第九章 喜びの輪

 それからの三週間は長かった。

 目的のためにしなければならないことが大量にある日々から、目的を前にしてできることが何もない日々へと急激に移り変わったわけだが、目まぐるしさや重圧から解放された反面、こちらもこちらで独特の苦痛があった。

 気持ちがちょっとでも試験のことに向かうたびに、心が体を置いてどこかへ走り去ってしまいそうになる。起きてから眠るまで、常にたった一つの結論に飢えている状態だった。


 仕事のある日はまだよかった。雑事に集中していればそれなりに時間は進む。

 そうでない日の弛緩しきった時間はなかなかに長大だった。いままで生きてきて、これほど特定の日までさっさと時間を飛ばしてしまいたいと思いながら暮らしたことはなかったと思う。

 結局、私は仕事のない日の大半をこれまで通り図書館ですごした。

 読書が習慣づいているというのもあるが、それ以上に、私にとって本を読むことがもっとも速く時間を進める方法だったからというのが大きい。

 時間を潰すために本を読むというのは、私にとって初めての発想だった。


 ◆


 先輩の存在はそんな日々の中で数少ない救いの一つだった。

 相変わらず仕事中は何かと気を遣ってくれたし、私が時間を持て余している旨を告げると、お互いの休みが合った日に私を歌劇場へ誘ってくれた。

 私は初めて先輩と一緒に外へ出かけ、劇を鑑賞し、ちょっと奮発した食事をしてから、先輩の住んでいる部屋に初めてお邪魔した。


 先輩の部屋は適度にいろいろな小物やら何やらで飾られており、私の部屋を質素と評したのもよくわかるささやかながらの華やかさを備えていた。

 本来、若い娘の部屋というのはこういうものなのかもしれない。

 他の同年代の女性はどのような部屋に住んでいるのかと先輩に訊ねると、意外にも先輩からは、よく知らないという返事がかえってきた。彼女曰く、他人の部屋に入ることも他人を部屋に入れることも、実はほとんどないらしい。


 社交的で面倒見のいい先輩の性格からすると、それは私には一瞬不思議に思えたが、仕事場の予定表を思い返してみるとそれもわかるような気がした。

 彼女は自ら申し出て人一倍仕事を入れていて、そもそも休みをあまりとっていない。

 二日に一度は休んでいる私とほとんど休みが合わないのは、単純に雑用係がどちらも休むことのないように予定が組まれているというだけではなく、実際に彼女の休日が少ないからでもあるのだ。


 私は先輩の生い立ちをほとんど知らなかった。

 彼女からそういう話題を切り出すことはまずなかったし、私にも自分から相手のそういうところに切り込む会話の技術(あるいは度胸)がなかったから、まるで禁句のように触れずじまいだったのだ。

 でも先輩の仕事への態度から考えるに、彼女はとても急いでいるように見えた。少しでも早く一人前になることが、彼女の最優先事項であるというように。


 私は先輩の部屋で、そのあたりのことを勇気を出して訊いてみた。

 幸い、それは決して禁句でも何でもなかったようで、彼女は嬉々としてこれまでの経緯を話してくれた。

 両親ときょうだいのこと。小さな頃どんな子供だったか。料理人を目指したきっかけ。私とそう変わらない歳の頃に修行の開始と同時に一人暮らしを始めたこと。今日までの日々の中で、自分がどう伸びたか、あるいは思うように伸びていないか。


「ま、いずれ華やかに料理人やるための雌伏のときなわけでね」と先輩は言った。「本格的に人生を飾るのはこれからってこと。いまはこの部屋をちょこっと飾るだけ」

 それから私の両肩にそっと手を置いて、先輩は続けた。

「キミは一足早く飛び立つんだよ。私もすぐに追いつく。それでお互い一人前になって――キミがこの街に残るなら、キミは私の常連客になる。そうじゃないなら、この街に来るたびに私の料理を食べに来る。そういう予定をもう立ててるんだからね」

 腕によりをかけるよ、友達なんだから――と先輩は笑った。


 友達。その言葉がとても新鮮で、私はこの日、先輩と別れてからもずっと、ベッドの中でもその言葉を何とか繰り返し口にしていた。

 この私に友達ができたのだ。それだけでも、この街に来てよかったと思った。


 ◆


 下宿舎の住人は結局ずっと私と女主人親子の三人だけで、住処へ戻ればあとは静かなものだった。


 少年は三週間目になってようやく固定された腕を動かしてもよくなったらしく、それと同時に女主人から「探検」再開の許可が下りた。

 それまで大人しくしていた少年は再び翼を得たように外界を飛び回り始めた。

 ただ、女主人から幾つかの禁止事項は受けていたようで、行きたいのに行けないところがあるとしきりに愚痴っていた。

 そういうのはもっと大きくなってからだと諭された少年は、どうすれば早く大きくなるのかとある晩私に訊ねてきた。残念ながら私にもわからないことだった。人はどうすれば成長を早めることができるのか。


 一日だけ、私の朝の「探検」に少年がついてきたことがある。結果発表の三日前のことだ。

 私がいつものように地図を懐に収めて――もはや勉強に行くわけではなかったので、筆記用具のたぐいは持たなかった――出かけようとすると、少年が一緒についていっていいかと私に訊ねた。


 特に考えることもなく、私はいいよと告げた。何か新鮮味のあることで時間が潰せるなら、それはそれで歓迎だったから。

 私と少年は街の東にあるちょっと高級な住宅地まで歩いていった。正確には、歩いている私の周りを少年が駆け回っていたのだが、ともかく私達はそこまでぶらぶらと歩を進めた。


 途中で女主人の話題になり、ふいに少年から私の親のことを訊かれた。ねーちゃんのかーちゃんはどんな人かと。

 とても優しい人だったけど、いまはもういないと私は答えた。

 少年は、俺もとーちゃんいないんだ、と言った。そこは私と同じだ。私にも父はいない。


「お父さんのことを覚えてる?」と私は訊いた。

「覚えてない」と少年は答えた。きっとかなり幼いときに亡くなったのだろう。


 住宅街には大きくて新しい家々が立ち並んでいた。単純な建物の大きさなら下宿舎のほうが勝っていると思うが、もちろんこちらは一組の家族が暮らす家々なわけで、生活の水準がまるで違う。


「いい家ばかりだね」と私は言った。

「ねーちゃん、こういうところに住みたい?」と少年は訊ねた。

「うーん、どうだろう」私は考え込む。私はどれくらいの暮らしを望んでいるのか。自分でもよくわからない。

「俺は自分ちがいい!」と少年は言った。


 少年の祖父が立てたという、あの下宿舎。もし少年が大人になっても気が変わらないのであれば、きっと少年の代まで引き継がれるだろう。

「あなたは将来、何になりたい?」私は訊ねる。

 少年は少しのあいだ考え込んだ。それからおどけたように言った。

「わっかんねー!」


 すっきりとした回答に、私は思わず笑ってしまった。そこも私と同じだ。私もまだわからない。

 それから私達は街中をぐるりを迂回するように歩き回り、普段はしない買い食いなどをしながら最後は広場でお昼までの時間をすごした。

 昼食を機会に別れ、私はそのあと閉館までのあいだ、いつも通り図書館で本を読んでいた。

 ――あなたは将来、何になりたい?


 ◆


 そのようにして三週間が経過し――その日はやって来た。天気は良かったが、いつもより冷え込む一日だった。

 結果の発表は午後四時。その二十分ほど前、私は上着を着て受験票を持ち、準備万端整えて玄関先で深呼吸を繰り返していた。何とか緊張をほぐそうと努める――しかしまるで効果がない。


「落ち着いて。いまさら何がどうなるわけでもないんだから」女主人が宥めてくれる。

「わかっています。でも――」と私は言った。「胸のどきどきが止まりません。試験のときより凄いです」

 まぁ、しょうがないよねえ、と女主人は苦笑する。

「何たって人生の分かれ道だもんね。どうしようもないか」


 考えようによっては、この緊張は特権でもある。

 試験の手応えがなく、およそ合格の目がないと考えられる人間ならば、発表を見に行くことにさほどの緊張は生まれない。

 これはある程度の結果を出せたと自負している者だけが味わえるものなのだ。そういう意味では、贅沢な悩みではあった。

 だから本当はもっと、この感触を楽しむつもりでどんと構えているべきなのだろうが――残念ながら私の胆力では、それはままならない。


「とりあえず――」と私は片足の踵を返して言った。足の動きが少々ぎこちない。「行ってきます」

「なんか頼りないねえ……あんたらしいような、あんたらしくないような」女主人は言い、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。「パッと済ませておいで。どんな結果になっても、胸を張って堂々と帰ってくるんだよ」


 下宿舎を出ると、私は大瞑堂の裏門を目指してゆっくりと歩き出した。

 別にゆっくり歩きたかったわけではない。一歩一歩きちんと踏みしめて歩かないとつんのめってしまいそうで不安だったのだ。足に上手く自分の意思が伝わっていかない気がした。そのどこまでが気のせいなのか、自分でもよくわからない。


 普段の私はどちらかといえばすいすいと速く歩いていくほうだ。

 それを前提として、発表にちょうど間に合うように二十分前の出発ということになったわけだが、この感じだと結果を張り出されるのが先になりそうだった。

 それでいいのかもしれない。万が一着くほうが先になってその場で掲示を待つなんてことになったら、心臓がどうなってしまうかわかったものではない。


 この三週間、ずっと待ちこがれていた日なのに、いまは現地に辿り着きたいのか着きたくないのか、それがだんだんわからなくなっている。それでも一歩ずつ目的地には近づいていく。もちろん引き返すという選択肢などない。


 そしてとうとう裏門に辿り着く。


 そのすぐ横にちょっとした人だかりができていた。数にしてだいたい四、五十人といったところか。

 既に掲示はされているようだった。受験者の中には、試験が終わってすぐ故郷に戻り、手紙により結果を待つ人も少なくないから、発表と同時に集まる人の数はだいたいこのくらいなのだろう。


 方々から一人、また一人とやって来て、その人だかりの中に加わっていく。逆にそこから抜け出てくる人もいる。

 その顔に笑顔はない。重い落胆と、それほどでもない落胆と、無表情ばかりだ。

 ――誰も受かっていない。


 私はぞくりとする。人だかりの向こうに何一つ番号が書かれていない真っ白な紙が張り出されているところを想像してしまう。その想像を振り払うように頭を振り、顔を軽く二度ほど両手で叩いた。


 覚悟を決める。


 私は人だかりの中に入っていく。

 入ってみると、人の循環は思った以上に速く、かき分けて進むまでもなくどんどん中央に向かっていくことができた。それだけ確認が容易なのだ。番号なんて、たとえ書かれているとしてもほんの数個だから。

 そして――私は張り紙の目の前までやって来る。


 私は下を向き、いまさらのように自分の受験票の番号を確かめる。記憶と寸分違わぬ数字がそこには書かれている。忘れるはずもない。恐らく一生忘れないだろう。

 それから私は真っ直ぐ前を見る。

 紙に書かれていた数字は三つ――合格者は三人。

 ――その真ん中が。

 私の番号だった。


 ◆


 そのとき私に起きたことは、想像していたのと少し違っていた。

 私は自分がそれを確認できたら、きっと歓喜に全身を震わせることになるだろうと――周囲の目もそのときばかりは気にせず、叫び出すくらいのことはするのではないかと、そう思っていた。


 でも現実はそうではなかった。そのとき私の頭の中を、全身を覆い尽くしたのは、歓喜などという一種類のわかりやすい感情ではなかった。

 およそ名前のついているありとあらゆる感情の源泉たる何かが、出番も段取りも関係なく頭の中で爆発して血液と一緒に体中を流れていった。

 それは逆に私から動作を奪った。私はしばらくのあいだ声を出すことも体を動かすこともできず、受験票を手にしたまま、そこに書かれているのと同じ番号の書かれた張り紙を見つめていた。

 いや、正確には見つめていたのではない。見つめた状態のまま他になにもできなかったのだ。瞬きをしていたのかどうかすらも怪しい。


 それから時間をおいて、私の体はわなわなと小さく震えだした。

 その段になってようやく私の頭の中に理性らしきものが戻ってきて、私はその震えを必死に抑え込もうとした。

 そして次に考えたのは、早くどかないと他の人の迷惑になる、ということだった。私はまだ確かではない体を無理矢理動かして人だかりから離れ、受験票を見つめたままぽつんと一人で突っ立っていた。

 だんだんと感情がまとまってくる。


 ――受かった。

 受かった。

 受かった――。


 私はなぜか空を見上げた。

 空に何を求めたのか、自分でもわからない。そこは大瞑堂のすぐ裏手だったから、いつも景色として映るはずの二つの塔は近すぎて見えなかった。

 そのいつもと違う空に向かって、いつもと違う私が思いきり心を飛ばす。

 私の心は大瞑堂の周りを飛び回り、街中を飛び回り、街を越えて故郷まで飛んでいき、故郷の空を飛び回った。


 私は自分が正常に戻るのをじっと待つ。まともに歩き、まともに話せるようになるのを待つ。どれほどそうしていたかはわからない。最終的に、私は自分がいつもと同じように振る舞えるようになることを諦めた。

 たぶん今日はもう、普通でいるのは無理だ。


 それから私は手続のために庁舎に向かった。

 そこで私を担当したのは、最初に予備特待生の登録をしたときにいた、銀縁の眼鏡をかけた女性だった。奨学金の支給を受け取るときはいつも別の人だったので、会うのはあのとき以来になる。

 私はうまく回らない舌をなんとか動かして合格者であることを告げ、所定の手続を済ませた。といってもたいした内容ではない。受験票の照合をして、当座の合格証書代わりに授与式の案内を手渡されるだけだ。

 ――授与式は半月後。大瞑堂の本堂にて行われる。


 去り際、女性は感嘆したように、凄いわね――と私に言った。

「あれから半年くらいなのに。よく頑張ったわね」

「私を――覚えているのですか?」

「もちろん。可愛らしい子が予備特待生だって言って来たんだもの。よく覚えているわよ。おめでとう」

「……ありがとうございます」


 私は定型文を切り貼りするように礼を言う。ちょっと熱に浮かされているような気もする。

 そんな私の状況がよく理解できるのだろう、女性は生まれたての雛を見守るような目で私を見ながら、口元に手を当てて小さく笑っていた。

 ほんの少し顔が熱くなるのを感じながら、私は庁舎を後にする。


 行きとは違う意味で、帰りの足取りもいつもと違っていた。体じゅうがふわふわしていて、しっかり地面を踏みしめないと空に飛んでいってしまいそうな気がした。人間はこんなにも軽くなれるものなのかと変な感心をしながら、私はゆっくり時間をかけて歩いていった。冷たい空気が気持ちいい。


 女主人は息子さんと二人、下宿舎の前で私の帰りを待っていた。私の姿が見えるなり、彼女は遠くから全身で結果を求めてきた。

 私は案内が入った封筒を掲げて、できるだけわかりやすく笑顔を作ってみせた。


 女主人は顔をほころばせると、やり場のない衝動をぶつけるように傍らの少年の頭をぐしゃぐしゃに撫で回す。

 それから私が近づいていって、受かりました――と短く報告すると、今度は私に飛びつき、絞め殺さんばかりの勢いで私をぎゅうっと抱きしめた。


「よくがんばった――本当に」

「――ありがとうございます」少し苦しい体勢で私は言う。

 それから女主人は私を引きはがし、私の頬を優しく撫でた。

「たいしたもんだよ、あんたは。勝手な話だけどさ、なんだか自分の娘が凄いことやってくれたみたいで本当に嬉しい」


 何と言ったらいいのかわからず、私はただ頬を撫で回される。女主人はただただ愛おしそうに私を見つめていた。

 この感じ――大事に守られている感覚がとても懐かしくて、熱を帯びた私の中にさらに温かいものが生まれる。私は目を閉じて、しばしその感覚に浸った。


「ねーちゃん、なにしたの?」ふいに少年が訊ねる。

「うん? そうだねえ……」

 女主人はどう応えたものか決めかねて、私を見る。私は少年の前で腰をかがめ、顔を近づけて答えた。

「――勉強頑張ってるねって、偉い人に褒められた」

「褒められたの?」

「そう」

「それって凄いの?」

「うーん……」


 私はそれを自分の口で言うことに僅かなあいだためらいを持つ。それを代弁するように、横から女主人が、凄いことなんだよ――と言った。

「とんでもないことだよ。たぶんいま、この街でいちばん凄いことかもしれない」

「ほんと?」

「本当さ」

「ねーちゃん、凄いんだ!」


 少年は嬉しそうに言う。子供のまっすぐな言葉でそう言い表されることで、遅ればせながら私の中にまんざらでもない気持ちが湧いてきた。普段なら私の性格ではまず表に出てくることがないであろう自負。

 ――私は、やり遂げたのだ。


「今日はこのあと、どうするのかい?」女主人が訊ねた。

「このあと仕事場に行って、そこの皆さんにも報告します」と私は答えた。「そういう約束になっているので。そのあとは……決まっていませんが、もしかしたら何かやるという話になるのかもしれません。なりそうな気がします」

「そうかい。じゃあ――」女主人は少し考えてから続ける。「あんたが夕食時までに戻ってきたら、うちでお祝いだ。でももし戻ってきそうになかったら、私がこの子を連れて店に行くよ。そっちのお祝いの空気に混ざることにする。遅くまではいられないけどね」

「わかりました。ではそういうことで」

「いますぐ行くかい?」

「はい。そうします」

「わかった、じゃあ行っておいで」

 行ってきますと私は言い残し、今度は仕事場へと向かう。


 先輩との約束はこうだった。もし私が合格していたら、できるだけ早くそれを教えに来て欲しい。もし駄目だったら、そのときは何もしなくていい――。

 あれほど試験のことを気にしてくれていた先輩のことだから、きっとやきもきしながら仕事をしているはずだ。生意気な言い方だが、早くそこから彼女を解放してあげなければいけないと思った。


 まだ夕食時には早いので、仕事場である食堂の客の出入りはあまり目立たなかった。

 しかし従業員の身で営業中に表から店に入るのはためらわれたので、私は裏にある出入り口のほうへと回ることにした。当然鍵がかかっているが、ノックすれば誰かが気づいてくれるかもしれない。それで反応がなかったら表から入ろう。


 そう考えて裏口へ着いたちょうどそのとき、その扉が開き――中からゴミの袋を持った先輩が出てきた。

 私と目が合う。ほんの少しの沈黙があった。


 先輩は袋をどさりとその場に落とすと、一目散に駆け寄ってきて、私に飛びついてきた。

 あまりに突然のことだったので、私は受け止めきることができずに後ろによろけ、尻餅をついてしまう。先輩はそんなことはお構いなしに私の首に腕を回し、力いっぱい私を抱きしめた。今日は抱きしめられる日だ。


「……さすがキミだ」と先輩は耳元で囁いた。「信じてた」

「お陰様で――何とかなりました」先輩の胸の中で私は言い、一瞬取り落としそうになった封筒をひらひらさせる。

「本当に、凄い子だ」先輩の声がかすれる。「本当に――」


 先輩はそれ以上何も言わなかった。私を包む腕が小刻みに震えている。

 私は先輩の胸に顔をうずめたまま、すぐ上で彼女が泣いていることを察した。その涙を想像しているうちに私の中の感情も大きく揺れだし、いつしか私の目にもじわりと涙が浮かんできた。感極まって、私も先輩の背中に腕を回し、彼女を抱きしめた。

 何かを言わなくてはならないと思ったが、何も言えなかった。先輩も同じだったのだろう。私達はそのぶん、ただただお互いを強く抱擁していた。


 どれくらいのあいだそうしていただろう。やがて先輩はふっと私に回していた腕をほどく。そして頬を伝う涙をぬぐい、赤くなった目でじっと私を見つめると、照れくさそうにニッと笑った。


「なんか――お互い恥ずかしいところ見せちゃったね」

 私も先輩から腕を離し、目をこする。そうですね――と言ったつもりだったが、声がうまく出なかった。

「じゃあ、湿っぽいのはこれでおしまいね」


 先輩は立ち上がると大きく一つ深呼吸をし、それから私の腕をとって引き起こした。自分の膝の汚れをはたき落とし、ほらキミも、と言いながら私のお尻のそれもぱんぱんとはたく。

「ゴミをやっつけてから、私はみんなに教えに行く。キミは店長に報告しておいで。いま部屋にいるから」


 店長の部屋の前まで来ると、私は顔に涙の筋が残っていないか確認し、軽く咳をして喉の調子を整えた。目が先輩のように赤くなっていたかもしれないが、それはもうしょうがない。


 いつものように扉をノックする。おう、という声が中から聞こえた。

「失礼します」と言って私は中に入る。

 店長はいつものように机に陣取って、何か帳簿のようなものを手にとって読んでいるところだった。聞こえてきたのが私の声であった時点で、どうやらすべてを察したらしい。私が言葉を見つける前に、店長のほうから静かに口を開いた。


「……通ったか」

「無事に合格できました」私は報告する。「皆さんの支えのおかげです。本当にありがとうございました」

「ふむ」店長は手に持ったそれを机に置く。「美しい言い回しとしては合格点だが、私は特に何も支えてはおらんよ。徹頭徹尾お嬢ちゃんが自力で勝ち取ったものだ。建前は建前として、そこは誇っていい」

「いいえ」と私はきっぱり否定する。「自分を理解してくれる環境に身を置けるいうのは、何かを長く続ける上でとても幸運なことなのだと、私はこの数ヶ月で学びました。皆さんの理解がなかったら、私の日々はずっとつらいものだったに違いありません。そのような日々をすごしていたら――結果は違ったものになっていたかもしれません」


 店長はぽりぽりと頭を掻いた。

 一見すると不機嫌そうな表情は、その裏にあるものを隠すように存在しているのだということを、いまの私はよく知っている。

 それから店長は独り言のように、お嬢ちゃんも言うようになったな――と呟いた。

「十二年ぶりか。いままで何に取り憑かれていたのかわからんが、どうやらそいつはここから出て行ったようだな。……お嬢ちゃん」

「はい」

 それから少しの間があく。店長は抵抗するのを諦めたようにぼそりと言った。

「……ありがとうよ」


 私は店長と一緒に作家さんの家に行ったときのことを思い出す。

 とりあえず私は、受け取るべきものを受け取り、繋ぐべきものを繋ぐことができたようだ。

 自身の喜びとはまた違う喜びが私の胸にこみ上げてくる。自分のためだけに受けた試験のはずだった。もしそれが他の誰かを救うことになったのだとしたら――こんな幸福な連鎖はないだろう。


「こちらこそ、本当に――」

 私がそこまで言いかけたところで、後ろから生き急ぐようなノックの音と共に「店長!」という先輩の大声が聞こえた。

 店長は先程と同じように、おう、と一言応対する。勢いよく扉が開き、踊るように先輩が入ってくる。


「店長、今日の店じまいのあと、ここを使っていいでしょうか? 祝勝会をやりたいと思うんですけど!」

 祝勝会。店じまいのあと、ということは――真夜中か。

「あの、先輩」と私は口を挟む。「それって――もしかして明け方まで、ということでしょうか」

「もちろん」と先輩はさらりと言う。そして奥の店長に向き直る。「どうしてもお祝いしたいんです。どうか許可をいただけませんか?」


 店長はしばし考える。あるいは考える素振りを見せる。それから突き放すように言う。

「明日の仕事がしんどくなっても構わんのなら、好きなようにやれ。厨房にあるものは何を使ってもいい」


 先輩はまだ少し赤い目を輝かせて、ありがとうございますと叫ぶように言い、それから側にいた私の手を取った。

「そういうわけだから。今日の夜、空けといて。晩ご飯は軽めに。それから、少し寝ておいたほうがいいね。あ、もちろん夜中に一人で出歩いちゃ駄目だからね。ちゃんと迎えの男の人を行かせるから、それについてくるんだよ。いい?」

 目の前で何から何まで私の予定が組み上げられていく。でも悪い気はしなかった。先輩のあまりに無邪気な笑顔に押されて、私の心も徐々に踊り出すのを感じた。

「――はい」私は笑って快諾した。


 ◆


 その夜はほんとうに長い夜だった。


 祝勝会の段取りが決まったあと、下宿舎に戻り、まずは女主人親子とのささやかなお祝いをした。

 夕食は軽めにと先輩に言われていたわけだが、こちらもこちらで祝いの席、それで済むはずもなく、それなりに奮発した食事を振る舞われ、私もまたそれに応える形で普段よりたくさんの料理を口にした。

 少年は何を祝っているのか正確には理解できていないようだったが、それでも私に因むものであることはわかったようで、女主人と共にしきりにこれも食べてあれも食べてと私に勧めてきた。それに応えないのも無粋な気がしたので、遠慮なくいただいていたら、かなりの量になったのだ。

 それから自室に戻ると、先輩に言われたとおり次の予定に備えて少し眠った。


 そのあと深夜になって約束通りに給仕の男性が迎えに来て、私は再び店に向かった。

 今度は堂々と、主賓として表の入り口から入っていく。

 多くの人々が歓声で迎えてくれたのだが、従業員だけではなくお客さんも何人か混じっていることに私は少々驚いた。

 用事があってたまに食堂に顔を出すこともあったから、馴染みのお客さんにはそこそこ顔が知られている。その人達が席に加わっていたのだ。

 食堂の端には店長もいて、あたかも仕方なく参加してやるといった風に頬杖をついていた。その様子が何だか面白くて、私は思わず苦笑してしまった。


 先輩が音頭を取り、祝勝会は開始された。あとはもう、食べて飲んで歌って騒いで、の連続である。

 誰の何を祝っているのかがだんだんぼやけてきて、誰も彼もがこの世のすべての善き物事を祝福しているように感じられた。

 ほんの数ヶ月前まで、私は自分がそんな席に加わるなどということは想像もできないことだった。いまだって慣れているわけではない。でもこの夜ばかりは私も気持ちが浮かれていて、ありとあらゆる参加者と意味のあるようなないような会話をし、笑いあった。


 皆が私にお酒を注ぎたがったが、私を気にしてくれた先輩が、この子にお酒を注いでいいのは私だけです――と宣言してくれたおかげで、具合を悪くするほど飲んでしまうようなことはなかった。

 ほどよい量のお酒を飲んで、私は初めて、自分が酔うとどこまでも気分が良くなる類の人間なのだということを知った。

 ほとんど口をきいたことのないお客さんとえんえんお互いの苦労話を交換しあうなど、普段の私なら命がかかっていてもできるかどうかわからない。

 でもこの夜は相手が何者であっても私に抵抗はなく、およそ話して楽しいことはすべてまき散らした。心の中にそびえ立つ、決して揺るがないと思っていた壁が、決して多いとはいえない量のお酒で取り払われてしまうことに、私は感嘆せずにはいられなかった。人生にはこのような側面があったのかと。


 ――私は生まれて初めて、夜が明けるまで騒ぐ、という経験をした。

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