第八章 金色の面談

 午前二時間、午後四時間にわたる筆記試験を終えて帰路についたときには、空は早くも暗くなりかけていた。


 下宿舎に戻ると、女主人と一緒になぜか先輩が出迎えてくれた。

「おかえりー」と先輩は我が家のように言う。でも彼女にしては些か控えめな、恐る恐るといった感じの声だった。「……どうだった? 感触は」

「――そこそこやれたと思います」と私は答えた。


 それを聞くと、先輩は太陽が山稜から姿を現したみたいにぱぁっと顔を輝かせた。後ろに控えていた女主人と顔を見合わせ、手と手をぱんと叩き合う。それから私の両手を握りしめて、キミならやれると思ってたよ――と言った。


「あくまで自分の感触に過ぎませんから、まだ何とも言えません」あまり話が一人歩きしないように私は念を押す。「……先輩、いま最初少し不安がっていませんでしたか?」

「え? いやそれはね、やっぱり第一声を聞くまではさすがにね」と先輩は照れ隠しに笑う。「でもキミならやれると思ってたというのはホント。これホント。ですよねえ?」

 先輩は女主人に振る。女主人はそうそう、と言いながら深くうなずく。

「あんた賢い子だし、あれだけ頑張ってたんだから、結果がついてこなきゃ嘘だよねえ」

「じゃなきゃ問題のほうが間違ってますよね」

「そうそう」


 二人はやけに打ち解けているが、顔見知りだったのだろうか。

「あの、先輩は――」

「まぁここで話すのもなんだから、まずは荷物を置いてきて、それから奥さんの部屋でくつろごうよ。ほらほら」

 先輩が私の背中を押す。私はされるままに階段に向かって歩き出す。

 じゃあすぐ来ますから――と先輩は女主人に言った。はいよ、という返事を背中で聞きながら、私は階段を強制的に昇らされていく。


 自室に誰かを入れるのは、ここに住むようになってから初めてのことだった。

 別に拒絶していたわけではなかったのだが、私の生活ではそのような機会は訪れる前触れすら見せたことがない。

 当然、部屋は客人を招き入れるようには構成されておらず、ほんの少しだけ抵抗感があった。


 先輩は興味深そうに部屋を見渡す。といっても目に留まるものの絶対数がそもそも少ないので、その観察もあっという間に隅々まで終わってしまう。

「……質素だねー」と先輩は感想を述べた。「何というか、とてもキミっぽい」

「自分でもそう思います」私は認める。「でも部屋を飾り立てるようなお金と気持ちの余裕がなくて」

「お金に関しては私も似たようなものだけどね。……でも受かっちゃえばキミの暮らし向きも変わるよ、たぶん」

「……そうなるといいのですが」と私は二つの意味で言い、荷物を置いてよそ行きの上着を脱いだ。

「なるなる。絶対なるよ。――準備できた?」

「あ、はい」

「じゃ、下に行こう」


 先輩は再び私の背中を押して連れていこうとする。下りの階段を押されて進みたくはなかったので、私は先輩の手から逃れて自力でそれを下りる。

「ところで先輩は、どうしてここに?」

「んー? そりゃキミを出迎えるためだよ」当たり前のことのように先輩は言った。「私も今日は休みだからね。いままでは仕事の時間しかキミに会わないと決めていたけど、筆記試験終わって勉強も一段落でしょう? だから今日は解禁解禁。規制解除」

「以前ここに来たことがあるんですか?」

「いや、初めて」

「じゃあ――」

 言いかけたところで階段を下りきった。そのまま扉の開かれたままの女主人の部屋に入っていく。

「お二人は――初対面なんですか?」

「そうだよー。ですよねえ奥さん?」

「うん。あんたの仕事場の先輩なんだって?」

「……そうです」

 私には無理だ。初対面でここまで自然に親しげにやり取りする関係を築くなんて。得手不得手というものを私は改めて思い知る。


 ◆


 それから私達三人(と、近くを歩き回っていた女主人の息子さん)は、お茶を飲みながら今日の筆記試験のことを中心に話をした。実際には、二人にあれこれ訊ねられて私がそれについて説明する、という繰り返しが大半だったが。


 試験の内容などというものは日頃は受験生にしか興味のないことなので、それを知らない人に話す機会などまずない。

 それをいざ説明してみると、試験の詳細はかなり複雑で、ああ、自分はこんな試験を受けたのかという客観的な視点が得られて新鮮な気持ちがした。

 自分が初めて試験のことを調べた日など、いまや遠い昔である。


「……なるほどねえ」

 一通りのことを私から引き出したあと、女主人はしみじみと言った。

「いままで何人か思念士志望者がここに入ったことがあるんだけどね。試験のことを細かく聞いたのは実はこれが初めてだよ」

「あんまり興味なかったんですか?」と先輩が訊ねる。

「というか――何だろうねえ、そういう話の流れになったことがなかったんだよね。あんた達は仕事場でそういう話はしなかったのかい?」

「試験の日取りとか、何時間あるとか、そのくらいまでは聞いてましたけどね」先輩は言い、女主人が出してくれたあり合わせのお菓子に手をつける。「科目のこととか、こんな問題が出る、なんてのはいま初めて聞きました。話さなかったよね?」

「そうですね。そこまで行くと専門的というか、鬱陶しい話だろうと思ったので……」

「まぁ確かに、こういう機会でもないと興味が湧かないかもしれない」女主人は言った。「でもとにかく、よく頑張ったよ」

「そう、結局大事なのはそこ。よく頑張ったよ」先輩が復唱する。

「ねーちゃん頑張ったの?」

 少年がふいに話に加わってくる。女主人はそうだよ、と言って少年の頭を撫でた。

「あんたも頑張って早く腕、治しな」


 少年の腕はいまもまだ固定されている。それが取れるにはもう少し時間がかかるらしい。

 実際には腕を頑張って早く治すことはできないわけで、女主人が言っているのは、もう少しのあいだちゃんと我慢しろという意味になる。


「何を頑張ったの?」と少年が私に訊ねた。

「うーん……」私はどう答えようかと少し考える。「勉強をちゃんとやってたかどうか、偉い人に訊かれたの。だから証拠を見せてきた。私ちゃんと勉強してましたよって」

「ねーちゃんいつも勉強しに行ってた」

「そうだね」と私は言いながら、その日々を思い出す。「勉強しに行ってた」

「褒められた?」

「どうだろう」私は答える。どうだろう。「あとになってみないとわからないの」

 少年はふーんと言い、興味をお菓子に移す。


「あとは、面談だね」と先輩が言う。「三日後か」

「そうですね」

「誰が相手かとか、実際に行ってみないとわからないんだよね?」

「そういうことになってます。決まっているのは場所と日時だけで」

「何を話すわけ?」

「話すというより、読み取られます」と私は言った。「頭の中を。話すこともあるにはあるでしょうけど、基本的には読まれることが中心です。それで様々な意味での適性を測るらしいです」


 先輩と女主人は考え込むような素振りを見せる。その現場と感覚を何とか想像しようとしているみたいだった。

「よくわからない――というか全然わからないんだけどさ」と女主人が言う。「今日の試験で出来が凄く良くても、その面談? で落とされることもあるわけだよね」

「伝え聞いた噂の範疇でいえば、厳しい振るいではないらしいんですが、あり得ます」

「こわー」と先輩が眉をしかめる。「それあんまりじゃない?」

「でもそれは主に信仰と人格の問題なので。潜在能力的な意味では、才能のまったくない人というのはまずいないそうです。……ゼロではないらしいですけど」

「それならまぁ、キミは大丈夫か。大丈夫だよね?」


 先輩がにじり寄るようにして問い質す。私としてはそれに対して、たぶん――と答えるしかなかった。

「落ちた人が、筆記試験と面談のどちらで落ちたのかは原則として公開されません。ですがこの試験の常識として、十中八九それは筆記試験の結果であるとされています」

「で、キミはそこそこやれたと」念を押すように先輩が言う。

「……はい」

「ふーむ――じゃあ、気楽に行っておいで、って言い方でいいのかな」先輩は安心したようにお茶を一口飲んだ。「なんかね、外野があたふたして申し訳ないけど」

「いえ」と私は手を振って否定する。「お気持ちはありがたいですし、私自身、面談についてはさほど心配はしていませんから。ただ、経験がないので多少緊張するくらいで」

「人見知りだしねー」

「――それもあります」


「私、思うんだけどね」と先輩は少し低い声で言った。「世の中にはさ、計算で動かなきゃいけない物事と、計算しちゃいけない物事があると思うのね。計算しちゃいけないっていうのはつまり、計算してもどうせ答が出なくて、ただ不安になるだけだから損しかしないっていう意味で。キミの場合、そのへん全部計算で何とかしようとしちゃうんじゃないかな。人見知りってそういうところから来るんじゃないかと個人的には思うよ。だってこうして見知った顔と話しているときのキミ、楽そうだもん。ある程度計算で話せるから安心してるって感じするね」


 私は黙って聞く。先輩は少し慌てたように、お説教するつもりじゃないんだけどね、と言い添える。


「他人のことなんてどうせわからないんだからさ」と女主人が言葉を引き継ぐ。「開き直って自分がやるべきだと思ったことをやってりゃいいんだよ。大丈夫、あんたのやることにそうそう間違いはないよ」

「そういうこと」と先輩はうなずく。「キミが変な奴だったらこんなこと言わないよ」


 どう言ったらいいのかわからず、でも黙っているのは誤解を招きそうだったので、私は小さく、ありがとうございます、と言って微笑む。

 そして同時に、こういうのがつまり計算して振る舞っているということなのだと気づく。

 こういう計算がうまく働かない状況は確かにある。そんなとき、私はひどくそれを恐れる。――先輩などはきっと、そこで恐れを感じないか、あるいは容易く打ち勝ってしまうのだろう。

 私に必要なことで、試験に出ないことはまだまだたくさんある。


「ま、とにかく三日後だね」と場の空気を変えるように女主人が言った。「そこを気楽に突破して、あとは合格発表を待つだけだ」

「もう山は越えたわけだし」先輩が言う。「のんびり待つだけだね……あ、途中で一日、仕事が入るけど」

「今日はうちで夕食にしないかい?」女主人は言い、先輩のほうを見た。「もちろんあんたも一緒に」

「いいんですか? 助かります」先輩は破顔する。「じゃあ、筆記試験お疲れ様会ということで! ……ね?」

 先輩は確認するように私を見た。そのはしゃぐ様子が何だか小さな動物みたいで可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。計算ではなく。


 ◆


 三日後はあっという間にやって来た。

 筆記試験の翌日は仕事に出て、その翌日はほとんど何もせず適当に本を読んで過ごし、その翌日の昼食後、午後二時が私の面談の時刻だった。

 場所は大瞑堂、感性の塔の三階。筆記試験と違って面談は個々に行われるため、大規模な会場を必要としない。ゆえに思念士という資格の本来の格式を鑑みて、大瞑堂の一角が使用される。


 初めて塔に入ることには多少の緊張があったが、それよりも感慨のようなもののほうが大きかった。

 塔の入り口で私が思い出したのは、この街に来て最初の日に初めて見た二本の塔の姿だ。

 家々の屋根から飛び出し、天を突き抜けるようにそびえ立つ姿は、落ちてこようとする空を支えて街を守っているようにも見えた。

 二本の塔は、本堂とこの街を守護している。あの塔にいよいよ入るのかと思うと、積み重ねてきた時間と相まって、こみ上げてくるものがあった。


 私は待合室で順番を待つ。

 同じ時間帯に面談を受ける十人ほどの受験生が同じ部屋に集まっていた。年齢も性別も各人ばらばらで、これぞ受験生という中心的な像がない。それがこの試験の特徴の一つである。

 最も年長であると思われたのは白髪の男性で、風貌から想像される年齢は六十をゆうに越えていた。長年どんな仕事をしてきたのかはわからないが、何か思うところがあって思念士を目指すことにしたのだろう。この年齢で厳しい勉強を重ねてきたのだと思うと、頭が下がる思いがする。

 逆に最も年少であると思われたのは――他ならぬ私自身だ。その意味で、何だか自分がとても目立っているような気がして、少しだけ居心地が悪かった。別に寄ってたかって好奇の目で見られたわけでもなく、ほとんど自意識の問題だったのだが。


 扉が開き、私の名が呼ばれた。

 私は返事をして立ち上がり、その係員のあとについて待合室を出た。弧を描く廊下をゆっくりと歩いていく。

 先輩思念士は一人ではなく、数人がそれぞれの部屋で待っていて、どの部屋に通されるかは受験生によって異なると聞いている。その選定基準がどのようなものかはわからないが、以前先輩が言ったように、そこには少なからぬ運不運がある。


 少しずつ身が引き締まっていくのを感じた。賭け事をしたことはないが、するとしたらきっとこんな気持ちになるのだろうか、と想像しながら私は歩く。

 係員はとある扉の前で止まり、こちらです、と言い残して廊下の奥へと去っていく。

 私は何度か音のない深呼吸を繰り返し、それから扉をノックした。

「どうぞ」という声が中から聞こえた。――女性の声だった。

「失礼します」

 私は扉を開け、中へと足を踏み出す。


 中はいたって普通の事務室の様相を呈していた。

 部屋の真ん中に、受験生――すなわち私が座るものとおぼしき椅子がぽつんと置いてある以外は、通常の事務仕事をついいましがたまでやっていたという感じだ。

 その椅子の奥には大きな机が設置されており、その席に一人の女性が座っていた。歳の頃は――はっきりとはわからないが、亡くなった母のそれに近い印象を私は持った。

 そしてその横には――。

 私は驚愕する。

 あの少女――金色の瞳の少女が、女性の横に立っていたのだ。


 混乱していることをできるだけ悟られないよう懸命に平静を装いながら、私は前へ出て自分の受験番号と名前を名乗り、挨拶をする。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と女性は丁寧に言った。「どうぞ、お掛けになってください」

 私は言われるままに椅子に座る。


 女性が次の言葉を発するのを待っている短いあいだに、様々な考えが稲妻のように頭の中を行き交った。

 なぜここにあの少女がいるのか。あの少女も試験官だというのか――いやそんなはずはない。でも試験官以外の人間が同室するとは聞いていない。

 もしかしたらそこに少女がいることを前提にしてはいけないのではないか、という奇妙な発想も出てきた。ここは見て見ぬふりを最後まで続けなければならないのではないかと。


 女性は自分の名を名乗り、それからこう続けた。

「思念士協会の顧問を務めさせていただいております。――この姿では、初めてお会いしますね」

 顧問。その言葉は忘れられない。あの夜、衛士さんが助力を求めて会いに行った人物だ。他に何人顧問がいるかはわからなかったが、私は不思議と確信を得た。この人があの「顧問」だと。

 そして、いまこの女性――顧問は何と言った?

 ――この姿では、初めてお会いしますね。

 この姿。

 この話し方――。


「あなたとはいままで何度か、こちらの姿でお話をしてきました」と顧問は隣の少女を手で指した。少女は反応をせず、ただ静かに立ち尽くしている。「私の娘です。本来ならば挨拶をさせたいところなのですが――申し訳ありません、娘は自分からそのような意思表示をすることができないのです。ご無礼をお許しください」


 言葉の意味はすべて理解できたが、それらを組み合わせて状況をつかむことがうまくできなかった。

 この顧問はいままで私と、この少女の姿で会話をしてきた。でも少女は実は顧問の娘で、その娘は挨拶もできない状態にある。

 ……話が見えそうで見えない。


「混乱させてすみません」と顧問は私の胸の内を見透かすように言った。「このまま面談を始めるのは様々な意味で公正さを欠くと判断します。そこで――少し長くなりますが、まずは私の話を聞いてはいただけませんか?」

 それが約束でもありましたし――と顧問は微笑する。

「……はい」私は慎重に答える。内心は少しでも早い説明を求めていたが、それを露骨に顔に出さないよう、あえて間を持たせた。「よろしければ、お願いします」

「ありがとうございます」

 顧問はすうっと目を閉じる。そしてしばらく何事かを心の中で整理するみたいに沈黙していたが、やがて目を開いて私を見つめ、静かに語り始めた。


 ◆


「娘が二歳になる頃、私は原因不明の病にかかりました。周期的に様々な激しい体調不良に襲われて、普通に日常を送ることもままならなくなるのです。幸い夫や周囲の人々の理解もあり、思念士としての仕事も何とか続けることはできたのですが、どのお医者様にかかっても病の正体がまったくわかりませんでした――いまもって判明していません」


 顧問はそこで一呼吸置く。やりきれないといった風に。


「ただ、私の思念士としての力を原因とする向きが少なからずありました。自ら口にするのも憚られるのですが――私には生まれながらに大きな力が備わっていて、仕事においてはその力を放つことに全身全霊を傾けていました。それが脳に大きな負担をかけすぎているのではないか、というのがその主張です。真偽はわかりませんが、一つの事実として、病の周期が訪れているあいだに力を使うと、症状が悪化するというのは確認しています。しかし力が病の原因そのものである証明にはなりません。また、力を使うことをやめたこともないため、やめると治まるものなのかもまったく未知数です。思念士は私が憧れてやっとなれたもので、それを断念することは考えられなかったのです」


 衛士さんはあのとき、顧問は体調が最悪だと言っていた。この人はあのとき――そんな状態で力を使ったのか。あの少年のために。


「夫はそんな私を支持してくれ、生活の様々な面で世話を焼いてくれました。娘も順調に育っていき、仕事にもやり甲斐を感じ……私は病のことを除けばとても幸せな日々を送っていました」

 顧問はそこでちらりと隣の少女を見る。これから何かよくないことが起きるのがわかる。


「娘が九歳になったときのことです。その年の娘の誕生日は家族皆で旅行に出かけようということになっていました。しかしちょうどその時期になって、私の例の症状がやって来たのです。私は到底旅行など行けない状態になりました。夫は娘に、お母さんの具合が悪いから旅行は中止にしようと持ちかけました。娘もそれを承知しようとしていました。しかし――私はそれを止めました。私の病のことで、私達の生活から喜びが失われることがたまらなく嫌だったのです。いまにして思えば、意地になっていただけかもしれなかったのですが。それで結局、夫と娘の二人で旅行に出かけることになりました。私はお手伝いしてくれていた女性と留守番です。その旅行先で――夫と娘は事故に遭いました」


 私は息をのむ。本当に聞いていていいのだろうか、という気持ちがわき起こる。


「落石事故です。二人は山道を歩いていたのです。――二人が見つかったとき、夫は娘をかばうように、彼女の上に覆い被さっていたと聞いています。しかし頭は砕かれていて、恐らくは即死だろうとのことでした。娘は生きていましたが、やはり頭に損傷があり、すぐに治療が施されました」

 私は悪寒のようなものを感じる。顧問の淡々とした語り口が、逆に得も言われぬ現実味を醸し出していた。

「しかし――娘は一向に目を覚まさなかったのです」


 顧問はもう一度、少女のほうを見る。私もつられて少女のほうを見てしまう。少女はやはり何も言わずに私達を俯瞰している。


「娘は眠り続けたまま、人工的に水と栄養を送られ、生き続けました。私も最初のうちは、意識が戻ることを祈りながらそれをただ見守っていました。しかし時がたつにつれ、娘の体は痩せ細っていきます。そしてそれと同時に、少しずつではあるものの成長も続けていくのです。私にはそれがとても哀れなことに感じられました。体は未来への準備を着々と進めているのに、娘はそれを正しく活かすことができないのです。……その頃でした。私に逆の発想が閃いたのは」


 ――そこまで聞いて、私は事のあらましを概ね理解する。


「娘の意識がないのであれば、私が娘の代わりとなって、娘の体を守っていけばいいのではないかと。それは私にとっても初めての試みでしたが、あっけないほどに上手く行きました。私は娘の体の中に入り、少しの訓練で、その体を自分のそれと同じように動かすことができるようになりました。しかしそれは――思念士法の十二条は覚えていますか?」

 顧問は唐突に私に訊ねる。私は即答する。

「思念士は、次に掲げる者が対象である場合を除き、本人の許可なくその思念に干渉してはならない。これを犯した者は適性審議にかけられる」

「そうです。いまの話からおわかりの通り、私は娘の中に入るにあたって、娘の許可を得てはいませんでした。そしてその時点での十二条の例外列挙には、『事故・病気等により意識を回復しない者で、特段の事情のある者』の一文は含まれていなかったのです」


 その一文は二年前に法改正で変更されたものだ。旧法では確か、「事故・病気等により意識を回復しない者で、覚醒に思念士の助力を必要とする者」だった。つまり、意識を目覚めさせる目的でしか干渉できないという意味になる。

 もしや、法改正というのは。


「私のやったことは、明確に思念士法に抵触していました。その時点で私は協会でそれなりの立場に就いていたのですが――娘に干渉を続ける限り、その立場を守ることは道義的に許されないと判断し、それを辞しました。しかし、なんとも幸福なことに、こんな私を慕い、同情を寄せてくれる者が後を絶ちませんでした。彼らは適性審議で私を非としなかったばかりか、立法に働きかけ、私のような事例が認められないのは法の不備であるとして、異例の速さでそれを改正してくれました。私の行為はそれによって正当なものとなり、私には改めて顧問という役職が与えられました」


「あとのことはご想像の通りです」と傍らの少女が引き継ぐ。「私は自分の人生とは別に、この姿でもう一つの人生を歩むことになりました。いつか娘の意識が戻ることがあったら、この体は娘に返すことになります。それまでのあいだ日々成長するこの体を守ることが、思念士の仕事とは別の、もう一つの私の個人的な使命なのです」


 ◆


 これまでの疑問はすべて氷解した。

 最初に少女に出会ったときに感じた違和感。その後の会話から受け取った印象。あの癒しの光を受けたときに腕のぬくもりから感じた母性。

 すべて、そのままのことだったのだ。


「私達についての話は以上です」と顧問は言った。「足早に過去をなぞったのですが――納得していただけましたか?」

「はい」私は答える。「おつらかった思い出をお話いただいて、感謝しています」

「こちらこそ。真摯に聞いていただいて嬉しかったです」


 いまなら衛士さんの気持ちもわかる。

 いま聞いたことは別に秘密事項というわけではないのだろう。

 でも、他人が勝手にぺらぺらと話すにしては、内容があまりに繊細だ。

 衛士さんは顧問が恩人であると言っていた。そんな人のこのような話を、とてもする気にはなれなかったのに違いない。


「……何だか、どちらの面談かわからなくなってしまいましたね」と顧問は苦笑する。「ではここから正式な面談を始めたいと思うのですが――あなたの境遇も既にある程度は聞いているので、そういうところは省略しますね。……どうですか、街には慣れましたか?」

 私は少し考えてから、はい――と答えた。

「最初は不安が大きかったのですが、正直、周囲の人達に恵まれました。その人達のおかげで、のけ者にされることもなくやれています。私は基本的には一人でいることを好む人間なのですが、それでもやはり――のけ者にされるのはつらいことです。私がそうならないように気遣ってくれた人が何人もいます。あの人達には心の底から感謝しています」

「そうですか」と顧問はにこやかに言った。「これは私の想像ですが、あなたの故郷においても、あなたの周りにはそのような優しい方が多かったのではないですか?」


 私はまた少し考える。十五年生きた故郷のことを思い出せる限り思い出そうとする。


「――確かにそうだったかもしれません」と私は答えた。「これまでの人生で、私を嫌な気持ちにさせる人というのは、もしかしたら会ったことがないかもしれません」

「それはあなたの性質によるところが大きいのだと私は思います。あなたは自覚していないかもしれませんが、あなたにとって良いものを引き寄せているのも、悪いものを遠ざけているのも、他ならぬあなた自身の人となりなのではないかと、私は感じています」

「……そう、なのでしょうか」

「あなたは理知的で穏やかな人です。あなたと関わることで心を落ち着ける人々も多いのだと思いますよ」


 私自身にはわからない。そんなに良いものではないのではないか、という気もする。

 もっと積極的に他者と関わる人間であったり、あまり計算をせずにはっきりとものを言う人間であれば、様々な人間と衝突もするのだろう。

 でも私はそのどちらでもないから、敵らしい敵を作らない。

 同時に、放っておくと何一つできないように見えるから、優しい人が手を差し伸べてくれる。

 ただそれだけであるような気もするのだ。


 私がその旨を口にすると――普段なら黙っているが、いまはそういう場だ――顧問は静かに言った。

「それも間違いであるとは言いません。とても謙虚に自分を見つめた結果という部分もあるでしょう。……でも、仮にそれが正しかったとしても、そのような自己認識は、正確であればよいかというとそうでもありません。自分が何かを与えられる人間であるという認識がまずあって、それが実際に何かを与えられる人間になることへと繋がる――そのようなことも多々あるのです。あなたは思念士になりたいのですよね?」

「――はい」

「思念士は、他者と繋がり、他者に与える仕事です。そしてそれは多かれ少なかれ、人の心の最も繊細な部分に関わる仕事です。そこでは確固たる自己認識が重要な意味を持ちます。誤解を恐れずに言えば、与えることができるという自信を持ったものの力はどんどん大きくなっていきます。そして大きな力を持つほどに実際に多くの人に与えることができるのです。そこでは原因と結果は逆転しえます。思念士は謙虚でなければいけません。しかしその謙虚さには然るべき方向性があるのです」


 私はその一言一言を刻み込むように聞き続ける。顧問はそんな私を見てふっと優しげに笑った。

「あなたには良いところがたくさんあります。それは他者を幸せにします。そのことにもっと自信を持ってください」

「……わかりました」と私は言った。「難しそうですが」


 ゆっくりでいいんですよ――と顧問は言った。

「あなたはまだ若いのですから。……若いといえば、思念士を志望する者の中では一番といっていいほど若いですが、目指す確固たる理由はあったのですか?」

「……いえ、理由は消極的なものです」私は少し抵抗感を抱きながら言った。「以前もお話しましたが、私は家族を失い、独りの身になってしまいました。それで取り急ぎ、何者かにならなくてはいけなくなって――そのときに私の手元にあったのは、気紛れで受けた予備試験に合格したという実績だけだったのです。他にできることもありませんでしたから。それで思念士を目指すことにしたというのが正直な経緯です」


 顧問がやや表情を曇らせる。私に嫌なことを思い出させてしまったと感じたのか、それとも理由の弱さが気に入らなかったのか。

 しかしどちらにせよ、この面談で嘘をつくことに意味はない。正直にすべてを語るしかない。

「もし、ご両親に不幸がなかったら、いまごろはまったく違う生活をしていたかもしれないのですね」

「そう――だったと思います。何になるにせよ、独り立ちを決意するには、たぶんもっと時間がかかっていたと思います」


 言いながら、私はいまでも両親が生きている世界を想像する。

 そこでは私はそれまでと同じように故郷の家で本を読んで過ごしている。

 父と議論のようなことをし、母の料理を食べ、少しの家の手伝いをして一日を終える。

 それは幸せな家庭であるが、同時にいまとなっては、いつまでも何をやっているつもりだという気持ちにも少しなる。


 両親の死は純然たる不幸だ。そこは揺らがない。

 しかしそこから伸びているもののすべてが、両親が健在である世界と比べて悲しいものかというと、そうではないのだ。

 そこに奇妙な感覚を持つ。

 どのような出来事がどのような未来に繋がるのかがわからないのであれば、個々の幸福を望むことにさほどの意味はないのではないか? いや、それは飛躍が過ぎる。でも――。


「世の中はとても複雑にできています」と顧問は言った。「幸福から伸びる絶望や、不幸から伸びる希望があります。善意から生まれる不幸や、悪意から生まれる幸福もあります。しかしそれでも総体としては、物事は善意によって幸福を追求することでより良く拓けていくものであると――そう信じなければ前へは進めません。それが我々の教えでもあります」

「……はい」

「思念士の仕事を続けていく上でも、様々なことが起こりえます。短期的なことを見れば、心からの善意を込めてなしたことが、必ずしも相手を幸福にするとは限りません。ましてや自分が幸福になるかはほとんど別の問題だと言っていいでしょう。そこに苦悩と迷いが生まれます。しかし苦悩や迷いは力を鈍らせます。そうなればやはり、総体としては幸福の量を減らすことになります」


 私は作家さんの話を思い出す。仕事をしている以上、美談ばかりが並ぶわけでもないと彼は言っていた。それでも仕事をするのが楽しそうだった。


「ここでも原因と結果は逆転しえます。すべての道が幸福に繋がっていると信じて行動する者の行き先が、実際にそのようになりうるのです。教義を信じ、その信念の道から外れないことが、思念士には必須のこととなります。力の源泉はそこにあるといっても過言ではありません」

「苦悩や迷いは……悪いものなのでしょうか」私は訊ねる。

「それ自体は悪いものではありません。人がより強く大きくなるにはそういった試練を必要とする、という考えを私は否定しません。しかし、道を信じられなくなると、人は歩みを止めます。その状態にあり続けることは、さらなる苦悩や迷いを生み出します。苦悩も迷いも、そうでなくなるための過渡期のものではなくてはならないのにです。我々の教えは、そのような出口のない迷い人を否定します。そうなってはならないし、そうなった人は救わなくてはなりません。多くは時間が解決しますが、その時間がない者もいます。――心当たりはあるでしょう?」


 私は黙ってうなずく。先日の私がまさにそのような状態にあった。時間が解決したかもしれないが、その時間の限りが間近に迫っていたのだ。

 ……だからこの人は、私の心を救うことにした。それが公正さを欠くかどうか考えた末に。


「あなたは真っ直ぐな方ですから」と顧問は続ける。「これまでいろいろなことが起きるたびに、すべて自分の力で何とかしようとしてきたのでしょう。そのことには敬意を表します。でも今後もし、耐え難いほどつらいと思うことがあったら、迷わず誰かに助けを求めてください。あなたはそれが許されるだけの自分との戦いを常にしている方です。だからいまここに――この街にいるわけですから」


 あなたに求めるものがあるとしたら、そのような点ですね――と顧問は締めくくった。


「……自覚はしています。なかなか難しいことですが――そうできるよう励みます」

 私は他人と繋がり、それを救う仕事を選ぼうとしている。

 重要なのは他者と繋がる気持ちだ。

 でも、救われることを拒んでいるうちは――自分の中のある種の部分をさらけ出すことを恐れているうちは、表向き仕事はできても、たぶん繋がりとしては不完全なのだと思う。

 自分でもわかっている。私は心のどこかを人一倍閉ざしているのだ。それを開放できたとき、私は本当の意味で他者と繋がっていると言うことができるのだろう。


「将来のことは、もう決まりましたか?」顧問は訊ねた。

「――いえ。それについては、合格後にゆっくり考えることにしています」

「適性を知ってから、ということですか?」

「はい」

「なりたいものになって構わないのですよ? 必ずしも適性に従った仕事をしなければいけないというわけではありませんから」


 私は言葉を選ぶために少し時間を置く。それから口を開く。

「私は――思念士になる以上は、少しでも大きな力を振るいたいと思っています。既にお話ししたように、私は具体的な目的があって思念士を目指すようになったわけではありません。思念士になってしまえばあとはなるようになる、くらいの気持ちでこの街へやって来ました。それで、この街で何人かの思念士の方にお会いする機会があって――うまく言えないのですが、自分の持っているものに合わせて自分の位置を決めるというのも、仕事との幸福な出会い方なのではないかと思うようになりました。いまはそういうつもりでこの試験に臨んでいます」

「そうですか」

「自分で判断することから逃げたと言われても――正直、反論はできません」


 顧問は首を振る。「いいえ、それは一つの立派な考えです。卑下することはありませんよ」

「――ありがとうございます」

 私は礼を言う。実際、救われたような気持ちになった。

 そのような私の気持ちを察したのか、顧問はくすくすと笑った。姿は違えど、それはあの少女の笑い方とまったく同じだった。


「では、お話はこれくらいにしましょうか。――これから、あなたの中にある信仰と、あなたという人間のありようを私の力で読み取ります。よろしいですか?」

「――はい」


 この一言がすなわち思念の干渉への許可だ。このやりとりがないうちは、この人ほどの力を持っていてもそれを使用することは許されない。

「では、目を閉じてください」と顧問は言った。「一応、そういう形式ですので」

 私は言われるままに目を閉じる。


 このとき最初に想像したのは先日の感覚だった。私の中の淀みを清め去り、傷を塞いでくれたあの光の洪水。あれと同じではなくとも、あのような何かが私の中にやってくることを想定し、私は軽く身構えた。

 でも今回はいくら待っても何も起こらなかった。瞼を閉じた瞳の先はただの暗闇で、心の中はひたすらに私の心のままだ。何も湧かず、何も通りすぎない。既に読み取りが始まっているのかどうかもわからない。


 それから私は、毎月奨学金を受け取るときの本人確認を思い出す。その都度記憶を――恐らく、初回には合格証書を受け取ったときの記憶を、それ以降は札に署名したときの記憶を――読まれていたはずだが、特に何も感じることはなかった。

 なるほど、ただ読み取る際には受け手に何の感覚も与えないか、少なくともそのような技術を併用できるのか。


 顧問は物音一つ立てずに席に着いたままなのだろう。

 むしろ物音を立てないように細心の注意を払っているように感じられた。

 あまりに何も起こらないので、少しだけ不安な気持ちがよぎり始める。私にとって良いことが起きているのか悪いことが起きているのか、それを判断する材料が何もない。

 試しに目を開けて状況を確かめたくなったが、その気持ちを何とか抑え込んだ。別にここで目を開けるかどうかが合否をわけるとも思えないが、顧問が閉じるよう指示した以上、次の指示があるまでは黙って従うべきだ。


 数分ほどそうしていただろうか。ふいに、顧問の声が聞こえた。

「――終わりました。目を開けてけっこうです」


 何かから解放されたような安堵を覚えながら、私は静かに両方のまぶたを上げる。先程と同じように、顧問と少女がそこにいた。部屋にも何一つ変化はない。

「それでは、これで面談を終了します」と顧問は宣言した。「お疲れ様でした」

 それは些か唐突な幕切れに思えた。私は慌てて立ち上がり、右手を左胸に添えて言う。

「あ――ありがとうございました」


 私の言葉を確認すると、顧問はふっとそれまでの毅然とした佇まいを崩し、柔らかく微笑んだ。

「今日、あなたの面談の担当を願い出たのは、私自身です。私のことをお話しする約束をした時点で、それは決まっていました。実のところ、私は最初にあなたに会ったときから、あなたという人間に興味を引かれるところがありました。それで、あなたの本質についても、他の誰かから聞くのではなく私自身で掴みたくなったのです」


 最初に出会ったときとは、道案内をされたときのことか。私のほうから見れば、少女に不思議な印象を抱く理由はあっても、興味を持たれるような振る舞いをした自覚はまるでない。興味とはどのような興味だったのだろう。


「あの、私はそのとき――何か変なことを言っていたでしょうか?」

「ご安心ください、そのような意味ではありません」顧問は笑った。「どう言ったらよいのでしょうね。興味というものを説明するのは難しいのですが――あなたと接していて、とても瑞々しい若葉を見ているように感じられたのです。それはそれ自体で清々しく、かつ、どのように成長していくのかを見る者に想像させ、ある種の高揚感をもたらします。あなたはそのような人に思えたのです」


 それは――褒め称えられていると解釈してもいいのだろうか。


「私がこういう歳で、人の子の親であることや、子の成長にいろいろと思うところがあったことも一因でしょう。別の言い方をするなら……とても大きな話になってしまいますが、未来を託したくなる若者を見つけた喜びがあったのですね」

「未来――ですか」

「そう。歳をとると、そういうことをふと考えるようにもなるのです」顧問は自嘲するように小さく笑った。「自分が世界の中心にいるような感覚がなくなっていくにしたがって、自分の生きてきたこの世界をどんな若い世代が引き継いでいくのか、ということを、いつもではありませんが、考えることがあるのです。そういうときに前途有望な若い人を見つけると、本当に嬉しいものなのですよ」


 私は黙って聞いている。顧問は表情を引き締め、もちろん――と続けた。

「もちろん、評価に手心は加えません。筆記試験と共に吟味し、あなたの合否を決定することになります。……合格発表の日は把握していますね?」

「はい。三週間後ですね」

「そうです。それまでのあいだはゆっくりと過ごしてください。――それでは、ここまでにしましょう」

「ありがとうございました」

 私はもう一度礼を示す。そして部屋を出た。


 ◆


 感性の塔を離れると、一連のやりとりが夢の中の出来事のようにも感じられて、奇妙な気持ちだった。塔の中と外が歴とした地続きの世界であることを自分に言い聞かせる必要があった。

 時計を確認すると、結局塔の中ですごした時間は待ち時間も含めて三十分ほどのことだったようだ。でも、それよりずっと長くいたようにも思うし、もっと短かったようにも思う。


 とにかく、これで試験について私にやれることはすべてやり尽くした。


 あとはただ結果を待つだけである。

 合格発表の日に、大瞑堂の裏門の横にそれは小さく掲示される。世間では誰も注目しないが、その小さな掲示が、試験を受けた幾百人かの人生のその後を大きく左右する。合格できるのはその中で――恐らく、数人。


 何かを振り払うように、私は一つ大きく伸びをする。そして深く息を吸い込む。

 私がこの街に来たときは暑かった空気が、いまではすっかり冷たくなった。季節は二つ先へ進もうとしていた。発表の日までにはさらに冷え込むだろう。

 ゆっくりと息を吐く。白くなりかけた息が散り散りになって消えていく。できることなら三週間後、寒空を吹き飛ばすほどの熱い気持ちに身を焦がしたいものである。

 私は下宿舎への帰路についた。先輩は今日は仕事である。静かな午後になりそうだな、と思いながら、私は真っ青な空を見上げた。

 あとのことは、運に任せる。

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