように静まった。ひっそりと陰気な空気に戻った村を、満月の冷たい光だけが明るく照らす。
無事な村人たちは相変わらず家の奥に引きこもり、トリシャとジョーダンとデニスの三人だけが、今この場に立っていた。
「お疲れ様です。トリシャちゃん。それに……デニス君、ですか?」
正気を失っていない狼人間は、こくりと一つ頷いた。ジョーダンの表情が、狐に摘ままれたときのようなものになる。その気持ちはトリシャにも分かった。夢なら覚めろ、と内心繰り返し呟いている。
本当の狼ほど顔の形は尖っていないが、デニスの顔は狼そのもの。眼窩以外は灰色の毛で覆われて、人間らしさなどほとんど見当たらない。
これまで見てきた“吸血鬼”の中に、ここまで見た目が変異した者はいなかった。
「とりあえず中に入りましょうか。彼の事もよく診ないといけないみたいですし」
「彼らはどうします?」
トリシャは地面に転がった村人たちを指し示す。
「そうですね……困りました。どうも、持っている薬をただ打てば良いという話ではないみたいですし」
ですよね、と確認してきたので、頷いた。弱いものとはいえ確かにデニスに薬を打ったというのに、この姿を見る限りでは効いている様子は見られない。
「とりあえず、中に運び込みましょうか。気が付いたときに暴れないか心配ですが、このまま捨て置くわけにもいきませんし」
ジョーダンとトリシャは一度借りていた空き家の中に入り、シーツや物干しなどを使って即席の担架を作った。これでトリシャたちが借りている家の居間まで一人ずつ運び込む。
姿が変じても、村人たちと違って正気を保っているデニスが手を貸してくれたため、わりと早めに運び込むことができた。それでも、すべきことは多い。かき集めた毛布を敷いた床に患者を寝かせ、一人一人の状態を診て、ようやく一息つけるようになったときには、すでに夜半を過ぎていた。
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