後篇

「さ、どうぞ、吉川さん」


 彼女がそう言って差し出してきたのは、木製の椀に入った野草のスープだった。

 調理の場面は見ていたが、小さい鍋に水と細かくした野草を入れて固形ブイヨンを加えただけのシンプルな物だ。

 焚き火があっても吹き込む風は冷たく寒いので、椀を持つだけで手が温かかった。

 私は縁に口を付けて琥珀色のスープを少し飲む。


「あ、美味しい」


 出汁とほのかな塩味がマッチして、あっさりしながらも深みのある味わいだ。具材の野草もそれぞれ微妙に異なる食感を提供しており、良いアクセントとなっていた。

 何よりその熱さが五臓六腑に染み渡る。

 温かな室内で飲むのとはまるで違った意味合いを持つように思えた。


「寒い日はやっぱりこういうスープが一番です。こちらもどうぞ。ムクノキは種があるので気を付けてくださいね」


 彼女はフユイチゴとムクノキの実をいくつか手渡してきた。

 本当に大丈夫なのか、という疑いは多少あれど、私は彼女の豊富な知識を信じることにする。

 まずはフユイチゴの実から口に放り込んだ。噛み締める。プチプチという食感と共に甘酸っぱさが広がった。思わず頬を緩める。

 続けてムクノキの実を、種を避けるようにしてかじる。柔らかな食感に豊かな甘みと僅かな酸味。それは干し柿に良く似ていた。こちらもまた美味だ。


「どうですか?」

「どっちも美味しい」


 さっきから美味しいしか言ってないな、と自分の語彙の貧困さを恨む。

 けれど、西園寺さんは嬉しそうに微笑んでいた。


「それなら良かったです。用意した甲斐がありました」


 彼女も食べ始める。スープは銀色の小さなカップに入れて飲んでいた。

 椅子といい木製の椀といい、彼女が使う予定だったのであろう物を使っているのは、申し訳なくなる。


「あ、この椅子……」

「そのまま座ってていいですよ。わたしは慣れてるので大丈夫です」


 私は椅子だけでもと思って立ち上がろうとしたが、拒否された。渋々と座り直す。押すのが苦手な私。

 軽食を終えた後は、トウヒの葉でお茶を用意してくれた。清涼感のある味わいで食後のお茶としては申し分がなかった。先程のスープも相まって身体がポカポカしている。

 私はほっと一息つく。そこでふと疑問を投げかけた。


「西園寺さんはどうしてブッシュクラフトを始めようと思ったの?」

「きっかけは偶然サバイバルやブッシュクラフトなんかの動画を見たことでしたね」

「へぇ、そんなのあるんだ」

「面白いですよ。知らない世界をたくさん教えてくれます。実際、自分でするようになって分かったことも色々とありましたけど」

「例えば?」


「やっぱり大きいのは、自分の手で何かを成し遂げる達成感、ですね。吉川さんも体験した火起こしなんて、家だとボタン一つで簡単につけられるじゃないですか? でも、ブッシュクラフトならそういうわけにもいかないんですよね。仮にライターを使うにしても、ただ適当に燃やすだけじゃ焚き火は上手くいきませんから。弓切り式や他の方法なら一層難しくなります。けれど、だからこそ、上手くいった時の達成感はひとしおです」


「なるほど……確かに火起こしが上手くいった時は凄く嬉しかった」

「ですよね!? 最高ですよね!?」


 私が同意すると、彼女は食い気味に喜びの声を上げてみせた。


「こう、何と言いますか、発達した技術のおかげで普段当たり前に触れているようなものを、自分の手で生み出していく快感、みたいなのがあるんですよね……前にその辺りの地面から粘土を掘り出して土器を作ってみたことがあるんですけど、初めとか焼いてる途中で割れてばかりで、試行錯誤の末に稚拙ながらも遂に焼き上がった時なんてもう……その時の胸の高鳴りは今でも忘れられないです!」


 言葉にどんどん熱が入っていく彼女に対して、私はふと思いついたことを口にする。


「土器だけにドキドキ、ってわけだ」


 すると、高揚していた彼女の表情がふいに固まった。冷や水を浴びせられたようだった。


「……何だかこちらが振ったみたいでごめんなさい」

「え、面白くない? 笑っていいよ、遠慮なく」

「…………あー、はい、そういうことですか、面白いですねー、あはは」


 彼女は少し長い沈黙の後に笑ってくれた。

 おかしいな、私としては大爆笑の予定だったのだけど。

 納得はいかないが、私は話を戻すことにする。


「まあ、私もこうして体験させてもらって、分かったことがあるよ。何というか、自由だよね」

「ですね。ブッシュクラフトはとにかく自由です。何をしてもいいし、何もしなくたっていい。何をするか全部自分で考えて、実際に自分の手で行って、たくさん失敗もして、前は出来なかったことが出来るようになって。それは別に変わったことじゃないと思えるかも知れませんが、多分、普段の私達はそんなに出来ていないことなんですよね」


「……やっぱり、自分に選択権を委ねられるのは怖いから。誰かの言う通りにしてた方が、ずっと楽。そんなだから、何かをすることも、何もしないことも、どちらも選べないんだ。ただあるがままにしか生きられない」


 私は実感のこもった言葉を漏らしてしまう。それは誰でもない、自分自身のことだったから。

 誤魔化す為に「にしても」と言葉を続けた。


「ほんと好きなんだね、ブッシュクラフト」

「わたしは吉川さんもブッシュクラフト向きな性格してると思いますよ。一人でいるのが好きなところとか」

「……え、私ディスられてる? このコミュ障ぼっち女って?」


 唐突に鋭利な刃を向けられたような気分だ。


「まあ、そうですね」

「うぐっ」


 更なる追撃に私は呻く。泣いちゃうぞ、いいのか。恨みがましい目で彼女を見た。

 けれど、彼女は気に留めた様子もなく言葉を続ける。


「でも、吉川さんは別に孤立するのが嫌じゃないでしょう? むしろ、その方が楽くらいに思ってませんか? 誰かと関わるのに比べれば」

「…………」


 図星だった。彼女の指摘はあまりに的確で、私は黙り込んでしまう。

 それに対して、彼女も言葉を発しようとはしなかった。ただ優しく微笑んでいる。

 気が付くと、私は自分の弱さを吐露していた。魔法にでもかけられたように。


「……そう、だね。別に人が嫌いなわけじゃない。でも、誰かと関わるのは何だか息苦しい。ほんの些細なことでも辛くなる。だから、私は私を孤独でいさせてくれる本が好き。それは一時でもこの世界との繋がりを忘れさせてくれるから。楽、なんだ」


 さっきから何だか変だ。私は彼女にポツリポツリと胸のうちに秘めていたものを明かしてしまっていた。どうしてだろう。どうして、彼女になら話せてしまうのだろう。

 それを聞いた彼女は、明るい雰囲気で問いかけてきた。


「ねえ、吉川さん。どうせあなたのことだから、わたしは誰と出会っていても同じように誘ったんだろう、とか思ってますよね?」

「まあ、うん……」


 私がコクリと頷くと、彼女は首を横に振った。


「そんなことはないですよ。吉川さんだから誘ったんです。きっとわたし達は似ていますから」


 微笑と共に告げたその言葉は、私を驚かせるのに十分だった。

 私と西園寺さんが、似てる……?

 そんなはずはない。私達は正反対だ。石ころと宝石ほども違う。


「どこが似てるんだ、って顔ですね」

「むぐっ」

「吉川さんはポーカーとか向いてませんね。顔を見てれば考えてることが割と分かります」


 彼女は楽しそうに言うが、私は恥ずかしくて顔を俯かせた。


「わたしも、前は息苦しさを抱えていたんです。色々な見えないものに囚われて、もがいて。そんなわたしだから、吉川さんを見て感じるものがあったんです」


 彼女はどこか遠くを見つめるような瞳でそう語った。そこに何が映っているのかは分からない。けれど、彼女には彼女の事情が何かあるということは想像できた。


「気になってたんですよ、ずっと。以前から機を見計らっていたので、今日は思わず声を掛けてしまった、というわけですね」

「……今は、息苦しくないの?」


 私はそう問わずにはいられなかった。

 もし、彼女が私と似たものを抱えていて、けれど今はそれを気にしないでいられているのなら、変われたというのであれば、私は……。


「はい。今のわたしは空の飛び方を知ってますから」


 彼女は力強く頷き、そして立ち上がると、こちらを見据えた。その表情は決意に満ちていた。


「わたしは傲慢かも知れません。わたしならあなたを救えると思っています。わたしは自分勝手かも知れません。あなたの都合よりも自分の都合で手を差し伸べようとしています。わたしは我儘かも知れません。あなたにこの手を取って欲しいと思っています。でもそれは全部全部、わたしの素直な気持ちなんです」


 彼女は一呼吸の後、こちらに手を差し出して、告げる。


「わたしがあなたに空の飛び方を教えてあげます。溺れてしまわないように」


 私にとって彼女は天上世界の住人だ。ただ見上げて憧れることしか出来なかった。

 けれど、そんな彼女が今、私に手を差し伸べてくれている。

 自分も前は同じだった、と言ってくれている。

 私は変われるのだろうか。それは無駄な努力になってしまわないだろうか。


 分からない。

 だから、自分の心に問いかける。どうしたいのかを。

 そうして、一瞬にも永遠にも思える時間の果てに。

 私は彼女の手を取った。ギュッと握り締めると、彼女も握り返してくれた。


 何かを選ぶことはいつだって怖い。だけど、私は私の心の叫びに気づいてしまった。

 だから、行くしかない。進むしかない。例えその先に何が待っていようとも。

 それはいつからか停滞してしまっていた私が一歩、前に進むことを選んだ瞬間だった。


「これで今度こそ本当にブッシュクラフターの仲間入りですね!」

「え、そういう話だったの!?」

「そういう話ですよ? 空の飛び方ブッシュクラフトの話です」

「…………まあ、いっか」


 私は諦め口調でそう呟いた。

 結局のところ、私は彼女という人間の在り方をすっかり好きになってしまっていた。

 多分、理由なんてそれだけで十分だろう。



 ●



「名前で呼んでもいいですか?」


 帰りしなに彼女はそう問いかけてきた。

 下山は行く時よりは随分と楽なので、私にも喋る余裕はあった。


「あー、まあ、別にいいけど……」


 私はきっとかなり微妙な顔をしていただろう。

 普通なら特に迷う必要もない問いかけだと思うけど、私には躊躇なく頷くことは難しかった。

 彼女もこちらの煮え切らなさに疑問を持った様子だったので、こちらから理由を話すことにする。


「あんまり好きじゃないんだ、自分の名前が。合ってないでしょ? 私に」


 私は自嘲の笑みを浮かべた。

 昔から良く言われてきたことだ。

 光莉ひかり。光なのに陰気で、性格も捻くれてて、愛想も悪い。莉という漢字もジャスミンを連想させるというけど、その白く可憐な花は暗い私には似合わず、花言葉も『愛想が良い』とか『愛らしい』とか正反対にも程がある。

 まるで当てつけだ。自分の名前を目にする度に、耳にする度に、己の醜さを露わにされているような気分だった。


「そんなことないですよ。わたしは素敵な名前だと思います」


 彼女はそう言ってくれるが、お世辞としか思えない。


「お世辞、とか思ってますか?」

「うっ……」


 そんなに読みやすいかな、私。思わず両手で顔を押さえる。

 前にいた彼女は足を止めると、こちらに向き直った。


「言葉には色々な意味があります。例えば、光という漢字がありますけど、それはどの光を表しているのでしょうか? 可視光という言葉もある通り、目に見えない光だってたくさんありますよね。そうですね……遠赤外線のようにわたしの心をじんわり温めてくれる素敵な人、という説はどうでしょうか?」

「どうでしょうか、って言われても……」

「似合わないなんて決めつけなくていいんですよ。どうとでも解釈できるんですから。自分が好きだと思える受け取り方をすればいいんです」


 それはまるで彼女の生き様のように思えた。

 ブッシュクラフトやサバイバルのように、自分の道は自分で切り開くのだ、と。


「それに、光が強くなれば闇も深くなる、って言うじゃないですか。前にカラオケで友達が歌ってました。つまり、光と闇は表裏一体なんです。きっと闇属性でありながら光属性でもあるんですよ。吉川さんが暗いのもそういうことです」

「それ、褒めてなくない? …………ふ、ふふっ」


 私は笑いを堪えきれなかった。彼女は『何かおかしなことを言ったでしょうか』という様子で首を傾げている。

 立派なことを言ったかと思えば、すぐに珍妙なことを言い出したりして、変な人間だなぁ、と改めて思う。

 何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。けれど、私の名前へのコンプレックスとはその程度のことなのかも知れない。


「事実は存在しない、存在するのは解釈だけ、か」


 私はそんな言葉を呟いた。それはとある偉い哲学者の言葉。

 今、その言葉の意味が少しだけど分かった気がした。


「ありがとう……その、柊佳しゅうか

「それなら良かったです……光莉」


 そうして、私達は互いの名前を呼び合うことが出来た。

 この時、ようやく友達と言える関係になれたのかも知れない。


「それじゃ、また明日」

「はい、また明日です」


 私達は駅前で別れると、それぞれ帰路に就いた。



 ●



 また明日、とは言ったものの、柊佳が学校で話しかけてくることはないだろう。

 彼女には彼女のグループがある。これまで関わりのなかった私達が親しくすることは、その輪を悪戯に乱すことになりかねない。

 それだけ柊佳に憧れたり好ましく思っている生徒は多い。彼女もその程度の空気は読めるだろう。だから、私はいつものように教室の端で本を読んでおくことにしよう。


 そんな風に考えていた。それは西園寺柊佳という存在を甘く見積もっていたと言わざるを得ない。彼女は自分にとって読む必要もない空気を読むような人間では決してなかった。


「光莉! お昼は一緒に食べましょうね!」


 ゆっくり目に登校した私は、既に来ていた柊佳と目が合ったかと思えば、そんな風に言葉を投げかけられた。

 当然、教室内はざわめく。私に話しかけるクラスメイト自体がそもそもいないのに、あまつさえそれが柊佳だったのだから。


「光莉、金魚みたいに口をパクパクして、どうかしましたか?」


 私が答えられずにいると、クラスメイトの一人がおずおずと質問する。


「ね、ねえ、西園寺さん? 吉川さんとは、その、どういう関係なんでしょう? 先日まではそのように親密な様子は見られなかったように思うんですけど……」


 クラスの誰もが固唾を呑んで見守っているようだった。

 私は何も言えず、柊佳を見た。彼女は何と答える気なのだろうか。


「そうですね……秘密の関係、といったところでしょうか」


 少し照れた様子で柊佳がそう答えた瞬間、途端に教室内はキャーキャーと色めき立った。悪感情は見られなかったが、無数の好奇の視線が私達を撃ち貫くことに違いはない。


「ちょ、何言ってんの!?」

「え、何かおかしかったですか?」


 柊佳はキョトンとする。自分が誤解を招くような表現をしたことに気づいていないらしい。

 これだから天然さんは……!

 とは言え、私に間違いを正す為に演説するような気概があるはずもない。そして、これから授業が始まってしまうと、逃げ場はなくなる。私は狼の群れに放り込まれた羊になるつもりはない。


「……っ!」


 私は教室の入り口からスッと後ずさって外に出る。


「ど、どこ行くんですか光莉!?」


 珍しく慌てた様子の柊佳の声を背にして、私は行く当てもなく走り出した。今はとにかく落ち着く場所へ。ゆっくりと考え事がしたい。


 きっとこれから私の人生は色々と変わっていくのだろう。柊佳と関わったことで。彼女はそういう存在なのだと思う。

 私自身が選んだことだ。別にそれが嫌なわけじゃない。

 だけど、その覚悟をするにはもう少し時間が必要そうだった。

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さばいぶっ! 吉野玄冬 @TALISKER7

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