中篇

 駅前から少し歩いて山の前に到着すると、彼女はハイキングに良く使われるコースに入った。私はその後ろに付いていく。整備された山道が続いていた。なかなかに急角度な道のり。


「西園寺さんは、ここに良く、来るの?」

「そうですね、なるべく週に一度は来るようにしてます。今日も本当は朝から来たかったんですけど、家の手伝いですることがあったので、仕方なく今の時間になった感じです」

「なる、ほど」


 私は早々に息を荒くしていた。その為、どうしても言葉が途切れ途切れになってしまう。万年帰宅部の私がする運動なんて体育の授業くらいなので、相当きつい。

 それに比べて、彼女はまるで息を乱していなかった。言葉もなめらかに紡いでいる。重そうなリュックも背負っているのに。お嬢様とはこんなにも頑強なものなのか、と私は内心で驚く。


「そんなに上までは行かないですけど、しんどかったらすぐに言ってくださいね。十五分くらいは歩くので」

「了、解……」


 彼女はこちらに合わせてペースを落としてくれているように思えた。

 自分の不甲斐なさに申し訳なくなる。誘わなければ良かったと思われているかも知れない。

 私は懸命に足を動かし続ける。


 やがて、分かれ道に行き当たった。片側には『関係者以外立ち入り禁止』と大きく書かれた看板が立っている。その為、必然的にもう片側が歩いてきたコースの続きとなる。

 しかし、西園寺さんは何の躊躇いもなく看板の設置された方へと足を進めた。


「ちょ、そっちは」


 私が止めようとすると、彼女は無言で看板の端に小さく記された文言を指差す。

『西園寺グループ』


「え、それってつまり……」

「うちの山なんですよ、実は」

「…………」


 私は言葉を失くす。てっきり公共の土地だとばかり思っていた。


「まあ、知らない人も多いですけどね。市とも共同してほとんど一般開放していますし」


 彼女は話しながら看板の横を通り抜け、私も後に続く。そこから先は傾斜が緩やかになっていた。


「目的地までもうすぐですよ。一般人は入って来ない、わたしのお気に入りスポットです」

「うぃっす」


 私は運動部でもないのにそんな返事をする。しばらくぶりの身体の酷使に少し頭が鈍っているに違いない。

 彼女はそんな私を一瞥すると、クスリと笑みを浮かべた。



 ●



「到着です!」


 先導していた彼女は立ち止まると、その先の景色を手で示した。

 まるで森を円形に切り取ったような空間だ。半径50mといったところか。その中心には山頂の側から小川が流れてきていた。地面には大小様々な石が転がり敷き詰められている。空間の端からは無数の木々が広がっていた。


 私は視界に広がる箱庭のような美しい自然に目を奪われる。この場に満ちた清々しさや開放感は疲弊した心身を洗い流すようだ。

 寒気を帯びた一陣の風が吹く。けれど、それさえもこの場では豊かな景色に彩りを添える要素。さやさやと葉音を鳴らす木々はまるで私達を迎えてくれているようだった。


「さて、ここで問題です。まず初めにすべきことは何だと思いますか?」


 彼女は突然、そんなことを問いかけてきた。

 未だにブッシュクラフトが何なのかも分かっていない。多分だけど、キャンプみたいなものだと思う。この場所ですることなんて他には思いつかなかった。

 私は焦りながらも何とか答える。


「え、え、えーと……テントの設置、とか?」

「惜しい、ですね。今日は日帰りの予定なのでテントは用意していません」

「うーん……」


 私は他にこれといった解答が出て来ず、腕を組んで唸っていると、彼女はヒントを与えてくれる。


「サバイバルにおいて優先すべきことは四つあると言います」


 え、サバイバルするの……?

 私は途方もない困惑の表情を浮かべたが、彼女は気に留めた様子もなく続ける。


ウォーター食べ物フード基地シェルター。それでは最後の一つは何でしょう? 今感じてるこの寒さがヒントです」

「寒さ……あっ、火!」

「そうです! もう一つはファイア。その四つを環境に応じて優先順位を付けて用意すべきだ、と偉い人も言ってました!」

「偉い人って誰さ……」


 私は思わずツッコミを入れてしまう。

 何だか彼女のテンションが高まって来ているように思えた。不穏な気配だ。


「ということで、火起こしをしましょう、吉川さん!」

「どういうこと!?」


 彼女は私の両手をガシッと力強く握った。その眼はキラキラと輝いて見えた。


「任せてください、道具はわたしが作ります。やり方もちゃんと教えます。なので、安心して火起こしにチャレンジしてください!」


 その後、私は西園寺さんの指導を受けながら初めての火起こしへと挑んだ。

 一度目は火種を枯草へと移すのに失敗、二度目は枯草に移した後に息を上手く吹き込むのに失敗、悔しさをバネにした三度目にして遂に成功した。



 ●



 そうして、現在に至る。

 今更ながらに『だんだん早くアッチェレランドだんだん強くクレッシェンド熱情的にアパッショナート』って何だよ……お願い日本語で教えて、私分からない。


「どうでした、火起こし体験?」


 彼女は傍にあった大き目の石に腰を下ろしながら、そう問いかけてきた。

 どうやらこのハンモック的な椅子は一つしかないらしい。とは言え、勧めて来たのは彼女なので、今は遠慮なく座らせてもらう。正直、立ち上がる気力がない。


「……まあ、割と楽しかった、かな」


 実際、こうして上手く焚き火が出来たのは達成感があった。目前で燃えるこの火は自分で起こしたんだ、と思うと不思議な気分だ。いつからか凪のように落ち着いてしまっていた心が滾ったのは否定できない。


「そう言って貰えるとわたしも嬉しいです。それじゃ次は何をしましょう? 火起こし以外にもブッシュクラフトらしい技術はたくさんありますよ!」

「ごめん、今はちょっと休ませて……」


 活き活きと語る彼女には申し訳ないが、私はげんなりとした顔で返す。


「そうですか……」


 彼女はショボンと肩を落として見せた。それはもう地面にめり込みそうな勢いで。

 そんな姿に私はあわあわとして「あっ、ご、ごめ――」と謝罪しようとするが、彼女は「ふふっ」と頬を緩めた。


「冗談です」

「も、もうっ! 驚かさないで!」

「ごめんなさい。吉川さんはいちいち反応が面白くて、からかい甲斐がありますね」

「……むぅ」


 私は恥ずかしさから赤面する。

 けれど、そんな風に言われるのは不思議と嫌ではなかった。だって、そこに悪意は感じられないから。昔、私を揶揄してきたような連中とは違う。


「それでは、わたしはちょっと食材集めに行ってきますね。吉川さんはゆっくりしていてください。本を読むのもいいと思いますよ」


 彼女は勢いよく立ち上がると、木々が広がる方へと消えて行った。

 私はだらりと力を抜いて椅子に深く腰を沈める。その視線は自ずと空に向いていた。

 冬の空気は澄み渡っており、雲一つない鮮やかな青は玻璃のように透き通っていて、果てなく続いているとさえ思わせる。それはこれまでの人生で見たどの青空よりも綺麗だった。


 ブッシュクラフトはさておいて、こんな風に美しい大自然の中でゆったりするのは良いかも知れない。本も読める。人がいないのは気楽だ。周囲に他人がいると、どうしても気疲れしてしまう。特に大勢の中では。

 私のような人嫌いにはピッタリの趣味なんだろう、なんてふと思った。

 じゃあ、と続けて自ずと思い浮かんだ疑問がある。

 西園寺さんはどうしてブッシュクラフトをしているんだろう、と。



 ●



 時折、焚き火に薪を継ぎ足しながらも、私はぼんやりと空を眺めていた。もはや考え事もしておらず、全身に圧し掛かる疲労感に身を委ねている。瞼が重くなってきた辺りで、西園寺さんが戻って来た。


「お待たせしましたー」


 手ぶらかと思ったが、ダウンのポケットから色々と取り出し、平らな石の上に並べていく。


「これはフユイチゴの実。ほんのり甘酸っぱいです。これはムクノキの実。とても甘いです」


 フユイチゴの実は赤く透明感があった。複数の実がくっついているように見える。

 ムクノキの実は青黒かった。丸くて皮がしんなりしている。


「ちなみに、こういう木の実を食べる際はまず色を見てください。青や黒は基本的にオッケーです。黄色や白は駄目です。赤い果実に関しては種類が多く有毒なものもありますが、このフユイチゴのように集合果になっているのは問題ありません」

「そうなんだ」

「こちらの野草はセリとナズナとコハコベ。どれも七草で有名ですね。健康への良い効果が期待できます」


 野草はどれもその辺の草という感じで、私にはあまり見分けが付かなかった。


「木の葉や草は大体食べれますが、樹液が乳白色だったり、色が緑でないもの、また棘や細い毛で覆われていたり、妙な臭いがするようなのは避けてください」

「なるほど」

「最後にトウヒの葉です。お茶にすると爽やかな味わいでビタミンCが豊富です」


 トウヒの葉は針のような形をしていた。針葉樹というやつだ。


「マツもそうですが、こういう針葉樹は樹脂が分泌されているので、様々な用途に有用です。葉は火の焚き付けに使えますし、松脂なんかは接着剤代わりや蚊避けになります」

「へえ」


 空返事ばかりになってしまったが、実際どう反応すれば良いのか分からなかった。

 豊富なサバイバル知識で凄いとは思う。でも、私の人生における使い道が分からない。


「ぜひ覚えて帰ってくださいね」

「覚えて帰ってもどこで使えばいいのやら」

「遭難したらどうするんですか!?」


 叱られた。えぇ……と私は何とも言えない顔をする。


「人はそう簡単に遭難しないよ!? 少なくとも私の行動範囲では!」

「例えば明日、急に文明が滅ぶかも知れません。隕石なり太陽風なりでドカンです。そうなったら役に立ちます」

「そしたら私達、死んでる可能性が高そうだけど」


「社会にいるのが辛くて、無人島に逃げ込みたくなるかも知れません。そうなったら役に立ちます」

「人が来ない無人島に行くのは大変そうだけど。すぐ連れ戻されそう」

「細かいですね……」


 私がついついツッコミを入れてしまっていると、ジトリと睨まれた。


「いいですか、吉川さん。ブッシュクラフトは全ての物事を解決します。だから、こういう知識もちゃんと覚えましょう、ね?」

「は、はい……」


 彼女は私の両肩を押さえた。目が据わってて怖い。真剣ガチだ、この人……。

 コクコクと頷いた私に納得した様子の彼女は、さっきと同じ石の上に腰を下ろした。


「集めてきた食材は以上となります。今日は時間的にも軽食なので量は控えめです」

「サバイバルっていうからてっきり動物を狩りに行ったのかと思ったよ」


 私はそう言ってから、継ぎ足す。


「あ、でも、そういうことする場合は狩猟免許がいるんだっけ」

「そう思われがちですけど、実は免許がなくても狩猟は出来るんですよ」

「え、そうなんだ」


 これに関しては素で驚いた。狩猟と言えば免許が必要なイメージがある。


「ただ、指定された猟具、例えば銃だったり罠だったりを使うのには免許がいります。裏を返せば、それ以外の猟具を使う分には免許がなくても猟が出来るというわけです。自由猟と言います」

「その指定じゃない猟具っていうのはどんなのがあるの?」

「例えば、スリングショットって分かりますか?」

「聞いたことはあるかも。パチンコ的なやつだよね」


 私はゴムを引くような動作で示す。昔、玩具で触った覚えがあった。


「その通りです。ゴム紐の反動で弾を発射する道具のことをスリングショットと呼びます。簡易で玩具扱いの物がパチンコと呼ばれます。一般にスリングショットと呼ばれる物は強力なので、狩猟に使えるんですよ。他にはナイフも指定じゃない猟具に分類されます」


 そう言って、彼女はナイフを取り出して見せてくれた。弓切り式を作る際にも彼女が使ってはいたが、ちゃんと見るのは今が初めてだ。手渡されると、ズシリと重量感があった。


「これはブッシュクラフト発祥とされる北欧、その内のスウェーデン発ブランドのモーラナイフという会社が出しているものです。全体的にあまり値も張らず質も良いので、ブッシュクラフト初心者にオススメですね。わたしも初めに買ってから長く愛用しています」

「確かに歴戦感がある、何となく」


 私は刃の煌めきを見て、手入れが良くされているように感じた。そこでこれまでの話から一つの疑問が浮かぶ。


「それじゃあさ、西園寺さんもこれで動物を殺して食べたりしてるの?」


 ナイフで殺す分には問題ないのであれば、小動物程度ならさして危険もないだろう。例えば、ウサギとか。

 その口振りからして、そういうことも体験しているのかと思ったが、意外にも彼女は首を横に振った。


「いえ、わたしはしないですよ。免許がなくても守らなければならない狩猟のルールが色々とあるのはもちろんとして、それ以上にわたしのように一人ですることじゃないです。危ないですから。人にとっても、動物にとっても」

「人にとって危ないは分かるけど、動物にとって危ないって?」


「例えば、罠に掛かった動物を殺す際、手際が悪かったり押さえつけが足りないと、暴れて逃げられてしまうことがあるんですよね。罠に掛かった足を無理やり引き千切ったりして。そうなれば、その動物はもはや自然界で生きてはいけません。ただただ悲しい結末を迎えるだけです」

「……それは何というか、凄く嫌な話だね」


 人間の勝手で罠にかけておいて、取り返しの付かない怪我だけ負わせて、自然界に逃がしてしまう。当然、狩猟の対象となるのは害獣であることが多いだろう。とは言え、彼らは彼らなりに生きているだけだ。無用に苦しむような目に遭う謂れはないはず。


「それも自然の営みと言えるかも知れませんが、やはりこちらが勝手に獲物に定めたからには、きちんと殺し切ること、それが出来ないなら初めから行うべきではない、とわたしは思います。もし罠に掛かった動物が保護対象の場合、上手く押さえつけて外さなければならないですしね。そういう時の為にも、狩猟というのは原則として複数で行うものなんですよ。殺すなら殺す、生かすなら生かす。そんな選択がちゃんと行えるように。中途半端なことをしてしまわない為に」


 私は何も言えなかった。生半可な覚悟で狩猟は出来ないのだと強く思わされた。

 彼女も空気が重くなってしまったのを感じたのか、軽い口調で言葉を継ぎ足した。


「と、まあ、そういうことなので、わたしは自分の命が掛かった場でもない限りは狩猟は行わない所存というわけです。将来的に狩猟免許を取ることには少し興味がありますけどね。免許は最低でも十八歳からなので」

「なるほど、ね。少なくとも、こんな風にブッシュクラフトに来た際に用いる手段ではない、ってわけだ」

「はい」


 彼女にとってブッシュクラフトはあくまで趣味としての行い。技術や知識はあっても、それを実際に行使するかどうかは別問題ということなのだろう。色々と考えて行っていることに感心させられる。


「それに、こういう野草や木の実だけじゃ食事としては物足りないかも知れませんけど、そこの川には魚もいますし。昼食や夕食の時は罠を仕掛けて獲ったりしますよ」

「やっぱ泊まったりもするんだよね。一人で怖くない?」

「わたしはあまり気にしないタイプですね。何かあればすぐに連絡も出来ますし、監視カメラもあるんですよ、ここ」

「え、そうなの」


 私は思わずキョロキョロと周囲を見回す。


「分かりにくくはなってますけどね。安全対策をきちんとしてないと、家に許可して貰えないので」


 そういうところはやっぱりお嬢様なんだな、と思う。

 実際、危険も色々とあるだろうし、心配するのは当然とも言えるが。


「さて、そろそろ軽食の準備をしますね」

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