第七章 悲報と光

「えーさて、それでは、ささやかながらではありますが」と先輩はおもむろに席を立って朗々と言った。「いよいよあさってに勝負を控えた、我らが可愛い後輩ちゃんの激励会を始めたいと思いまーす」

「といってもなぁ、いつもどおりの賄いだぞ」

「酒もないし」

「半数しか揃ってないし」

「十五分で切り上げる激励会って、逆に馬鹿にしてないか」

 料理人や給仕の方々から口々に突っ込む声が出る。

「あー、うるさいですよ先輩方」と先輩はハエを追い払うみたいにぶんぶんと両手を振り回す。「こういうのは気概の問題なんです気概の。気分よく送り出してあげようという気持ちを表すことが大事なんです」

「表れてるかな」

「ひたすら食う時間しかないぞ」

「祈るんです、お祈り! お祈りのときに一緒に彼女の合格も願ってあげるんです。では皆さん――」


 私達は一斉に祈る。

 日頃の祈りは、瞳を閉じてどこかで密やかに時をすごしているとされる神に対する祈りだが、今日に限っては先輩はついでに私の合格を祈ってくれるらしい。他の皆さんも同じように祈ってくれているのだろうか。もしそうなら素直に嬉しい。

 それから私達はいつものように忙しなく夕食をかき込み始めた。


 筆記試験前々日の夕方である。

 私にとってこの日は試験前の最後の仕事の日だった。

 翌日は休みだし、試験当日も当然休みである。つまり、今年の試験前に仕事場の皆と顔を合わせるのはこの日が最後ということになる。

 それで先輩が気を遣って――というより突発的な思いつきで、夕食の賄いの時間を私の激励会ということにしてくれたのだった。


「なんかいまいち受けが悪いけど、私本気でやってるから」と隣に座っている先輩が話しかけてきた。「そこのところを受け取ってもらえたら感無量だわ」

「ありがとうございます」私は答える。「じゅうぶん嬉しいです。励まされます」

「んー、じゃあ感無量」

 先輩は満足げに言うと、自分が担当した賄い料理を口に運び、今日のはなかなか上手くいったと思うんですけど、と対面の料理人さんに評価を求める。

 賄いとしては文句はないな、という返事がかえってきて、先輩は微妙ですねえそれ――と苦笑いする。


「私の場合、ある意味では毎日が勝負、ある意味では勝負の日というものがないわけでね。キミのやってることとはずいぶん勝手が違う。お互い大変なところがあると思うけど、でも年に一回だけの勝負っていうのは、残酷だなーと単純に思うね」

「そう思うことはあります」と私は言った。「せめて年二回あれば――と考えてみたり。弱音と言われればそれまでなんですが」

「いやー、無理もないでしょ」先輩は水をぐっと飲む。「まず筆記試験だよね?」

「そうです」

「で、面談だっけ? ……はいつ?」

「私はその三日後です。受験生によってここの日取りは変わるんですが」

「なるほどね。なんか振り回されるというか、運不運ありそうだね、結構」

「――ありますね」


 実際の話、運は必要だ。

 当日の体調から、その年の試験内容と自分との相性に至るまで、あらゆる受験生がまったく同じ勝負の土台をもらえるわけではない。

 特に面談は、相手となる先輩思念士との思想や指向が合うかどうかという人間くさい面が結果にどうしても影響してくるものと思われる。その先輩思念士の担当も受験生によって異なるため、まさにくじを引くような感覚である。


「でも運については、試験勉強を始めたときから開き直っています」私は言った。「最後の最後は運頼みになりますけど、そこまではまず実力次第ですから。そこを乗り切ることだけ考えて、そこから先は無心でいます……可能な限り」

「それしかなさそうだねえ」

「でも、この街に来てからいままでのことに関して言えば、私は幸運だったと思います。あらゆる面で、私は周りの皆さんに支えていただきました。それは本当に感謝しています」

「……この席でそういうこと言っちゃうの?」と先輩は言った。「お姉さん、泣いちゃうよ?」

「仕事の時間がつらくないのは先輩のお陰です。私はとにかく人見知りなので、先輩のような方に引っ張ってもらわないと、人の輪を作ることが上手くできないんです」

「まぁ――何かと自分のノリに巻き込んじゃったという自覚はある」照れくさそうに先輩は笑う。「後輩ができて舞い上がってたからねぇ。それがキミにとって何かいいことに繋がってたなら、ちょっとは許されるかな」

「私には必要なことだったと思います」

「本当はさ、私達の休みが重なったときとか、キミを連れ出してどこかに遊びに行ってみたりもしたかったのね」と先輩は言った。「でもほら、キミの時間は凄く貴重なわけで――というか、キミの休みは休みじゃなくて、そっちが本分なわけじゃない? だから仕事の時間だけの関係でいることを心がけたのね。で、そのぶん仕事中は目一杯触れ合おうと思ったんだ」


 そう。先輩は仕事のあいだはとても積極的に私に話しかけてきたが、それ以外の私の個人的な時間には決して関わってこようとしなかった。だから私は、先輩をただの一度も迷惑であると感じたことはなかったのだ。

 本当に、ありがたい話だ。


 私が何か感謝の言葉を述べようとすると、それを遮るように先輩は大仰に時計のほうに目をやり、おっと急がないと、と言って慌ただしく料理に手をつけだした。

 私は言葉を発する体勢を解き、彼女についていくように食べることに専念した。なにしろ十五分の激励会である。

 でもこの十五分はまさに、さまざまな支えとそれなりの時間があって初めて築かれた、私のここでの生活の象徴の一つたり得るのだ。それを思うと、先輩達へのお世辞でも何でもなく、力が湧いてくるのを感じるのだった。

 幸先は悪くない、と思った。このときは。


 ◆


 下宿舎に戻ると、いつものように女主人が奥の部屋から素早く出てきて迎えてくれた。どうやらこの人は私が帰ってくるあたりの時間になると、耳を澄ませて玄関の扉が開くのを待っているらしい。


「ただいま戻りました」と私は言う。慣れてきてからのいつもの挨拶だ。

「おかえり」と女主人は同じくいつもの調子で言い、それから小さな封筒を差し出した。「これ。あんた宛に手紙が来てた」

「手紙ですか……ありがとうございます」


 私が受け取ると同時に、女主人は試験迫ってきたねえ、と言って笑った。

「明日は一日のんびりしているんだろ? 前日にまであれこれ詰め込んでもしょうがないしさ。気持ちと体を落ち着けるほうが大事だと思う」

「そうですね、いまのところその予定でいます」

「うちの子、姉ちゃんの試験までには治すんだ、競争だって言ってたけど」と女主人は自分の左腕をぱんぱんと叩いてみせる。「ちょっと追いつかなかったねえ。お医者が言うには、まだ動かすには早いってさ」

「いろいろ欲求不満でしょうね。探検は禁止されているし、片腕は動かせないしで。男の子にはつらい毎日だと思います」

「絵に描いたような自業自得だよ。ま、人生そういうこともあるっていういい勉強になったんじゃないかな」


 女主人は豪快に笑う。あの夜の出来事を一日も早く笑い話にしてしまいたいようにも見えた。

 私は少し戸惑いながらも、彼女に付き合うように小さく笑いを同調させる。

 そんな私を見て、女主人は私の頭をそっと撫でた。


「今までよくがんばった」と優しい声で女主人は言った。「余裕のない新生活で、いろいろ大変だったろう?」

「……そうですね」私は認める。

「合格したら、この下宿舎も卒業かい?」

「はっきりしたことは決めていません。その後もしばらくお世話になるかもしれません。でも実際の話――試験は今年で終わるより来年も続く可能性のほうが高いので、必然的に今後もお世話になる可能性のほうが高いです」

「こら、そんなこと言ってちゃ駄目だろ」女主人は言い、私の頭をくしゃくしゃとかき回す。「今年でササッと決めちゃうのさ。あんたならできる、絶対」


 女主人が試験のことをどれほど理解して言っているのかは疑わしい。

 でも彼女のその言葉は素直に私を包んでくれた。言葉が人に伝わるか否かは、物事を知っているか否かではないのだということを私は改めて思い知る。


「頑張ります」と私は短く言った。

「よし」

 女主人は満足したように私の頭から手を離し、ぽんと私の背中を叩く。

「じゃ、試験までゆっくりね」


 私は自室に戻ると、荷物を置いてベッドに腰掛け、そのまま体を倒した。それから、手に持ったままの封筒を顔の前にかざす。

 手紙――誰からだろう。私は封筒をひっくり返して送り主の宛名を見る。

 思わず飛び起きてしまった。送り主は――司法院。

 途端に胸のあたりがざわめき始める。私は乱暴に封筒を開き、中に入っている紙を取り出す。ほとんど投げ捨てるように封筒を脇に置き、慌ただしくその紙を開いて中身を読む。


 途中で手が震えて上手く読むことができなくなった。私はその手紙をベッドに置き、身をかがめて続きを読む。

 それほど長い文面があったわけではない。

 私はそれを取り憑かれたように七回読み返した。まるで読み返せば読み返すほど何か新しいことが書き込まれていると信じているかのように。


 それから私は頭から血の気が引いていくのを感じて、再びどさりとベッドに倒れ込んだ。

 手はもう震えていなかったが、代わりにさっきより冷たくなった気がした。

 そしてそれとは逆に胸のざわめきはさらに激しさを増していた。心臓の鼓動の一つ一つが太鼓を叩いたように大きくなり、痛いほど自分の耳に届く。


 手紙には次のような主旨が書かれていた。

 ――両親を殺害した犯人を逮捕。

 犯人は二つ隣の町に住む富豪の一人息子(十五歳)とその取り巻き達。

 酔った末に母を路地裏に連れ込もうとし、助けに入った父と口論の末、二人を刺殺。

 裁判は後日行われるが――主犯たる一人息子は既に保釈されており、年齢その他を考慮して、少なくとも罪はある程度軽くなる見込み。


 ◆


 まったく眠れない夜をすごしたのは、この街に来て初めてのことだった。

 眠らなければと思うほどに意識は研ぎ澄まされ、焦りを感じているうちに次の夜明けがやってきてしまった。

 私は頭から布団をかぶり、その夜明けの光を否定しようとする。

 でもどれだけそれを否定しても、肝心の眠気が訪れない。私の無言の格闘をあざ笑うかのように太陽はぐんぐん昇っていき、窓から差し込む光はますます強くなっていく。やがて私は眠ることを諦めた。


 カーテンを開け、窓を開ける。皮肉なほどに清々しい朝だった。


 私は机の上に無造作に放り投げたままの手紙を手に取り、もう一度読む。

 昨夜の文面が何かのまやかしで、今朝のそれにはまったく違うことが書かれていることを心のどこかで期待する。

 でも期待は打ち砕かれる。文面は昨夜のそれと一字一句変わらない。書き出しから終わりまで、望みもしないのに頭に刻み込まれたそれの通りに展開する。


 手紙を元通りの場所に放り、他に行くあてもなくベッドに潜り込む。

 落ち着け――落ち着け。自分にそう言い聞かせる。

 でも、胸のざわめきが収まらない。


 両親を殺した犯人がわかった――これは喜ばしいことだ。

 故郷にいた頃、事件から相当の時間が経ったあとになっても、当局は「手がかりすら掴めない」の一点張りだった。

 それを聞かされて、一生をかけてでもこの手で見つけてやりたいとどれほど思ったかわからない。

 でも然るべき機関が捜査してまるで掴めない尻尾を私一人で掴むなどということは到底叶わぬことで、私は今日まで朗報をただ待っていることしかできなかった。その朗報がとうとう来たのだ。


 だが、気に食わないことがいろいろと書き添えてあった。

 酔った末に母を路地裏に連れ込もうとした? 私と同い年の少年が? 取り巻きを複数連れて?

 既に保釈されている? 金持ちの親が支払った保釈金でか。

 そして最後に何と書いてあった? 年齢その他を考慮して、罪がある程度軽くなる見込みだって?


 すべてがくだらない。すべてが馬鹿馬鹿しい。

 苛立ちと哀しみと怒りと、それ以外のあらゆる暗い感情をごた混ぜにしたものが行き場を見失って頭の中をぐるぐると回る。

 私はこれまで、犯人が逮捕されれば当然極刑が下されることになるものと考えていた。

 いまにして思えば想定が甘かったかもしれないが、そうでなければ両親の魂に釣り合わないという気持ちが――そうでなければ自分の気が収まらないという現実が、それ以外の考えを打ち消していたのだと思う。

 はっきり言おう。私は犯人の死を心から願っていた。本来ならこの手で殺してやりたかったが、それを法が代わって実行してくれることを純粋に期待して、犯人逮捕の報を待っていた。


 だが実際はこうだ。犯人はまだ若い。犯人はお金持ち。おまけにどんな趣味なのか知らないが、原因は私と同い年の身で私の母に手を出そうとしたことにあるという。


 ベッドの中でぶるっと全身が震えた。

 そんなくだらなくて馬鹿馬鹿しいものに巻き込まれて、お父さんとお母さんは死んだのか。

 そしてこれからもその忌々しい犯人の小僧はのうのうとこの世界で生きていくのか。またこれまでのように大勢の取り巻きを連れて、これまでのように酒を飲み、これまでのように気紛れで女性に手を出し――何かあれば殺すのか。


 視界がぐにゃりと曲がった。目尻から耳のほうに向かって温かいものが流れていくのを感じる。

 私は泣いていた。声も立てず、しゃくり上げもせず、ただ涙を流し続けていた。最後に泣いたのは両親の葬儀の日だったか。いやそれから少し経ってからも一人で泣いた夜があったっけ――そんな漠然とした思考をちらほらと頭によぎらせながら。


 そして私は、私の中を激しく蠢いている暗い感情のうちの一つとはっきり向き合った。

 それは敗北感だ。私の人生でたぶん初めて味わう敗北感。

 私自身が直接何かと勝負をしたわけではない。犯人との競い合いをしていたわけではない。仮にそれを競い合いと捉えるとしても、犯人が捕まったという点だけを考えれば勝利しているとさえいえる。

 けれども、私が満たされるのに必要であったことは、確実に損なわれようとしている。私の心が着地すべきであったところは、もう崩れてなくなってしまった。

 実質的に、犯人には逃げ切られてしまったのだ。


 悔しい。悔しいよ――。


 私は誰にともなく訴える。しかしそれはどこまでも私一人の問題だった。

 そして私自身、それを実際に誰かと共有したいとは思わなかった。この感情を誰かにわかってもらいたいという思いがある一方で、他の誰かと分かち合おうとすることへの恐れのようなもののほうがずっと強いことを否定するわけにはいかなかった。

 結局、私は一人で物事を受け止め、一人で処理することにどこまでも向いているのだ。それがどれだけつらくても。


 こんなだから――なかなか成長できないんだな。

 私は泣きながら自嘲気味に口元を笑顔の形に歪める。私は知らなかった。涙というのはこんなにも止めどなく流れ続けるものなのか。


 ◆


 今日一日は勉強から離れてゆっくりと過ごす予定だった。

 でももはやそんな気にはなれなかった。たとえ体を寝かせることができたとしても、気持ちまでは寝かせることはできない。それどころか、気持ちの動きに反して無理に体を弛緩させると、心と体が分離してしまいそうだった。


 さまよう頭であれこれと考えた末に、私はこの試験前の最後の一日を、いままで通りにこなすことを選んだ。すなわち、図書館へ行って、可能な限り勉強に集中するという選択だ。

 そうと決まるとすぐに、私は朝食も摂らずに足早に図書館へ向かった。

 むしろ逃げ込んだと言ったほうが適切だったかもしれない。慣れ親しんだ循環の中に一刻も早く身を投じて、あとのことを流れに任せてしまいたかった。


 おなじみの「ひび割れの間」が今日も無人であったのは幸いだったといえる。

 正直、嫌な予感がしていたのである。こういうときに限って先客がいて自分の目論見が外れ、いつもと違うことをしなければならなくなるのではないかと。

 でも物事はそこまで無慈悲ではなかった。私はいつもの席に陣取り、いつものように本を開いて読み始める。


 ここ半月ほどは勉強の総まとめとして、すべての範囲を二、三日のうちに素早く回転させるという読み方をしてきた。今日もそれをするつもりでやって来た。

 ――しかし、頭に入らない。

 いつもと同じ席で、いつもと同じ本を、いつもと同じ体勢で読んでいるにもかかわらず、そこに書かれている文章が意味を伴って頭の中で展開しない。

 まるで生まれて初めて文字というものと相対しているかのようだった。

 そして集中しなければと思えば思うほどにひどくなっていく。気がつけば、文章を読んでいるふりをしながら集中、集中とただ繰り返し唱えているだけの自分がいる。


 頭に入らないだけならまだよかった。

 気持ちを文章に集めることができないせいで、頭から然るべき知識が素早く出てこない。

 何度も読んできてすっかり覚えたはずの箇所を指で塞ぎ、そこに何が書かれているかを考える。

 これまでは一瞬で出てきたはずの答が、まるで記憶の森の奥深くに隠されてしまったかのように、時間をかけてかき分けないと表に姿を現さない。


 試験には思考の速度が要求される。時間に比して、こなすべき問題の量は膨大だ。

 知識をただ身につけるだけでは駄目で、適切なものを頭の中から可能な限り素早く取り出す能力が必須となる。

 その訓練を繰り返し、何が問われてもそれができる状態を試験会場に持ち込まなくてはならない。

 私の中で警鐘が鳴る。焦りの産物が新しい焦りを呼び寄せる。


 これは――駄目かもしれない。


 嫌な思考を断ち切るように、私は立ち上がる。気づくともう正午近くになっていた。朝食を抜かしたから本来ならば空腹感を覚えるはずだが、その感覚はわずかだった。明らかにいつもと違う。そのことにまた焦る。

 それでも食事を摂らないのはよくないと思い、私は手軽に食べられそうなものを買ってきて――今日は昼食を作ってくる作業も「探検」も省いて直接図書館へやって来たのだ――広場へ向かった。

 図書館での勉強がそうであるように、広場での食事もまた私の求めるいつもの循環の一つだった。食欲がなくても、軽く手をつけるだけでも、私にはそれをする時間が必要だった。


 広場のいつもの場所へ行くと、私が座るつもりの椅子の隣に先客がいた。

 私は一瞬、ああ、と嘆きかけた。やはり今日はそういう日なのかと。

 でもよく見るとそれはまったくの見知らぬ他人ではなかった。――あの少女だったのだ。

 金色の瞳の少女。


 私が近づくと、少女はこちらを振り返って、少し意外そうな表情を作った。

「こんにちは」と少女は言った。「……試験の前日までこちらにいらっしゃるとは思っていませんでした」

「こんにちは。ちょっと――そういう気分だったので」

 私は挨拶を返し、少女の隣に腰掛ける。そして買ってきた昼食を無感情に広げて、一口食べる。味がよくわからない。わからないというより、興味がなかった。

「今日はご自分で作ったお昼ではないのですね」

「……ええ」


 答えながら、私は自分の口から発せられる言葉の冷たさに、自分で戸惑いを覚えた。これはよくないぞという内なる声が聞こえる。

 少女は推し量るように私の顔をうかがっている。

「試験前ともなると、やはり緊張しますか?」


 なぜかその質問は私を苛立たせた。

 緊張? そういえば、試験の前の日はきっと緊張してうまくすごせないかもしれないな、そうなったらどうしよう、なんて平和なことを心配していたこともあったっけ。

 いまにして思えば、そんなことで悩めるのは最高の流れで試験に臨めているのと同義だった。

 誰だって大事な試験の前では緊張する。条件は対等だ。本当にまずいのは、そこにすら至れなくなったときだったのだ。


「緊張――そんなもので苦労できるなら、そのほうがよっぽどよかったです」

 私は抑揚のない声で絞り出すように言った。やはりそこにも冷たい響きがあったが、自力でその言葉をそれ以上暖めることは不可能だった。


 少女はじっと私の横顔を見つめていた。

 私の中に矛盾に近い感情が巻き起こる。気分を悪くさせてしまっただろうか。怒らせたり、傷つけたりしてしまっただろうか。

 でも、いまの私にそんなことを訊かれても、私にはどうしようもないのだ。申し訳ないが、あなたの失敗でもある――。

 私は情けなさで泣きそうになる。なんて小さくて嫌な人間なのだろう、私は。


「……もう一つだけ訊かせてください」と少女は静かに言った。「あなたがいま抱えているものは、私に話すことで楽になるものですか?」

 それは私にとって意外なものの訊ね方だった。

 私は思わず少女のほうを振り返る。

 少女は特に気を悪くしているようには見えなかった。そして、まるで私の中にあるものをある程度察しているようでいながら、それに対する感情も安易には見せていなかった。ただどこまでも自然に、静かに、私の次の答を待っていた。


 私は自分の足下を見つめながら、答えるべきことを考える。できるだけ冷静に、できるだけ適切に。少女はいま、私に渾身の質問をしている。

 以前この場所で、両親の話をしたことを思い出す。

 少女はこの街で私のそのあたりの事情を知っているただ一人の人間かもしれない。他に知っている可能性があるとしたら店長だけだろう。

 もし私の中にある感情を何もかもぶつけることができるとしたら、いまはこの少女しかいないと言っていい。

 私はそうすることで楽になれるだろうか?


 ――結局、私は中間を選ぶ。ぶつけるでもなく黙るでもない、その中間。


「事実関係だけ、話しても構いませんか?」

「ええ。お話しできる限りで、お好きなようにお話しください」

 そして私は語る。犯人が逮捕されたことと、その素性と。私の復讐がもはや果たされることはなくなったことと。ただの事実として、仕事の報告をするように淡々と語る。


 そのような単なる説明に終始するのであれば、話は至って短く、簡単に終わった。私の中でこの件が底なし沼のようにのさばっているのは、同じところを私の感情が堂々巡りしているからなのであって、物事が複雑で長大なわけではまったくない。


「……そうでしたか」とだけ少女は言った。

 それからしばらくのあいだ沈黙があった。

 私は横目でちらりと少女のほうを見る。少女は目を閉じ、物音一つ立てずに座っている。

 私にかける言葉を探しているというよりは、隣にいる私のことをいったん忘れて、自分の中のどこか深いところに潜って、自分にとっての何かを探し求めているように見えた。


 その沈黙が決して破ってはいけない不可侵なものに感じられて、私は自分から言葉を切り出すことができず、少女が次に何かを言うのをひたすら待った。

 ……自分の発する言葉の制御に自信が持てなくなっていたというのもある。


 少女はおもむろに目を開き、音もなく静かに立ち上がった。それから隣に座っている私の目の前に相対するように立ち尽くした。

 私は少女の瞳を見つめる。少女も私の瞳を見つめている。

「――少しだけ、あなたの中に入っても構いませんか?」

 少女はささやかな微笑みを作って言った。

 中に入る?

 その言い方は――まるで。

「……はい」導かれるように私は答える。


 少女は私の首に両腕を回し、私を抱きしめた。

 あまりに突然のことで、私は一瞬動揺する。でもその動揺はすぐにどこかへ吹き飛んでいく。少女の腕は母親のそれのように優しく暖かく、私の周囲を覆っていた氷壁のようなものをあっという間に溶かし、その内側にいる丸裸の私そのものを直接包み込んだ。少女の胸の奥から小さな鼓動が聞こえる。


 私の心の中に何かが流れ込んでくる。甘くて暖かい光の洪水のような何かだ。

 それは心のあちこちに溜まった薄暗い淀みを覆っていき、それらを分解し雲散霧消させていく。

 一つ、また一つと淀みが清められてどこへともなく消えていき、私の中はだんだんとその光の色で満たされていく。薄暗いもの達はついには最後の一つまで消し去られ、光は風景のすべてになる。


 それから光は私の中のあちこちに作られた大小さまざまな傷を埋めていく。

 まるでひび割れた壁が熟練の職人の手で修復されていくように、光は自らを傷にすり込ませていく。

 光と傷は等価交換のように対になって消滅する。そこに傷があったことすらもうわからない。


 最後の光のうねりが最後の傷を埋めてしまうと、あとには光も薄暗い淀みもなく、傷一つない私の心だけが残る。


 ――少女は優しくゆっくりと私の体を離し、私の顔に自分の顔を近づけて、今度は深く深く微笑んだ。

「いかがですか?」

 その金色の瞳を間近で見つめたまま、私は自分自身を確認する。先程までと記憶に変わりはない。思考にも変わりはない。空気の冷たさも、椅子の感触も同じだ。でも。

「……軽い、です」


 何かの繋がり方が変わった。同じことを同じように考えても、それがあの出口のない痛みを伴わない。

 もちろん悲しみは悲しみ、怒りは怒りとして未だ存在している。でもそれがただの悲しみ、ただの怒りとしてそこにあるだけになった。

 感情が私の上に立っているのではなく、私が感情の上に立っている。いつものように。


「突発的な事件による一時的な感情の混乱を打ち消して、本来のあなたを取り戻させただけですから」と少女は言った。「――贔屓にはあたらないと判断しました」

 贔屓。それは試験のことだろうか。

 いや、そんなことよりも――この力。

「あなたは――思念士だったのですか?」

 私は訊ねる。少女はふと目をそらし、少しのあいだ考え込んでから言った。

「……いいえ」

「でも」


 食い下がろうとした私の口元に、少女はいたずらっぽく指を当てる。

「近いうちに、お話しできるときが来ると思います。それまでは、いまのことは胸の内にそっと秘めておいていただけませんか?」


 私は以前にも似たようなやりとりがあったことを思い出す。

 そうだ、衛士さんがこの少女についての私の質問に、同じような意味深な返答をしていた。彼もまた、いずれわかると言っていた。私はそれを受け入れたのだ。

 そのときは――まだ来ていないということなのか。

「……わかりました」と私は言った。「そのときを待ちます。いまはただ、感謝します。ありがとうございました」


 その途端、私のお腹が鳴った。先程まではほとんど感じることのなかった空腹感が、いまさらのようにやって来た。

 自分の体のあまりの現金さと正直さに、私は思わず下を向いてしまう。

 少女はくすくすと笑った。「眠ることと同じくらい、食べることも大事です。では食事の続きをしましょうか」


 ◆


 昼食が済むと、私は宣言するように少女に言った。

「今日は帰ります。ゆっくり休んで、明日に備えたいと思います」

「ええ、それがいいでしょうね」

「本当にありがとうございました」と私は重ねて言った。「奇妙な幸運に思えます。もし今日、私が予定を変えてここに来なかったら――たぶん明日、さっきまでと同じような気持ちで試験に臨むことになって、恐らく散々な結果になっていた気がします」

「それはとても悲しいことです」

「私が今日ここに来たのは、ある意味では逃げでした。自分の考えをどこへやったらいいのかわからなくなって、いつもの生活と同じことをすることでごまかそうとしたんです」


「それは逃げたのではありませんよ」少女は首を振った。「あなたはとてもつらい状況に陥って、それでも何とか自分を勝負できる体勢に持っていこうと懸命に動いたのです。あなたにもたらされたものは、その結果であると考えるべきだと思います」

「……そうでしょうか」

「そうですよ」


 少女は言い、晴れやかな青空を見上げる。私も同じようにそれを見上げる。

 皮肉なほどに清々しいと朝は思った。でも今は自分を後押ししてくれているように感じる。世界はこんなにも自分次第なのだ。


「あなたは戦った。私はそのお手伝いをしたまでです」

「そのお手伝いが――あまりにも大きかったです」

「それは――お褒めの言葉として素直に受け取っておきます」

 少し照れたように少女は言った。いままでにあまり見たことのない表情だった。

「では」と私は言った。「今日はこれで失礼します」

「明日、頑張ってくださいね」

「ありがとうございます」

 私は微笑んで、右手を左胸に当てる。それから踵を返して家路を歩き出した。


 来たときとはまるで色合いの違う道を、私はゆっくりと空気を噛みしめるように戻る。

 特に何が解決したわけでもない。試験は明日に控えているし、あの手紙の内容はいま思い返しても胸糞が悪いことこの上ない。

 でも少なくとも、これで私はそれらと対等に向き合うことができるようになったと思った。そのように向き合うことさえできれば、何かしら実りのある未来へと繋げていくことができるのではないか――そんな期待に胸が躍る。

 さあ、と私は思った。まずは明日だ。私の最初の勝負が始まる。

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