第六章 雨夜の事件

 日々は順調に過ぎていった。

 目まぐるしかった生活も時間と共に滑らかに、確固たるものになっていき、体感的なしんどさもかなり和らいできた。


 仕事というのもそれなりに楽しいものかもしれない、と思うようになったのはここ最近のことだ。

 当初は何を指示されても、着手で一歩、処理で数歩、先輩より遅い仕事しかできなかったが、いまではだいたい同じような手際でこなすことができるようになった。

 もちろん先輩の本分は料理修行であって、私は先輩の仕事の一部分を真似ていたにすぎないわけだが、ともあれ恥ずかしくない仕事ができるのは素直に嬉しいことだった。

 ようやく受け取るお給金に見合った働きができるようになった、という実感は、小心者の私をほっとさせた。


 先輩以外の従業員の人達とも、それなりに打ち解けた。

 仕事を始めてしばらくのあいだは、仕事の指示以外のやり取りをすることは皆無といってよかった。

 私は私でこのような性格だし、向こうにも積極的に仲間意識を育てようという気がなかったらしく、お互いのあいだには嫌悪ではないが体温のない距離があったのだ。


 でもあらゆる隙間時間に先輩にひたすら話しかけられ、半ば強制的にどんどん彼女と仲良くなっていくにつれて、他の人達が私達の話題に入り込んでくることが少しずつ出てくるようになった。

 そうして会話の輪は広がっていき、いまでは私は店の誰とでもほどほどに親しく話すことができるようになった。


 すべては先輩のおかげである。彼女がいなかったら、きっと私は現在もなお一人きりで黙々と仕事をする日々を送っていただろう。


 勉強のほうも相変わらずである。

 最初に決めた毎日の予定は、いまもそのまままったく変わっていない。図書館へ行って、毎日自分の決めた量をこなし、帰ってくる。その繰り返しだ。変わったことといったら、途中から勉強の前に「探検」が加わったことくらいである。


 でもその延々と続く繰り返しの結果、自分の現在の学力が飛躍的に向上しているのは自分でもありありとわかった。

 同じものを二度三度四度と繰り返し読み込んでいるうちに、どの情報がどのあたりのページのどのあたりに書かれているかも何となく思い出せるようになった。

 試験というのは要するに、頭に入れたことを訊かれたとおりに頭から出す作業である。そのための訓練は至って単純な作業の連続だが、確実に力となっていったようだ。


 この勢いならば、当日よほど調子が狂わない限り、何とかなるのではないか――そんな希望が少しずつ具体的に見えるようになってきた。

 私が街にやって来て、はや四ヶ月目に入ろうとしていた。


 ◆


 事件はその頃に起こった。

 その頃、私の仕事時間は当初より少し伸びて、帰宅するのは夜の九時過ぎになっていた。世間ではもうとっくに夕食を終えて、翌朝が早い人なら眠ってしまう時間帯である。


 その日、私はいつものように先輩に見送られ、一人下宿舎まで戻った。本来なら下宿舎も静まりかえって、誰一人として姿を見せない時間だ。

 しかしその日は入り口の前に人影があった。女主人が落ち着かない様子で立っていて、あたりをきょろきょろと窺っていたのである。


 何だろう、と私が思うのとほぼ同時に、女主人は私の姿を見つけて駆け寄ってきた。

「おかえり。――あのさ、うちの子を見なかったかい?」

「え――」突然の質問に、私は少々うろたえた。と同時に、何か嫌な予感を覚えた。「息子さんですか? いえ、見ませんでしたが」

「そうかい」女主人はため息をついた。「いやね、この時間になっても帰ってこないんだよ。普段ならどこ行ってても夕食時には必ずお腹すかせて戻るのに」

「まだ帰っていないんですか?」

「そう。どこかあの子の行くところに心当たりはないかい?」


 心当たり――そう言われても難しい。同じ建物に寝泊まりはしていても、日頃ほとんど外で会うことはないのだ。

「夢中で遊んでいて時間を忘れているだけ――ということは、ないですよね」

「たぶんない」と女主人は言う。「夕食までには帰れって口を酸っぱくして言ってるし、これまでその約束を破ったことはないからね」

 では、あと思いつくことがあるとすれば――。


「――探検」

「え?」

「ずいぶん前ですけど、街を探検してるって言ってました」

「探検? ……ああ、なんかうちでもよくそんなこと言ってたね」

「街じゅう全部制覇してやるんだ、って言ってました。だからもしかしたら、知らない場所に行っているのかも」

「知らない場所」と女主人は言った。「ついこのあいだまで、知らない場所だらけだったはずだよねえ」

「でも子供のことですから、凄い速さであちこち覚えていって、その――」私は嫌な予感をそのまま口にしなければならなかった。「ちょっと危険な場所に足を伸ばした可能性もあるかもしれません」

「危険な場所――たとえばどこだい?」

「わかりません……まだ街のことを覚えきれていないので。でも街外れとかにはいろいろと、立ち入り禁止になっている場所などがあるのではないですか? あとはその、ちょっと物騒な場所とか」

「うん……あるね」

「私もよく道に迷うからわかるんですが、単純に迷子になったのなら、そこらの家に助けを求めれば済む話だと思うんです。彼、私より人懐っこいからそういうのぜんぜん平気そうだし。だからたぶん迷子じゃなくて――別の理由で帰れないのかも」

「別の理由……それって」女主人は顔を強ばらせた。「なにかまずい理由だよね?」

「可能性としては――考えるべきだと思います」


 女主人は口元に手を当てて考え込む。私は人の子の母親を相当に動揺させる覚悟で自分の考えを話したのだが、彼女は私が想像していた以上に落ち着いている。あるいは母親というのはこうでなくては務まらないものなのか。


「何かあったとして、私達だけで探すのはちょっと難しい気がします」と私は言った。「でも事を大きくするほどには、まだ何も起きていません。帰りが少し遅い、というだけの話です。こういうとき、どうすればいいんでしょう?」

「……十時まで待とうか」と女主人は言った。「七歳の子供が十時になっても戻らないのは、傍目に見ても普通じゃない。そうしたら衛士の詰め所に行って相談してみよう。もしあの子が友達の家にお呼ばれでもしていて、親に連絡済みだと嘘でもついてるっていうなら、そのときは私が恥をかけば済むことさ」

「それまではどうしましょうか」

「とりあえず近くを探してみるよ。あんたはもう部屋で休んでな。妙な話に付き合わせちゃって悪いね」

「いえ――私も一緒に探します」

 私がそう言うと、女主人は子供をたしなめるような顔を作った。

「迷うよ?」

「迷いません」と私は否定した。「とりあえずこの周辺だけなら、もう把握していますから」


 女主人は少しのあいだ私の目をじっと見つめていたが、やがて折れたようにふっと笑って私の頭をぽんぽんと撫でた。

「ありがとうね。じゃあお願いするわ――くれぐれも変な道に入り込まないように。女の子一人なんだからね」

「承知しています」


 そのとき、頭のてっぺんにぽつりと何かが落ちる感覚があって、私は夜の空を見上げた。

 星のない空の向こうから、今度は額と肩に同じくぽつり、ぽつり。

 女主人も同じものを感じたのか、同じように空を見上げる。

「……雨だね」

 その女主人の言葉を合図にしたかのように、雨足が強まっていく。

 私と女主人は下宿舎に入り、傘の用意をして再び外に出た。雨はあっという間に地面を濡らし尽くし、景色を斜線で覆い隠すように降り注いでいた。

「本当に大丈夫かい?」と女主人が私に訊いてきた。

「大丈夫です」私は答える。

 雨の日は静謐に過ごすことが推奨されている。しかし――。

 ――嫌な予感がする。


 ◆


 私達二人は下宿舎を中心として、それなりに広い領域を探し回った。

 でも結局、目安とした時間になっても見つかることはなく、十時を少し回った頃に私達は再び下宿舎の前で落ち合った。


「ダメだね――」女主人にはさすがに少し焦りが見え始めていた。「これはもう、ちょっとした案件と考えていいんじゃないかと思う」

「そう思います」と私は同意する。

「屋根のあるところにいるならまだましだ。もし何かの理由で屋外にいるんだとしたら、夜遅くにこの雨……」


 女主人が顔をしかめる。息子さんの心境を想像したのだろう。私は励ますように例の話を持ちかける。

「では、衛士さん達がいるという詰め所に――」

「そうだね、行ってくる」女主人は言った。「あんたはここで待ってて」

「いえ、もう一度ひと回りしてきます。さっき行かなかった場所もありますから」

「あんまり無茶すると今度こそ迷うよ」

「一応、地図は持っていきます」と私は言った。「ある程度なら、見知らぬ場所でも何とか応用を効かせられますから――それより、一つ提案が」

「何だい?」

「詰め所に行ったら、思念士による捜索をこちらから依頼すべきだと思います」

「思念士――なるほど」

「ただ、大きな期待はできないとも思います」と私は言いにくいことを何とか口にする。「その、息子さんの場合は年齢的にまだ、信仰心が育っていないことも……そうすると」

 思念のやり取りを成立させられない可能性が高い。

「ああ……わかる」女主人は肩をすくめる。「一応、教えるべきことは教えてるつもりなんだけどね……あの子はいまのところ聞く耳を持ちやしない。雨といえばはしゃぎ回るし、教典の一節も暗唱できやしないんだ」

「でも、無駄とも言い切れないと思うんです。ですから――」

「わかった。言ってみるよ。じゃあ、あんたも気をつけて」


 そう言って女主人は詰め所を目指して駆け出した。彼女が走っているのを見るのはこれが初めてのことだった。


 私はいったん自室に戻って地図を胸元に忍ばせ、それから雨の街へ出る。

 時間と雨が相まって、街は基本的に雨音を残して静まりかえっていた。

 途中で私の働く店の前も通ったが、晴れの日ならば外まで聞こえてくる陽気な声が、このときばかりは聞こえてこない。この店は観光客があまり訪れない、住民中心に使われている店なので、信徒の率も必然的に極めて高いのだ。


 観光客の多い繁華街へも、もう一度行ってみた。もし何か良くないことに巻き込まれるとしたらこちらのほうが確率が高い。

 やはりというか、他の場所と比べると雨が降っているにもかかわらず人々の活気にそれほど変化は見られなかった。

 私は道行く人達に、小さな男の子を見なかったかと訪ねてみた。普段なら見知らぬ人に話しかけるのには相当な度胸が要るが、この夜はいろいろと吹っ切れていたのだと思う。

 でも残念ながら、心当たりがあるという人物は見つからなかった。


 私はあの少年の立場で考えてみようとする。探検するとしたらどんな場所なのかと。

 でもそれはあまり意味のない思考だった。少年にとっては、見知らぬ場所はすべて煌びやかな未知の世界なのだ。

 大人から見れば何ということのない場所が、彼にとっては全身全霊を傾ける価値のあるものであったりもするのである。

 それならば少年にあらかじめ予定でも聞いていなければ予測の立てようもない。

 そしてたぶん、彼は毎日予定など一切立てずに生きているのだ。


 ――どうするか。どこを探すか。


 繁華街の端のほうまで来たとき、とある店先で数人が騒いでいるのが見えた。どうやら酔っぱらい同士が口論になり、それを誰かが仲裁しているようだった。

 酔った人間に何かされるということもあり得るか――しかし酔った勢いで人さらいをするような人間がいるだろうか。いや、いないとは限らない。限らないが――ああ駄目だ、想像力がうまく働かない。


 そんなことを考えているうちに、二人の酔っぱらいは引きはがされ、お互いに毒づきあいながらも反対方向によたよたと歩き去っていった。

 何人かいた野次馬も、それを見届けると皆花びらが舞い飛ぶように散っていく。あとには仲裁していた人物だけが残った。

 その人物はやれやれといった風に一つ大きくため息をつくと、額のあたりをぽりぽり掻きながら周囲を見回す。その視線がふいに私とぶつかった。


「あれ」とその人物――衛士さんは言った。「こんな時間にこんなところで、どうしたんです?」

「あ――こんばんは」

「女の子が一人で出歩くのはちょっとお勧めできない場面ですよ」

「あの――」渡りに船とばかりに私は切り出す。「実はご相談したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」


 衛士さんは不穏なものを察したようで、いつになく真面目な顔で言った。「――何があったんです?」

 私は事情を説明する。お世話になっている下宿先の主の息子が帰ってこないこと。主は詰め所に相談に行き、思念士による捜索の依頼もするつもりであるということ。


 なるほど、と衛士さんは言った。

「適切な行動だと思います。この時間でこの雨――これだけの条件が揃えば、七歳の子供が帰らないのは立派な事件です。皆動き出すでしょう」

「それで、私も探していたところだったんです」

「お嬢さんは下宿舎にいてください」と衛士さんは言った。「この件に関しては、そこを拠点にしましょう。息子さんがふいに帰ってくるかもしれないわけですし――その下宿舎って、他に人は入っていないんですか?」

「ずっと私だけです」

「それでよくやってるな――じゃあなおさらだ。一人はそこにいたほうがいい。だからお嬢さんは帰って待っていてください。俺はまず詰め所に行って、それから捜索に参加します。できればその主人も帰します」

「素直に帰るでしょうか」

「こういうときのために俺らがいるわけですから」と衛士さんは言った。「そこのところは信用して待っていて欲しいもんです」


 ◆


 私は衛士さんに言われるままに下宿舎に戻った。

 といっても中に入ってくつろいでいる気にはなれず、玄関先で傘を差しながら、女主人の帰りと、あるいは誰かが物事の進展を伝えに来ることを待っていた。


 衛士さんとの別れ際、本当はこれから街の外れの人のいないような場所も行ってみるつもりだったのですがと私が言うと、衛士さんは心の底から絞り出すように、今夜あなたに会えてよかった――と言った。

「それはお嬢さん、いくらここが基本平和で安全な聖地でも駄目ですよ。女の子が一人ですることじゃない」


 それはその通りかもしれない。不案内な私だけでなく女主人にも言えることだろう。

 ただ、人に任せっきりで自分は何も動かないというのも、時と場合によっては決して楽なことではない。気ばかり焦って、気持ちと体がいまにも分離してしまいそうな感覚に陥る。それは一種の苦痛だ。

 女主人は平静を装っているが、内心はいままさにそのような状態にあるのではないかと思われた。大人しく引き返してくるだろうか。


 心なしか、雨が先程より強くなってきた気がする。


 私は故郷の夜を思い出す。

 私が小さかった頃には夜遅くまで外で遊んでいたという経験がないから、なかなか帰らないことで親を心配させたという経験もまったくない。

 逆に外で遊ばなさすぎることを心配されたことならあるかもしれないが、ともあれ夕食に呼ばれるときには必ず家のどこかにいた。そして大抵は本を読んでいた。


 同年代の子供達――特に男子の多くは、やはり女主人の息子さんのようだったと記憶している。

 母と夕方に買い物に出たりすると、そのような子供達と出会うことがよくあった。故郷ではだいたいの子供が学校に通っていたと思うが、彼らはそれが終わればあとはひたすら外で遊んでいた。

 彼らには遊具も遊技場も必要ないようだった。遊んでいる限り、遊びの種は次々と生まれてくるのだ。


 恐らく彼らの中には、帰りが遅くて親に心配をかけたという経験をした者もいるのかもしれない。

 でも私が覚えている限り、いわゆる行方不明というところまで事態が発展したことは幸いにして一度も無かった。

 故郷には衛士さん達のような公的な組織は常駐していなくて、自警団が主に働いていたが、彼らがそのような件に動員されたという話は、少なくとも私が物心ついてから故郷を離れるまでは聞いたことがない。

 いまにして思えば、呑気な町に生まれ育ったものである。


 しかしそんな私の中でも、聖地は特別に治安の行き届いた安全なところ、という位置づけだったのだ。

 だからまさかその地で、知り合いがこんな騒動を巻き起こすなんて考えてもみなかった。


 ――雨が強い。幸いにして風はあまりないから、傘が飛ばされてしまうようなことはないが、いまこのときに限っては、雨を我々への慈悲であるとは捉えにくい。何か不吉な物事の象徴のように私の目には映る。


 向こうから人影が二つ、近づいてきた。女主人と、恐らくは衛士の一人であろう見知らぬ男性だった。どうやら説得されて戻ってきたようだ。

「どうなりましたか?」と私はどちらにともなく訊いた。

「とりあえず、動いてもらえた」と女主人は言った。「あんたに会ったっていう衛士さんに会ったよ。その人に滔々と諭されたんで、一度帰ることにした」

「衛士が八人ほどと、思念士が二人、現在捜索に参加しています」と男性が言った。

「思念探査の特別許可は下りたのですか?」

 私が訊ねると、男性は小さく表情を変えた。

「思念士についての知識がおありですか?」

「ええ、多少は」

「そうですか――特別許可は下りています。いま二人の思念士が街を順番に回って、こちらの息子さんの存在を追っています。ただどちらの者も無限定の探査となると有効範囲はあまり広くないので、街中をくまなく探査するにはそれなりの時間はかかると思われます」


 思念士の能力にも傾向があり、大小がある。不特定多数の他人の思念を同時的に探査する技能を持った思念士は決して多くない。

 ましてやその対象が街全体ともなると、全体を分割して一ヶ所ずつ探査していくという方法をとらざるを得なくなる。

 そして他人の思念を無断で探査することは思念士法で禁止されている。非常時にそれを行わなければならないときには、然るべき機関の特別許可が必要となる。


「では、私も捜索に向かいますので――」と男性は言った。「お二人は中でお待ち下さい。発見すればもちろん報告に来ますし、進展がなくとも皆が定期的にここへ来て連絡を取り合う段取りになっています」

 では失礼――と言い残して男性は雨の夜道に消えていった。


「あんたは中に入ってな」と女主人が私に言う。「風邪でも引いたら困るだろう。毎日忙しいんだから」

「いえ、ここで待ちます」私は言った。いまの女主人には誰かが側にいることが必要であるように思えたのだ。

「あんたがそんなに頑張らなくてもいいんだよ」

「いえ」と私は頑なに食い下がった。「日頃お世話になっていますから」

 女主人はふぅ、と一つ大きく息をつくと、いつものように私の頭を撫でて、少しかすれた声で言った。

「……ありがとね」


 ◆


 それから私達二人は、適当な会話をしながらひたすら玄関先に立ち尽くし、物事が何かしら進展するのを待った。

 しかしなかなか世界は動きを見せない。

 雨の勢いは安定したようだったが、依然としてそれなりに強く、少年が屋外にいる可能性をより厳しいものにさせた。

 気温も下がってきて、肌寒さを感じるようになってきている。少年がもしびしょ濡れの状態でずっとどこかにいるのだとしたら、たとえ無事でも後に肺炎か何かを起こすことだってあるかもしれない。


 しばらくすると、ぽつぽつと衛士さん達が報告に姿を現すようになった。

 だがどの報告も、どこどこには見当たらなかったというものばかりで、そのたびに少なからず期待をした私達を落胆させた。

 衛士さん達は報告を済ませると、またすぐ別の場所を探しに向かった。その熱心さには本当に頭が下がる。

 女主人は再び闇夜に消えていく彼らの背中に向かって、心から済まなそうに、よろしくお願いしますと繰り返すのだった。


「……まったく、あちこちに迷惑をかけて」と女主人は言った。「こりゃ当分、探検とやらは禁止にしないといけないね」

「そうですね――でも、さすがに懲りてしばらくおとなしくなるのでは」

「ま、ならないね。こっちから無理矢理にでも押さえ込まなきゃ、自分から引っ込むなんてことはまずないさ」

「そうですか。……確かにそうかもしれません」

「まったく誰に似たんだか」女主人は言い、それから自嘲気味に笑った。「――まぁ、父親似なんだろうけどね」

「あの……旦那様は」

「死んだ。病気でね。この下宿舎は旦那のお父様が若い頃に建てたものなんだよ。それで今は私が管理してる」

「そうだったのですか――その」

 私が何か言おうとすると、女主人はいいんだよ、と遮った。

「やがてはあの子の物になる。そうしたらあの子がここをどうしようが自由だけどね。とりあえず私の代ではこのまま続けるつもりでいるよ。続けていればそれなりに出会いもあるしね。――あんたみたいな良い子とも親しくなれる」


 私は何だか気恥ずかしくてうつむいてしまう。

 恐らくそれが女主人の想定した通りの反応だったのだろう、彼女はおかしそうに微笑んで、顔赤いよ、と言いながら私の頬にそっと手を添えた。


 少ししてまた一人、男性が報告にやって来た。その男性は他の人達と少し毛色が違っていた。警棒を腰から下げていないし、近づいてみると衛士のバッジもしていない。

 男性は思念士を名乗った。女主人に付き添っていた衛士さんが言っていた、二人動いているといううちの一人だ。


「東半分はほぼすべて探査しましたが」と言いにくそうに思念士さんは言った。「それらしい反応は察知できませんでした」

「そうですか……」

 女主人はできる限り淡々と受け入れようと努めているように見えたが、やはり頼みの綱であったものが半分失われたことは大きい。

「可能性は二つあります。実際にいなかったという可能性、それともう一つは、探査に引っかからなかった可能性です。後者の可能性も十分に考えられますので、はっきりと結論は出せません」

「わかっています」と女主人は言った。「信心の足りない子ですから」

「七歳の子供なら仕方のないことですし――正直な話、自分の力不足でもあり得ます。探査の感度は力の大きさに依存しますので」


 思念士さんは少し悔しそうに言った。でもそれは彼の責任ではない。思念士の力の大きさとその方向性は、生まれ持った資質によるところも大きいのだ。

「とにかく一度班長と合流して、それから今後の方針を決めたいと思いますので――」そこまで言って思念士さんは何かを察知したような素振りを見せた。「ああ、いまこちらに向かっているようです」


 それから間もなく、二人の男性がここ下宿舎前に姿を現した。恐らく一人はもう片方の思念士の人で、もう一人は班長と呼ばれた人――私の知っている衛士さんだ。

 思念士さんの力は――疑っていたわけではないが――本物である。彼には二人が近づいてくるのがわかったのだ。その力をもってして、東半分にはそれらしい反応がなかったと言っているのである。


「奥さん、お嬢さん」と衛士さんは言った。「中で待っていればいいのに。だんだん寒くなってきましたよ」

「とてもそんな気になれなくて」と女主人は答える。私も同感だ。

「そうですか……いや、無理もありません。お察しします」衛士さんは言い、先程報告に来た思念士さんのほうをちらりと見てから、やはり言いにくそうに報告する。「東もそうだったみたいですが――西側も収穫はありませんでした」


 女主人はわかっていたというような素振りを見せ、それから彼らを見渡して言った。

「本当にわざわざありがとうございます。うちの馬鹿息子のためにこんな雨の中」

「奥さん、それを馬鹿というなら、俺だって昔は完全に馬鹿息子でしたよ」と衛士さんは宥めるように言う。「こういうのは持ち回りでね。昔大人に迷惑をかけたぶん、大人になって支払いをしているわけですよ。それに何と言っても、こういうときのための俺達ですから、遠慮なく使っていただければいい」

「ありがとうございます、本当に――」女主人は言葉を詰まらせる。


「あの、もう街の全部を探し終えたということですか?」と私は衛士さんに訊ねた。

「まだ他の衛士が細かいところを回っています。そちらは足での捜索なので簡単には終わりません。でも思念探査をまず一巡、という意味ではそうなります」衛士さんは答える。それから独り言のように言う。「息子さんが動き回っているってことは――ないよなぁ」

「恐らくないと思います。元気なら帰ってくるはずですし、誰かにさらわれたのだとしても、その犯人がそこまで動き回る理由がありません」

「だよなぁ。となるとやっぱり信仰の度の問題か。それと――いや」


 衛士さんは言葉を止めた。少しの間を置いて、私はその意味を悟った。

 あの少年がもうこの街にいない可能性――さらに言えば、もうこの世にいない可能性だ。

 不吉な発想極まりないが、誰もそれをあり得ないとは言い切れない。最後の最後には考えなくてはならないことだろう。

 しかしいまそれについて考えても動けなくなるだけだ。衛士さんが言葉を止めたのは、女主人への配慮以外に恐らくそういう理由もある。


「……次に何をすべきでしょうか」私は言った。

「うーん」衛士さんは考え込む。「とりあえず思念探査はもう一回りしてもらって、衛士のほうは人員を増やすか……」

「班長」

 唐突に思念士さんが口を挟んだ。

「ん?」

「……顧問にお願いすることは、できないかな?」恐る恐るといった風に思念士さんは言った。


 衛士さんはその言葉を聞くと、何とも表現しがたい表情を作った。

 意外なことを言われてハッとしたようでもあり、胸の内に秘めていたことを暴かれてぎくりとしたようでもある。いずれにせよそれは触れてはいけないものに触れたという表情だった。

 ――顧問?


「いや、駄目だ」と衛士さんは言った。「あの人はいま、体調最悪だ。いまそんな力を使ったらどうなるかわからん」

「だが、足で探すのは埒が開かないし――たぶん、我々の思念探査では駄目な一件だ」

「しかし」

「卑怯な言い方なのを承知で言うが」と思念士さんは言った。「あの人をいまでも顧問にしているのは、まさにこういう事態のためじゃないかと思うんだよ」


 衛士さんはしばらく黙っていた。頭の中でひたすら何かと何かの僅かな差を計ろうとしているみたいに見えた。そもそもそこに差があるのかどうかもわからないが、それでも計ってどちらかに重きを見て取らなければならないといったような。


 誰も口をきかなかった。雨の音だけがあたりを支配している。

 衛士さんはふいに私の顔を見た。それから女主人の顔を見た。それからまるで自分自身に聞かせるように、同じようなものか――と呟いた。


「――わかった。話を持ちかけてみよう」

 衛士さんは言い、もう一度私と女主人の顔を交互に見た。

「いまから、ある人のところに行ってきます。うまく事が運んだら、俺の声で息子さんの居場所を伝えることになると思います。それまで待っていてください」

 言い終わると、衛士さんはくるりと向きを変えて夜道を駆け出していった。


 私も――そして恐らく女主人も――詳しいことがわからず流れに置いていかれたような感覚の中にいたが、話の筋だけは理解できた。

 この件を解決することができるかもしれない誰かがいる。そして衛士さんは、その人に何か無理をさせようとしている。


 衛士さんは一所懸命に仕事をしてくれていた。何とか少年を捜し出そうと全力を尽くしてくれていたのだと思う。

 その全力の中に、その人は含まれていなかったことになる。そうしなければならない事情があったのだ。

 体調が最悪だと衛士さんは言っていた。はっきりとはわからないが、それは病気か何かでひどく弱っている人を無理矢理担ぎ出すということなのではないか。


「あの……」女主人が思念士さんに何かを訊ねようとする。

「しばらくお待ちください」と思念士さんは言った。「話がうまく進めば、この件は間もなく解決するかもしれません」

「大丈夫なんですか?」

「班長はある方に仕事の依頼に行きました。その方はとても大きな力を持っています。息子さんがこの街にいるなら、それを察知できないということはたぶんないでしょう――ただ、事情があってその力を使えない可能性もあります。そのときは何としても我々の力で見つけ出してみせます」

「その方というのは――大丈夫なんですか?」

 女主人は言った。思念士さんは無言で空を見上げる。まるで答を求めて天に伺いを立てているかのように。

「……わかりません」と思念士さんは答えた。


 会話はそこで途切れ、しばらくのあいだ沈黙の時間が続いた。

 どのくらいの時間そうしていたのかわからない。長い時間だったようにも思うし、さほどの時間ではなかったようにも思う。


 その瞬間、私の中を奇妙な感覚が走っていった。

 目に見えない、耳にも聞こえない、何物でもない何か。しかしたとえるなら細い細い光の筋のような――いまにも千切れてしまいそうにもかかわらず、この世の何にも真似ることのできない力強さを伴ったもの。

 そんな何かが、私の体を――いや、意識を通り抜けていったのだ。

 私は思わず息を潜める。感覚を研ぎ澄まし、次のそれに備えようと心の中で身構える。

 でもそれはもう起こらなかった。先程までと同じ静かな雨の夜がそこにあるだけだ。


 今のは何だったのだろう。私の気のせいだったのか。

 ――その直後、今度ははっきりとした変化があった。

『みんな、聞こえるか?』

 頭の中で声がした。衛士さんの声だ。

 そしてこの声が聞こえているのはどうやら私だけではなかった。思念士さん達も同時に反応し、女主人は不思議そうにきょろきょろとあたりを見回している。

 これは思念士の力だ。その力によって、衛士さんの言葉が我々に向けて発せられている。

 衛士さんは短く告げた。

『――時計塔の裏の、用水路跡だ!』


 ◆


 それから少しして、少年は救助された。

 観光名所の一つにもなっている時計塔。その裏側は立ち入り禁止になっていて、そこには今は使われていない用水路がある。深さは人の背丈よりもあり、底は固い石造りだ。

 少年はそこで遊んでいて落っこちたようだった。そして落ちたときに腕と足をひどく痛めたらしい。後の医者の診察によれば、腕は骨折しているとのことだった。


 少年の背丈では高く飛び上がって何とか用水路の淵に手が届くか届かないかというところである。なのに腕と足が両方使い物にならなくなったら、自力ではもうどうしようもない。

 それで少年はしばらく声を張り上げて助けを求めていたが、何の反応も得られず、途中からは泣き通しだったという。

 時計塔が観光できるのは夕方までで、それを過ぎたらもう人は近づかない。少年はそれを待ってから、その日の最後の探検にそこを選んだのだ。それが運悪く転がったわけである。


 少年が発見され、病院へ運ばれたあと、女主人は詰め所で衛士さん達にひたすら感謝と謝罪の言葉を繰り返していた。

 その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。私には余裕のある素振りを見せていたが、やはり彼女もいっぱいいっぱいだったのだ。

 衛士さん達は口々によかったよかったと言いながら、どこか充実した笑顔でお互いと女主人と、ついでに私のことをねぎらってくれた。

「本来なら祝杯をあげたいところですが」と衛士さんは言った。「あいにくの雨ですからね。今夜はお互い静かに幸運に感謝をしましょう」


 途中から時間の感覚がなくなっていたが、詰め所にある壁掛け時計を見ると零時近くを指していた。

 私がこの街に来てから、この時間まで起きていたことはない。ましてやこんなに活動的に日付をまたぐ経験をすることになるとは思ってもみなかった。

 しかし疲れは感じるものの、眠気はほとんど感じなかった。私も気持ちが高揚していたのだろう。


 私と女主人が詰め所を離れる段になると、衛士さんが付き添いでついてきてくれた。

 まずは一緒に下宿舎まで戻り、それから着替えなどを用意した女主人を少年のいる病院まで連れていってくれた。私は玄関先で二人を見送った。

「今夜は向こうに泊まるから」と女主人は言った。「ここをよろしくね。といっても普通に寝ていてくれればそれでいいんだけどさ」

「わかりました。息子さんによろしく」


 あとは下宿舎を出るだけとなったとき、衛士さんが私を見てしみじみと言った。

「今夜は本当にあの段階でお嬢さんに会えてよかった。今後はくれぐれも夜遅くに人気のない場所に一人で出向くような算段は立てないでください。ちょっと厳しい言い方になりますが、下手をすると探さなきゃいけない人間が一人増えますので」

「……肝に銘じます」

「この子を責めないでやってください」と女主人は言った。「それだけ優しい子なんです」

「わかってますよ」と衛士さんは笑う。「そして賢い人だ。だから――わかりますよね?」

「――はい」

 私は言い、思わず下を向いてしまった。叱られると同時に褒められている。変な感じだ。

 衛士さんは女主人はそんな私の仕草を見ておかしそうに笑い、それじゃあ――と言い残して病院へと向かっていった。


 一人残された私は、遅ればせながら自室に戻り、ようやく緊張から解放された。

 今日が仕事の日でよかったと思う。明日が仕事の日だったら予定の変更もできないが、幸いにして逆なので、朝寝坊は自分の裁量で決められる。

 しかしこのようなこともこの生活に慣れたいまだから考えられることだった。仕事を始めたばかりの頃に仕事のあとこんな事件に巻き込まれたら、そもそもこの時間まで起きている体力も気力もなかったかもしれない。


 私は今夜のことを思い返してみる。

 皆、一所懸命に動いていた。女主人がそうなるのは当たり前としても、衛士や思念士の人達もまるで自分の身内がいなくなったみたいに動いてくれていた。

 教えとは素晴らしいものだと改めて思った。

 教えは我々を一つに結びつける。そして結びつきそのものがさらに結びつきを強固なものにしていく。まさに今夜はその縮図を見るようだった。


 しかし現実的な話として、決着をつけたのは何と言っても、「顧問」と呼ばれていた人の力だ。

 どんな人なのかはわからないが、あれほど探しても見つからなかった少年を瞬く間に見つけてしまうというのは、いったいどれほどの力なのか。

 どうやら体が優れない人であるようだった。そのことから想像するに、街を細かく移動して探査したのではないだろう。ある地点で思念探査を実行し、ともすればその一回で少年の居所を突き止めたのだ。


 もし、と私は想像する。もし私が思念士になることができたとして、そのような大きな力を持っていたとしたら、その力をどう使って生きていくだろうか。

 人の役に立てるというのは気分のいいものである。お金をたくさん稼げるというのも、たぶんそうだ。私はその大きな力をどんな仕事に使うだろう。


 とりとめのない考え事をしているうちに、ようやく眠気がやって来た。私はそそくさと寝る支度を始める。

 明日はゆっくり起きよう。平和は再び戻ってきたのだ。時間はたっぷりある。

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