荒れた村
「……これは……」
やっとの思いで辿り着いた村の惨状を見て、トリシャもジョーダンも閉口した。
もともと貧しい村だったのだろうから木板でできた簡素な造りの家は良いとして、気になるのはその壁に大きな傷が残されていることだった。大きな獣にひっかかれたような傷跡が、あちらの家にもこちらにもの家にも。一軒に限らず、村中の家々に付いているようだった。
「“吸血鬼”、でしょうか?」
気を失う前の少年の口ぶりからトリシャはそう判断してはみたものの、確証は持てなかった。確かに身体変異を遂げ、自我を失った吸血鬼感染症患者は暴れ回るものなのだが、これはまるで狼の群れにでも襲われたかのような有り様である。
「さあ、それはなんとも」
とにかく、少年を休ませることにする。
まずは村の入り口に一番近い家の戸を叩いた。だが、ここまで行くと案の定、返事がない。
二度、三度と試したが、全く物音がしなかったので、次の家へ向かう。そちらもまた、返事がなかった。ようやく返事してもらえたのは三軒ほど回った後で、しかしそちらも「出ていけ」とばかりでとりつく島もない。
そんなことがさらに三軒ほど続いたところで、トリシャたちは村人との交渉を諦めた。このまま粘っていては少年の体調はますます悪化する。それに、濡れ鼠となったトリシャたちの体調にも差し支えるだろう。
「申し訳ないですけれど、ここにお邪魔しましょうか」
最後に訪ねた家の中を覗いて、ジョーダンは言った。扉を叩いても返事はなかったのだが、ドアノブに手をかけてみると、なんと開いたのだ。入口を大きく開けて中に向かって呼び掛けてみるが、やはり返事はなく。そもそも人がいる気配がなかった。
だから、勝手に入らせてもらおう、と言うのである。
このような強行はいつもなら躊躇われるところだが、他の家がトリシャたちを中に入れてくれるとも限らず、そして少年の容態は悠長にしていられるものではない。トリシャは提案を受け入れた。
家の中は荒れていた。まるで強盗か何かが押し入ったようだった。テーブルの上にあったものは床に落とされ、椅子はあちこちに散らばっていた。皿は割られて落とされたまま。
気にはなるが、居間は素通りして、別の部屋でベッドを見つけると、服を着替えさせてからそこに少年を休ませる。その後、二人は自らの衣服を改めた。身体を拭いて乾いた服に着替えて、震えが収まったところで、少年の容態を観ながら現状の整理を行う。
「どうやら、事態は深刻なようですね」
沈みきったジョーダンの声に、少年の汗を拭いていたトリシャは頷いた。余所者を警戒し、誰一人家の扉を開けようとしない様子は、"吸血鬼”が出た町村の何処にでも見られる傾向だ。医者としては少し困った事態だが、病状が進行した患者は自我を失い暴れ始めるのだから、自分が被害に遭わないためには当然の対処法とも言える。
「来訪者を警戒するということは、いま村の中に発症者はいないということになるんでしょうが……」
怪物が村の中に居たならば、住人はどれ程怯えていようとも、いずれ脅威を排除しようと動き出す。間違いなく村は大騒ぎになっているはずだ。そして、余所者を警戒するということは、吸血鬼が退治されていないということに他ならない。殺していたのなら、警戒する必要はないからだ。
結論。感染者は村にはいない。自我を失って村を飛び出したものと推測される。
しかし、これは当然めでたしめでたし、で済まされる問題ではない。患者の治療ができないこともそうだが、一度外に飛び出した“吸血鬼”は、人の居る場所に戻ってくるのだ。とても放置できる問題ではない。
「そう呑気にはしていられないでしょう。いつ感染者が戻って来るかも分かりませんし、感染者が他にもいたのであれば、大変です。早めに治療方針を立てた方がいいですね」
こくり、とトリシャは頷いた。首を振ったのは一度だけだが、内心では何度も頷いている。今回珍しい二人がかりの仕事であったが、それで良かった、と実はほっとしていた。似たような状況を対処したこともないわけではないが、何から何までを一人でやるのはやはり骨なのだ。こうして相談できる相手がいるのは、非常に心強い。
「ボクは少し村を回ってみますから、君は彼を見ながら、できるだけこの家を片付けておいてください。いざというときに備えて、ここを仮の診療所にしましょう」
「分かりました。くれぐれも気をつけて」
ジョーダンが外に出たのを見送り、トリシャはもう一度少年の様子を窺った。熱に浮かされて息は荒いが、よく眠っているようだった。
そのまま寝かせたままにして、居間に移動し、箒と塵取を探してきては、床に散らばったものを片付ける。無断に侵入した家の片付けをするというのは、なんとも奇妙な気分だった。早く住人が帰って来ないものか、と考える。誤解されようが怒鳴られようが、この中途半端な感じは嫌だった。
一時間ほど掃除をしたところで、少年の額の布を交換しようと部屋に入る。少年はちょうど物音で目が覚めたようだった。身を起こし、不思議そうな表情で辺りを見回すその顔からは、すっかり火照りが引いている。
「ここは……?」
不思議そうにトリシャを見る。誰何しないということは、トリシャたちのことは覚えているらしい。
「アンタの村。ここは誰かの家みたいだけど、誰もいなかったから勝手に借りてるの」
「たぶん、ホルスさんの家です。でも、みんな……」
少年が悲しそうに目を伏せたことで、トリシャはこの家の住人の不幸を悟った。
「だから、使っても怒る人はいないと思います」
「…………そう」
喜べることではないが、とりあえず容態の悪い少年ごと外へ放り出されることはなさそうだと知って、その点は安堵した。
それからトリシャはもう一度少年を診た。額に手をあて、目の様子を見て、どうやら大分持ち直したようだと判断する。――彼を拾ってからまだ、一時間強の時間しか過ぎていないというのに。
「熱、下がったようね」
解熱剤も使っていないのに、こんなに急に下がったのはあまりに不自然に思うのだが、今は胸のうちに留めておくことにした。あとでジョーダンに相談すれば良い。
「自己紹介がまだだったね。アタシはトリシャ。吸血鬼専門の医者をしているよ」
「僕はデニスです」
礼儀正しく頭を下げる少年の態度は弱々しい。察するに、病み上がりで体力がないからというよりは、性格によるもののようだ。
デニスと名乗った少年は、ベッドに座ったままおずおずとトリシャを見上げた。
「あの、吸血鬼専門って……?」
「世間では吸血鬼は人がなった化け物だって思われてるけど、その実はきちんと適切な治療をすれば治る、ただの感染症なんだ。アタシたち〈銀の弾丸〉はそういう“吸血鬼”を治療する集団だよ」
お決まりの台詞を言うと、やはりこちらもお決まりのようにデニスは目を見開いた。
「治るんですか!?」
「そう。症状の進行具合に寄るけどね」
「そっか……そうなんだ……」
デニスは安堵と落胆が混ざったような表情でため息を吐いたが、その後になにか思い詰めたように下を向いた。
「でも、治ったとして、すでに人を殺してしまった場合は、どうなるのかな」
ぽつりと落とされた声に、トリシャは眉を顰めた。その問題は確かにいずれぶつかる問題だが、吸血鬼化が病気であると知ってすぐにその発想に至る者は少ない。冷静で頭の切れる者の中にはそういう人もいるかもしれないが……目の前の内気で気弱そうな少年は、そういう特別なタイプにも見えなかった。
「さあ。アタシたちはただの医者だから。薄情かもしれないけど、そっから先は感知してないよ。まあでも、そこまで重症化している場合は、残念ながら命も助からないから、無用な心配とも言えるけど」
そう答えながら、目を細めてデニスを観察する。どうもさっきから、この少年の様子がおかしい。“吸血鬼”に関する話を聞いたときの感情の触れ幅が、普通の人よりも大きいのだ。
まるで当事者のようだ、とトリシャは思う。
「……知り合いに、そんな人がいるの?」
ずばりと訊いてみると、デニスはうしろめたそうに視線を逸らした。
「えっと……」
更に問い詰めようとしたところで、部屋の扉が開いた。いつの間にかジョーダンが帰ってきていたようだ。話が途中になってしまった。タイミングの悪さに内心で舌打ちしながら、ジョーダンに成果を尋ねる。
「なんとか村長が話を聞いてくれましたよー。いやあ、かなり警戒されたんで、中に入らせてもらえなかったし、扉越しだったんですけどね」
そう前置いて、ジョーダンは話す。
事の起こりは二日前の夜。ある家の少年が突然暴れだしたのだそうだ。その日は収穫を祝う祭りの日で、村中の人間が集まっていたのだそう。
祭りは昼からだったが、篝火を焚いて夜まで続けられる。その少年は日が暮れる頃に様子がおかしくなったのだそうだ。
「なにぶん、村中の人がいましたから。多くの人が襲われたそうです。引っ掻かれたり、蹴られたり、投げ飛ばされたり。噛まれた人も、何人かいるそうです」
少年のものとは思えない尋常でない力に、命を落とした人もいるようだ。子供の骨は噛み砕かれ、大人のほうは投げ飛ばされて、当たりどころが悪くて死んだ。
その暴れる様は、まるで獣のようだった、と村長は語ったという。
獣だなんて、なんとも“吸血鬼”には相応しくない形容だ、とトリシャは思う。
「その怪我人の容態は?」
「何名かは臥せっているそうです」
トリシャは顔を顰めた。もしかするとその臥せっている人の中に新しい感染者がいるのかもしれない。悠長にしている余裕はなさそうだ。
「そうそう、その発端となった少年。確か名前はデニスっていうそうで――」
「なんだって!?」
思いがけない言葉に、トリシャは声を上げて振り返った。そこには、目を大きく見開いて、布団の中で身体を固まらせてしまった少年がいる。
「いったいどういうこと!?」
相手が病人であることも忘れて、思わず少年に詰め寄り、胸ぐらを掴む。さっきの煮え切らない態度には納得。だが、そんなことより――。
「ごめんなさい!」
少年は勢いよく頭を下げた。
唖然とするトリシャたちの前で、デニスはふるふると身体を震わせる。
「だけど、僕怖くて――」
「そんなことはどうでもいい! アンタ、いったいどこまで症状が進行して――」
と。
突如、絹を裂くような遠吠えが響いた。トリシャは思わず腰を浮かせて、窓の外を見る。
「……なに……?」
薄暗いのは相変わらずだったが、いつの間にか雨は上がっていた。雲間から低く掛かった満月が見える。夜が訪れようとしているらしい。宵闇に目を凝らす。寂れた家並み以外に見えるものはない。けれど、ほら、また遠吠えが聞こえてくる。
存外、近い。
「狼、ですね」
家の中だというのに、心なしか声を潜めてジョーダンは言う。
「この辺りにいるなんて聞いていませんけど」
訝しむトリシャの横で、
「ああぁ……」
少年がガタガタと身を震わせはじめた。トリシャが問い詰めたときの比ではない。歯の根も噛み合わないほどに震えている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、僕の所為で……っ!」
突然恐慌状態に陥ったデニスを、トリシャとジョーダンは呆然と見つめた。
「……どういうこと?」
「僕が、噛んじゃったから……っ」
そう叫ぶと、デニスは自分の耳を塞いで布団の上で縮こまった。
事態が飲み込めないトリシャは、そっとジョーダンに目配せする。彼もまた困ったように眉根を寄せて、丸まって震えているデニスを見ていた。
「彼の言葉から察するに……あれは感染者の仕業、ということでしょうか?」
「でも……狼は吸血鬼と関係ないでしょう?」
「ですよねぇ……」
そんな会話を繰り広げている間にも、あちこちから遠吠えが響いた。まるで狼の群れの中に放り込まれたようで、建物の中で安全だとはいえ、トリシャも緊張を強いられた。
デニスの震えも収まりそうにない。
仕方ない、とばかりにジョーダンはため息を吐いた。
「ボクが外の様子を見てきましょう」
トリシャは目を剥いた。
「正気ですか?」
「吸血鬼と狼の関係、気になるじゃないですか」
同意も否定もできないまま、トリシャは困惑する。確かに、吸血鬼感染症の患者が狼に反応するなんて聞いたことがないけれど、相手は狼である。群れで襲い、自分よりも大きな家畜を食い殺す獰猛な獣。世の中で悪し様に言われるほど人を襲うことはないにしても、侮れない生き物であることには変わりない。いくら麻酔銃を持っているからって、そんな獣たちがいる中に自ら飛び込むような真似をしようなんてどうかしている。
しかし、ジョーダンは特に臆した様子もなく、
「トリシャちゃんはその子を診ていてください」
きり、といつになく表情を引き締めて部屋を出ていった。
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