恋せぬおとと
かぷっと
第1話
いつも思い出す景色がある。
何一つ隔てるもの無き青。
星影を落としこんだ水面。
素足を洗う波間。
静寂をたたえた潮騒。
それは始まりの場所だ。
原始から続くそれは、
どれだけ世界が移り変わろうとも、
どれだけ私たちが姿を変えようとも、
ずっとそこにあり続ける。
だがそれは心象風景に過ぎない。
どれだけ祈ろうとも、
もうあの時に戻ることは出来ないのだから。
女がいた。
初夏の瑞々しさをめいっぱい含んだ、藍色の夜。私が何とは無しに続けている、眠る前の浜辺の散歩。その最中の事だった。
白い波際にゆらゆらと、縁が闇に溶けかかかった黒髪。ここらに港はないと言うのに、一体どこから流されてきたのだろう。
とりあえず、このままではいけない。急いで駆け寄り、沈み切った裸体を浜辺に引き上げ、華奢な背中を裏返した。
耳を寄せると、確かな心音が聞こえる。息はあるようだと、ほっと安堵の息をつく。可能な限り目を背けつつ、ひとまず着ていた上着でその身体を包んでおく。婦女子の肌やたらと晒すべからず、だ。
とりあえず思いつく限りの事をして、再び嘆息する。さて、どうしよう。この辺鄙な地、さらにはこんな岬にお医者様などはいない。ひとまず研究所で預かるのがいいだろうか。彼女が意識を取り戻してから、朝にでも医者の元へ送り届けよう。女物の衣服をどうにか都合をつけなければ、などと思案しつつ膝裏から運び上げるべく、下半身に手をかける。
掌を走る、ざらりと硬質な感触。吃驚して思わず目をやる。
これは、どういうことだ。なだらかな曲線を描いる下半身、その腰元から足にかけては、魚のような鱗に覆われていた。濡れた青銅色は柔い月光を受け、玉虫の輝きを帯びている。つま先に値する場所には、ガラス細工のような尾ひれ。贅を凝らした芸術品のようなそれは、破れた扇のように酷く傷ついている。
小さく飲んだ息を洗い流すように、足元まで波が打ち寄せていた。
じゃわわわ。バケツから注がれた海水が陶器のバスタブを叩いた。弾けた水滴が彼女の尾を真珠のように飾っている。その幻想的な様子も併せ、これが現実の光景だとはにわかに信じ難い。うっかり濡らしたシャツの袖口が、じっとりと肌にまとわりついている。
あの夜から既に三日、彼女の意識が戻ることは無かった。起床して、浴槽の水を貼り直し、脈をとる。慣れたものだ。ゆっくりと弱々しいが、ちゃんと脈拍はあった。手首に添わせた指で青く透けた血管をなぞりあげる。まだ少女と呼べるほどの愛らしいかんばせは仄白く、その薄い目蓋は固く閉ざされている。
瞳が見たいと、祈るようにそう思った。会ったばかりの相手に、なぜこうも抗いがたいものを感じるのだろうか。瞳が見たい。ヴェールに秘された絵画を暴きたててしまいたいような、名も知らぬ花を蕾のうちに摘み取ってしまいたいような、そんな
衝動。この花弁のような目蓋をそっと持ち上げるだけで、それは叶うのだ。
ぐるぐると体にわだかまった熱を、ゆっくりと意識して吐ききりる。最近の私は少しおかしい。
身にしみるような静寂から、逃げるよう浴室を立ち去る。乾いたタイルの音が、責め立てるように追いかけてきた。
ぐっと伸びをして、凝り固まった背中を解す。地下室とは言え、こうも暗いと疲れてしまう。照明を替えようかと実行しそうもない事を考えながら、休憩を摂るため一階へと戻る階段を上る。
徐々に明るくなる視界に、部屋を染め上げている夕陽。小窓に収まった水平線は金の糸のように絢爛な光を放っている。もうこんな時間か。コーヒーでも入れて一服しようと、台所の使い古したやかんに火をかける。
振動する金属音をぼんやりと聞いていると、ぴしゃり。水を打つような音。気のせいだろうか。
ぴしゃり。いや確かに聞こえる。隣の部屋、浴室からだ。足は無様にもつれ、心ばかりが先走っていく。急いで扉を開け放つと、はたして彼女は目を覚ましていた。
それは何一つ隔てるもの無き青だった。それは星影を落としこんだ水面だった。それは素足を洗う波間だった。それは静寂をたたえた潮騒だった。
目まぐるしく表情を変えるその色は、一瞬たりとも同じ顔をしていない。豊かで鮮やかな瞳。その瞳は、海だったのだ。
「君は、人魚?」
ようやく口をついた私のくだらない言葉に、彼女は目を細める。
「あなたは、ニンゲンね」
質問というよりは、答え合わせのような口調。
表情を動かすこともなく、ただつま先から頭のてっぺんまでをじっと眺めている。レントゲン写真を撮られているかのような、妙な気分だ。その無遠慮な視線は、私の中の何かを推し量っているかのようにも見えた。
なにを喋っても間が抜けるような気がして、私は口を開いてみては、やはり閉ざすことを繰り返した。
互いに言葉を交わすもなく、永劫のような時間が流れた。先に沈黙を破ったのは、彼女だった。
「食べるの」
誰が、なにを。突如投げられた言葉に頭が一瞬着いていかない。決まっている。私が、彼女を。
「食べないよ」
弁解しようと焦るあまり、思わず大きな声が出た。びくりと跳ねる尾ひれ。慌てて声を低くする。
「君は砂浜に倒れていたんだ。怪我をしているだろう? だから、此処に連れてきた」
「どうして」
「どうしてって。怪我を治さないと」
「それは、貴方が私を此処に置く理由にはならないわ」
言葉の端々に見え隠れする、疑問と疑心。私はこれ以上の答えを持ち合わせていない。あえて上げるなら、放っておけなかったからだ。しかし、彼女はそれでは納得してくれないのだろう。もしかして、見知らぬ男に警戒心を抱いているのだろうか。
惜しげも無く晒された珠肌からそれとなく目を逸らす。上着はかけたままにした方が良かったかもしれない。
「ええと。私は海洋生物学者でね。君は人魚だろう? 人間にとって君のような存在はとても珍しい。君の事をもっと知りたいんだ」
バスタブに乗った尾ひれは、相変わらず破れていた。この分だと治るまでには時間がかかるだろう。
「だから、しばらく此処に居てもらいたい。君は傷を癒すことができるし、私は君に研究に協力してもらえる。等価交換だ」
もちろん危害を加えることは絶対にないよ、と付け足しながら伺い見る。彼女は口を開くことなくこちらを見ている。浮かぶ表情も無く、何を考えているかは良く分からなかった。
「わかったわ」
とりあえず警戒は解いてもらえたのだろうか。私は内心胸を撫で下ろしつつ、手を差し出した。
「何をしているの?」
「握手だよ、親愛の証に手を握り合うんだ。手を出して」
逆らう気もなかったのか言葉通りに、しかしなれない様子で手を出した。薄い掌をそっと握り込める。
その手は冷たく、しっとりと濡れていた。
こじ開けようとしているのは、立て付けの悪い古箪笥だ。かれこれ数分間は格闘している。ここまでくると意地だ。
全身の体重を掛け一気に引っ張ると、とがたん、遂に引き出しが飛び出た。勢いよく尻餅をつき、おまけのように細かな埃が舞い上がる。思わぬ奇襲に咳き込みながら、私はお目当てのものを引っ張り出した。
レースがふんだんにあしらわれた生成のイブニングドレス。少々古めかしいが、まだ着れそうだ。解れた糸をぷちぷち千切りながら、私はかつての持ち主を思い出す。
瓶底メガネをかけ長い髪を一つに引っ詰めた、型を取ったような生真面目。誰も気に留めない出勤時間を律儀に遵守し、周りにもそれ求めるような。一部の研究員には煙たがられている節もあったが、私はそうした所を好ましく思っていた。
そんな彼女の誰にも言えない秘密が、このドレスだ。その存在を知ったのは本当にただの偶然だったが、それでも随分と驚かされたものだ。真っ赤になった彼女曰く、婚約者に贈られたものだったらしい。見せてもらった写真の中で微笑むその顔は優しげな面持ちで、きっといいおしどり夫婦になれただろうに。
戦争は、すべてを奪っていった。
すみません。服、借りていきますね。心の中で頭を下げ、もはや空き部屋となったそこを後にする。
降りる度に酷く軋む階段の上で、扉の閉まる乾いた音がした。
「お待たせ。良さそうなものがあったよ」
裾を擦らないように気を配りつつ、浴室に踏み入れる。靴下を脱いだ素足がぱたぱたと反響していた。彼女は狭いバスタブの中、体に巻き付いたタオルを見つめていた。私が頼んで肩に掛けさせてもらったものだ。ほら、と服を差し出すと、不思議そうな表情で受け取った。着方が分からないのだろうか。
「それはなに」
「服だよ。身体を隠すためにあるんだ。君がそのままだと、僕が困ってしまうから」
「どうして」
からかっている様子もなく、純粋に理解できないようだった。
忘れてしまいそうになるが、相手は人魚だ。どれだけ人間の様な見た目をしていても、違う種族の生き物なのだ。これは弱った。
「私は、見ての通り雄の個体だから。君はあまりに人間にそっくりだ。それがたとえ半身だけの話だとしても。だから、ね?」
答えを待たず、彼女の手の中で手持ち無沙汰になっていた服を抜き取る。
「後ろを向いていて」
背中に張り付いた豊かな髪を緩く肩に流してやり、服を被せる。滑らかな背中に浮き出る背骨をなぞる様にして、ファスナーを引き上げる。サイズもぴったりだ。クリーム色のたっぷりとしたドレスは、細身の彼女によく似合った。絞られたフリルと胸元を飾る細いリボンが可愛らしい。
「種族が違うわ。子を成すこともない」
つぶやくように、独りごちる彼女。スカートの端から水が染み込み、うっすらと鱗が透けて見えた。尾ひれを覆うほどの裾を摘み上げてみせる様子は、本当に人間の娘の様だ。咄嗟に返す言葉が見つからない。それとなくポケットに入れていたメモ帳を
引っ張り出し、はぐらかす。
「君の記録を取ろうと思ってね。よければ名前を教えて欲しい」
そこまで言ってからふと気がつく。
「君、名前はあるの」
「名前」
「個体を識別するための記号のようなものだよ」
「そんなものはないわ」
やはり、人間と人魚は随分と違う価値観を持っている様だ。教えるべき事が沢山ありそうだ。加えて彼女の様子から感情が希薄そうなところも、気になった。
「ならまず名前を決めようか。うん、そうしよう」
「此処には私と貴方しかいないわ。他にもニンゲンがいるの」
「いや、居ないよ。その通りなのだけれど。じゃあこう考えよう。これは名無しの人魚に名前を付けたらどうなるのか、という実験だ。これなら問題ないだろう」
着替えに名付けなんて、なんだか子供が出来たみたいだ。無性に楽しいような気分になり、自室へ参考にする本を取りに駆け戻る。本棚から手当たりしだいに引っこ抜き、本の山を積み上げていく。
それを抱え、よたつく足取りで階段を降りていく。タイルに敷いた風呂敷替わりのバスタオルに、次々と本を載せていった。染み込んだ石鹸と日焼けした紙特有の匂いが混ざり合い、不思議な感覚になる。山の一番上には、可愛い背表紙の古い絵本。
「私が、描かれているわ」
「ああこれはね、僕が一番好きな絵本なんだ。子供向けのものなんだけれど、どうしても手放し難くて。人魚のお姫様が、人間の王子様に恋をするお話でね」
「恋」
「恋だよ。ううん、この説明は難しいな。相手の心が欲しくて、どうしようもない気持ちになること、かな。人魚にも恐らく番があるだろう?それに対する感情だよ。少し違うけど、愛という言葉似た使い方をするね」
それは、また今度にでも。話しながら、まさかこんな説明を人にする様になるとは、と一人おかしくなった。学生の時分の私が見たら笑うだろうか。
「人魚は恋なんてしないわ。ましてや、愛なんて」
呆れるでも怒るでもなく、ただ事実を述べるだけの淡々とした口振り。ちくり、と覚えのない痛みが胸に走った。彼女は単に所感を口にした、ただそれだけのことなのに。
「あるのはただの繁殖行為だけ」
「そうかな。それは、なんだか寂しいなぁ」
また誤魔化すように曖昧に笑いながら、積まれた本を繰る。
とある船医の数奇な旅行記。十五人の少年たちによる漂流譚。そして、先の大戦で犠牲となった少女の日記。ぺらぺらと頁を捲るうちに、ある文字が目に止まる。そうだ、こんなのはどうだろう。
「いい名前が見つかったよ。ヴィス、なんてどうかな」
「ヴィス」
「そう。オランダ語で魚という意味だ。君は人間というより、感覚的には魚に近いようだしね。それになんだか愛らしい響きだ」
よく分からないといったような顔で見つめ返される。心なしか、頬が赤い。
「あなたが、そうしたいなら」
「じゃあ、ヴィス。これからよろしく」
先日教えたばかりの握手を交わそうと身を寄せる。すると彼女の身体がしなだれかかってきた。身体がやけに熱い。
「ヴィス?」
恐る恐る身体を引き離し、額に手をやる。熱がどんどん伝わってくる。ばしゃん。もたれかかっていた身体はついに力尽きたように、水の中に崩れ落ちる。荒い呼吸音が静かな浴室に響いていた。
慌てて引き出しという引き出しをひっくり返す。ようやく見つけた体温計を、彼女の口に差し込んだ。ガラス管に溜まった赤い液体はみるみるうちに目盛りを上って行った。
ひどい熱だ。傷口から菌が入り込んだのかもしれない。自分の迂闊さが腹立たしかったが、もう遅い。
とりあえず熱っぽくなった身体を冷やしてやる為、幾度となく浴槽の海水を汲み替える。砂浜までの葦が茂る道を、何度も何度も往復した。
相手が相手な為、正しい治療法も分からない。
人間の医学書と海洋生物の専門書を代わる代わる見やり、手探りの看病だ。
苦しげな彼女を見る事しか出来ないのが、悔しくてたまらなかった。寝る間も惜しんで、枕元ならぬバスタブに詰めた。
「君は、普段何を食べるの」
彼女は、ぐったりと目蓋を開き、またすぐに下ろした。答えるだけの体力もないようだ。
とりあえず思いつく限りの食料を、手当り次第口に運び続けた。海洋生物が口にしそうなものはすべて試してみたが、駄目だった。どれも受け付けないようで、全て戻してしまう。
ふと地下の研究室の水槽を思い浮かべる。魚ならあるいはどうだろう。いや、あれは絶対に駄目だ。
栄養を取れないためか、日に日に痩せ細っていく身体。容態は悪くなる一方だ。この際なんでもいい、なにか食べさせなければ。
ついに片手を超える夜を、一睡もせずに過ごした。落ちかけの意識を叱咤しつつ自分の食事、卵粥を作る。食欲は無いに等しいが、看病する側が倒れてはそれこそお笑いだ。なんとか栄養を取らなければならない。小さい頃は風邪を引きがちな私に、母がよく作ってくれたものだ。ぐるぐるとかき混ぜられていく、卵粥と思考。今思えば、躍起になっていたのかもしれない。
気がつくと手に布巾に包まれた土鍋が、足は浴室へと向いていた。
出入りが頻繁になったため、浴室の扉は開きっぱなしだ。脱ぐ気力もなくスリッパのままで敷居を跨ぐと、浴槽にだらりと横たわった身体が微かに身じろぎした。意識が戻るのは随分と久しぶりだ。そっと覗き込むと、伏せられていた目蓋がのろのろと持ち上がる。
「おはよう。卵粥を作ってみたのだけど」
「たまご、かゆ?」
「米という穀物の一種に、鶏の卵を落としたものだよ。人間が、風邪の時によく口にする」
食べるかい、と尋ねるとほんの少しだけ身を起こし、皿を覗く彼女。つまみ細工のような鼻がひくりと動いた。今一度差し出してみると、困惑したような顔をした。
「ニンゲンの、食べ物」
まるでなにかを恐れるような口振りだ。
美味しいよ、木のスプーンで掬い上げ食べてみせる。口に広がる米と卵の柔らかな甘さ。少し効かせた塩味が、優しい味を良い具合に引き立てていて美味い。我ながらいい出来だ。
「ほら、口を開けて」
彼女はしばらく躊躇した様子を見せてから、恐る恐るといったように口を開けた。生気を失った青白い頬とは対極的に、病的なまでに鮮やかに赤い咥内。ふうふうと冷ましてから、ほんの少し粥を舌に乗せる。ゆっくりと動く顎。少なくとも吐き出してしまうことは無いみたいだ、と胸を撫で下ろす。少しでも食べることが出来てよかった。ごくっと音を立て、ようやく嚥下したようだ。
「どうかな。美味しい?」
「おいしい?」
「また食べたいと思うことだよ」
彼女の視線は、うろうろと私の手にある皿と私の顔をさ迷う。そしてまた私を見て言った。
「また食べたい」
その口元は微かに、本当に微かだったが、緩んでいるように見えた。
浴室に篭っていた熱気が思い出したかの様に肌に纒わり付き始める。それが、嫌に鬱陶しかった。
それから彼女は、みるみる回復していった。
やはり、きちんと栄養を取れるようになったのが大きかったのだろう。彼女は日々旺盛な食欲を見せた。初めて粥を口にした時の様子からは考えられないほどだ。体力も着実に回復していった。最近は雑炊やスープを与えているが、この分だと食料が
底を尽くのも時間の問題だろう。
久しぶりに、市へ買出しに行くべきかもしれない。また体力が回復するのと同時に、彼女に対する本格的な調査を開始する事にした。
またいつこの様な事態になるか分からないから、というのはただの建前。単純な話、私も研究者の端くれだったという訳だ。好奇心に抗う事もなく流された、愚か者。
結局本当のところ私は、自分があれ程嫌っていた自身と、何も変わっていないのかもしれない。
しかし一概に調査といっても解剖、生体実験をする訳ではない。私はあくまで海洋生物学者あり、マッドサイエンティストではない。基本は簡易な検査や観察、問答の形をとっていた。日常的なフィールドワークに血液検査、成分検査、はたまた思考実験のようなものなどだ。
まずは初期段階から気にかかっていた、言語の問題に取り掛かった。彼女は私と出会う以前から言語、さらには日本語を獲得していた様だ。考えればこれは随分と不思議な事である。水の中で生活する彼女に、なぜ喉頭による発声方法が必要だったのだろう。鯨やイルカのように超音波による発声する習慣もないようだった。
この不可思議な事象について私は繰り返し彼女に聞き取りを行った。しかし返された答えはどれも要点を得ず、難解で意味深長なものばかりだった。はぐらかされていたのかもしれない。
ただ「貴方達が海を捨てるまで、私たちは同じものだったのだから、当然の事じゃない」と零した一言が酷く頭に残っている。
さらに研究の結果彼女は、これまでの事で分かりきった事ではあったが、生物学的に見ても間違いなく人魚と言える生き物だと証明された。上半身は
ホモサピエンス。下半身に値する生物種は定かではないが、確かに魚類の一種だったのだ。体内構造は一体どうなっているのだろうか。
そして現在もっとも力を入れている最大の研究課題が、感情についてだ。彼女には余りにも人間らしい表情が見られない為、感情が無いのかと思われた。
試しに不意をつき髪を引っ張ってみる。間髪入れず顔面に水を引っ掛けられた。どうやらまったく感情が無いわけではなく、刺激に対する反応のようなものは存在するらしい。
今のは悪手だったか、と袖で顔を拭う。
「そうだ、ヴィス。君は結局何を食べて生活していたの」
彼女はしばらく首を傾げてから「ニンゲンよ」と答えた。これはただ揶揄われているのか、はぐらかされているのか。それとも、本当の事なのだろうか。
彼女の答えにはいつも多かれ少なかれ驚かされる。こんな風に時折、真偽の程を判別しづらい答えが返されることがあった。かと言って私はそれについてしつこく問い返すことはしない。彼女には答えない自由がある。
「私を食べるかい?」
「いいえ」
それは、怪我が治っていないからだろうか。
「君たち人魚はどうやって生まれたの?魚から生まれたの?それとも人間?」
もしかして彼女の上半身は、限りなく人間にそっくりなだけの全く異物なのかもしれない。彼女の言葉通り、人間を魅力し捕食するための器官。
例えるなら昆虫の擬態のようなものなのかもしれない。それが真実なら、それこそ神話や伝説通りの生物ということになる。
「知らないわ、どうでもいいもの」
自身の考察に思考を奪われている私に構うことなく、ことも無く彼女が言い放つ。何の表情も浮かばぬ顔で、皿の中のシチューを掻き回している。
「何にでも経緯や理由を見つけて、価値を付けたがる。ニンゲンの中でも最も深刻な悪癖ね。そんな生き物、ニンゲンくらいよ」
彼女は空になった皿から顔を上げ、こちらをまじろぎもせず見つめた。
「貴方たちは、無駄が多すぎるわ」
ブロロとエンジンを蒸す騒がしい音が、閑静な岬に響いている。車に乗ったのは本当に久しぶりの事だった。
彼女をこんなに長い時間一人きりにするのは、初めての事だ。大丈夫だろうか。突然の大きな音に驚いてしまったかもしれない。
私は助手席でひっそりと溜め息を付いた。運転席の男が、気遣わしそうにこちらを伺う。
「本当に中まで運び入れなくてもいいのか?遠慮する必要はないぞ」
「はい、大丈夫です」
彼は、私のかつての上司だ。今までは町への買い出しは徒歩で済ましていたのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。そこで、彼を頼ることにしたのだ。あれから一度も連絡をとっていなかったのもあり、随分と驚かれた。
「それにしても、こんなにでかいの何に使うんだ?まさか、また」
「違います。もう、あんな事はしません。思い出したくもない。先輩も、忘れてください」
「……すまなかった。お前が、一番辛かっただろうに」
「いいえ、こちらこそすみません」
痛々しい表情だ。あなたが、そんな顔をすることないのに。
「なあ、戻ってこいよ。もうここにこだわる必要もないだろう」
「もう、決めた事ですから」
ベルトを取り外し、扉に手をかける。これ以上ここに居るのは、彼に悪い。
「また何時でも頼ってくれよな。連絡も。他の奴らも、皆心配してる」
「はい、ありがとうございます」
でこぼこした田舎道を走り去っていく車を見送り、背丈を軽く越えるそれを荷台に乗せて運ぶ。
熱を孕んだ潮風がむわりと身体を包み込んでいる。
「ただいま」
四苦八苦して玄関扉を開け、中に荷物を押しやる。はやく見せたいと、準備も早々に喜び勇んで彼女の元へと向かう。
「ヴィス、待たせたね」
彼女は相変わらず浴槽にいた。ここ数ヶ月で随分と馴染んでしまったものだ。
「今日は、鶏肉が安かったんだ。ソテーにして食べよう。君の好きな卵料理と一緒に」
こくりと頷く彼女。尾ひれがぱしゃんと水面を叩いた。
「それと、それとね。君に見せたいものがあるんだ」
上擦る声を必死に押さえつける。気を抜いたらくすくすと笑い出してしまいそうだ。
「少しばかり、君を移動させなくちゃならない。大丈夫?」
「平気よ」
「よかった。ありがとう」
さっそく、慎重に担ぎ上げる。こうしていると、出会った日のことが思い出された。あの頃よりもずっと顔色もいいし、痩せた体には肉が付いた。
怪我の経過も良好だ。嬉しいはずなのに、切ない何かが胸を塞ぐ。腕の中の彼女は不思議な、むずがるような顔をしていた。
「ほら、見てご覧」
指の先には、先程運び入れた大きな水槽。
「君の新しい家だ。いつまでもバスタブじゃ、あまりに狭いと思ってね。気に入ってもらえたかな」
伺い見ると、彼女は顔を紅潮させ、唇を言葉がわだかまっているかのように動かしている。
願望がそう見せているのでなければ、喜んでいるようだった。
「嬉しいかい?」
「嫌な気分では、ないわ」
ぽうっとした表情でいる彼女を新しい水槽に入れてやるべく、脇の階段を登っていく。そうっと水中に降ろそうとした途端、腕の中の身体はひるがえり、ひとりでに水槽へと吸い込まれていった。
あっと思った時には、一拍遅れて立ち上がった潮煙が頭から降りかかり、全身びしょ濡れになっていた。
呆然としていると、濡れ羽色の頭が水面から出てきた。瞳で生き生きと踊る内海を見て、私は今ようやく彼女の本来の姿を垣間見ているのだと気がつく。逆説的に、彼女に今まで無理を強いてきたことも。
「どうして、ここまでするの」
水気を飛ばすためか彼女は頭を振ったのち、こう投げかけた。
「どうしてって、初めにいった通りだよ。僕は君を研究したくて」
「違うわ」
もだもだ言い訳を垂れる私を、彼女は断定的な口調で遮る。
「研究の為ならこんなもの、わざわざ用意する必要ない。あなたの調査に私が泳ぐ事を要求するものはなかった」
どうしてなの、と覗き込まれる。まただ。彼女に見つめられると、思考が散り散りになって纏まらない。
「放っておけなかった、からだよ」
本当に、そうだろうか?違う、自分で話しながらそう思った。
それならどうして?どうして怪我が治りかかった彼女を、こんなにも離れがたく感じているのだろう。靄がかかったように不明瞭になっていく脳内を払拭したのは、彼女だった。
「ありがとう」
唄う様に発せられたその言葉は、不思議なまじないかなにかのように響いた。
「え?」
「ありがとう、というのでしょう」
あなたが教えたんじゃない、と見つめかえされる。
「どういたしまして」
やっとの事で返すと、気が済んだといわんばかりに再び水に沈んでいった。身をくねらせながら水をかき分けていく様は少しも淀みない。きっと怪我は、もうほとんど治っている。頭の中には空っぽに
なった水槽がたった一つ、ぽつねんと置いてあった。
茹だるような暑さも息を潜め、あれほど続いた
熱帯夜が嘘のように感じるほどここ数日は過ごしやすかった。晩夏の空気は糊の効いた綿シャツのようで、パリッと引き締まって心地よい。
水槽横の階段で、隣に腰掛けているラジオを聴きながら、ミョウガのよく絡んだ冷麦を啜っていた。こいつとも、そろそろお別れだろう。
交わす言葉はないが、絶えず彼女の気配を感じる。低い段差に持て余し、投げ出していた足を整えてから、頭上を振り返る。
「食べ終わった?」
「ええ」
水槽から投げ出している手には麺つゆ皿が握られている。食器を流しに下げるべく、皿を預かる。中はすっかり空っぽだった。
「今日は、もういいのかしら」
研究の事であることは、口にしなくても分かる。それくらいの時を、彼女とは過ごした。
「ああ。もうお終いだよ」
その言葉を受け、水に潜っていこうとする彼女。いけ、今話さなければきっといつまでも引き延ばすことになる。
「まって!」
ぴたり、と彼女は動きを止めた。
「話したいことがある。前に話していたことなんだけど。君との事で」
うまく話さなくてはと、どんどん焦りが募っていく。彼女は相変わらず静かな表情で、続きを促している。
「いやそれは、後でもいいんだ。それよりも先に、言わなくてはいけない事がある」
じっと耳を傾けているその姿を見ていると、段々とこちらも落ち着きを取り戻せた。大丈夫。
一つ一つ話していけばいい。彼女は、待ってくれている。
「私は、君に黙っていたことがあるんだ」
少しそこで待っていて、と言い残し地下室へと下りる。壁際に並べられた水槽の一つを抱え、再び階段を上り待たせたままの彼女の元へと急いで戻る。
「僕は、魚類学者だと最初に話したのを覚えているかな。いままでその話をする機会は、いやする事はなかったよね」
彼女にも良く見えるよう、水槽を慎重に持ち上げる。
「それは、なに」
「これはね、魚なんだ」
蛍光色の液体の中で元気に泳ぎ回る魚たち。頭が二つに別れたカサゴ。異様なまでに目が飛び出たメダイ。頭と尻が繋がり輪っかのようになったチンアナゴ。
それらは奇形化した魚だった。私のかつての研究の成果だった。
「私が、こんな風にしたんだ」
ここはかつて帝都海洋生物研究所と呼ばれていた。国内の優秀な学者を集めた、栄光ある場所だった。
私にこの研究所の招待状が届いたのは当時、帝国大学を卒業したばかりの時だった。本当に誇らしかった。これからは大好きな魚と共に、誉高い仲間と共に、研究に励む事が出来るのだと。夢のような気持ちだった。
だがそんな幸せな日々が、長く続くことはなかった。戦争が始まったのだ。快進撃を報せ続ける新聞に、皆で歓声を挙げていた事も、今では懐かしい記憶だ。
お国から伝達が入った。この研究所は今日から政府の管轄下に置かれる。精一杯お国に尽くすように、と。生物兵器とは、本来細菌やウイルスを使った兵器を指す。それをこともあろう事か、本当に生き物を兵器にしようというのだ。馬鹿げた話だった。化物兵器という方がふさわしかっただろう。
「私たちは逆らわなかった。それを許されなかったのもあるし、私たちもお国に役立てるのは嬉しかったんだ」
どんどん悍ましい姿に変わっていく魚たちを見ても、お国の為だと思えば我慢できた。いつかきっと立派に役目を果たせるようになる筈だと言い聞かせた。だがそれは自分への詭弁に過ぎなかった。欺瞞に汚れきった私を嘲笑うかのように、あっけなく戦争は幕を閉じた。我々は負けたのだ。研究所は解体され、惨たらしい姿になった魚たちは廃棄される事になった。
「私は罪滅ぼしの為にここに一人残った。せめてその生命が絶えるまで、見守る義務があると思ったから。君を放っておけなかったのは、きっとこの魚たちを重ねてしまったからなんだ」
彼女からの返事はない。当然だろう。軽蔑されるだけの事を私はしてきた。嫌われても、憎まれても、仕方がない。
伏せていた顔がゆっくりとこちらに向けられる。
「どうして」
「わからないのかい。贖罪の為なんだ、自分の過去の清算をする為なんだよ」
「それが、どうして此処に残ることになるの。私となんの関係があるの。そもそもあなたは、なんの罪を償う必要があるの」
君は変わらず、混じり気の無い射抜くような視線を寄越した。
「彼らに貴方を非難する権利はないわ。この世界の理は、弱肉強食。貴方たちのものになった時点で彼らはどうされても仕方がなかったの。それを自分の罪悪だと考えるのは、あまりに傲慢よ。それに此処に留まる事になんの意味があるの。何処に居ようと、彼らの姿が元に戻ることはないのに」
瞳に凪いだ水面は静かに煌めいている。
私は何も返すことができないまま、ただ頬を熱いものが伝っているのを感じていた。
それはきっと、正しい言葉ではない。私がそ答えを許容することは、人間としての責務の放棄になる。世界を作りそしてそれを破壊し続ける罪、我々はそれを背負う必要があるのだ。
それでも、それでも救いは確かにそこにあった。
「私は、また帰ってもいいのかな。みんなともう一度研究をしても」
「いいもなにも、貴方が決めることだわ」
色々な感情で胸が一杯になり、どうしようもない。たとえ正義がそこにないのだと分かっていても、今だけは。思わず目の前の小さな身体に縋りついた。抱き返しこそしないが黙って受け止めてくれる彼女。
濡れたところが少し肌寒く、秋の訪れを予感させる。前の話の続きは、もう少し先になりそうだ。
冷たく湿った土をすくい上げ、ぬらぬらとくすんだそれに被せていく。細かな砂粒が爪の間に入り込み鋭い痛みが走るが、気にも止めない。
目の前に広がる灰色の海、そこから吹き付ける風は身が竦むほどに寒い。これからどんどん冷え込むだろう。
だからせめて、少しでも温かく居心地の良い場所にしてやりたかった。
ふかふかの土を優しくならし、ポケットに収めたガラスを取り出す。つるつると角が取れたシーガラスは、混じりっけのない真緑に透き通っていた。
そっと土の上に添え静かに手を合わせた後、研究所への道を辿る。無数に転がる色彩たち。それが後へと流れていくのを、視界の端に追いやることもできず、私はただ見守っていた。
「カサゴが死んだよ」
ひれの様子を診ながら、私は努めてなんでもないふうに告げた。口にしてようやく、ああ死んだのだ、と空疎な虚しい感情がこみ上げてくる。身体の力がどんどん抜けていくようだった。
「そう。死んだのね」
彼女は悲しむでもなく、ただ耳を傾けていた。
ただ一言、お疲れ様と呟いただけ。頬を伝った雫には、気づかないでいてくれた。
不審に思われないよう、引き続きひれに手を這わす。破れていた尾ひれの薄膜はきちんと張り直され、折れていた骨格部分もすっかり元に戻っていた。
「ううん。まだ不安かな。こういう怪我は治っているように見える時が、一番危ないからね」
口から出任せの言葉を、ぺらぺらと並べたてる。尾ひれの怪我はどう見ても完治していた。今すぐ海に戻ったとしても、なんの不都合もないだろう。
「わかったわ」
彼女は疑う素振りさえも見せることなく、ただ頷いた。
よかった、また明日も君はここに居てくれる。この行為の馬鹿馬鹿しさなど、自分の愚かしさなど、痛いほど分かっている。いずれ来る別れが理解できないほど阿呆なつもりもない。それでもあと少し、あと少しだけ明日を共にしていたかった。
「ラジオを、かけてもいいかな」
再び頷く彼女。適当に局を合わせていると、
やけに懐かしい曲が流れてきた。無性に泣きたいような気持ちになるのは、どうしてだろうか。
ふと唐突に意識が浮上した。ぼやけた打ちっぱなしの天井が目に入る。何故目が寝覚めたのだろう、とぼんやり考える。まだ夜明けには随分と時間がある筈だと思い直し、布団の中で寝返りをうつ。
その時だった。ぴしゃり、と微かな水の音。随分と耳に馴染んだ音だ。まさかと飛び上がるようにして身を起こし、階段を駆け下りる。部屋に飛び入ると、彼女は水槽から身を乗り出しているところだった。
「目が覚めたのね」
そんな気はしていた、とやけに穏やかな表情で君は続ける。間違いない、彼女は今夜海に帰ってしまうつもりなのだ。
「行かないで」
なんとか引き留めなければと、必死に言葉を探して言い募る。
「ずっとここにいればいい。食べ物には困らないし、君が望むならもっと大きな水槽も買ってあげる。二人で楽しく暮らそう」
「駄目よ。人魚は海で生きるものだから。どうしても、帰らなくちゃ」
彼女は諭すような、慈愛さえ滲む口振りだ。その凪いだ様子は、彼女の決意の硬さを悟らせるに充分だった。
「海は時化ているし、きっと海水は冷たいよ。せめて春まで」
「大丈夫、此処に来るまではずっと海の中で生きてきたのよ。今夜発つわ」
「でも、尾ひれがまだいけない」
「ううん、もう平気だから」
一体いつから知っていたのだろう。おそらくずっと前から。それなら、どうして今まで咎める事をしなかったのか。
実際のところ私がどれだけ調査を重ねたとして、彼女を真に理解することなど出来ていなかったのだ。ただ一つ、彼女は今夜出ていくことだけが明白な事実だった。
「なら最後に少しだけ。前の話の続きをさせて欲しいんだ。君を此処に置いていた理由、君を放って置けない訳を」
思い悩むように黙り込む彼女の返事を、辛抱強く待つ。しばらくしてようやくゆっくりと首肯した。
早まる鼓動を押さえつけて、そっと彼女の背に腕を回し抱き締める。確かめる様に、瞳を覗き込む。
彼女の海はいつになく波立っていて、映りこんだ私の影が雨に打たれたように揺らめいている。長くしなやかな睫毛が惑うように震えているのが、よく見えた。唇を掠める柔らかな温度。溶け合う二人の吐息が澄んだ空気に触れて、白く冷えていく。
「これは接吻、キスと言うんだ。人間が恋人へ、恋した相手へ愛情を示す為にするものだよ」
口を開こうとする彼女を遮るように、言葉を重ねる。確かめるなどと言っておきながら、私は彼女に拒まれる事が怖くて仕方がなかった。
「人魚は、恋なんてしないわ」
気丈に言い放つ様子とは裏腹に、彼女の言葉の端々は耐えきれなかったかのように揺れていた。
それに勇気づけられ、更に言い募る。
「分かっている。それでも、私は君に恋をしてしまったんだ。君は? 人魚ではない、君の言葉が聞きたい。君の心を教えてくれ」
「私に、心は無いのよ。私はどうやっても人魚でしかないの」
やるせないような、切なげな表情。心が無いと言っているものの顔だとは、とても思えなかった。胸の痛みを堪えきれず、私は思わず黙り込んだ。
「ねえ、いつか言っていたでしょう。恋とは少し違う愛のこと。私に教えてくれる?」
随分と前、彼女に名前を付けた時の話だ。覚えていたのか。場違いにも懐かしい気持ちになった。
これがきっと、最後になる。
「愛というのはね、相手の幸せを何よりも願うことだよ」
「ああ、よかった。それくらいなら私にも出来る。何も返せるものが無いなんて、なんだか悔しいから」
心底安心したように、瞳を三日月の様に細め、ふふっと吐息を漏らしている。
「君には心が無いのに」
「心は無いけれど感情ならあるわ。ほんの少しだけ、全部貰い物だけれどね。すべてあなたから貰ったのよ。私には余分で不必要なものだったのに」
それさえももしかして、ただの模倣、単なる刺激に対する反応に過ぎないのかも。
彼女の伏せた睫毛が目元に淡い影を作り、はにかんだ顔は愁いを帯びていた。
「恋は出来ないけれど、愛ならできる」
「私は君を愛したり出来ないよ。諦められない。どうしても、君を手に入れてしまいたいんだ」
「そんな筈はないわ。私の感情は元々貴方がくれたものだから」
駄々っ子を諌めるように、小さな掌がそっと頭を撫でていく。
「私が居なくなってもきちんとご飯を食べて、自分のやりたい事をすること。そして、どうか私以外の人を愛するようになれますように」
そんなのは嫌だった。この気持ちが恋でしかなくて、彼女の愛には到底届かないのだとしても。未熟なこの恋が愛に至るまで、二人で一緒に育んで行きたかった。
「ありがとう、私を此処に置いてくれて。私に恋をしてくれて」
そう言って月明かりを受け微笑む彼女は本当に綺麗で。
君はずるい。そんな風に笑う好きな人を、止められるはずないじゃないか。頬を大粒の涙が転がり落ちる、そんな感覚があった。
自身の涙に溺れてしまいそうな私と、そんな私を笑いながら額に額を擦り合わせる彼女。
最後の記憶はそんなふやけた、痛いほど優しいものだった。
いつも思い出す景色がある。
何一つ隔てるもののない青。
星影を落としこんだ水面。
素足を洗う波間。
静寂をたたえる潮騒。
それは始まりの場所、君そのものだ。
原始から続くそれは、
どれだけ世界が時を重ねようとも、
どれだけ私たちが歳を重ねようとも、
ずっとそこにあり続ける。
だがそれは心象風景に過ぎない。
どれだけ祈ろうとも、
もうあの時に戻ることはできないのだから。
それでも、あの日恋を知らなかった人で、
愛を知っていた魚であった君よ。
今なら、君を愛する事ができる気がするんだ。
恋せぬおとと かぷっと @mojikaki
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