きみに呪いの花束を

夏目りほ

呪われた娘たち



 母は私を産んだその日に亡くなった。決して身体の弱い人ではなかったはずなのに、綿毛が飛ぶように呆気なく息を引き取ったそうだ。「母親の精気を吸い取ったとしか見えなかった」とお医者様は仰っていた。母が懸命に伸ばした手は、私に触れた途端にぱたりと落ちたらしい。

 それからというもの、私の周りでは恐ろしいことばかり起こるようになった。乳母の家が火付けに遭い、庭師の祖父母が事故死した。親戚の幼い姉妹が行方不明になり、領地では作物の不作が続いた。

 度重なる不幸に見舞われた親族たちは、私がその原因だと決めつけた。きっと、目に見える何かに原因を押し付けなくては、恐怖に押し潰されてしまいそうだったからだろう。

 その結果、私の悪い噂は飛燕の速度でヒノクニ中に広がった。あらゆる人が私を厭悪し、遠ざけた。領民は離れ、領地は痩せ細り、使用人達は次々と職を辞した。

 そしていつしか、私には特別な呼び名が付けられた。


禍子まがつのこ


 取り巻く全てを不幸にする、百年分の呪いをその身に宿した赤子。

 何の力も持たない私は、その忌み名を受け入れるしかなかった。















 今年は十数年ぶりに作物の育ちが良いそうだ。お父様の灌漑事業が上手くいったのと、新しく植えた種が土質に合っていたらしい。これでしばらくは領民たちも安定した暮らしができる。私の呪いを知ってなおヤヨイに住み留まってくれている彼らには、きっと幸せになって欲しい。


 ーー幸せ。幸せかぁ。


 今日は良いお天気だから、仕上げはお外でやってしまおう。そう思って縁側に出てみたが、要らないことばかり頭に浮かんできて、なかなか手が進まない。


「痛ぅ!」


 針が爪の下を刺した。結構な痛みに涙目になる。嫌だ、これではまるで、自分の惨めさに泣いてるみたいではないか。

 顔を上げるのよ、私。これはとってもおめでたいことなのだから。


「あぁ、お嬢様。こちらでしたか」


「アンズ? なに、どうしたの?」


 侍女のアンズが楚々とした仕草で現れた。


「旦那様がお呼びです。とても大事なお話がしたいと」


「……何かしら」


 まぁ、薄々わかってはいる。できれば聞かされたくないのだが、せっかく呼びに来てくれたアンズを無下にはできない。


「お嬢様、それは何ですか?」


「ん? あぁ、これ? ユメさんの婚約祝い。彼女の家の家紋と幸せの黄色で作ってみたの」


 先日、従姉妹の女の子が貴族の男性と婚約した。これはそのお祝いにと思ってこしらえた香り袋だ。縫い物くらいしか取り柄のない私には、この程度の物を作るのが精一杯だ。だがそれでも、祝福の気持ちをたくさん込めて編んだつもりだ。


「それは素晴らしいですね。ユメ様もきっとお喜びになられます。お祝いの品としてお贈りするよう手配しましょう」


「あぁ、それは良いの。これは贈らないから」


「え?」


「私の作った物なんて贈ったら、怖がらせてしまうわ。せっかくの幸せに水を差したくはないもの」


「そんな……。では、どうして?」


 アンズの悲しそうな瞳を受け止められず、私はそっと目を逸らした。この香り袋は、自分用の言い訳なのだ。


「誰かの幸せをお祝いする気持ちだけは、無くしたくないの。こうやって形にしないと、私はすぐに忘れてしまいそうで。だから、贈らなくていいのよ。半分は私のために作ったようなものだもの」


 婚約したユメさんは十四歳だ。実際の結婚式はまだ先らしいが、彼女の婚約は正式なものだ。私よりも十一歳下の従姉妹は、今や「奥様」だ。

 生まれる前から婚約者がいることは、貴族にとって珍しいことではない。十代半ばで婚約することも、十代後半で結婚することも、二十歳になる前にお世継ぎを授かることも。二十歳になって結婚もしてないなんて、領地が大騒ぎになるくらいの異常事態だ。

 それなのに、私はすでに二十五歳。婚約話はおろか、家族以外とまともに接したことすらない引き篭り。器量も頭も良くない、他の魅力的な要素もない。こんな私を嫁に貰ってくださる男の人なんて、いるわけがなく。そして、私が周囲を不幸にする禍子まがつのこであることが最後の一太刀。

 人々から忌み嫌われる私には、結婚なんて別世界の物語だ。そんなことは私が一番わかっている。でも、わかっていても、悲しいと思ってしまう時がある。この香り袋は、その気持ちをほんの少し楽にするための物だった。


「だからアンズ、貴女は私と違って器量も気立ても良いのだから、私のお付きなんか早く辞めて、良い人と一緒になるべきよ」


 アンズは十五歳。輝くような金色の髪と澄んだ青い瞳を持つ美しい女の子だ。彼女が方々からお話を持ち掛けられているのを私は知っている。そして、それらをことごとく拒否していることも。

 私のことを知っていてなお側にいてくれたのはアンズだけだが、だからこそ誰よりも幸せになって欲しかった。


「いいえ。私はずっとお嬢様のお側にいます」


 だが、アンズは頑なにこう言うのだ。私はお嬢様って歳でもないのだけど。


「こちらへ。旦那様がお待ちです」


「……わかったわ」


 なんだかアンズを責めているみたいになってしまったので、話を切り上げて座布団から立ち上がった。お父様をお待たせしてもいけない。最近なんだか筋肉が衰えてきた気がする脚を早める。濡れ縁から自室を通って廊下に出た時、姿見の鏡に映る自分を見てみた。


 ーー髪も瞳もくすんだ灰色。どうしてこんな陰気くさい色になったのかしら。


 ため息をついた。はい。これでおしまい。お父様のお部屋に入る前に、気持ちを切り替える。


「お父様。シズクが参りました」


「入りなさい」


 じかに畳に席したお父様は、厳しいお顔をされていた。それだけで私が呼ばれた理由を確信してしまう。きっとユメさんの結婚式を欠席してくれと言われるのだ。私が参列した結婚式は花婿が死ぬと言われている。これは私が一度だけ参列した結婚式で、花婿がお酒の飲み過ぎで亡くなったことが広まったせいだ。え、これって私のせいじゃなくないかしら?


「掛けなさい。大事な話だから、よく聞いておくれ」


「はい」


 お父様は真面目な話をする時にお髭を撫でられる。口髭を撫でられる時は悪い話、顎髭を撫でられる時は良い話。な、時が多い。今日はどちらでもなく、腕を組んでいる。


「実は、お前に縁談の話が来ておる」


「はい。弁えております」


「ん?」


「え?」


 惚けた顔で見つめ合った。


「いや、だから。お前を嫁にしたいと言ってきたお方がおるのだ」


「ええ。ユメさんがお嫁に行くのでしょう?」


「ん?」


「え?」


 もう一度目を合わせる。親子でこんなにまじまじと見つめ合ったのは初めてかもしれない。


「お嬢様、お嬢様」


 アンズがそっと耳打ちしてくる。


「旦那様は、『お嬢様の』ご縁談のお話をされているのです」


「え」


「うむ」


「はい」


「え。え、えぇえぇ!?」


 幼い頃に戻ったみたいな声で叫んでしまった。これを聞いた使用人たちの一部は、とうとう私の気が触れたのだと思ったそうだ。


「え、縁談って……私に!?」


「あぁ。東の壁将、レイ・ツクモリ殿が、お前を嫁に欲しいと言ってきた」


「壁将って、呪獣の侵攻を防がれている、あの……?」


「そうだ」


 ヒノクニの四方にある呪山や呪湖、呪穴から際限なく押し寄せてくる恐るべき獣、呪獣。壁将はその呪獣たちと戦い、国を守っておられる勇ましい古兵ふるつわものだ。騎士とも軍隊とも違う、神の力を宿した特別な人たち。


「ど、ど、どうして私に……? ツクモリ様は、何をお考えなのでしょう?」


「それは、まぁ、色々と事情があってな……」


 想像もしていなかった、いや、想像しても叶うはずはないと思っていたことが起こって、頭が混乱していた。言葉を濁すお父様の不自然さに気づく余裕もない。


「ツクモリ殿は若くして壁将を任された優秀なお方だ。お前にとっても悪い話ではない。これは、その……だな」


「あぁ……そうですよね」


 これは、私に与えられた最後の機会だ。禍子まがつのこと呼ばれ、とうの昔に二十五歳を過ぎた私を嫁に欲しいだなんて、絶対に裏がある。お父様も悪い話ではないと言うだけで、良い話だとは一言も言っていない。もしかしたら、壁将様は私を呪獣に喰わせるおつもりかもしれない。不安や恐怖ばかりが押し寄せてきて、心が崩れそうになる。結婚の話に浮かれる暇なんてなかった。だけど、


「……私がお話をお受けすれば、お父様は喜んでくださいますか?」


「……! それはもちろんだ! 私は誰よりも、お前の幸せを願っている!」


 お父様はこんな私を愛してくださった。ずっと私を守ってくださった。だけど、それが少しずつ難しくなっているのも知っている。私がこの地に留まっていれば、お父様のお立場は悪くなる一方だろう。それはやっぱり嫌だった。それに、きっと悪いことばかりでもないはずだ。私が身を固めれば、アンズもお付きの仕事を辞められるかもしれない。


「わかりました。此度のお話、ありがたくお受け致します」


「おぉ!」


「つきましては、これから色々と準備に……」


「その必要はありません」


「ぇ?」


 どこからか聞こえてきた声に驚いて、部屋を見回す。すると、白い面を被った黒装束の人物が格子窓の側に立っていた。面には複雑なまだら模様が描かれており、空気穴がどこかに開いているのかわからない。視線を奪われずにいられない異様さがあった。


「勇気あるご決断に敬意と感謝を。私は壁将ツクモリの部隊で副隊長を任されております、イズモと申します」


「は、はい! どうも初めまして。ヤヨイ家長女、シズク・ヤヨイです」


「此度のご結婚の準備は、全てツクモリが致します。シズク様は御身のみを大切に、ツクモリにいらしてくださいませ」


「え、いや、まだ結婚するとは……」


「お館様は是非シズク様をお迎えしたいと強く申しております。と言うより、もう完全にそのつもりでいます。シズク様は自分の妃だと言い触らしております」


「なっ!?」


 それはもはや縁談ではなく婚約、いや、人攫いでは? 貴族の娘として結婚の不自由くらいは覚悟しているが、まさかここまで雑だとは思っていなかった。この縁談、ますますおかしい。手順が飛びすぎだし、ヤヨイは何も準備しなくていいなんて言葉もさらっと聞こえてきた。だが、お面の人は私に考える隙を与えてはくれなかった。


「では参りましょう。汽車の時間が迫っております」


「え?」


「ささ、お早く。道中の護衛は私にお任せを。命に代えてもお守り致します」


「えぇ!? 今から!?」


 何を言い出すのかと思いきや。それこそ本当に何の準備もできていない。外出するなら身嗜みを整えなくてはならないし、何より汽車に乗るのなんて初めてだ。あの乗り物は大層揺れると聞くから、酔い止めのお薬が欲しい。専属医の先生に診察をしてもらわないと……。


「お館様が今か今かとお待ちになっております。あまり堪え性のないお方なので、どうぞお早く」


「え、いや、待って……待って! お化粧とか着替えとか、そもそも旅支度が!」


 お屋敷から出るのは何年ぶりのことか。ずっと人目を避けて生きてきた私には、まず心の準備ができていない。はしたなく手をばたつかせて必死に断っているのに、お面の人は私を抱え上げてしまった。女性とは思えない力技だ。


「シズク、気を付けて行くのだぞ。そして、幸せになるのだ」


「お父様!? お別れの空気を作らないでください!」


 私がそう叫んだ時には、襖が閉まっていた。お父様の穏やかな笑顔が見えなくなる。


「いーやー!!」


 こうして、禍子まがつのこと呼ばれた私は女の幸せを掴むことになった。有無を言わせない急展開に頭も心も追いついていなかったが、自分の人生が大きく変わることだけは予感できた。私は、ツクモリ様と結婚するのだ。

 門出のこの日、ヒノクニには雨が降った。水不足で悩むこの国に訪れた天恵は、私への祝福だったのかもしれない。西のヤヨイから東のツクモリまで、汽車で三日の距離を私は嫁ぎに行く。

 















 私とツクモリ様の縁談(ほぼ誘拐)は飛燕の速度でヒノクニに広まった。もちろん良い意味ではない。近隣の領主たちは私がヤヨイ領から出ることに大反対し、社交界では忘れられかけていた「禍子まがつのこ」の話題が復活した。市井でもこの話題で持ちきりとなり、根も葉もない噂やデマが誇張されて流布され、有る事無い事を書いたビラや落書きが至る所に出回った。


 不幸の忌み子が外に出たぞ。危険でないのか? なぜあのような行き遅れを嫁に? あぁ悍ましや。これは凶兆じゃ。


 こう言う声が、ずっと汽車に乗っていた私の耳にまで入ってくる。私が退屈しないようにイズモさんが届けてくれる各種新聞で、嫌というほど読まされた。気を使ってくれるのは嬉しいのだけど、ちょっと方向性を間違えてないかしら。

 汽車旅は今日で五日目。最初の頃の新聞には私が引き起こした実際の不幸や災難が書かれていて、読んでいて悲しい気持ちにさせられた。だが、今となっては全く別人の悪事や失敗まで私のせいにされていたりして、逆に笑ってしまう。あぁ、世の中ってこうやって一が百になっていくのね、と良い勉強になった。

 それに、あながち悪いことばかりでもなかった。東の壁将、ツクモリ様のお話が書かれた記事も混ざっていたからだ。ツクモリ様は一月前に十五歳になられたとか、先代様の跡をお継ぎになったのは二年前だとか。お会いする前の事前知識としてはとても役に立ってくれたと思う。


 ーー私より十も歳下なのね。


 史上最年少で壁将となった俊英。武道にも政にも長けた領民の信頼厚い名君。常に笑顔を絶やさない人格者。

 どんな記事でもツクモリ様のことはベタ褒めで、悪い話がちっとも無い。

 そしてその中でも最も強く記されているのが、百年に一人と謳われるその美貌についてだ。


「目を合わせただけで貴族のご婦人を虜にしてしまった」


「彼に耳元で囁かれた女の子は一人残らず逆上せて倒れてしまった」


 こう言う眉唾な話も多かったが、ツクモリ様が絶世の美少年であることに疑いはない。

 乙女の理想の具現化、男性の究極形。それが壁将レイ・ツクモリ様。

 うぅ……。記事の読み終わる前から胸焼けしてしまった。ガタゴトと不快に揺れる汽車のせいもあって、私の気分はどん底にまで落ちている。婚約者を知れば知るほど、自分が惨めに思えてくるのだ。いまさら劣等感を感じたって仕方がないと言うのに、どうして自分を守ってしまうのだろう。


「はぁ……」


「シズク様? ご気分が優れないのですか?」


「あ、そうだけど、そうじゃなくて。その、汽車ってとっても水を使うのね。これだけの水があれば、救われる人が沢山いるんじゃないかしら」


 水不足はヒノクニ建国からの悩みだ。貴重な水を移動時間の短縮のためだけに使うなんて、なんだが無駄な気がする。物流を良くしているわけでもないみたいだし。


「ええ。ツクモリ様も同じことを仰っておられました」


「そう。歳が離れてても気が合うことはあるのね」


 色々あったが、汽車旅ももうすぐ終わりだ。貧富の差の象徴のような乗り物からサヨナラできて、少し気が晴れた。


「到着しました。お手を」


「ありがとう」


 イズモさんの手を借りて立ち上がる。表情こそわからないが、イズモさんは所作の綺麗な人だった。

 これで一息つけると思って駅に降り立つ。すると、妙な臭いが胸に入ってきた。


「ん……? なに、この臭い。蒸気とは違うようだけど」


「これは、呪獣の吐く息の臭いです」


「え」


「呪湖と呪窟までは距離がありますが、奴らは黴よりも無限に沸いてきますので。どうかお屋敷までご辛抱下さい。ここからは馬車で向かいます」


「は、はぁ」


 近くに停まっていた馬車をイズモさんが指差す。臭いのこともそうだが、私はここから見える景色にまず驚かされた。私達が降りたツクモリ駅には、周囲に建物が一つもなかった。陽射しを辛うじて遮れそうな古びた屋根があるだけで、駅員さんもいない。

 イズモさんが馭者の方と話している間に遠くを見回してみると、なんとか東に森らしきものが見えた。


「シズク様は乗り物が苦手なようです。注意して進むように」


「畏まりました。シズク様、どうぞ」


「あ、ありがとう。そんなに気にしなくて良いのよ」


 私の住んでいる地方ではあまり見ない、重装甲の馬車だった。やはり森の方へ向かうようで、次第に景色の緑が濃くなっていく。それだけなら素敵な馬車旅なのだが、臭いも酷くなっていくのが不安だった。この臭いに慣れられるかどうかが、今後の結婚生活を左右しそう。だが、私は自分で思っていたより図太いのか、それとも慣れない汽車で疲れていたのか、馬車の中でぐっすり眠ってしまった。


「シズク様。シズク様」


「んぁ」


 うっすら目を覚ました。い、いけない。なんてはしたない声を。こんなのわんぱくな男の子でもしないわ。


「こ、こほん。もう到着したのかしら?」


 頬がカーッと熱くなるのを誤魔化すが、イズモさんがどんな顔をしているのかがわからない。


「はい。ご覧ください」


「……凄い。まるで要塞ね」


 馬車の中から見上げたのは、崖のように聳え立った巨大な防壁。上には何門もの砲台が備え付けられ、武器を携えた兵士の方々が見張りに立っている。張り詰めた空気が放つ無音の迫力に、背筋がうすら寒くなった。


「この門をあと三つ通り抜ければお屋敷となります」


「これがまだ三つもあるの?」


 ひと月は籠城できそうな壁が、あと三つ。呪獣との戦いの苛烈さが少しだけ窺えた気がする。実際、その後の壁も一つ目と同じかそれ以上の頑健さがあった。そして、


「長旅お疲れ様でした。あれがツクモリ様のお屋敷です」


「あぁ、やっと着いた……」


 遂にお屋敷が見えてきた。ヒノクニでは珍しい李国りこく風の建物で、木材ではなく石や煉瓦でできている。幼い頃に憧れた「べらんだ」ややかーてん」もあって、少し嬉しい気持ちになった。お庭には美しい木々や草花がたくさん植えられていて、これまでとは漂う雰囲気が違った。ここはもう、人が安心して暮らすための場所だった。


「こちらへ」


 馬車から降りると、そのまま陽のよく当たる二階の部屋に案内された。李国では屋内でも履き物のままで過ごすとは聞いていたが、やっぱり違和感があった。また、壁や梁、窓や扉までヤヨイとは違って、どうにも落ち着かない。壁の至るところに飾られた武器達の迫力は、いかにも壁将の部屋という感じだ。


「では、しばしお待ちを。すぐにツクモリ様がお見えになりますので」


「は、はい」


 一人用の豪奢な椅子を勧められる。ヤヨイの名を汚さないよう、背筋を真っ直ぐ伸ばして座り、ツクモリ様を待つ。すると、心を鎮めようとしたその瞬間、心臓の鼓動がこめかみで響き始めた。乗り物の揺れに気を取られて、自分がどれほど緊張しているのかがわかっていなかった。胸がキュッと苦しくなる。手を握っても、深呼吸をしても、呼吸の乱れが治まらない。なんだか脚も震えてきた。「てーぶる」に用意していただいたお飲み物の味が全くわからない。それなのに、飲んでも飲んでも喉が渇く。私はこれから旦那様に会うのだ。そう思うだけで、身体が凍るように熱くなっていく。

 だが、その「これから」は、お菓子を二回焼ける時間が経っても訪れなかった。


 ーーいくらなんでも……。ねぇ?


 緊張も一周回って落ち着いてしまった。あの……私、これでも花嫁なのだけれど。招いておいてこの仕打ちはちょっと酷いと思う。だが、「私の扱いなんて所詮はその程度なのよ」と割り切るのには丁度良い時間だった。

 いっそのこと縫い物でもしようかしらと思い始めたその時、右奥の扉が開いた。


「いやいや、お待たせしてしまったね。申し訳ない」


 現れたその人を見て、すぐに納得した。


「あぁ、これは女の子たちが騒ぐはずだわ」


「ん?」


「あ、いえ。お気になさらず。どうもはじめまして。ヤヨイ家長女、シズク・ヤヨイです」


 思わず声に出してしまっていた。そこを気にされたくなくて、早口でお辞儀をした。


「初めまして。ツクモリ家当主レイ・ツクモリです」


「この度は、私なぞにお目をかけてくださって、誠にありがとうございます」


 汽車中で必死に考え、練習してきた挨拶が、何度も詰まる。それは緊張ではなく、ツクモリ様の容姿の輝きに順序を邪魔されるせいだ。

 黒曜石のような瞳と、艶のある黒髪。龍神様の手で作られたとしか思えないほど整った顔立ち。背丈は私と変わらないのに、脚の付け根が私の腰上くらいにありそうな八頭身。分厚い鎧の上からでも鍛え上げられているのがわかる肉体美。何もかもが完璧だった。


「あぁ、ありがとう。長旅で疲れているだろう。どうぞ、座ってくれたまえ」


 そしてトドメが、妖艶さと色気に満ちた微笑み。こんな素敵な笑顔を向けられてしまえば、初心な女の子は思考が蕩けてしまうだろう。だが、私はもう薹が立ちすぎてるのか、照れもときめきも感じなかった。どうにも別世界の存在に思えてしまうのだ。


「このような姿での出迎えを許して欲しい。つい先程まで呪獣の相手をしていてね」


 執務机の奥に腰掛けたツクモリ様が右の籠手を撫でる。磨き上げられてはいるが、隠しようのない傷がそこかしこにあった。


「急に呪獣共が活発化してね。禍子まがつのこの来訪がよほど嬉しいと見える。ククク。呪われている者同士、親近感があるのかな?」


「え、あ、はい」


 あれ、もしかして私、今とても失礼なことを言われなかったかしら。ツクモリ様のお顔を伺ってみるが、嬉しそうにニコニコされていて、まさか酷い悪口を言われたなんて思えない。きっと私の勘違いだ。


「ど田舎からの汽車旅、本当にご苦労だったね。引き篭もり、世間知らず、嫁ぎ遅れの三拍子が揃った君には、大層な負担だったんじゃないかい? 大雨のせいで到着が二日も遅れてしまったわけだしね。いやぁ、それにしても、今回の雨には笑わせてもらった。まさか『線路が流されて立ち往生しました』なんて珍しい手紙を読まされるなんて、夢にも思わっていなかったよ。龍神様は本当に気まぐれだ。あ、そうそう。この『百年に一度の恵の雨』であちこちの河川が氾濫して、それはもう大勢死んだそうだ。巷では君が意趣返しでヒノクニを呪ったのだ、などという無教養で馬鹿げた噂が流れている。これも相当に笑えたな。私のおへそで一年分の茶が沸かせそうだったね」


 勘違いではなかった。途轍も無く失礼で、最低なことを言われていた。酷すぎて逆に言葉も出ない。すると、生き生きした表情で語っていたツクモリ様が急に黙り込んだ。私の顔をじっと見つめてくる。


「ふむ……」


「あの、何か?」


「いや、縁談用の写真は十割増で加工されているのが常だからね。少し驚いてしまったんだ。ほら、君のを見てくれ」


 すっと渡された写真を見て、身体が固まった。


「君の場合はもはや別人だな」


 それは、私が十五の時に撮った写真だった。


「ククク。クククク……! 期待はしていたが、まさか出会い頭でここまで楽しませてくれるとは。いや、気に入った。ますます気に入った」


 私の脳内処理は限界に達していた。写真を持ってふるふる震えているくらいしかできない。私が嫁いだ十も歳下の美少年は、とんでもなく嫌な人間だった。


「ようこそ、禍姫まがつひめ。ここは呪いと湧水の土地ツクモリ。君に龍神の御加護があらんことを」


 ツクモリ様はどうして持っているのかわからない二枚目の写真を手渡してきた。それは私が十の時に撮った写真だった。

 お父様に怒ればいいのか、それともこの少年に怒ればいいのか。いや、私が怒りを向けるなら、こんな歳まで嫁ぎ遅れた自分に対してだろう。

















 とっても上機嫌なツクモリ様。ある意味では好意的な歓待をされているが、それは全く嬉しくない扱いだった。


「そんなに緊張しなくても良い。ほら、この焼き菓子が好きだとヤヨイ殿に伺ったぞ。何でも、好きすぎて毎日食べているうちに苦手になったとか。面白かったので私も焼いてみた。心を込めて焼いたから、ぜひ食べてくれ」


 わざわざ焼いてくれたのね。


「最初は上手に焼けなくてね。お菓子作りとはこれほど難しいのかと落ち込まされた。だが、ぶきっちょな私でも毎日やっていれば上手くなるものだな。うん。なかなか美味しい」


「はい。美味しゅうございます」


 なんて無駄な努力。いえ、無駄ではないわね。腹立たしい努力の間違いだわ。私が苦手な味を見事に再現してくれていた。


「ご歓談中失礼します。お館様、至急お耳に入れたき事が」


「どうした?」


 いつの間にかいなくなっていたイズモさんが、またいつの間にか現れた。白いお面の模様が少し変わっているのはどうしてだろう。


「お館様宛のお手紙が四十通ほど届いております。『ヒドい。私と交わしたあの夜の約束は嘘だったのですか』といった内容のものが八割。『禍子まがつのこを娶るなど、とても深い事情がおありなのですね。もしよろしければ私にご相談ください』というものが二割。全て若い女性からです。現在、キョウカが内容を確認して仕分けしております」


「勝手に人の手紙を仕分けをするな。まったく。私の個人情報を何だと思っているんだ」


 ツクモリ様の最低度合いが更に上がった。さすがは百年に一人の美少年。たいそう派手にあ遊びになられているようだ。


「はぁ……。なんとも面倒だな。どうして貴族の娘というのはこうも自意識過剰なのか。ちょっと内腿や鎖骨を触ったくらいで恋人面されては困る」


 う、内腿? 鎖骨? 嫁入り前の女の子の身体を触っておいて、返す反応がそれ?


「キョウカが返事を代筆すると言っておりますが」


「こらこら、何がどうしてそうなった。ダメ。却下だ。キョウカに代筆なんてさせてみろ。一夜で社交界が炎上だ。代筆はアレックスにでもさせておけ。奴なら女のかわし方の十や二十は心得ているだろう」


 しかも、返事を人任せにするなんて、誠意のかけらもない。


「それともう一つ。呪湖から呪獣が沸いてきております」


「何故それを先に言わない! 君の優先順位はおかしいぞ。それで、数は」


「三十ほど」


「チッ。ノロマのくせに寝起きの良い奴らだ。今は下手に隊を動かせん。一番隊から五人選出して向かわせろ。指揮は私が執る」


「かしこまりました」


 呪獣という単語が出てきた瞬間、ツクモリ様の空気が変わった。ドキリとさせられる横顔の冷たさを見て、この人の本当の姿はこれなのだと悟った。右手に籠手をはめ直した後、ツクモリ様は、私にわざとらしく微笑みかけた。


「さて、禍姫まがつひめ。私はしばらく戻らん。屋敷の中は好きに歩いて構わないが、東の蔵はやめておけ。あそこは私が昔飼っていた虫が増殖していて、めちゃくちゃ気持ち悪い。その美しい朱染の着物を噛みちぎられてもつまらないだろう?」


 そう言い捨てると、微塵の未練もなく出て行った。これから戦場に向かうとは思えない軽薄な足取りだった。ガタン、と閉じた扉の音は、彼の世界と私の世界の断絶の音に感じた。


「シズク様」


「……なにかしら」


「ご覧になられた通り、社交界でのお館様の評価は全て演技によるもの。実際のお館様は、人の嫌がることをしたり言ったりするのが大好きな人間。控えめに言って人間の屑です」


「こらこらー。私に聞こえるように言うのはやめたまえ」


「どうか、お心を強くお持ちなってくださいませ。シズク様に龍神様のご加護がありますよう」


「……ありがとう」


 結婚がこんなに大変なものだとは思っていなかった。と言うより、思っていたのとはまるで違う大変さだった。今すぐ眩暈で崩れ落ちそうだったが、何とかあてがわれた私室まで堪えた。そして人目から解放された瞬間、押し寄せてきた疲れに耐え切れず、私は寝台に倒れ込んだ。お化粧を落とすことも着替えをすることも忘れた、女としてあり得ない愚かな行いだ。だが、それを自分に許してしまうくらい、くたくただったのだ。


 ーー私は、ここでやっていけるのだろうか。


 微睡の中に見た薄い夢は、過去の恐怖と未来の不安を暗示したものだった。


 ーー忌み子だ。あいつは忌み子だ。禍子まがつのこだ。あいつは不幸を撒き散らす禍子まがつのこだ。


 皆んなが私に指を突きつけてきた。私は誰からも求められず、誰からも許されない。












 ツクモリの夜は穏やかに凪いでいた。窓際に腰掛けて夜空を見上げていると、世界に私しかいないみたいな感情になる。すでに屋敷の消灯は済んでいたが、月明かりが眩しいくらいに寝室を照らしてくれていた。右脚を抱え込みように抱き締め、人差し指で包帯の繊維をなぞる。

 少し俯いた隙に月が雲に隠れた。それが意味もなく寂しくて、窓から離れて部屋の奥に引っ込んだ。寝台の柔らかさを確認してみる。枕も毛布も肌触りの良いとても上質なものだった。食事も美味しかったし、お風呂にも入らせてくれた。ツクモリ様はともかく、女中の皆さんには歓迎されていると思う。寝台の端に頬をつけて持たれかかり、瞼を閉じた。その時、


「なんだ。まだ起きているのか」


「っ!?」


 突然に扉が開いたかと思うと、ツクモリ様が入ってこられた。鉄靴の強い音に静寂が粉砕され、部屋の角へと消えていった。ツクモリ様は私を雑に見下ろしながら、腰をぶつけるように窓際の椅子に座る。


「フフン。もしや私の帰りを待っていたのか? 健気に見えなくもないが、はっきり言って現実的ではないぞ。呪獣が夜に襲ってくる以上、私が陽の無いうちに戻ることはないのだから。君の年齢を加味するなら、少しでも早く寝た方がお肌を良く保てると思うがね」


 付け加える必要のない一言にムッとしそうになる。だが、この人を相手にいちいちそんなことをしていたらキリがない。


「……戦いに出た夫を待つのは、妻の務め。おかしなことではないでしょう」


「なるほど。そう素直に返されては、私も反応に窮するな。……む? おいおい。窓が開いているではないか。これだから箱入りは困る。奴らの汚臭が入ってくるぞ」


 高い鼻をひくつかせたツクモリ様は、行儀悪く踵で窓を閉めた。腕はと言うと、犬歯で籠手の結び紐を噛み、乱暴に解いている最中だった。

 私はツクモリ様に視線を奪われていた。月の光を浴びる横顔は、神々しいまでに美しかった。邪魔な黒髪を耳にかける仕草だけで、胸に熱い杭を打たれた気分になる。これ以上この人を見ていると目が潰れそうな気がして、視線を手元に落とした。かしゃん、かしゃんという金属の落ちる音のみに身を任せる。


「ふぅ」


 ツクモリ様が鎧を全て外されたのがわかった。首を回して肩の凝りを解されている。目を瞑って天井を仰ぎ、やっと身体が楽になったと息を吐いた。


「さて」


 その一瞬で、私は黒曜石の流し目に絡めとられた。たったひと呼吸で、ツクモリ様以外の景色があやふやになる。彼が放つ無常の艶かしさで首筋の産毛が震えた。自分の脳が溶けそうになっているのを自覚して、怖くなる。


 ーーこれは、だめ。だめ。


 ツクモリ様が一歩踏み出してくる。思わず寝台の奥へと身体を引いた。掛け布団を胸元にまでたくし上げて自分を隠す。男性の色気に気圧されて声も出せなくなった私が、最後に取れる数少ない抵抗だった。ツクモリ様はそんな私を見て愉しげに微笑みながら、こちらの準備なんてお構いなしに間を詰めてくる。

 また一歩、私たちの距離が近くなる。私はまた下がるが、そこはもう寝台の端だった。ツクモリ様の手が伸びてくる。右頬を冷たい指でなぞられて、


「んっ!」


 自分のものとは思えない甘い喘ぎが口から漏れた。恥ずかしさで死にそうになったが、頬を伝った指先が私の顎をくいと上げてしまう。僅かに残った鈍い思考を必死に回す。時間を、距離を作らなければ。この手を払い退けなければ。

 そんなことはわかっているのに。


「何故、下がる?」


 鼓動が不規則だ。血液が赤酒で動いているかのように身体が熱っぽくなっていき、私の言うことを聞いてくれない。

 顔を斜め下に俯かせて目を瞑る。精一杯手を伸ばして、せめてもの空間を作ろうとする。ツクモリ様が今、なにを考えておられるのか。私に何をしようとしておられるのか。そんなことくらい、私にだってわかる。私はもう二十五歳なのだから。


「まだ、式は先です」


「夫婦が寝台を共にしているのだ。何があってもおかしくはないだろう?」


 遂に二人の距離は無くなった。堅く構えたつもりの枕の盾は、あっさり払い除けられた。私の肩甲骨が飾り板に張り付き、腰が寝台に沈み込む。左腕を掴まれ、ついに抵抗をできなくされた。至近距離から私を見つめる黒い瞳に吸い込まれそうになる。この人に誑かされ、弄ばれた女の子たちの気持ちが少しわかった。これほどの妖艶な美しさで強く迫られたら、勘違いしてしまうのだ。自分は絵物語の主人公になれたのだ。王子様に愛されたのだと。だが、それはただの幻想で、実際はもっと生々しい爛れた空気なのだ。

 私が今まとっているのは、薄布の寝巻着のみ。膝から爪先まで、肩から指先まで露わになっている。私の衣服にツクモリ様も気が付かれたのか、にやりと笑って襟元を緩められた。艶かしい首元が明らかになって、体感温度が蒸せるように上がっていく。

 拒絶する意思はあるのに、身体が動いてくれない。私は飾り板に磔にされたみたいになった。ツクモリ様の唇の色が脳裏に焼き付けられ、私の中で二人の境界線が曖昧になっていく。性を想起させられる指先に身体が火照る。


「ほう? 昼間のお澄まし顔は退屈だったが」


 頬を優しく包まれ、とうとう私はツクモリ様の腕の中に居た。この瞬間、何の関連性もないのに、大昔に捨てた「恋」なんて言葉が頭をよぎった。こうなれたら良いのにと思い続けてきた世界は、想像よりもずっと熱くて、甘くて、そして、どうしようもなく苦しかった。


「女の顔は悪くない」


 ツクモリ様の真紅の唇が近づいてくる。長い睫毛の数を全て数えられそう。私は覚悟を決める、ことはできなかった。

 どうしてだろう。最初で最後のとてもとても大切な時間のはずなのに、私は今を尊く思えない。嬉しく思えない。この人を信用できないということとは違う。私はまだ、この人の「本当」を知らない気がするのだ。私には、この人の微笑みが逆の意味に見えてしまう。


 ーーどうして? この違和感は、なに?


 この人は、本心から笑っていない。本当の意味で私を見ていない。そう思えた。そうとしか思えなかった。なら、それにはきっと、理由があるはずだ。きっと。絶対に。私にではなく、この人の胸の中に。誰もが夢中になる美貌だけが、この強引な手法だけが、本当にレイ・ツクモリ様なの?


「っ!」


「む」


「あなた……! それ……!!」


 「それ」に気付けたのは、落ちた籠手が月光を悪戯に反射したからだ。


「クク。ククク。もう気付かれたか。もっと焦らして反応を楽しむつもりだったのだが、上手くはいかないものだな」


「どうして、笑えるのです……!」


「では他にどうしろと?」


 どこか自嘲的な笑みを残して、ツクモリ様は私から離れた。立ち上がった「彼」の服が、重さに負けてはらりと落ちる。

 世闇に晒された肌の白さに羨望を覚える余裕はなかった。私が見つめるべきは、目の前にある信じ難い現実のみ。

 ツクモリ様の胸は、微かに膨らんでいた。滑らかな腰も、清らかな臍も、男性のものとはまるっきり造りが違った。それは、紛うことなき少女の肉体だったのだ。


「……何が、どうして」


「どうしても何も、貴族の男装なんて大して珍しくもないだろう」


 裸身の少女は私を揶揄いながら壁に背中を預ける。脚を組む仕草を、私は直視できなかった。


「イズモさんは、他のお屋敷の人は知っているのですか」


「知ってる者もいれば知らない者もいる。少なくとも、これまで遊んだ貴族の娘にはいない。外の人間で知っているのは君だけだ。嬉しいだろう?」


「嬉しくなんてありません! あなたのような歳若い少女が戦場に出ているなど……!」


「つまらんことを言うな」


 ツクモリ様の瞳が槍のように鋭くなった。別の次元を睥睨するような眼光に、私は二の句を詰まらせる。


「男だろうが女だろうが、壁将の子は壁将だ。この地の呪いから逃げることなど、絶対に許されない」


 自らに課した強い意志に返す言葉など、私の中に有りはしなかった。国を守る者の誇りと責任に、私のような者が干渉できるはずがない。して良いわけがない。

 だが、納得できない部分を切り捨ててはいけないと、私は思った。平和にぬくぬくと生きてきたからこそ、この眼差しから逃げる人間でいてはいけない。


「クク。駄々をこねる童のような顔だな。仕方ない。他所のお子さんにお勉強を教えるのは緊張するが、一つ付き合ってもらおうか」


「え?」


 戯けて肩を竦めたツクモリ様が、指で虚空に文字を書く仕草をする。


「気色の悪い呪獣共のせいで、この地には作物がほぼ育たない。もし育ったとしても、どこも買ってくれない。作物だけじゃない。家畜の肉も、釣った魚も、どんなに値段を安くしても買い手がいない。外から金が入ってこなければ、領地は立ち行かなくなる。だが、国はいつまで経っても戦費予算を増やそうとせず、出費を前線に押し付けてくる。そんな万年火の車のツクモリを辛うじて支えているのは、ここから西と北にある二つの泉だ」


 泉の湧き水は、降雨量が極端に少ないヒノクニの生命線だ。各地に点在する泉を守ることでこの国は持ち堪えている。そして、ツクモリは一地方であるにも関わらず、美しい水が湧き出す泉が二つもあった。


「がめつい皇族や貴族の馬鹿共も、さすがに水は買わねばならないからな。泉の水を売ることでこの地は支えられている。はっきり言って、私はこの国の行く末などに興味はない。守るつもりもさらさらない。私が守っているのは、東部の民の安寧と、それを支える二つの泉だ」


 国ではなく領地を守っていると言う気持ちは、少しわかる。だが、その計算には大きな問題があった。ツクモリ様は、女なのだ。


「ヒノクニ四百年の歴史の中でも、女の壁将は前例がない」


 ツクモリ様の笑みは侮蔑に満ちていた。


「自らの贅肉を肥やすことしか頭にない連中は、必ずそこを突いてくる。女に壁将は務まらない、とな。奴らにツクモリを奪われてみろ。水の価格は跳ね上がり、民は渇きに踠き死ぬ。東部戦線も遠からず崩壊するだろう。ヒノクニ全土に呪獣が襲いくる未来を想像できるか? そんなことになれば、地上から人間が消え失せるぞ」


 水は純金よりも価値が高い。ヒノクニの支配者や権力者が欲しているのは水だ。時に彼らは、民よりも水を優先することさえある。そう言う人たちの領地がどうなっているかは私でも知っている。

 もし、呪獣の蔓延るこの地でそれが起こったなら。考えただけでゾッとする。


「もうわかっただろう。君は花嫁として呼ばれたのではない。君の役目は、その特異な不幸体質で豚共の目を眩惑させることだ。奴らの粘着質な視線にはほとほと嫌になっていたからな」


 雑な説明だったが、全てに合点が入った。誰よりも悪目立ちする私を横に置いておけば、ツクモリ様に向かう関心が少なくなる。私を有効活用する唯一にして最適の手段だろう。


「そうですか……」


 別に、落胆はしなかった。しそうにはなったが、それが私には分不相応だということくらいは弁えている。むしろ、私のような者に価値を見出してくれたことに感謝したいくらいだ。


「……泣くかと思っていたが、えらく落ち着いているな」


「泣くはずがないでしょう。己が立場は弁えております。ツクモリ様のお考えにも納得いたしました」


「気が太いのは良いことだ」


 ツクモリ様は少しつまらなそうだった。本当に人の嫌がることが好きらしい。私が取り乱したり失望したりするのを期待していたのだろう。だけど残念でした。私はそこまで自分に期待していない。気が太いと言えば、そうかもしれない。だが、今はそんなことより、


「……」


「ん? どうした?」


 私は先ほどから顔を上げれていない。だって。


「その……服を」


「なに?」


「服を着てください」


 ツクモリ様が裸なのだ。下は履いていらっしゃるが、上は何も纏っていない。そんな姿、恥ずかしくて見れるわけがない。


「何だ。女同士なんだから気にするな」


「気にします。それに、お風邪を引いてしまいますから。ほら、早くこれを」


「それなら安心しろ。病原菌は私の美しさに恐れて近寄ってこない」


 そんなはずはない、とは言い切れないのがこのお方の怖いところだった。できるだけ顔を背けてしゃつを渡そうとしていると、それを見て何を勘違いされたのか、ツクモリ様がありえない方向に話を広げ始めた。


「ククク……! なるほどなるほど。何だそう言うことか。君はそっちの趣味か」


「え、は、はぁ!?」


「良い良い。そう軽々しく口に出せることではないからな。だが、もう隠す必要はないぞ。私も多少は理解できるし、女を悦ばすのは得意だ。ほら、その邪魔くさい着物をさっさと脱ぐが良い」


「だ、誰が脱ぎますか!」


 淫猥な動きをする指を視界から外す。頬が熱いくらいに朱に染まっている。あぁもう、私のバカ! どうしてさっきより恥ずかしい気持ちになっているのよ。これではまるで、私が本当にそうみたいじゃない。

 熱を放つ耳朶と頬を隠すために枕を抱え込む。顔の部分は隠して、目だけをこっそり出す。そうすると、物凄く近い場所にツクモリ様のお顔があって、二度驚かされた。


「本当に違うのか?」


「そ、そうです!」


「ふぅむ。人生とはかように上手くいかないものだな。もし君がそうなら、私の人差し指と中指だけで絶頂を感じさせてあげられたのに」


「あ、あなたっ! なんっって破廉恥なことを!」


「ククク。怒り方が幼稚だな。その歳まで蝶よ花よと育てられてきたのか?」


「……出て行ってください!」


「それでどうする。女か、それとも男か」


「は、はぁ!? そんなの」


 そんなの、決まって……いいえ。そんなこと、口に出せるわけがない。


「何人かの写真を届けてやるから、男でも女でも、好きに呼ぶといいさ。ただ、子供を拵える時は私に報告しろ。お家騒動になるのは面倒だ」


 この人は、本当に……! もうわかった。私には、ツクモリのことも呪獣のことも全然わからない。それは良い。これから勉強するのだから。でも、この人だって何もわかっていない。私を側に置くことの危険さを、何もわかっていないのだ。


「それなら、私からも言っておきます。私は禍子まがつのこです。近くにいるだけで呪いと不幸を振り撒きますよ。それは呪いの地ツクモリでも変わらないでしょう。酷いことが起きる前に、私を監禁するなり殺すなりした方がよろしいかと」


「ふふん。過去になく饒舌だな。だが、私は君如きの呪いなど恐れていない。そもそも呪いだとすら思っていない」


「それは、後悔することになりますよ」


 ツクモリ様がやっと上着を拾ってくれた。肌を隠してくれれば、ちゃんと顔を見てお話ができる。ツクモリ様もそれはわかっているのか、服を羽織り、前のぼたんをいくつか留めてくれた。


「ならんさ。ここをどこだと思っている。呪獣の侵攻に四百年も遭ってきたツクモリだぞ? ここはすでに、空にも地にも、そして人にも、腐臭漂う呪いが墨のように染み込んでいる。君の呪いは、確か百年分だったか? 今更そんな程度を恐れるものか」


「四百と百、足したら五百になります。私一人で二割五分も増しますが?」


「そんなに言うなら、見せてみろ」


「え?」


「その右脚の包帯、今ここで取って、私に見せてみろ」


 ツクモリ様が私の右脚を指差した。口論に夢中になっているうちに、また脚を出してしまっていた。足首から膝まで、隙間なく巻かれた包帯が見えてしまっている。咄嗟に隠したが、それは羞恥ゆえではない。


「いや、です」


「何故?」


「それは……淑女がそう軽々に肌を晒すわけないでしょう」


「はぁ? 熟女の間違いではないか?」


 無言で枕を投げた。ツクモリ様は軽く頭を振ってかわす。


「知っているぞ。君の右脚には、世にも恐ろしい形の痣があるそうだな。それを見せろ」


 再びツクモリ様が迫ってこられる。先程とまでの甘苦しさとはまた違う迫力があった。だが、


「いやです」


 見せたくない。私の右脚に痣があるのは本当だ。生まれながらに焼き付いているそれは、とても醜い。


「この痣は、見た人を必ず不幸にします。ツクモリ様がいかに呪いを恐れていなくとも、関係ありません」


 これは建前だ。痣を見た人が不幸になるという事実は、私が痣を隠す理由の一つでしかない。誰かが視力を失ったり、大怪我をしたり、夫に逃げられたり、そんな数々の不幸な出来事ですら、真の理由ではない。

 私は、酷い女だ。痣を見られることで、より強く禍子まがつのことして扱われることが怖い。この痣さえなければ、私は普通の人間だったかもしれない。なら、それを隠すことができれば、私は普通の人間になれるかもしれない。そんな見苦しい幻想を、今でも抱いている。誰かが不幸になることが怖いのではない。誰かを不幸にする女として見られるのが怖い。だから、見せたくない。見られたくない。


「クク。そこまで抵抗されては、余計見たくなるではないか。私の性格をもっと理解すべきだったな」


「何を言われても、絶対に見せません」


「なら、君をヤヨイに送り返す」


「なっ!?」


「良いのか? こちらは痛手にならないが、君のお父上はそうではないだろう?」


「なんて、卑怯な……」


「戦場で生き残るのは勇敢な者ではない。卑怯な者だ。さぁ、見せろ」


「……」


 この人が大嫌いになった。顔も見たくない。だが、私にそんな自由はないし、そもそも、求めること自体が間違いなのだろう。

 なら、せいぜい呪われてしまえば良いわ。


 ーーなんて、心からそう思わせてもらえないのも、卑怯だ。


 この人に何かあれば、沢山の人が困る。危険に晒される。この人は嫌いだが、この人の存在価値を嫌うことはできなかった。

 包帯を解く手が震える。だが、途中から自棄っぱちになった。はしたなくも右脚をぐっと伸ばし、包帯を一気に巻き取った。


「さぁ、呪いですよ」


 とうとう、呪いの痣があらわになった。ツクモリ様の眉間に皺が寄る。


「どうですか。さぞ悍しいでしょう。気持ちが悪いでしょう。後悔されましたか?」


 親指の根本から発した三本の痣が、脚を不規則に渦巻きながら膝まで伸びている。じゅくじゅくと蜈蚣がのたうち回るような赤黒い痣は、この世の醜いモノ全てを飲み込んでいるみたいだった。私ですら、これが人のものとは思えない。だが、


「クク」


「……?」


「ククク。クククク。なんだこれは。なんだこれは! とんだ期待外れだな!」


「は、はい?」


 ツクモリ様はお腹を抱えて悪い始めた。私は唖然としてそれを見つめる。


「これが百年分の呪いだと? 人を不幸にするだと? 禍子まがつのこの証だと? 馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいにも程がある。どいつもこいつも、この程度の痣を怖がっていたのか? まさしく愚の骨頂だ! 不気味さだけで言うなら、私が幼い頃に描いた爺の似顔絵の方がよっぽど不気味だぞ」


「それは、どう言う……」


「わからないか? そのままの意味で捉えろ」


 膝から下へ、痣をゆっくりとなぞられる。先程までの艶っぽい手つきではなく、赤ん坊の頭を撫でるような優しい手だった。そのせいか、嫌悪感はまるで感じなかった。


「こんなもので娘に呪いを押し付けられたか。ヤヨイ殿はさぞ悔しかっただろう。想像に余りある」


 その言葉も、これまで見せられてきたツクモリ様とは違うものだった。漏れた独白は、確かにこの方のもののように思えた。

 ツクモリ様が私の踵をそっと持ち上げたその一秒間、月明かりが雲から顔を出し、痣を優しく照らした。


「ほう。これは良い。見てみろ。美しい色ではないか」


 赤黒い痣は、月明かりに照らされても赤黒いままだ。私にはどちらも同じ、悍しい痣にしか見えない。それなのに、このお方は、私の痣を美しいと言った。


「赤黒い痣も、灰の髪や瞳も、月の下ではよく映える。ツクモリの土地にふさわしい」


「そんなこと……。え?」


 何と返せば良いかわからなくなったその時、遠くから鐘の音が四度聞こえてきた。それは、妙に心胆に響く嫌な音だった。


「な、なに……!?」


「……呪獣だ」


「呪獣?」


 窓の向こう、いや、空の向こうへと目をやったツクモリ様が素早く立ち上がった。身体に染み込んでいるのであろう動きで鎧を身に付けていく。


「四つ鐘は予想より呪獣が多かった時の知らせだ。呪湖には一番隊、呪窟には三番隊が出ている。それなのに四つ鐘が鳴ったと言うことは、余程の大群だな」


「そんな、今から出られるのですか!?」


「もちろんそうだが?」


 籠手を拾ったツクモリ様は、もう私など見ていない。

 こんな、こんなことってあるの? つい一秒前まで話していた子が、手を取り合っていた娘が、こんな少女が、一晩の内に二度も戦線に出なくてはいけないなんて、そんな残酷なことってあるの?

 ツクモリ様の背中が、とても恐ろしいものに見えてくる。二度とこの人に会えないかもしれないなんて現実を、私は受け入れられなかった。


「あのっ!」


 だから、縋った。手を伸ばした。


「なんだ」


「あの、えっと、そ、その、ツクモリの部隊は、ヒノクニ最強だと伺っております! 十四の神器を所有しておられるとか!」


「だから?」


「だから、その……」


「はっ」


 振り返ったツクモリ様のお顔は、剣のように冷たく煌々としていた。つかつかと私に詰め寄り、喉に爪を突きつけてくる。


「部下が強いから、長は戦わなくて良いと? 死と隣り合わせの戦場に向かう連中を、安全な場所から眺めていろと?」


「そ、そう言うわけでは……」


「私を舐めるな」


 額と額が触れそうなほど近くに瞳があった。


「ツクモリは私の土地だ。私が守る」


 私の身体を軽く押し、寝台に寝転ばせた。もう、ツクモリ様は振り返らなかった。


「な、ならせめて、私にできることはっ!」


「君にできることなど何もない。せいぜいそこで怪しく咲いていろ」


 扉は無情に閉められた。美しい少女は血と呪いの渦巻く死地に向かっていった。不幸を呼び寄せることしかできない私は、ツクモリ様を追いかけられない。私はどうしてか急に溢れてきた涙に驚いて、顔を俯かせた。


「っ!」


 そして、躓きながら窓に駆け寄って、開け放った。濃い腐臭が容赦なく侵入してくる。


「君にできることなど何もない」


 この言葉に抗う方法は、これしかなかった。戦いに出られないならせめて、何もお役に立てないならせめて、少しでもその空気感の中に居よう。居るしかない。


「私にだって、少しくらいの意地はあります」


 私は、これから一生この土地で生きていくのだから。








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きみに呪いの花束を 夏目りほ @natsumeriho

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