〈銀の弾丸〉

 〈銀の弾丸シルバー・ブレット〉。かつて吸血鬼や人狼、魔女などを撃退するのに用いられた銃弾を指していたこの言葉は、一部の界隈でまた別のものを指す呼称として使われている。

 それが〈吸血鬼感染症医療団〉。すなわち近年感染症として認定された“吸血鬼化”を専門的に治療する医師の集団である。銀の弾丸が特効薬の比喩表現としても用いられていることから、この別称が付いた。


 その〈銀の弾丸〉に所属する医師の一人であるトリシャことパトリシア・ライスは、国の首都に置かれた、医療団本部でもある病院の仮眠室でコーヒーを啜っていた。正直泥水を啜っていたほうがマシだと思えるような不味さだが、それだけに寝惚けた頭には効果的だ。――気分は全く良くないが。


 質の悪い木でできた寝台の上で、ここまでの苦行に耐えてまで起きなければならないその意義を考えながら黒い液体を喉の奥へ押しやっていると、仮眠室の扉が開けられた。現れたのは、三十代に差し掛かった男性の医師だ。髪はボサボサ、無精髭で、白衣もくしゃくしゃと、清潔を求められる医療現場にあるまじき格好をしていた。

 その彼はトリシャの眉間の皺を見ると、丸眼鏡の奥の瞳を細めて苦笑いを浮かべた。


「お疲れですねぇ、トリシャちゃん」


 トリシャはちらりと視線を彼に向け、カップを口から話すと座ったまま僅かに会釈した。


「ジョーダン先輩も、お疲れさまです」


 先輩に対してあまりに仏頂面、無愛想な対応だが、もともとどんな相手に対してもぶっきらぼうな態度を一貫して取るトリシャの中では、わりと丁寧に対応した方だ。

 彼女の気質を知っているジョーダンは、さして気にした様子も見せず、にこやかに話を始めた。


「どう? 一人で往診行くの、慣れました?」


 まだ医者の数も施設の数も少ないこともあり、〈銀の弾丸〉の若手の医師は、感染者の出た町村に赴く、すなわち往診に行くのが通例だった。トリシャもまたその例に漏れず、二年前に医師になってからずっと往診に行っている。はじめのうちは、先輩と二人で。慣れてきた一年前からは、一人で。


 そりゃ一年も経てば、とトリシャは素っ気なく答えたあと、ちら、とカップを見下ろして、


「……ここのコーヒーの不味さ以外は、ですけど」


 うんざりとした様子で付け加えた。


「ボクは慣れましたよーこの味。むしろ、どう入れたらこんなに雑味が出るのか気になっちゃって」


 自分でも入れてみたんだけど、ここまで不味いものはできないんですよ、とジョーダンは言う。その探求心に、トリシャは呆れる以上に感心した。


「どうせなら、美味しいものが飲みたいです」


 好き好んで不味いものを口にするなんて、余程である。良薬口に苦し、というが、コーヒーは坑酸化作用や血糖値の低下、腸管免疫の活性や覚醒作用を有していたとしても、結局食品でしかない。しかもこのコーヒーは、一度抽出した豆をもう一度使っているという噂もあるのだ。期待する効能などないに等しいだろうに、あえて味を我慢する理由が分からない。


「でもうちにはコーヒーに割く予算がないですから。こんなものでもあるだけ感謝しないと」


 吸血鬼感染症は、まだ一般に広く知られていない病だ。周囲の理解度が低いだけに、国家から割り当てられる予算は少なく、公私を問わず支援もまた少ない。そのくせ、設備投資やら出張費やらで金は嵩む。

 それを言われると、トリシャもこれ以上文句は言えなかった。


「それより、トリシャちゃん。ボスから呼び出しですよ」


 トリシャは顔をしかめた。


「私、帰って来たばかりなんですけど」


 トリシャは昨日まで片道だけで一日掛かる村に行き、十日ほど滞在して、昨日の夜帰ってきた。そのあとここで一晩休み、午前中は報告書を書いて、そのあと休暇……だったはずなのに。


「これも往診医の定めです。諦めましょう」


 忙しさに身なりに気を遣う隙もない先輩医師がトリシャを宥めるように肩を叩く。

 金なし、休みなし、人手なし、認知度なし。ついでに美味いコーヒーもなし。

 最先端の医療を扱う場にしては、最悪の職場環境だった。




 病院なんて所は、何処へ行ってもただただ白い空間が続いているものだ。唯一院長室は例外になるかもしれないが、残念ながらこの病院の院長かつ〈吸血鬼感染症医療団〉本部長のエドモンド・カーソンの居室もまた白かった。


「至急、西のある村へ行ってもらいたい」


 病室に必要な什器だけを置いた簡素な部屋で、唯一高そうな机越しに呼び出した二人を見据えたカーソンはそう言い渡した。

 ここより列車で一時間ほど、そこからさらに一時間歩いたところにあるという村。そこに“吸血鬼”出現の噂があるというので、詳細を確かめ、治療してこい、とのことである。

 なんともまあ、曖昧な情報であるが、それはいつものこと。空振りならそれはそれで良し、ということで派遣されるのが〈銀の弾丸〉の往診医だ。無駄足だったことも何度かある。

 しかし、今回はどうも様子が違うようだ。


「今回は、ライスとジョーダン、二人に行ってもらう」


 はいはい、と内心やる気なく応じていたトリシャは、普段は付け加えられない一言に顔を上げた。


「構いませんが、今回に限ってどうして二人で?」


 ジョーダンは不思議そうに尋ねる。新人でもない限り、往診医は基本的に一人で行動する。吸血鬼感染症向けの薬は強力で、一村程度の面倒を見るのにさほど量は必要ないというのもあるが、何よりも人手が足りていないからだ。

 それなのに、今回はわざわざ人手を割くという。


「村が化物に襲われているという話だが、どうにも要領を得ない。万が一の事態に備えて、今回は二人で行動してもらうことに決めた」

「万が一とは?」

「手遅れである可能性だ」


 吸血鬼感染症は恐ろしい病気である。唾液感染であるわりに感染力は他のものと比べると強いというわけでもなく、何より治療薬もあるので不治の病ではないのだが、およそ普通では考えられない急激な変質を肉体にも精神にも及ぼす。

 死体と勘違いするほどの低体温。白目が真っ赤に染まるほどの目の充血。何故か起こる犬歯の発達に、筋力の急成長。その肉体の変わり様は、まさに伝承の吸血鬼と変わらない。

 そして、病状が進行した結果、人を見境なく襲うなどという事態もよく起こる。錯乱状態にあるのだろう、感染者は手当たり次第に人に噛みつきだすのだ。噛みつかれた方は、鋭い犬歯で破られた皮膚に感染者の唾液が付着してしまい、病原菌が体内に取り込まれ、発症してしまうことがある。また、ときには感染者が増大した筋力で大暴れした結果、人を殺してしまうこともある。

 今回、カーソンが危惧しているのは、まさにそれだろう。

 感染者が増えれば、それだけ治療に当たる医師のリスクも高まる。そして、さらに危惧されるのは、感染者を目の当たりにした人々の対応だ。

 感染者による感染拡大や殺人の件数が多い所為で人々の吸血鬼感染症の治療に対する理解は遅れ、今でも吸血鬼退治は後を絶たない。先日トリシャが行った村も、その良い例だろう。

 そういった人たちを説得するのも医師の仕事であるが……被害が拡大し、恐怖に落とされた人々は、なにぶん手っ取り早い方法を取ろうとするし、こちらの言葉に耳を貸そうとしない。

 つまり、治療だけでなく、周囲の説得も大変なのだ。


 面倒ごとになりそうだ、とトリシャはひそかに舌打ちした。




 早急に仕度をして出掛けるように、との命令で、トリシャは荷物をまとめた。とはいえ、往診から帰って来たばかりだ。準備にさほど時間はかからない。昨日から着たままだった黒いドレスを綺麗なものに着替えるだけで、出掛ける準備は万端だ。

 一方で、久しぶりの往診だというジョーダンの方は時間が掛かった。鞄を見つけ、着替え医療道具を詰め込まなければならなかったし、さすがにいい加減な格好のまま外には出れないと思ったのだろう、髭を剃る時間もあった。

 そうして病院を出発できたのは、実に一時間半もあと。昼食を買い、都の中央にある駅から列車に乗り込み、西へ向かう。

 

「トリシャちゃん、もしかして緊張してます?」


 サンドイッチを適当に片付けたあと、ぼんやりと外の景色を眺めていたトリシャを見て、ジョーダンは声を掛けた。彼女の手が自身の腰の辺りを撫でているのを見咎めたのだ。そこにあるのは、〈銀の弾丸〉に配備されている、麻酔矢を撃つための空気銃。医療目的の品とはいえ、端から見ると血の気の多く見られる行動は、あまりよろしいものではない。


「……そうですね」


 トリシャは自分の手を膝の上に置いた。気が抜ければまた腰に手をやりそうになるのを、もう片方の手で押し留める。何かと良くしてくれる先輩だ。あまり心配させるのは気が咎める。


「なにか嫌な予感がするんです」


 そんなトリシャの不安を反映したのか。目的の駅に着くと雨が降っていた。


「……幸先悪いな」


 しとしとと冷たい秋の雨に、ジョーダンもまた肩を落とす。本部を出たときは晴れていたから、生憎荷物に傘はない。しかし、目的地までは徒歩で一時間は掛かる。

 何かないかと辺りを見回したら、運よく目的地の側を通るという馬車が見つかった。トリシャたちの向かう先に吸血鬼が出たというのはもっぱらの噂だったようで、乗せてくれとお願いしても断られたのだが、近くまで良い、謝礼はするから、となんとか押し切った。


 空き箱と一緒に雨避けの油紙の下に入り込み、がたごとと荷台に揺られて三十分。丘の麓に下ろされてからは歩いていく。早くも枯草色に染まった丘は、雨水を多く吸っている所為で泥だらけだ。丘は大した高さがあるように見えないのだが、足元が滑る所為か、いつまで経っても頂上に辿り着く気がしない。

 ここを登った先が目的地だというのに。

 濡れたスカートの裾が足に絡まるのに舌打ちをし、雨にけぶる頂上を睨み付ける。服装もそうだが、何よりも傘を持ってこなかったのが惜しい。この季節、雨に濡れるには寒い。現地の天気を知る方法があれば良いのに、と思う。そうすれば、普段は荷物になる傘の準備ができた。


 まあ、愚痴愚痴言っていても仕方がない。村についてしまえば雨などどうでもよくなるはず――それを期待して、また一歩足を進めた。


 呻き声が聞こえたのは、そのときだ。


「助けて、くだ、さ……」


 苦しみ喘いでいる様子に、トリシャもジョーダンもはっと顔を上げる。慌てて辺りを見回すと、枯れ草の翳に少年が倒れているのを見つけた。


「大丈夫ですか!」


 ジョーダンが声を張り上げ、駆け寄った。トリシャもそのあとを追う。

 十代半ばの少年だった。シャツにズボン、チュニックと簡素な服は泥だらけ。それだけでなく、ジョーダンが抱き起こすとボロボロであることも分かった。袖から飛び出た腕には、細かい傷がある。ただの行き倒れではなさそうだ。

 トリシャは、目を閉じ、顔を赤くして喘ぐ少年の額に触れてみた。


「ひどい熱……っ」


 トリシャの声を聞いて、ジョーダンは自分の鞄を引き寄せて片手で器用に開けると、中から白衣を取り出してトリシャに差し出した。


「これを着せて。村まで連れていきましょう」

「駄目です!」


 変声期真っ只中の高いとも低いともつかぬ独特の声が張り上げられたのに、衣を受け取ったトリシャの手が止まる。


「村は……駄目なんです」


 ジョーダンに抱えられた少年は僅かに目を開けて、拒むように弱々しく首を振る。


「“吸血鬼”がいる?」


 問えば、少年は驚きで目を見開いていたが、頷いた。


「なら安心して。アタシたちの目的はもともと“吸血鬼”だから」


 熱に浮かされた少年の瞳が、不安げに揺らめいた。


「村のみんなを、殺すんですか……?」

「殺さないよ。治すだけ」


 そう諭してから気付いた。


「……みんな?」


 どういうことか、と訊こうとするが、少年は力尽きて気を失ってしまったようで、とても話せる状態ではなかった。


「これは、本部長の予感が当たっているかもしれないですね」


 少年を抱え上げながら、ジョーダンは普段にない深刻な表情で言う。トリシャはその腕の中の彼にジョーダンの白衣と、鞄の中から取り出した自分の白衣を毛布代わりに掛けてやり、二人分の荷物を持って立ち上がった。


「行きましょう。だったら早くどうにかしないと」


 先程まで雨を鬱陶しがっていたことも忘れ、トリシャはせかせかと歩き出す。

 その背中を見て、ジョーダンはいつもの調子を取り戻して呟いた。


「勇ましいですねぇ」


 決して揶揄したわけではなかったのだが、生憎耳に届いてしまった彼女はそうは感じなかったようで、ジョーダンは上から緑色の瞳で冷たく見下ろされ、蛇に睨まれた蛙のように縮み上がった。

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