吸血鬼専門医トリシャの往診カルテ

森陰五十鈴

女医乱入

「ああ……神様……」


 寝台とタンスと机しか置かれていない狭い部屋で、青年は悲壮な表情で跪いた。ごわごわとした木綿のシーツにすがり、寝台を見上げる。

 そこには、彼の恋人が横たわっていた。村で一番美しい娘。青年の心優しい恋人。そろそろ結婚しようか、と二人で準備を進めていたというのに――。


「ジム、残念だが」


 嘆く青年の肩に、皺だらけの手が置かれた。黒い僧服に身を包んだ年老いた司祭は、青年と同じ悲壮の表情に、緊張を滲ませながら、寝台の上の娘のために祈りの言葉を紡いだ。


 嗄れ声に紛れて、ちゃり、と金属音が狭い部屋の中に響く。


「さあ」


 祈りの言葉を読み上げた司祭は、自分たちと同じように寝台を取り囲んでいた数人の村の男たちに声呼び掛けた。年頃はまちまちだが、みな共通して屈強な男たちだ。


「はじめてくれ」


 司祭の声で、男たちは緊張した面持ちで前に進み出た。ちらりと寝台に視線を向け、娘の姿を認めると、その表情に怯えが混じる。


 その娘は、寝台に縛り付けられていた。両腕には手枷が嵌められ、繋げられた鎖がベッドの下を潜るように渡されている。両足にもまた枷が嵌められているが、そちらの鎖は短かった。おそらく歩くことすらままならない。

 しかし、そのようなひどい扱いを受けても、拘束された本人は一切抵抗しなかった。それどころか半開きの青い目は虚ろで、ぼんやりとした表情。肌は血の気を失い、白を通り越して青い。触れると、まるで死体のようにとても冷たかった。

 そして首には、噛みつき痕。ずらりと並んだ歯型は赤く痛々しいが、その中でも特に、人間で言う犬歯に当たる部分の傷が深く、赤く小さな瘡蓋かさぶたができていた。


 ちゃり、ともう一度鎖が鳴った。


 娘の腕が微かに震えていた。動けないのをどうにかして動かそうと、もがいているかのようだ。

 部屋の男たちの顔が、真っ青になる。


 ここまでで気がついた人もいることだろう。寝台に横たわる娘は、吸血鬼に噛まれた被害者だった。恋人との逢瀬を終えた昨晩、家へと帰る途中に怪物に襲われているところを、彼女の帰りが遅いのを心配して外に出た母親に見つかった。

 そして一日が経過した今、彼女自身もまた、吸血鬼になろうとしていた。ジムと呼ばれた青年を除く男たちは、娘が吸血鬼になる前に退治するよう呼び集められた者たちだ。


 虚ろだった娘の眼が、突如カッと見開かれた。赤い眼で天井を睨み付け、身体中を大きく震わせる。


「さあ、急げ!」


 司祭は娘を指差し、男たちに向かって叫んだ。


「手遅れになる前に、早く――」


 恐慌状態の司祭に触発されたのか、男の一人が持っていた斧を振り上げる。薪割り用の鈍い刃が蝋燭の光にきらめいた。


 娘の白く細い首に斧が振り下ろされようとしたそのとき――。


 バァン、と大きな音を立てて、扉が開かれた。


「待ちなっ!」


 部屋の全員が振り返ったその先、開かれた部屋の入り口に一人の女が立っていた。年齢は二十前後。後ろで一本に結わえられたプラチナブロンドの髪に、つり上がった翡翠の瞳。レースが入った黒いワンピース。左手には一抱えもある大きな革の鞄。

 まるで人形のような女だが、鋭い眼差しと右足の靴底を見せつけるような粗暴な行動に、その場にいた人々は畏怖を覚えた。


 女は扉を蹴り開けた足を下ろすと、吸血鬼の処刑場へと足を踏み入れ、低め声ではっきりと宣言した。


「その患者、まずはアタシに診せてもらうよ!」


 闖入者の出現に絶句していた男たちだったが、人生経験の差か、いち早く司祭は我に返ると、誰何の声をあげた。


「誰だ、お前は」

「アタシは医者だよ」

「医者? 医者だと?」


 司祭は信じられない様子で女の言葉を繰り返した後、大仰な身ぶりで寝台の上に拘束された娘を指し示した。


「ここに病人はいない。大方彼女のことを聞き付けてきたのだろうが、彼女は生憎、吸血鬼に噛まれて亡くなっている。そして、今まさに吸血鬼になろうとしているのだ! すぐにでも彼女の首を落とさねば、不死の怪物になってしまう!」

「だから、そうさせないために来たんだよ!」


 女は司祭の胸ぐらを掴みあげると、自分の前へ引き寄せて恫喝した。そして彼を突き飛ばす。女の力を受けきれなかった年老いた司祭は、よろめいて床へ尻餅をついた。

 女は、ふん、と鼻を鳴らした。


「祈るばっかで何もできない聖職者は引っ込んでな! 彼女はアタシが診る」


 どきな、と茫然とする男たちを掻き分け、医者と名乗る女は寝台の前へと進むと、どさりと乱暴に鞄をおき、枷を嵌められた娘の手を取った。


「身体は冷たい。……呼吸数、脈拍は低下。低体温症だね。目は充血して、瞳孔は開ききっている」


 それから鞄のガマ口を開くと、薄いゴム状の白い手袋を嵌め、娘の首筋に手をやった。


「首に噛み傷。犬歯が長いけど、人間のものだね。吸血鬼に襲われたのは間違いなさそうだ」

「だから、そうだと言っているだろう!」


 気取るのも忘れて苛々と叫ぶ司祭に、女は忌々しげな緑色の視線を一瞬だけ向けて、鞄の中から未使用のガーゼと褐色瓶を取り出した。瓶の中のエタノールをガーゼに染み込ませ、首の噛み跡を丁寧に拭う。

 一連の作業が終わると、女は患者の恋人を見つめた。入ってきたばかりだが、それぞれの様子を観察すれば、誰が彼女と親しく、誰が損な役割を押し付けられてここにいるのか判断がつくというものだ。


「大丈夫。まだ間に合うよ」


 絶望に染まっていた青年の目が見開かれる。


「間に合う、んですか?」

「そう。まだ薬が効くからね」

「薬?」


 吸血鬼退治に薬を使うとは聞いたことがなかったのだろう。青年は訝しむ。司祭を除いた村の男たちも戸惑った様子で、女の話を聞いていた。


「吸血鬼っていうのは、感染症なんだ。患者は見た目も変わるし、狂暴にもなるから、とんでもない事態に違いないけど、早期に適切な処置をすれば治るただの病気だよ」

「そんな馬鹿な! そんな話聴いたことも……」


 と司祭が反論し出したそのとき。


「ううぅぅ……あああぁぁああぁ!」


 ベッドの上で震えていた娘が身体を大きく仰け反らせた。がちゃがちゃと鎖を鳴らしながら腕を振り、足を振り上げ、ばたばたと暴れまわる。


「ほら見ろ! 言わんこっちゃない!」

「五月蝿い! こんなの想定内だよ! 黙ってみてな!」


 もう一度司祭を怒鳴り付けると、女は暴れまわる娘の胸に片手を置いて、のし掛かるように覆い被さった。寝台に上った膝で娘の左手を押さえつけ、右手で腰に巻いていたホルスターから掌に収まる程度の大きさの銃を取り出した。それを首筋に突き付けて引き金を引いた。

 かち、と小さい音がしたきり、発砲音はない。不発だったのか。いや、そもそも殺すのではなく、治しに来たのではなかったか。

 男たちが疑問に思いながらも息を殺して二人を見守っていると、もがき暴れていた娘の動きが緩慢になっていき、そのうちに力が抜けてぐったりとした。


「麻酔弾だよ」


 ゆっくりと娘から離れた黒衣の女医は、彼女を見下ろしながら言った。それから身体を折って足元の鞄を漁ると、細長いケースを取り出した。中を開けば、そこには注射一式が入っていた。手際よく注射器に針を取り付け、別途取り出した瓶から薬品を吸い込ませると、娘の腕に打った。


「これで良し。もう少しすれば、薬が効いて症状が緩和されてくるはずだよ」

「助かるんですか?」

「アタシの見立てでは」


 女の答えに、青年は安堵したのか泣き笑いのような表情を浮かべた。


「……馬鹿な」


 漏れ出た司祭の言葉に取り合うものは、誰もいなかった。

 女医はてきぱきと注射器の後始末をしながら、さらに続ける。


「けど、これを打ったからってすぐに治るもんでもないよ。経過を見る必要がある。……まあ、しばらく居るから、そこは安心して」

「本当ですか……っ?」


 青年は、よたよたと寝台の側へ行くと、恋人の寝顔を見た。先ほどもがいていたときのような苦しみの色は見られず、その前の虚ろな様子も見られない。呼吸はまだ浅いが、比較的穏やかな眠りについているようだった。

 許可を取って、彼女の手に触る。相変わらず水のように冷たいが、微かに握り返してきた。

 青年の表情が喜色に染まる。立ち上がって、傍らにいた女医の手を取った。


「お医者様、ありがとうございます! 俺はてっきり彼女を失うのかと……」


 感謝の言葉を受けた女は、照れているのか、青年から若干身を引きつつ応じた。


「別に、ただの仕事だよ。感謝されるほどのことじゃない。それに、まだ完治したわけではないから、安心するのは早いよ」

「だとしても。殺されるところを見ずにすみました。本当にありがとうございます」


 少し顔をしかめつつ明後日の方向を見ていた彼女の表情が、ふと緩められる。驚いたように緑色の瞳で青年を見つめた後、ほんの僅かに口角を上げた。


「明日もまた来るから……お大事に」

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