さばいぶっ!
吉野玄冬
前篇
それは弓切り式と言うらしい。
柔軟性に優れた枝の両端に紐を結び付けて、弓なりにしならせている。紐の中点には先端を尖らせた木の棒が潜らせてあった。その先端は長方形の板に作った小さな溝へと当てられている。
私はまるでバイオリンでも演奏するように、それをギコリギコリと前後に動かす。連動して棒がクルクルと回転し、先端が溝の間で摩擦を引き起こしていく。さして力は入れなくとも、動かしている間は着実に熱が蓄積されていく。
そんな教えに従いながら動かしていると、やがて棒の先端から煙が生じ始めた。動かす度にその量は増していく。頃合いを見て腕を止めると、急いで下の木板をどけた。
棒を当てていた溝の下には木の葉が敷かれている。その上に落ちた木屑は真っ黒だが、ほんのりと赤みを孕んでいた。火種だ。
私は火口として用意していた枯草を掴み、その内側に包むようにして火種を入れた。
そこに息を優しく吹き込んでいく。繊細に、丁寧に。
すると、火種を中心として煙が生じていき、抱える手のひらが熱を帯びていく。
程なくして、包み込んでいた枯草全体にボウと火が燃え広がった。
私は慌てて地面に置くと、勢いよく燃える枯草の上に小さく細い薪を載せていった。星型に配置するようなイメージだ。火力が増すにつれ載せる薪を太く大きな物へと変えていく。
そうして、遂に私の眼前には焚き火が出来上がった。枯れ木がパキリパキリと音を立て爆ぜている。火力も安定しているようだ。
「…………」
私は傍で様子を見ていた彼女と目を合わせた。僅かな間の後、喜色満面の笑みを浮かべた彼女とハイタッチする。
「三度目のチャレンジにして、ようやく……! やったよ、
「やりましたね、
私達はすぐさま焚き火に両手をかざした。温かさが手の先からすっかり冷えた身体にじんわりと染み込んでいく。
「あぁ、これはやばいね……人を駄目にする温かさだ……」
「こんな寒さの中で火を起こした瞬間というのは何にも代えがたいんですよねぇ……」
まるでお風呂に入ってすぐのように、私達は緩み切った顔で焚き火を堪能する。
そんな私の胸中には達成感が溢れていた。二度の失敗は悔しさを覚えたが、彼女のアドバイス通りに問題点を修正していき、遂には成し遂げたのだから。
出来ないことを、出来るように。知らないことを、知っているように。それはごく単純なことでありながら、もうしばらく感じたことのなかった感覚。
小さな頃なら日常茶飯事だ。だけど、人は年を取るにつれ、新たな物事への忌避感すら覚えるようになる。現状の自分に満足してしまうから。心の停滞だ。
けれど、今の私はそんな停滞を打ち破る矛を携えているように感じられた。
「これで吉川さんもブッシュクラフタ―の仲間入りですね」
しかし、私は彼女の言葉に『ん?』と疑問に思い、それはふと我に返らせる。
「…………って何で私、火起こしに夢中になってんの!?」
思わず自分にツッコミを入れてしまった。完全におかしなテンションになっている。良く考えればハイタッチなんてする柄でもない。
「え、ブッシュクラフトの魅力に気づいてくれたんじゃないんですか……?」
「いやいや、そもそもブッシュクラフトが何かも良く分かってないんだけど」
「ブッシュクラフトは『自然環境における生活の知恵』というような意味合いの言葉になりますが、分かりやすく言うならサバイバル寄りのキャンプのことですね。通常のキャンプとブッシュクラフトを分ける明確な定義は特にないのでアバウトな認識で良いですが、わたしの場合はナイフや救急セットのような最低限の装備以外は道具も食材も現地調達を基本として考えています。その基礎と呼べる技術が火起こしなので、こうして体験してもらったわけです」
「怒涛の情報量っ!? 好きなことは一方的に喋るタイプだね、あなた!? 分かりやすいけども!」
「ただまあ、今日はブッシュクラフトというよりは普通にデイキャンプ、日帰りでのんびりしに来ただけなので、道具も色々と持って来ていますよ」
そう言うと、彼女はシートの上に載せていたリュックから色々な物を取り出して見せた。
その中から一つの収納袋を開き、中にあった複数のポールをカチリカチリと連結させて一つの形にした後、上から生地を取り付けた。随分と慣れた手つき。
組み上がったのは椅子だった。小さなハンモックのような雰囲気だ。
「良かったらこれに座ってください」
「……それじゃ遠慮なく」
私は有り難く座らせてもらうことにする。背や腰に柔らかく包み込むような感覚。
思わず「ふぅー」と大きく息を吐いてしまう。合わせてドッと疲労が押し寄せてきた。
どうやら火起こしに夢中になって高揚していたらしい。感覚が麻痺していたのだろう。
座りながら今の自分が身を置いている状況を確認する。
すぐ傍には小川がさらさらと流れていて、私達がいるのは足元が石や砂で埋まっている川原だ。少し離れた先には様々な草木が繁茂している。ここは秘密の場所らしく、他に人気はない。
季節は十二月の初頭なので、かなりの寒気が襲ってきている。焚き火がなければ、こんな風にのんびり座ってはいられなかっただろう。
それにしても、何だってこんなことになっているのか。私はその原因となったつい数時間前の出来事を思い出す。
私――吉川
●
その時、私は本屋帰りだった。
自宅で昼食を食べてから、駅前のショッピングモールまで歩いて行った。
さて、家に帰ろうか。そう思ったところで私は彼女と遭遇することになった。
西園寺柊佳。同級生だ。彼女は横断歩道の向こう側で信号待ちをしていた。
日本人形を思わせる艶やかな黒髪に新雪のように白くなめらかな肌、加えて女神の彫刻のように整った顔立ちは同性でもハッとさせる程の美しさを保有している。
更に彼女はこの地域の名士である西園寺家の一人娘だ。いつ如何なる時もお嬢様然とした清楚な出で立ちに優雅な振る舞いをしており、所作一つとっても目を奪われる程に綺麗だ。
その周囲にはいつだって花が咲いたように、見目麗しく才知に優れた人間ばかりが集っていた。凡人は立ち入ることの出来ない禁断の花園。遠くから眺めることしか許されない。
私のように教室の端で本ばかり読んでいる地味で根暗な女とは正反対だ。クラスに気安く話せる相手もいない。クラス替えする度、すぐに本で
昔から人と関わるのは息苦しく感じてしまう。これという理由があるわけじゃない。多分、色々なものが折り重なってこんな人格を形成してしまっただけ。
私と彼女はその辺の石ころとキラキラ輝く宝石みたいなものだ。向こうはこちらのことなんて気にも留めていないだろう。
西園寺さんの姿を見た私は、目を背けてこの場を離れることに決める。
そもそも私は相手が誰であろうとも同様の振る舞いをする。不思議と外で知っている顔を先に見つけてしまう
しかし、今日の彼女の服装は私の中のイメージとまるで違っていて、少し気になった。
トップスにはダウンジャケットを着ており、ボトムスは随分と動きやすそうなロングパンツ。
背中には大きなリュックを背負っていた。どう見てもそこらにお出かけという格好ではない。
ちなみに私は家着のシャツとデニムに、上から適当に取り出したコートを羽織っている。本を買いに来ただけなので、非常にラフな格好。こういうところが女子的に駄目なのかも知れない。
それにしても、これから登山にでも行きそうな姿だな、と思う。彼女がアウトドアな趣味を持っているなんて聞いたこともない。少なくとも、教室で漏れ聞こえてくる会話からは。別に聞き耳を立てているわけじゃない。断じて。
気にはなったものの、私は当初の予定通りスッと身を翻してこの場を離れようとする。もはや反射にも近い動き。
けれど、そんな私を襲ったのは予想外の出来事だった。
「――吉川光莉さん!」
澄み切った良く響く声がした。西園寺さんだ。
自分の
私はロボットのようにギギギと振り返ると、彼女は微笑みながらこちらに小さく手を振っていた。これじゃ逃げられない。
どうしようもなくその場に立ち尽くし、彼女が信号を渡って来るのを待った。ただ歩いているだけなのに、その姿は絵になっていると思えた。
「ごきげんよう、吉川さん」
「……ごきげんよう、西園寺さん」
彼女はにこやかな笑顔で挨拶をしてくれる。花弁が舞うのを幻視する程に綺麗だった。
しかし、私は目線も合わさず返事をする。人と目を合わすのは苦手だ。何となく、心の奥底を覗かれているように感じる。
「奇遇ですね。今日はお買い物ですか?」
「その、本を買いに」
私は手に提げていた書店の袋を軽く持ち上げて示す。彼女は納得した様子で頷いた。
「ああ、なるほど」
「西園寺さんは、どこか行くの?」
社交辞令としての質問返し。その程度のコミュ力はある。
「わたしは今からそこの山まで」
彼女が指差したのは、この町に住んでいると嫌でも毎日のように拝むことになる山だ。標高は確か400m程度。山頂までは歩いておよそ一時間だ。この辺りに住んでいる人間のほとんどは登った経験があるだろう。
「と、登山?」
「いえ、ブッシュクラフトです」
「ブッシュ、クラフト……?」
私は聞き慣れない言葉に疑問符を浮かべた。
すると、彼女はこちらを上から下までサッと一瞥した後、その両手を合わせて驚きの提案を口にする。
「良かったら、吉川さんも一緒にどうですか? 楽しい体験が出来ることを約束しますよ」
先の視線はこちらの服装を確認したのだと理解する。
……スカートでも履いとけば良かった!
私は内心で後悔した。動きやすい格好をしてしまっていたばかりに。
誘われてしまえば、断り辛い。それなら初めから誘われない方がいい。
けれど、こうなってしまえば仕方なかった。意を決して断るとしよう。
私はそう思って口を開くが、出てきたのは違う言葉だった。
「……う、うん、いいよ」
ああ、断れない私の馬鹿……拒否が出来ない女なんです。過去に色々と押し付けられた経験有り。こんな誘い、社交辞令に決まっているのに。頷いてしまったことに自己嫌悪が押し寄せる。
「本当ですかっ!?」
しかし、彼女は思わぬ喜びの表情を見せた。まるで小さな子供が新しい玩具を貰ったように無邪気な笑顔だった。それはクラスで彼女が見せる姿とは違っていて、私はドキッとした。綺麗とか美しいじゃなくて、可愛らしさを感じた。
「それでは、早速行きましょう!」
彼女は嬉々として私の手を引いた。細くしなやかだけれど、温かな手。
こんな風に誰かに手を引かれたのはいつ以来だろうか。記憶にはなかった。
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